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旅猫旅日記

写真と文で綴る旅の風景

山陰への旅20 温泉津温泉にて

2006-09-28 | 
トロッコ列車の旅を終えて、宍道から快速列車に乗り、この日の宿がある温泉津へと向う。
降り立った温泉津駅は、ホームが1本だけの山に囲まれた小さな駅だった。夕方だと言うのに、降りたのは私一人。この時間、駅員さんはすでにいなかったので、温泉街があるにもかかわらず無人駅なわけです。
駅前から温泉街へ向かうマイクロバスも、乗客は私だけ。気さくな運転手さんと話をしながら温泉街へ。うれしいことに、宿の目の前でバスを停めてくれました。
写真は、宿の部屋から撮ったもので、古き良き温泉街の景色が旅情を誘います。

山陰への旅19 秋色の車窓

2006-09-27 | 
トロッコ車両は、あいにくの天気のせいか、雨合羽を着込んだ用意のいい人と、雨にも負けない強者だけが陣取り、思い思いに、流れる秋色の景色を堪能していた。
雨の混じった少し肌寒い風を受けながら、のんびりと走る列車に身を任せているだけで、何だか幸せな気分になります。

山陰への旅18 亀嵩駅 扇屋のそば弁当

2006-09-26 | 
折り返しの「奥出雲おろち号」に乗り、再び三段スイッチバックを越えると、そばで有名な亀嵩駅が近づいてきます。亀嵩駅は、事務所に「扇屋」という蕎麦屋さんが入っていて、かの松本清張原作の映画「砂の器」の舞台ともなったところです。「おろち号」が到着すると、ホームで「そば弁当(500円)を販売するのが名物となっていますが、予め電話で予約していれば、間違いなく購入する事が出来ます。
今回、しっかり予約して購入した「そば弁当」は、刻みネギとかつおぶし、のりが少し添えられた、あくまでもシンプルな出雲そば。美味しかったのでさらりと食べてしまったけど、もう少し量が欲しかったなぁ。それと、ツユももう少し多ければ○。

山陰への旅17 奥出雲おろち号(備後落合駅にて) 

2006-09-24 | 
「笹ずし」を食べているうちに、「奥出雲おろち号」は終点の備後落合駅へ到着した。
備後落合駅は、広島駅と伯備線の備中神代駅とを結ぶ芸備線と木次線が出会う山間の小さな駅。かつては急行列車も走っていたため駅員もいたそうだが、今は無人駅となっていました。駅が国道から離れているため、山の中に駅舎があるだけで寂しい限り。「奥出雲おろち号」の乗客も、ほとんどすべてが乗ってきた列車で折り返していきます。
写真手前がトロッコ車両です。

山陰への旅16 笹ずし

2006-09-24 | 
三段スイッチバックを抜けた後、途中の出雲三成の立ち売りから買い込んだ「飯田の笹ずし(800円)」(地元仁多郡の割烹旅館飯田が作る)なるものを食べることにした。
開けてみると、笹で包まれた6つの小さな鮨が出てきたが、思ったよりも小さくて少しがっかり。中身は、地元の仁多米を使った鮨飯の上に、海老、鯖、シャケ、うなぎ、鯛、こうたけの6つのネタが載っていた。味は悪くなかったが、やはりちょっと物足りなさが残った。
でも、旅の途中では、こんな地元の味がうれしいものです。

山陰への旅15 3段スイッチバック

2006-09-23 | 
スイッチバックと言うのは、峠を越えるときなど、急勾配を緩和するために設けられるもので、進行方向を変えて先へと進んでいくもの。木次線にある3段スイッチバックとは、Z型に線路が敷かれているため、列車が2度進行方向を変えることから呼ばれています。
写真は、2回目のスイッチバック箇所で、右が出雲坂根駅から登ってくる線で、左に上っていくのが、分水嶺にあるJR西日本最高所の駅・三井野原駅へ向かう線です。

山陰への旅14 奥出雲おろち号

2006-09-22 | 
旅の2日目は、楽しみにしていたJR木次線のトロッコ列車「奥出雲おろち号」に乗車。
出雲市から宍道駅へと向かい、雨が降るあいにくの空模様の中、おろち号の入線を待った。おろち号は、トロッコ車両と控え車(普通の客車)、ディーゼル機関車の3両編成で、通常は木次駅から備後落合駅までを走っているのだが、この日は松江からの延長運転。悪天候とは言え、なかなかの乗車率で宍道を発車。色付く稲穂が続く中をのんびりと走っていく。
写真は、木次線最大の見所である3段スイッチバックのある出雲坂根駅で一休み中の「奥出雲おろち号」。

山陰への旅13 石見銀山 代官所跡

2006-09-21 | 
石見銀山の代官所があった場所には、明治35年に建てられた邇摩郡役所をそのまま利用した資料館があります。石見銀山の歴史などを学べる他、代官所の遺構である表門や長屋も見ることができます。
ちなみに、世界遺産登録を見越して、今年の11月10日から来年3月まで、全面改装のため閉鎖となるそうです。個人的には、今のままがよいと思うのですが。

山陰への旅12 石見銀山 大森の古い町並み

2006-09-20 | 
銀山地区を抜けると、代官所などのあった大森地区となる。
ここには、江戸時代から残る古い町屋などが残り、のんびりと散策するには良いところ。江戸時代の代官所の役人宅なども、その子孫がそのまま暮らしていたりと、歴史と人の暮らしが一体となった現役の街並みが続いていました。

山陰への旅11 石見銀山 羅漢寺

2006-09-19 | 
石見銀山で働いて亡くなった人の霊を供養するために、時の代官や地元の人々、8代将軍徳川吉宗の次男田安中納言宗武らの援助により、温泉津町福光の石工らが二十年以上の歳月を掛けて彫像した五百羅漢のある寺。
銀山での労働は過酷を極め、坑夫たちの多くが短命で、30歳を迎えると長寿を祝ったそうです。現在、石見銀山では600以上の間歩(坑道)が確認されていますが、その多くが、鉱脈に沿って人一人が横になって入るのがやっとの大きさのものばかりだそうです。最盛期、銀山周辺には20万もの人が住んでいたらしいが、亡くなった人もかなりの数に上るそうですので、その供養は大切なものだったのでしょう。
五百羅漢が安置されている石窟の前に架かる三つの石の反り橋は、建立当時のままに残るもので、羅漢像などと共に国の指定文化財です。

山陰への旅10 石見銀山 豊栄神社

2006-09-18 | 
この神社の祭神は、戦国大名の毛利元就。
石見銀山防衛のための拠点であった山吹城内に安置されていた元就の木像を、孫の輝元が麓の長安寺(現在の豊栄神社)に移したのが始まり。その後、関ヶ原の戦いで石見銀山が徳川氏の支配となり、長安寺も荒廃。木像は長州藩へ引き取り、代わりの木像を長安寺に安置していたが、260年後の戊辰の役の折、大森に本陣を置いた長州藩の1中隊が、この木像のことを知り、浄財を募って建てたのがこの豊栄神社です。
建立から140年近くが経った社殿は、再び荒廃し、崩れた土塀や石灯籠に、過ぎ去った歴史を強く感じた。

山陰への旅9 石見銀山 清水谷精錬所跡

2006-09-17 | 
江戸幕府の崩壊後の明治19年(1886)、同和鉱業の前身である藤田組が採掘権を得て、明治27年(1894)から20万円(当時)という巨費を投じて大規模な精錬所の建設を始めた。翌年に完成したのが、この清水谷精錬所であったが、予想よりも鉱石の質が悪かったのと、設備の精錬能力が低かったこともあり、わずか1年半で操業を停止。今では、訪れる人もわずかで、草に埋もれてしまっていた。

山陰への旅8 佐毘売山神社

2006-09-16 | 
龍源寺間歩の出口を出ると、そこは、室町時代末から江戸時代初めに開発された栃畑谷。屋敷跡の石垣や社寺、間歩跡などがあり、銀山の歴史を体感できるところだった。
谷に沿って少し下ると、右側に歴史を感じさせる苔に覆われた石段が現れた。国指定史跡である佐毘売山神社の参道です。佐毘売山神社は、鉱山の守護神・金山彦命(かなやまひこのみこと)を祀る社で、永享六年(1434)に周防の国主・大内時世により勧進されたもの。里人や銀山で働いた人々の間では、「山神(さんじん)さん」と親しみを込めて呼ばれたそうである。
現在の社殿は、大火後の文政二年(1819)に再建されたもので、何ともいえない趣のあるものでした。世界遺産に登録され、観光客が押し寄せると、この苔や草に覆われた静かな境内はどうなってしまうのだろう。この石段も、立派なステンレス製の手すりなんかが設置され、趣が無くなってしまうのでしょうね。

山陰への旅7 石見銀山 龍源寺間歩坑道

2006-09-15 | 
坑道跡へ入ると、湿度が高く汗が噴出してきた。
公開されている坑道は、鉱石の搬出に使われていたもので、石見銀山の中ではかなり大きく、人が立って通れる。この龍源寺間歩の地下には、何層にも渡って坑道が造られ、それぞれを竪坑(たてこう)で結んでいたそうだ。江戸時代に掘られた坑道の壁や天井には、ノミの跡がはっきり残っていました。この間歩が閉じられたのは昭和18年。何と228年も採掘が続けられていたのである。
ちなみに、銀山最大の坑道であった「大久保間歩」は、初代奉行大久保長安が槍を持って騎馬のまま入ったといわれる大きなもので、公開に向けて整備中とのことだが、崩落が激しく難航しているらしい。

山陰への旅6 石見銀山 龍源寺間歩

2006-09-14 | 
途中の波根駅あたりから急に雨となる。
大田市駅で下車したが、石見銀山行のバスまでは1時間あるので、待合室で時間を潰そうと思っていたところ、突然声を掛けられた。50代の男性で、石見銀山まで車で送ってくれると言うので、お言葉に甘えることにする。
雨の中をしばらく走ると、銀山の入口にあたる大森代官所跡へ到着。地図などを手に入れてから、最初に立ち寄ったのは井戸神社。その跡、最奥にある唯一公開している坑道跡である「龍源寺間歩(まぶ)」へ。
「龍源寺間歩」は、江戸中期以降に開発された坑道で、代官所直営の「御直山」の中でも重要だった「五か山」のひとつ。坑道の延長は630mで、そのうち公開されているのは入口から156m。坑道の入口からは、風穴のように冷たい風が吹き出していました。