学校教育の分野は、ヒラの教員から文部科学大臣に至るまで、自分の職務と慣習、上からの方針に制約されて、たいしたことはできません。
それは、こんな構造になっています。
教員は校長の指揮下にあって、勝手なことはできません。また、学校の中にも官庁のような役職秩序が作られていて、誰もが上司の指揮に服さなければなりません。
校長は、市町村教育委員会の指揮下にあります。校長は市町村教委の意向を確かめずに、何もできません。
市町村教委は、権限の小さいところで、判断できることは少ないのです。文科省の法令と指導・助言、県教委の指導・助言に服しています。
市町村長は、「教育の一般行政との分離」の原則に従い、市町村立学校であっても、教育を指揮できません。
市町村議会は、国の法令が網の目のように存在するため、独自の条例を作れません。
県教委は、学校の人事と予算を握り、市教委を指導する立場ですが、市教委の頭越しに学校をいじることはできません。また、国のたくさんの法令拘束があり、そうたいした裁量はありません。
知事は、「教育の一般行政との分離」の原則に従い、教育を指揮できません。県議会は、国の法令が網の目のように存在するため、独自の条例を作れません。国法が条例に優先するからです。
文科省は、強大な法律と法令を握っているが、学校基準を作っている存在にすぎません。現場を指揮すれば越権行為になります。文科省は行政機関であり、法律に縛られ、自分の作った法令に縛られ、前例と慣習のクモの巣に絡めとられています。
文科省は、手足を持たない頭脳だけの存在です。とにかく教師、親、子の立場を知りません。いわゆる”有識者”の意見だけで、教育を運営しています。
中央教育審議会は、制度の検討ができる唯一の機関ですが、文科省内に置かれ文科省が人選しています。文科省の発想の枠の中でしか、審議は行われません。
内閣も、「教育の一般行政との分離」の原則が、不文律として確立しており、首相や他大臣が教育内容にまで口をつけられません。
国会で「学校教育法」と「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」を改正すれば、すごい変化が起きますが、国会での多数派を形成するなど、誰にとっても現実的ではありません。
保護者・住民には、意見を反映させる手段がありません。首長選挙や議会選挙に相当するものがないからです。教育の配給に甘んじ、不満があれば塾や私立を探すしかないのです。
保護者・住民の学校運営への参加も、学校が聞きたい人から聞きたい意見を聞くだけです。
このように、文科省からヒラの教員に至るまで、誰も何ともしようがない構造になっています。しかし責任ある地位にある人たちは、「何もできません」ではすまないから、きれいごとばかり言います。きれいごとを言うと、ちゃんと指揮したような気になるのです。
今回の教育基本法改正案が、その典型です。よさそうな教育理念を片っ端から法律にしているだけです。それで、この教育がよくなるって?
まさか。
紋切り型の学校と教員が増えるだけです。
こういう誰もどうしようもない構造を作ったのが「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(1956)という法律です。この法律が作った現実をまず検討せずに教育基本法をいじるなど、いかに文科省が現実離れしているかの証拠ではないでしょうか。
(転載歓迎 古山明男)
いる。氏は敗戦の1年半前に学徒動員で徴収され、即席の訓練で、少尉に任官し、フィリッピン戦線に投入され、奇跡的に生還。70年代に「日本人とユダヤ人」の著者として知られた作家です。敗戦1年半の時点で、軍はアメリカを想定した訓練プログラムを持っておらず、その大きな理由として、官僚組織の“自転律”と日本人の事大主義をあげいます。本質を見ない、或いは見る力が無い性向は今も生きているように思います。