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旅猫旅日記

写真と文で綴る旅の風景

駿河台 太田姫稲荷神社

2006-09-08 | 江戸
「池田坂」をさらに南へ下ると、キッチンジローがある交差点に出ます。その斜向かいにあるのが「太田姫稲荷神社」。
「淡路坂」の中でも書いたとおり、太田道潅が疱瘡(ほうそう)に罹った娘のために、山城国一口(いもあらい)の里の稲荷を江戸城内に勧請した社(一口(いもあらい)神社)が、中央線の拡幅工事(御茶ノ水~両国間総武線建設)のために神田駿河台一丁目のこの地へ遷座したもの。市街地に埋もれるように建つ狭い境内では、550年もの歴史がある社を創造することは難しい。

駿河台 甲賀坂

2006-09-07 | 江戸
街歩きに戻ります。
「雁木坂」との出合から、さらに南に向かうと、次に出あう坂が「甲賀坂」です。
ちょうど、「雁木坂」と並行に西へ登る坂で、先には明大通りがある。
名前の由来は、江戸の頃、この一帯に甲賀者の屋敷があったからと言う説など、2,3の説があり定かではない。江戸切絵図(尾張屋版1849~1870)では、甲賀坂は現在の明大前交差点を越え、胸突坂(吉郎坂)を含んで山の上ホテルの前までとなっている。山の上ホテルから錦華坂へ続く道が出来てから、胸突坂と甲賀坂に分かれたと思われます。
南側にはNTT駿河台、北側にはYMCAがある。
奥に見える急な坂が、現在の吉郎坂。

福島への旅9 亀ヶ城跡

2006-09-03 | 江戸
坂東八平氏のひとつである三浦氏の一族、佐原十郎義連の子盛連(弟光盛は、会津の領主葦名氏の祖)の長男経連を祖とする猪苗代氏十四代400年の居城跡。
建久二年(1191)、磐梯山南麓の弦峯に初代経連が築城。別名「猪苗代城」。
盛国の代になって、葦名氏と対立し伊達政宗に内通。家督を譲っていた子の盛胤(葦名方)の留守中に城を奪い取り、伊達軍を猪苗代に引き入れた。これが、葦名氏滅亡を決定付けた「摺上原の戦い」での葦名方惨敗の原因となった。
江戸時代の一国一城令でも破却されず、会津若松城の東の要として、戊辰戦争で落城するまで存在した会津の名城です。
写真は、櫓門の跡と見られる枡形付近の野面積の石垣。

駿河台 雁木坂

2006-08-25 | 江戸
池田坂を降りていくと、ちょうど日大歯学部三号館の前で、西側からぶつかってくる道が「雁木坂」。「雁木」とは、登山道などで見られる、材木を階段状、梯子状に埋めたもので、急な坂を登りやすくするためのもの。現在の「雁木坂」はほとんど平に見えるのだが、江戸の頃はかなりの急坂だったそうで、雁木が設けられていたとのことだ。
江戸の坂の多くは、明治以降に上部が削られて緩やかにされてしまったのである。かの「九段坂」も、江戸名所図会や浮世絵に見られるような急峻な坂であったのが、市電を通す際に大幅に低くしたのが、現在我々が見ている九段坂なのです。
「雁木坂」は、日大病院の前を通り、「文坂」(現在の明大通り)へと続く。

駿河台 池田坂

2006-08-24 | 江戸
ニコライ堂から「紅梅坂」をさらに進むと、「池田坂」に突き当たる。
江戸の頃、今の日大歯学部の辺りに池田姓の旗本の屋敷があったことから名付けられたそうだが、別名を「唐犬坂」とも言う。これは、池田屋敷で唐犬が飼われていたからだそうだ。
現在、坂の途中には日大歯科病院があり、「雁木坂」と「甲賀坂」がぶつかっている。

ニコライ堂

2006-08-23 | 江戸
「紅梅坂」に面して、青緑色のドームが特徴的なニコライ堂が建っています。
正式名称は、「日本ハリストス正教会教団復活大聖堂」。通称「ニコライ堂」の由来は、東京に日本ハリストス正教会を樹立したニコライ神父に因むもの。
着工は1884年(明治17年)で、7年の歳月をかけ、1891年(明治24年)2月に完成。日本最大のビザンチン様式の建物であり、国の重要文化財に指定されています。
ニコライ堂が建っている場所は、江戸時代に常火消の組屋敷があったところで、明治期に払い下げられた土地でした。
ちなみに、函館にあるハリストス正教会(こちらも重要文化財)は、この復活大聖堂の支院とも言えるもので、ニコライ神父が最初に赴任した場所でもあります。

神田 紅梅坂

2006-08-22 | 江戸
「幽霊坂」を登りきると本郷通りにぶつかり、その向かい側に続く坂が「紅梅坂」。
江戸の頃は「埃(ごみ)坂」と呼ばれていたらしいが、明治になって「幽霊坂」と併せて「紅梅坂」と改称されたようです。大正13年(1924)の区画整理の際に出来た本郷通りによって、「幽霊坂」部分と切り離されたため、旧「埃坂」の部分が「紅梅坂」を継承したようだ。
「紅梅坂」の名の由来は、近くに梅の大樹があったからとも言われ、町名の旧「東紅梅町」も同様のようだ。
坂の南側に面して、ニコライ堂で親しまれている「東京復活大聖堂」が建っています。

神田 幽霊坂

2006-08-21 | 江戸
淡路坂に並行する坂。
江戸の頃は、坂の上に「火消役」の役宅(現在のニコライ堂の場所)があった。
明治の頃は、「紅梅坂」と一体の坂であったが、本郷通りを作る際に断ち切られてしまい、改めて「幽霊坂」となったようである。古くは、光感寺という寺があったので、光感寺坂とも呼ばれたそうだ。
武家屋敷の多いところだったので、明治初期には裏寂れたところだったのだろう。

神田 淡路坂

2006-08-20 | 江戸
昌平橋南詰から、西のほうへ登る坂が「淡路坂」。
名前の由来は、坂上の方に、鈴木淡路守の屋敷があったことから付けられたとのこと。現在の淡路町は、この坂名から付けられた。
ちなみに、徳川家康入府のころは「大坂」と呼ばれていたらしいが、慶長8年(1606)の江戸城大改築に伴い、城内にあった一口稲荷神社(太田道潅が疱瘡(ほうそう)に罹った娘のために、山城国一口(いもあらい)の里の稲荷を江戸城内に勧請した社)を、この坂に面した西の丸の鬼門にあたる神田川駿河台の土手に移したことから、一口稲荷神社前の坂と言うことで「一口(いもあらい)坂」と呼ばれるようになった。なお、一口稲荷(太田姫稲荷)は、中央線の拡幅工事に伴い、現在は駿河台1丁目に移転している。
鈴木淡路守の屋敷が出来た後に「淡路坂」と呼ばれるようになり、神田川を挟んで並行して「昌平坂」があったことから「相生坂」という別名もある。

神田 昌平橋

2006-08-19 | 江戸
筋違御門跡のすぐ先に、江戸の頃にも架かっていた「昌平橋」がある。
この橋は、江戸初期の寛永年間(1622~1644)に架けられたと伝わり、当時は「一口(いもあらい(芋))橋」と呼ばれていたそうだ。由来は、橋の南側を西へ向かって登る坂(淡路坂)の途中にあった「一口稲荷」(現・太田姫稲荷)に因んだことによる。
元禄四年(1691)、徳川綱吉によって湯島聖堂が建立された際、孔子生誕の地である「昌平郷」に因んで改称された。
現在の橋は、昭和3年(1928)に架けられたもの。

江戸城 筋違御門跡

2006-08-18 | 江戸
旧交通博物館の裏手にレンガ造りの高架橋があるが、ちょうど写真の辺りに、江戸城の外郭門のひとつ「筋違(すじかい)御門」があり、外堀の役割をしていた神田川には見附橋が架かっていた。この門の内側にあった広場を「八つ小路」と呼び、江戸で最も賑やかな場所だったそうだ。「八つ小路」の名の由来は、筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町、柳原の各口に続いていたことから。
また、筋違御門外にあった筋違外広小路の東から上野広小路に至る道を「御成道」と呼び、将軍の寛永寺墓参の際には、江戸城神田御門を出て、八つ小路を通り、筋違御門を潜って「御成道」へ至るのが常だったそうである。
残念ながら、当時を偲ばせるものは何も残っていません。

おたぬきさん

2006-08-17 | 江戸
柳森神社の境内に合祀されている福寿いなりのこと。
五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院により、江戸城内に創建されたもので、京都堀川の八百屋の娘として生まれた桂昌院が、「他を抜いて(他抜き)」玉の輿に乗った幸運にあやかろうとした大奥の御女中衆の崇拝を集めたとのことです。
最近では、「他を抜いて」受験、勝運、出世運、金運向上にご利益があるらしい。
境内には、大きな「お狸様」も建立されていますが、写真は、「おたぬきさん」の前に鎮座する古狸です(笑。

柳森神社

2006-08-16 | 江戸
万世橋からほど近く、神田須田町2丁目の神田川沿いに柳森神社はある。
創建されたのは、約500年前の太田道潅による江戸城築城の時で、城の東北の鬼門を守るため、京都伏見稲荷大明神を祀ったことによる。そして、神田川の堤に多くの柳を植えたことから、柳森神社と呼ぶようになったとのこと。江戸の繁栄と共に、徳川将軍家からも保護され、元禄、文政期には徳川家により社殿の造営も行われたが、その時の建物は、関東大震災で惜しくも焼失してしまったそうだ。

千駄ヶ谷の富士塚

2006-06-09 | 江戸
寛政元年(1789)に築造されたと言う都内最古の富士塚である。
江戸時代中期以降、庶民の間で起こった富士信仰を伝える貴重な遺構。円墳方に土を盛り、頂上付近には富士山の溶岩を配して奥宮を祀ってある。手前の池は、富士塚に利用した土を採取した跡で、江戸期の典型的な様式だと言う。
登山道もしっかりとあるので、本物の富士山は無理だと言う方におすすめです(笑。
鳩森八幡宮境内

大坊坂

2006-05-31 | 江戸
大坊坂(だいぼうざか)
池上本門寺山内の西隅にある石段坂。坂下に大坊と呼ばれる本行寺があることから、この名が付いたといわれる。「新編武蔵国風土記稿」にその記述がある。江戸の頃から残る坂のひとつ。坂下は、日蓮の入寂した地であり、大坊はそこに建つ。それ以前は、豪族池上氏の館があったところで、池上宗仲の時に寄進されたそうだ。
池上梅園から、本門寺へ向かうには、この坂を登ると近い。