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みゅーじっくふうちゃんねる 

~show我が青春、涙からもらった元気~   

.東京 マイペース .

2013年10月27日 | フォーク ・ ニューミュージック



東京駅14番線ホームから
愛・希望・孤独・哀しみを乗せて
テールランプが遠ざかる
日曜日 東京駅発新幹線最終便
またの名を・・・
シンデレラ・エクスプレスと呼ぶ
          1987年JR東海のCM 




このCMが全国放送網で流れていたかは不明ですが、国鉄(日本国有鉄道)が民営化されて、JR(Japan Railways)となり、東海道新幹線が、JR東海として発足した直後に放映されていたテレビCMです。

そしてイメージソングは、同名の曲を、ユーミンこと松任谷由実さんが歌っていたはずなんですが、う~ん、ふうちゃんはなぜかあまり印象に残っていません。

愛・希望・孤独・哀しみを乗せて・・・という淡々としたナレーションの印象の方が強かったからでしょうか。

ともかく、日曜日の東京駅21時00分発新大阪駅23時43分着の東海道新幹線最終下り「ひかり289号」、それがシンデレラ・エクスプレスです。

終着の大阪が午後12時前ですから、12時前までに戻らないと、魔法が解けるというシンデレラ物語になぞらえ、週末を過ごした恋人たちの見送りシーンと融合させた、・・・さすが日本を代表する広告代理店の大手である電通が作った名作CMです。

ところで、ふうちゃんは当該列車には乗ったことはないのですが、東京からの帰りの最終電車近くの便で、遠距離恋愛らしき恋人たちが、ホームの片隅で、名残惜しそうに、ときに涙ぐんでいるようなシーンにはなんどかお目に掛かったことがあります。

当時は、まだ人目を気にしてか、今のように、抱き合ってぶっちゅーなんてことはせずに、手をつなぐ、肩を抱くというような、微笑ましいものでしたけど。(笑)

あっ、念のため、いっておきますが、ふうちゃんは、当事者にはなったことはありません。(笑)

マイペースの「東京」、内容としては、東京に住む彼女の元に、電車で会いに行くという、遠距離恋愛という言葉がまだ無かった時代の、時代を先取りしたような遠距離恋愛の歌です。(笑)

マイペースというグループは、この「東京」の作詞を担当された、森田貢さんに、伊藤進さん、根次男さんの三人のメンバーで、ともに秋田県出身。

マイペースは当時、名古屋で活躍していましたから、この「東京」に登場する彼は、名古屋から、ういろうときしめんを持って、やっとかめ(久し振り)、なんていいながら、東京の彼女に会いに行ってたのかもしれませんね。(笑)

この曲は、マイペースのデビュー曲で、一年近くかけてのロングセラーの100万枚ヒット、だから、ある意味では、多くの人の記憶にある歌ともいえます。

「二人道」阿呆鳥

2013年10月27日 | フォーク ・ ニューミュージック




やさしい過去を置き去りに

いつしか街へとび出す二人

夢の行き場を鞄(かばん)に詰めて

見しらぬ明日(あす)への二人道

by ふうちゃん




春・・・桜の花びらが、無風状態で散りゆく速度は、秒速約50センチだそうです。
夏・・・風の無い夜に飛び交っている日本のホタルの速度が、秒速約50センチ。
秋・・・色づく落ち葉たちが散りゆくときも、秒速約50センチ。
冬・・・ぼたん雪がひらひらと舞う速度も、秒速約50センチ。

日本の四季折々の風景のなかに、秒速約50センチの速度で動くものがあり、これが日本人の好きな速度であり、感性であるということを言われたのはさだまさしさんでした。

まあ、秒速50センチと言いますと時速1.8キロ、人の歩く速さの約半分位・・・
つまり、人生という道はもっと、もっと、・・・ゆっくり歩いたほうが良いということでしょうか。

勿論、人生いろいろで速度なんかで計、るものではないかも知れません。
でも、計測はしなくても、そう、少しゆっくり目に歩く、それが良いのかも・・・・・。




何故に二人はここに / Kとブルンネン .

2013年10月26日 | フォーク ・ ニューミュージック


何故にぼくたち二人 生まれてきたの
誰もこたえてくれず 海があおいだけ
何故にこうして二人 愛しているの
誰もこたえてくれず 波がよせるだけ
だけど二人いつの日も 若いからだよせて
生きてゆくの風の中も ささえあって生きる

何故に二人はここに こうしているの
誰もこたえてくれず 空があおいだけ
だけど指も唇も肩も腕も胸も
若い枝がからむように 求め合って生きる

何故に二人はここに こうしているの
誰もこたえてくれず 空があおいだけ



Kとブルンネン・・・・・

ご存知ない方も多いと思いますが、デビューは1969年(昭和44年)年7月、この「何故に二人はここに」でデビューしています。

当時の男女デュオと言えばヒデとロザンナやトワ・エ・モア。

発足間もないソニー・レーベル(1968年設立のCBSソニー)が、彼女・彼等に対抗して売りだした二人、それがKとブルンネンです。

Kこと鈴木豊明はシンガー・ソングライターの小室等夫人の弟で当時明治大学の学生、ブルンネンことクリスタリン・ブランネンは1951年米国生まれで当時上智大学に通う学生だったとか。

お二人に関しての記載はあまり見ないので、詳しくは知りませんが、どこか素人くさい素直な“ハモり”が結構心地良く、あの時代に青春してた学生の間では人気があったようです。

めぐり逢い紡いで 大塚博堂

2013年10月26日 | フォーク ・ ニューミュージック




胸のボタンひとつはずして

あなた好みに変わってゆく

ただひたむきに愛されたい

惜しみなく奪ってほしい

はじめてつけたマニキュアが

もろいかける割れるはがれる

めぐり逢い紡いで愛の色に織りあげた

あなたへの燃える火を

断ちきれない 消せはしない・・・♪



天の川の西岸に住む織姫は、機織りの名手。毎日機織りに勤しんで美しい布を織り上げ、父親である天帝を喜ばせておりました。そんな娘の結婚相手を探していた天帝は、東岸に住む働き者の牛使い彦星を引き合わせ、ふたりはめでたく夫婦になりました。

しかし、結婚してからというもの、あまりにも夫婦仲が良すぎて全く仕事をしようとしませんでした。これに怒った天帝が、天の川を隔ててふたりを離れ離れにしてしまいました。

しかし、悲しみに明け暮れるふたりを不憫に思った天帝は、仕事に励むことを条件に七夕の夜に限ってふたりが再会することを許します。こうして、七夕になると天帝の命を受けたカササギの翼にのって天の川を渡り、ふたりは年に一度の逢瀬をするようになったのです。



・・・とまぁ、こう言った「七夕(たなばた)」に関する星物語があることは、わたし達もよく知るところです。
ところが、それでは何故7月7日を「たなばた」と呼ぶのか、何故あの短冊に願い事を書いて笹に吊るしそれを飾るのかということは余りご存知無い方が多いのではないでしょうか。

もちろん、ふうちゃんも、織姫・彦星のお話は知っていましたが、どうして「たなばた」と呼ぶのか、どうして短冊に願い事を書いて笹に吊るすのかまでは考えたこともありませんでした。(笑)

そこで例によって調べて見ますと・・・・・

まず、この「七夕(たなばた)」ですが、もともとは中国の乞巧奠(きっこうでん)というお祭り(織姫にあやかって機織りの技が上手くなるように、ひいては手芸や手習いの上達を願って行われる祭り)に由来するものだと分かりました。


そして、それが日本に伝わるわけですが、日本ではそのまま受け入れるということではなく微妙に変化させて受け入れていたみたいです。

と言うのは、この乞巧奠のお祭り時期なんですが、ちょうど日本では稲の開花期、水害や病害などが心配な時期に当たります。

そこで、もともとの乞巧奠のお祭りを、「収穫の無事を祈り、棚機女(たなばたつめ)という巫女が水辺の棚の上に設けられた機屋で棚機(たなばた)と呼ばれる機織り機を使って先祖に捧げる衣を織りあげ、それを祀って神の降臨を待つという禊(みそぎ)の行事」として意趣替えしちゃったわけです。

つまり、「祭り」から「神事」へと微妙に・・・・・ですよね。

それが、いつの間にか「棚機(たなばた)」から「七夕(たなばた)」に・・・・・。

ってなことで、めぐり逢い(織姫と彦星)→紡いで(織機)というようにオヤジ風オチでまとめてみました。(笑)


過ぎ去りし想い出は  大塚博堂

2013年10月26日 | フォーク ・ ニューミュージック




過ぎ去りし想い出は

木枯し吹く街のように

孤独な胸の奥深く

通りすぎて行く

愛は雪をとかし 恋が芽ばえて

共にくらした日々は

遠い遠い 今はむなしい

過ぎ去りし想い出に

ただ一人涙うかべ

若い日のほろにがい酒に

もう一度酔いしれる・・・♪




大塚 博堂(おおつか はくどう、1944年3月22日 - 1981年5月18日)、本名:おおつか ひろたか(漢字同じ)。

大分県別府市出身。東洋音楽大学(現:東京音楽大学)声楽科中退。

1972年(昭和47年)に「大塚たけし」名義で歌手デビューするものの、不発。その後のクラブでの弾き語りの活動などが評判になり、1976年(昭和51年)6月26日、『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』で32歳で再デビュー。


これが大塚博堂さんの簡単な略歴です。

豊かな声量ながらも、繊細にして優雅なボーカルというイメージの博堂さん・・・しかし、活躍されたのは再デビュー後の僅か5年間だけでした。
1981年(昭和56年)5月14日に自宅マンションで脳内出血のため倒れ、4日後には入院先の東邦大学付属大橋病院で急逝されています。享年37才という若さでした。

さて、この曲ですが、再デビューの翌年に発売されています。

いい曲ですよねぇ・・・・・

共に暮らし、愛を育んだ二人の別れ・・・
もはや、なすすべもないことは頭の中では理解できてるはずなのに・・・・・・。

そして、過去の自分の行動を、ずっと後悔しながら、ゆっくりと、ゆっくりと時のしずくが、氷結した心を溶かしてくれるのを、ただ待つ・・・・・・・

時の流れが恨めしいほど遅く感じられながらも。

そうした心象風景を、この曲は、ピアノでボーカルをオブラートしながら絶妙に描写しています。

繰り返しになりますが、敢えて、・・・・ほんとにいい曲です。

駅   竹内まりや .

2013年10月26日 | フォーク ・ ニューミュージック




見覚えのある レインコート
黄昏の駅で 胸が震えた
はやい足どり まぎれもなく
昔愛してた あの人なのね
懐かしさの一歩手前で
こみあげる 苦い思い出に
言葉がとても見つからないわ
あなたがいなくても こうして
元気で暮らしていることを
さり気なく 告げたかったのに
・・・・・♪



う~ん、歌詞もそうですが、このメロディー・・・・・よかメロディーですよねぇ~・・・まるで、ふうちゃん主演の映画のラストシーンにでも流れてくるような。(笑)

(メ・ん・)? ふうちゃんやったら「駅」じゃなくって「疫」たい、・・・ですかぁ~(笑)

ところで、この楽曲のタイトルでもある「駅」ですが、此処には様々な列車、電車が停ったり、通過したりしますよね。特急、急行、鈍行・・・などなど。

そこで、みなさんへの質問なのですが、受験や通学、就職や通勤など何でもいいですが、初めてひとりで列車に乗ったときのことって、覚えていますか?。

・・・というのは、ふうちゃん自身が、それがいつの頃だったかさえも、明確に覚えていないからです。(笑)

高校の通学時に乗ったということはハッキリ覚えているのですが、それが初めてかということになるとどうも、・・・確かその前にも乗った記憶があるような、ないような・・・・・(笑)

勿論、はじめてひとりで、いつ乗ったかは、その人の生まれ育った環境にも寄ります。

人里離れた辺鄙な土地だと、鉄道路線が近くに通っていなくて、公共交通機関は、せいぜいバスくらいでしょうから、なかなか列車に乗車する機会がなかったでしょうし、はしだのりひこさんの歌のように「夜汽車に乗って嫁いでいった人」もそんなに多くはないでしょう。(笑)

また、修学旅行ではじめて、列車や電車に乗ったという人も意外と多いかも知れませんが、ただ団体や集団ですと、乗降は誰かが指示してくれますし、そのあとをついていけば良いのですから、ホームも乗る列車も、あまり意識もしていませんし、記憶も残りません。

さらに家族で、でかけた場合でも、子どものときは、親のあとをついていくだけですから、切符すら、どう買ったのかさえ記憶がないと思います。

そう言いながら、必死に記憶をたどってるふうちゃん・・・(笑)

そうそう、思い出しました!!あれは中学3年の夏、・・・一人で母方の実家へ遊びに行って、そして、冷やしてあったスイカを食べた・・・あの時だったのだぁ。(笑)

さて思い出したところで、ふうちゃん主演のドラマが始まります・・・(笑)

それから数年後です、同じ駅で好きな人と出逢ったのは。  そしてその数年後、ちょっとした諍いが原因(もと)で、その人とその駅で別れました・・・・・

・・・・・そしてさらに月日は流れます。

お互い、それぞれ別な相手と別の場所で幸せな暮らしをしていた・・・・・・はずなのに。

しかし運命の悪戯でしょうか、再び同じ駅でめぐり逢う二人・・・彼女は走馬灯のようにあの頃の出来事を蘇らせます。そして、ふうちゃんも・・・・・・

でも・・・

「やぁ、○○ちゃん元気? あらら、すっかり見違えちゃったね、体型が・・・・・」

「何よ、アナタだって。そんなにお腹が・・・」

みたいな会話で、そのまま別れることになりました、現実は・・・・・です。(笑)




森山良子 つぶやき

2013年10月24日 | フォーク ・ ニューミュージック




「夫婦円満の秘訣は?」

こう問いかけられたら、もしかしたら一番多い回答は次の言葉かもしれません。

「我慢と忍耐・・・」

実際、ある調査で、円満夫婦と呼ばれているお年寄りカップルに尋ねたところ90%の答えがそうだったそうです。

でも、この我慢と忍耐・・・或る意味ではとっても曲者なのかも知れません。

なぜかというと我慢も忍耐も、摩擦を避けるという好意的感情と併せて、「して欲しい、されたい」という自然な欲望までも心の中にどんどん溜めて行ってしまうからです。

もちろん、我慢や忍耐が悪いわけではありません。
我慢や忍耐が必要なことも、大切なこともあります。
ただ、何でもそうかもしれませんが、しすぎると心に過剰な負担を与えてしまうようになるのです。

ところで、ちょっと想像してみてください。

学生の頃、家族に見られて困るもの、ちょっとヤバイもの(笑)など、机の引き出しに隠して見えないようにした経験、ありませんでした?(笑)

そして、だんだんと引き出し中の隙間が無くなり、モノを入れる余裕が少なくなってきても、無理やり押し込むものだから・・・・いつか引き出しが開かなくなったという経験・・・。

そうです、もうお分かりでしょうが、引き出しというのがわたし達の「心」、隠してきたモノが「我慢した気持ち、言えない気持ち」、そして、いざ開けたいというのが「状況の変化」だとふうちゃんは思うのです。
ですから、もし、今いっぱい我慢してるなあ、という方。
ちょっと自分に「つぶやいて」みて下さい。

その我慢は本当に必要なもの?

ひとりで頑張れる?

それとも誰かに助けを求める?

同居期間25年以上の熟年夫婦の離婚は、ここ10年で2倍以上に増えているそうですし、同居期間30年以上に限ってみると3倍近くに増えてるそうです。

熟年離婚で幸せを得る方もおられますし、そうでない方も少なくはないと思いますのでそのこと自体をどうこう言うつもりはありませんが、その前にまず、「つぶやいて」みて下さい。

離婚は本当に必要なもの?

ひとりで頑張れる?

それとも誰かに助けを求める?



しおさいの詩

2013年10月23日 | フォーク ・ ニューミュージック





 しおさいの浜の 岩陰に立って
 しおさいの砂に 涙を捨てて
 おもいきり呼んでみたい 果てしない海へ
 消えた僕の若い力 呼んでみたい

 青春の夢に 憧れもせずに
 青春の光を 追いかけもせずに
 流れて行った時よ 果てしない海へ
 消えた僕の若い力 呼んでみたい

 恋でもいい 何でもいい
 ほかのすべてを 捨てられる
 激しいものが 欲しかった

 しおさいの浜の 岩陰に立って
 しおさいの砂に 涙を捨てて
 おもいきり呼んでみたい 果てしない海へ
 消えた僕の若い力 呼んでみたい




青春、・・・人それぞれに、それぞれの想い出があるんでしょうね。
こころのかたすみに、ぽつんといる青春・・・

青春に、バカヤロ~って叫んだ人も、青春に、さよならではなく、こんにちわ~♪って、愛想を振りまいた人もいるのでしょうか。(笑)

でも、なんの挨拶もしないままに、あれ?いつのまにか、通り過ぎてしまっていた・・・というお気の毒な人もいるのかもしれません。(笑)

ふうちゃんはどんな青春だったかな?

なんてAGE○○のアイドルっぽく振り返ってみても、ぼくの青春時代が、必ずしも清流でなかったことは、言うまでもありません。(笑)
よどみなき・・・、しかし、濁流?・・・(笑)

あなたといるだけで

2013年10月23日 | フォーク ・ ニューミュージック





わー(私)はよー、やー(お前)のこと好きだばーよ♡

うち、あんさんのこと、きつうきつう好きどすえ♡

あんたの事好きやし、うちと付き合いまっし♡

ばり好いとうよ♡

愛しちゅうき♡

たげ好きなんだばって…付き合ってけねぇ?

おみゃーさんのこと、好きだがね!



恋い焦がれる(こいこがれる)・・・


恥ずかしくなるような言葉、ましてやある程度歳をとると、口にもだしにくい言葉、・・・「恋い焦がれる」・・・そんな言葉かも知れません。(笑)

しかしどうなのでしょう、最近こんな思い、するんでしょうか?

そう、と~~おいと~~おい昔の思いかもです。^^

言葉では知っていても使う事のない言葉、それが「恋い焦がれる」・・・

ああ~声が聞きたい聞きたい聞きたい・・・な~んてこと今やありませんもんね。

携帯電話で何時でも、どこでも話せますし、メールも打てます。

しかも余計な障害もない。

便利になり過ぎて・・・

それが恋心を味気なく、軽くしてしまうのかも知れません。

あなたといるだけで、幸せになる・・・

そんな思いも・・・と~~おいと~~おい昔のお話

君に捧げるほろ苦いブルース

2013年10月23日 | フォーク ・ ニューミュージック





淋しさにひとりのむコーヒーは
ひきたてのほろ苦い味がする
ゆきずりの夜に買うわたあめは
君と愛した味がする
Bye Byeまだ 夢のようさ
Bye Bye君 ドアの外の
気に入りの 紫蘭の花
昨日の朝枯れたよ・・・・・・・・





「やられたら、やり返す。倍返しだ!」・・・


これは、驚異的視聴率でこの前最終回を終えた堺雅人主演のTBS系ドラマ「半沢直樹」の決めセリフです。
ふうちゃんも全編観ましたが、構成や設定に多少の不満はありましたが、それなりに面白いドラマでした。

ところが、最終話のエンディング、・・・最後は中野渡頭取の半沢への左遷通告で終わっています。
(そしてその通告に対して睨むような目で応える半沢、・・・)
これはオソラク続編を暗示しての演出ではないでしょうか・・・。
続編がないなら、やはり、2階級特進の部長昇格、そして、めでたしめでたしで終えるはずですから。(笑)

ならば次はきっと、出向先で勤務しながら、真の出向理由を知り、今度は中野渡頭取あたりを悪者に見立て「やられたら、やり返す。10倍返しだ!」・・・ってなるような気がします。(笑)

さて、ここまで視聴率が急騰した「半沢直樹」ですが、その前兆はやはり驚異的視聴率だった「家政婦のミタ」にあったと思います。

「家政婦のミタ」・・・放映されたのが2011年10月12日から12月21日までですから、ちょうどあの大震災の6ヶ月後くらいからの番組ということになります。
期待してた政権交代は成し得たものの、その期待はすっかり裏切られ、あきらめムード漂う中、突然発生した未曾有の地震・津波による大震災、そして原発事故。
しかも、政府の対応はてんでチグハグ、・・・どことなく暗く不安定な状況が続く中、 ムダ口をたたかず頭の痛い問題をてきぱきと解決するヘンな家政婦の活躍は人々に救世主的感覚として映り、それがハマったわけです。

そして、「半沢直樹」・・・

こちらもやはり今の日本社会が望む強い英雄像を見せてくれる主人公半沢直樹にみなさんがハマったのではと思います。
善意のある人間には礼儀正しく接するが、不当ないじめには絶対に屈服せず最後まで食い下がって鉄槌を下す。
それも主人公がむやみに道徳的というわけではなく、普通の家庭的サラリーマンの一面も見せるし、悪人に対抗するためにさまざまな術数を動員して、彼らの弱点を自身の出世のための踏み台として利用したりもする貪欲サラリーマンの一面も見せたりするので、そこに親近感を感じ、ハマるのかも知れません。

ところでドラマの中の名セリフ「倍返し」は、80年代の恋人同士で使っていた冗談言葉です。

「バレンタインデーにプレゼントをもらったらホワイトデーに倍返ししなければならない」という意味でした。

でも、今の日本は、余裕にあふれたこのセリフが正反対のすさまじい意味で使われる社会になってしまっているのが気がかりです。
一時、「配慮」や「忍耐力」で象徴された日本人たちはどこへ行ってしまったのでしょうか。
『半沢直樹』の絶叫を目にするたびに、近頃せっかちで無慈悲になった日本社会の一面を見ているようで、心中穏やかではないのがふうちゃんの実感・・・。

荒木一郎/海 .

2013年10月23日 | フォーク ・ ニューミュージック




放置されるのは嫌
ガツガツしてしまうのも、嫌
制限が欲しいのに
自由で居たい
そんなわたしって我侭なのでしょうか

あなたのくれるやさしさに
わたしが漏らす切ない吐息が
呼応する

いちど咲いてしまったら
あとは綺麗に散ってゆくしかないのかな
・・・なんて考えて
咲くことを拒んでる
そんなわたしで良いのでしょうか

あなたのくれるやさしさに
わたしが漏らす切ない吐息が
呼応する

by  ふうちゃん



煌めきやざわめきが、すべて幻だったかのように、夏が通り過ぎた海や砂浜はひとり静かです。

潮騒もどこか淋しく聞こえますし、つまんだ砂粒も指と指のすきまから、零れていきます。

握れば握るほどに、零れてく砂粒・・・

そして、零れないように、落ちていた硝子の器に封じ込めても砂粒たちは砂時計となって、時を静かに刻んでいきます。

しかし、砂時計がどこか切ないのは、その刻む時間に限りがあるからでしょうか。

砂時計の砂は永遠に落ち続けることはありません。

最後の砂の一粒が落ちれば砂時計は止まります。

もちろん、砂時計を逆さにすれば、また時を刻み始めますが・・・

でも、その刻む「時」は、未来へと進むのみ、決して、過去の時をたどり、遡って、時を刻むことはしないのです。

山が秋の紅葉に彩られながら、冬を迎える支度をするのに、海はただひとり、静かに冬支度をしています。

燃えるがごとくに、熱く焼けたことを、すっかりと忘れたかのように、砂は冷たくなっていきます。

ところで、「ミュージカルサンド」あるいは「シンギングサンド」って、ご存知でしょうか。

えっ、そんなの食べたこと無いって?(笑)

えっ、ぼくは、「カツサンド」の方が好きって?

わたしは、「ツナサンド」の方が良いって?

うん?、「やきそばサンド」はないのかって?

そんなオーダー、聞いてないって。(笑)

おや、なになに?、そちらの方は、「納豆そら豆ピーナッツバターサンド」はないんですかって?

そんな、マニアックなサンドのレシピはふうちゃんだって知りません。(笑)

そんな勝手なサンドの注文ばっかだと、「憎いあんちくしょう」って言われて、あしたのジョーに叩かれます。(笑)

えっ、そりゃ、サンドバッグやろって。

燃え尽きたぜ、真っ白にな、・・・って、なんの話してたんやろ?(笑)

さて、絹の道、シルクロードで有名な中国の敦煌近くの砂漠地帯に、「鳴沙山」という砂が堆積した山があります。

晴れた日に風が吹いて、砂が流れると、管弦のような音を立てるところから、まるで砂が音楽を奏でているように、砂が鳴いているように聴こえるらしいのです。

このような砂はアメリカなどにもあるらしく、これを音楽の砂、「ミュージカルサンド」あるいは歌う砂、「シンギングサンド」って言うのです。

ふぅ、これが言いたかったのだ。(笑)

もっとも、何も中国を持ち出すまでもなく、また英語を持ち出すまでもなく、もっと身近なものもあります。

そう、日本では、鳴き砂と言いますよね。

鳴き砂のある砂浜は、島根県大田市仁摩町の琴ヶ浜、京都府京丹後市網野町の琴引浜、石川県輪島市門前町の琴ヶ浜など、全国的に有名なものでも30ヶ所あまり、地域で知られた名所などを含むと200ヶ所近くもあるといわれています。

その多くに琴という文字が冠されているのは、鳴き砂の音が、琴の音に似ているからでしょうか。

島根県の琴ヶ浜に伝わる琴姫伝説、・・・壇の浦の源平の戦に敗れ、小舟で流れ着いた平家の美しいお姫様が、助けられたお礼にと琴を弾いて、やがて姫が亡くなると、砂浜が鳴るようになったという、・・・そんな伝説が伝わるのも、まさしく琴の音をイメージするからでしょう。
ただ、実際にふうちゃんが体験した京都府京丹後市網野町の琴引浜では、琴の音というよりも、「キュッ、キュッ」という少し甲高い音で、どちらかというと、弦楽器の弦の上を指が移動するときに発する、いわゆるフレットノイズという音色に近い音のような感じでした。

それでも、ノイズ(雑音)に近いに関わらず、鳴き砂の音が、不思議に心地良い響きに感じたのは、音の周波数としては、コンサートなどで始めにオーケストラの音あわせするときの音程、つまりは音楽の音として基音である「ラ」の音程に近いから化も知れません。

     たのしみを 抑えかねたる 汝ならん
     行けば音をたつ 琴引の浜 
                      与謝野寛

     松三本 この陰にくる 喜びも
     共に音となる 琴引の浜 
                      与謝野晶子

人恋しさゆえに、恋がはじまり、そして、人恋しさゆえに、恋が終わっていきます。

砂浜についた足跡を、追うようにしてつけたはずの足跡も、寄せ来る波が消してしまいます。

いつもそばにいて、と祈るようにして書いた砂の上の文字さえも、やはり寄せ来る波が消してしまいます。

ひとりの孤独よりも、ふたりいる時の孤独・・・

砂時計の砂が、もう、あとわずかになったことに、どちらともなく、ふと気がついていきます。

そして、確実に、季節は移ろっていることを気づかせてくれる砂浜の砂の冷たさ。

だからこそ、そう、いつまでも、ふたりで砂浜にいてもなにも始まらないのです。

思い出が砂にいっぱい刻まれていたとしても、いつも寄せ来る波に洗われていては、やがては流れ消えてしまうものです。

いや、どんな思いがあろうとも、そんな砂浜に居続ければこそ、その波のしぶきの襲来を恐れおののくばかりになっていくのかも知れません。

思い出は心の中に大切にしまって、そろそろ砂浜から消えていく過去の足跡を、見送るときがやってきました。

そう、新しく訪れる幸せを砂に刻んで・・・。

荒木 一郎/潮騒の街

2013年10月23日 | フォーク ・ ニューミュージック





君を遠く離れて
名もない駅を南に行けば
ここは潮騒の街
もう誰も知る人もない
思いきり泣いてみたって
海鳴りが声を包む
断崖に書いた別れの詩も
波がいづれ 消すだろう・・・




荒木一郎さん、・・・以前にも書いた記憶がありますが、ふうちゃん的には彼、シンガーソングライターとしては加山雄三さんと並んだ草分け的存在だと思っています。
しかも、彼の才能は、以後登場のシンガーソングライターと呼ばれる人達の中でも抜きん出ているとさえも思っています。

その割にはあまり知られていないし、作品数も少ない・・・
それは、彼の風貌のせいなのか、なにか、人格的に世間・業界に受け入れられないものがあるのか、それは分かりませんが、・・・有名な俳優が親である点では共通していても加山さんとは正反対です。

もともとモダンジャズに傾倒していて、そこからのスタートだった荒木さん、その影響もあるのでしょうね、彼の作品にはどこかモダンジャズの臭いがあります。
そう、時間を超える斬新さと新しい息吹・・・。
つまり、彼の曲は10年後聴いても、20年後聴いても、古さを感じさせない作品が多いんですよね。
ちょっと褒めスギ、ワイルドかな?(笑)

それはそれとして、この曲には気に入らない歌詞部分があります。それは ”名もない駅”とか ”名もない橋”というところ・・・。
これは”名を知らない”が正しい表現ですよね。(笑)
名もないは、いかにも自分中心すぎるような気がします。
もっとも、それが荒木さんなのかもですが・・・・

ふたりだけの結婚式 Simons/シモンズ .

2013年10月22日 | フォーク ・ ニューミュージック




結婚はすばらしいことだが、結婚生活という習慣をつけたことは誤りだと思う。
                             ウィリアム・サマセット・モーム

妻を選ぶのはネクタイを買うのとよく似ている。 選んだ時は素敵に見えるが、家に帰って首に締めてみるとがっかりする。
                                        ジョイ・アダムス

結婚なんてつまらない。 死ぬまで夫婦の約束を守らなくちゃならないんだもの。 そんなバカげた約束を誰ができて?明日どんな

風が吹くか、神様だってご存知ないわ。
               ミア・ファロー
                 


さて、ふうちゃん、以前から「結婚は、50%の確率で失敗する?」という自論を持っています。
丁半博打ではありませんが、「成功」・「失敗」の出目確率は五分五分になるというわけです。(笑)

ちなみに日本での相対離婚率ですが、これは厚生労働省の統計からしますと近年は40%近くなっているようです。
ですから、離婚=失敗と考えれば、ふうちゃんの自論、当たらずとも遠からずということになります。

もちろん、この統計では離別も死別も離婚として扱われていますから、離別に限ればもっと少ないわけで、これも五分五分ということなら、20%が離別ということになります。

そうなると、失敗は20%、50%というふうちゃんの自論にはほど遠いものになってしまいます。

でも、離婚=失敗ではなく、失敗=後悔と考えてみたらどうでしょう。

そうです、その結婚が離別に至らずとも、成功・失敗の判断基準が、この世におさらばするときの配偶者に対する思いにあると考えたなら。

①「今度生まれてくるときも、やはり貴方のそばがいい。」

②「貴方と一緒に楽しい人生を過ごすことが出来ました。有り難う。」

③「貴方と一緒の人生は、余り楽しいものではありませんでしたが何とか無事添い遂げられました。・・・縁があったら又会いま  しょう。」

④「貴方と一緒の人生は、ひどい人生だった。現世では、何とか一緒に居たが、今度生まれてくるときは、貴方とだけは一緒にな  りたくない。」

・・・と、言うようにです。

さてみなさんは?     (笑)

こう考えると、ふうちゃんの自論、いい線いってませんか。(笑)

幸せ色した貝がら /シモンズ

2013年10月22日 | フォーク ・ ニューミュージック



わが恋のごとく 悲しやさくら貝
           片ひらのみの さみしくありて


この和歌は、昭和初期、鎌倉・由比ヶ浜の近くに住んでいた鈴木義光という青年が、胸を病んで18歳で亡くなった恋人・横山八重子さんを偲んで書かれた歌です。

鈴木義光さん、・・・・・既にご存知の方もおられるかも知れませんが、後の八洲秀章氏、そう、『山のけむり』『あざみの歌』『チャペルの鐘』『毬藻の歌』など、端正な抒情歌を数多く作られた高名な作曲家です。

そして、この和歌をモチーフとして作られた曲があの「さくら貝の歌」だとか

 うるわしき 桜貝ひとつ
 去りゆける 君に捧げむ
 この貝は 去年(こぞ)の浜辺に
 われひとり 拾いし貝よ

 ほのぼのと うす紅染むるは
 わが燃ゆる さみし血潮よ
 はろばろと かようかおりは
 君恋うる 胸のさざなみ

 ああなれど わが思いは儚なく
 うつし世の渚に 果てぬ

さて、ここに登場するさくら貝ですが、別名、「恋がかなう貝」・「幸せを呼ぶ貝」とも言われている二枚貝です。
たしかに、ピンク色、さくら色したそれは、そう呼ばれるにふさわしいほど愛くるしい貝ですよね。



幸せ色した貝がら・・・(歌詞)

あなたはいつも黙っていつもわたしをみつめている

わたしはそれで優しい愛を感じていられるから

二人はいつも黙っていてもおしゃべりなそよ風よ

まぶしくふり向くあなたに追っつくふたりの砂浜よ

あしにからむあつい砂のあらし

愛を胸にこのままいつまでも

あなたはいつも黙っていつもわたしにくちづけする

幸せ色した貝がらひろったふたりの 砂浜よ

あおい海に浮かぶ白い小舟愛を乗せて

見知らぬ国へ行くたとえばいつか別れがきても 

この白い砂浜に幸せ色した貝がらひろったこの日を忘れない


シモンズさんにとっては「幸せ色した貝がら」・・・、でも、当時の鈴木義光さんにとっては悲しみの色だったのでしょうね。

そう、同じ色した同じ貝でも、心のキャンバス次第では色も、別に描かれるのかも知れません。


この曲、「幸せ色した貝がら」はシモンズさん10枚目のシングルで、1974年の作品です。

一人の道 / ピンクピクルス .

2013年10月22日 | フォーク ・ ニューミュージック




1964年10月21日、東京オリンピックの最終日を飾る男子マラソン競技・・・

エチオピアの国の栄光と皇帝のためにと、前人未到のオリンピックマラソン二連覇を達成した、はだしのアベベ選手に続いて、国立競技場に入ってきたのは、前評判ではメダルに一番近い男といわれ、優勝さえも期待された君原健二選手ではなく、円谷幸吉選手でした。

円谷頑張れ!円谷頑張れ!を繰り返す実況アナと、その声をかき消すほどの観衆の大声援・・・

しかし、円谷選手は、最後のトラック争いで、イギリスのヒートリー選手に追い抜かれてしまい、惜しくも銅メダルに終りました。 まだ、ぼくが、小学校の低学年のときでしたが、応援していて、悔しい思いをしたことだけは、はっきりと覚えています。

この東京オリンピック、開催国の強みもあり、全体では多くのメダルを獲得しています。(金16、銀5、銅8)
ですから今の感覚で言うと円谷選手の銅メダルもそのなかの1個に過ぎず、その後の彼への以上な期待を不思議に思われる方もおられでしょう。ただ当時は陸上競技でのメダルなんて夢のまた夢、事実、陸上競技でのメダルはこれ1個のみ、それはそれは大変な偉業だったのです。

終了後、当然のことながら次のメキシコオリンピックでの期待は円谷選手に集中、今度こそ金メダルを!、と過剰なほどの声援が寄せられたのは言うまでもありません。

「メダルの期待は迷惑だ、自分のために走るんだ。」と世論に反発した君原選手よりも、愚直に応えようとする円谷選手に、さらに多くの期待が集まったのです。

しかし、国民の声援・期待とは裏腹に円谷選手にはこの後、様々な不運に見舞われ続けていきます。

まず、所属する自衛隊体育学校の校長が円谷選手と畠野コーチの理解者だった吉井武繁から吉池重朝に替わったことです。
そしてそれまで選手育成のために許されてきた特別待遇を見直す方針変更を打ち出されました。

さらに吉池は円谷選手の婚約を「次のオリンピックの方が大事」と認めず、結果的に破談にまで追い込んでしまったことです。

これにはそのことだけでなく、直後に、体育学校入学以来円谷をサポート、婚約に対する干渉の際も「結婚に上官の許可(「娶妻願」の提出と受理・承認)を必要とした旧軍の習慣を振り回すのは不当だ」と抵抗した畠野コーチが突然転勤となり、円谷選手が孤立無援の立場に追い込まれまれるというオマケまでついてしまいました。

さらに円谷選手は幹部候補生学校に入校した結果トレーニングの時間の確保にも苦労するようになります。その中で周囲の期待に応えるため、オーバーワークを重ね、腰痛が再発、そして病状は悪化して椎間板ヘルニアを発症。
1967年には手術を受け病状は回復しますが、すでにかつてのような走りをできる状態ではありませんでした。

それでも国民の期待に応えるため、身体の不調を訴えることも、理解を求めることも許されず、走りつづけることを求められたのです。

そして、最後は、その重圧に耐え切れずに、メキシコオリンピックの年(1968年)1月に、円谷選手は死を選ぶことになるのですが・・・・、享年27歳でした。

円谷選手はその際こんな遺書を残しています。


「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。
干し柿、モチも美味しゅうございました。
敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。
克実兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。
巌兄、姉上様、しそめし、南ばん漬け美味しゅうございました。
喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゅうございました。
又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。
モンゴいか美味しゅうございました。
正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になって下さい。
父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。
気が安まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。」
   



円谷選手の自殺後、全国から励ましの手紙とともに、また、心無い手紙も、円谷選手の父母に寄せられたそうです。
父母にあてた悲しい遺書を、父母もまた、期待に応えられなかった世間に対する謝罪として、公表せざるを得ないほど、追い詰められていたのでしょう。

応援、ほんとに心から応援して、負ければ悔しくて残念です。
でも、勝負の世界ですから、勝ちもすれば負けもする・・・、スポーツを愛して応援する人ならば、負けても、温かく見守ってやるのが、スポーツマンシップだと、ふうちゃんは思うのですが・・・。

東京オリンピックでは屈辱の8位に終った君原選手は、国のためではなく、自分のため、そして円谷選手のためにと走って、メキシコオリンピックでは銀メダルを獲得します。

時を経て、あるマラソン選手が、「自分で自分を誉めてやりたい。」と言ったことがありますが、この言葉の裏に、30年を経てもなお、周囲の期待に対する重圧を、いかに乗り切ることが、精神的に大変であるかを感じます。

人生をマラソンにたとえることがあります。
ときとして、次々と追い抜かれ、そして、ゴールがあまりに遠く見えて、もう走るのをやめたくなるときだってあるはずです。
でも、そんなとき、何のために走るのか、誰のために走るのか・・・、そんなことを問いかけ直すのもいいのかもしれません。
そう・・・、その答えは、走っている自分しか見出せませんから。
そして、ゆっくりでも、一人の道を、走りつづけたいものです。