この記事は、The Electronic Intifada で公開されてる『"Beiruti in Jaffa, Yafawi in Beirut": Shafiq al-Hout's story in his own words』という記事の適当日本語訳。
↓の続きモノでもある・・・。
・Shafiq al-Hout 氏を偲んだ?(その1)(2009年9月27日 flagburner's blog(仮))
なので、ここを読む前に先に触れた記事(というか訳文)を読んでね(無責任)。
---- 以下訳文 ----
(続き)
翌朝、俺達はベイルートの港にたどり着いた。
数多くの[先に難民となったのかどうか不明だがレバノンに住んでいた]パレスチナの人達とレバノンの人達が、パレスチナの人達にいる知り合いや親族を歓迎した。
皆の顔は疲れていて生気がなく、未来になにが起ころうとしてるのか知らなかった。
思いがけない好意によって、港で働く人たちが俺たちをもてなしてくれた。
彼らは、パレスチナの人達がレバノンに来て夏休みを過ごすたびに会いに来てくれたのだ。
俺たち家族を受け入れてくれたレバノンに住む甥は、俺達が夏の数週間を過ごす彼の家に車で家に連れて行った。
そこで、いつも俺達家族がそうしていたように、夏休みを過ごすために Souk al-Ghareb 地区にある家を借りることにし、冬にパレスチナに帰る計画を立てた。
しかし、非常に長く待ち望んでいた帰還は、俺達が思ってすぐに行われるものでなかった。
冬が早く訪れ、人々はベイルートでの仮住まいを探し始めた。
だがレバノン出身だった俺の祖父は、レバノンに定住することに反対した。
家具付きの仮住まい以外を借りようとしなかった。
夏の終わりごろになって、祖父は病気を患った。
祖父は、Jaffa に埋葬されることだけを願った。
祖父が重い病気になり意識がハッキリしなくなると、al-Ghareb の家の窓から見えるレバノンスギの木を、Jaffa の家の窓から見てたオレンジの木と見間違えるようになった。
レバノンスギの木を指さし、俺の父に祖父が植えたオレンジの木の下にレバノンスギの木を[伐採してから]埋めるようにお願いしてたはずだ。
そして、これが Souk al-Ghareb のレバノンスギの木が祖父にとってのオレンジの木になったか、という理由だ。
"The Yafawi"(Jaffa 出身の男):俺達家族が夏を Aley というレバノン山にある村で過ごした後、ベイルートで皆が俺を呼び始めた際の呼び方だった。
長く待ち望んだ Jaffa への帰還は、再び延期された。
この新しい呼び名は、俺のアイデンティティを定義する数多くの新たな疑問を投げかけるきっかけとなった。
俺は誰なんだ?
なんで俺達は[移動とかを]制限され、狭い意味でのアイデンティティしか持たされないのか?
俺はベイルート出身とか Jaffa 出身の男というものより幅広いアイデンティティ -- レバノン出身とかパレスチナ出身なんてのよりもっと幅広い -- を持ってるに違いない。
当初、俺達は Jaffa への帰還がすぐに行われるかもと感じ、出る準備をするべきだと思い、家具を買うのは賢明でないと判断したので、俺たちは家の代わりになる家具付きの仮住まいを借りろという父の意思を受け継いだ。
俺の友人 Ibrahim Abu Loghod から送られた、英国高等学校卒業資格試験合格を祝ってくれた電報を受け取ったのはそこの家だった[訳注6]。
その直後、俺の将来に関する大きな疑問が俺の心を揺さぶり始めた。
俺のヒーローである Youssef Wehbeh が映画で行っていたのと同じように、俺は自分の弁護人を守れないだろう、と。 というのも、ベイルートのアメリカ大学(AUB)にこの専攻[法学]が存在しなかった上、俺は英語で教育を受けてきたので一縷の希望だった[ベイルートにある]他の教育機関で勉強をできないため、俺は弁護士になる夢を断念せざるを得なくなったのだ[訳注7]。
俺にとって他の選択肢は何か?
「医学部に入学して 、-- 心を安らかにしてくれたり、大きな名誉を与えてくれる -- 医者にならないか?」と俺の父が提案し、俺はそれに従った。
俺は1949年に AUB に入学した。
潜在的に爆発寸前のアラブ世界の縮図のごとく、俺は入学してから数カ月の間、AUB にいる異なる政治的立場を支持する人達と -- 他の新入生同様 -- 思想的な意味で格闘していた。
「アラブ諸国は、同じ歴史を共有し同じ言語[アラビア語]を使っている。1つの国家を作るべきだ」
これは、アラブナショナリスト運動の強硬派を形成し俺を引き込もうとした George Habash+Hamad Jabboury+Wadi' Haddad の持論だった。
その際、連帯・自由・社会主義はパレスチナを解放する際という意味を持ち、その「残された任務」とともにアラブ国家にいることを強調した Saadoun Hamadi+Fouad Arrikabi+Leila Bouksmati の3人に俺は興味を持った[訳注8]。
バース党の指導者から、俺の手を掴んで AUB の西館から引きずり出し、カフェテリアでお茶とタバコでもと俺を誘い、ソ連こそパレスチナ運動[難民の帰還実現とか]を解決するために助けるだろうと俺に請け合った Mansour Armaly まで、ほとんどの政治団体が俺達を自らのイデオロギーに染めようとした[訳注9]。
「[資本家達に]反逆するであろう搾取されてる階級のために闘い、俺達を抑圧から解放しなければならない」、と Armaly はよく語っていた。
誰が真実を語ってたのかわからなくなった。
入学当初、大学生活と私生活はとりたてて俺の悩みの種ではなるほどでなかった。
俺の知ってる人たちは大学周辺から遠いところにいたので、俺達はそこに住んでいた。
友人たちの協力により、パレスチナの人達からなるクラブを結成することに決めてレバノン内務省に許可を申請した。
「Mufti Amin al-Husseini の所を訪問して、クラブ設立許可を支持するよう働きかけよう。彼は、レバノン政府高官に相当影響力のある人だし」、と俺は提案した。
で、俺達は、al-Nouzah に行った後、Hajj Amin が住んでた Mansourieh に向かったが、Hajj Amin とレバノン当局は俺達を失望させた[訳注10]。
クラブ設立許可を得られなかったのだ。
その後何俺達は何をしたのか?
俺は友人と一緒に、俺達の運動に責任を負ってくれるであろうパレスチナの人達を加えるために難民キャンプを廻った。
依然として難民たちが押し寄せるひどい生活状況にも関わらず、帰還するためにはできる限りの事をやると繰り返し述べるくらい信じがたい情熱をもって俺達を受け入れてくれた。
パレスチナの人達[の帰還を求める]運動に確実な関与をしたことは、Tel al-Zaatar、Shatila、Burj al-Barajne、Rashidieh といった難民キャンプで示された[訳注11]。
こうした大規模な政治的活動は、俺達の教条を受け入れなかった Hajj Amin al-Husseini の支持者達に警戒されたようだ。
このことは、俺達を待ち伏せしていきなり襲い掛かったり酷く殴ったりして al-Husseni の支持者から俺達に届いたいくつもの脅迫が示していた。
悪いことに、レバノン治安局を呼びつけ俺達を共産主義者だと非難した。
当時、共産主義は誰からも非難される最悪の犯罪の1つだった。
直ちに、俺にとって一番良いことは、俺の活動の中心を大学に向けることだと決断した。
大学生活中、俺達の[生活を送る上での]経済状態は悪化し始めていた。
俺達家族は、叔父と叔母が住んでいる同じ家に引越しした。
さらに、俺の父は大学の学費を払える余力がなくなった。
AUB に複数ある政治運動間での競争は頂点を迎え、共産主義者・国粋主義者・バース党党員やその他の政治主義を持つ人達が覇権を握るべく戦っていた。
俺は、学生達の生活の基本条件[向上]に中心を当ててたことで俺に強く印象付けた共産主義者の政治運動に加わった。
こうした要求は、俺の知ってるパレスチナの学友達にも影響を及ぼした大きな運動となった。
1951年に行われた学生達による選挙後、俺が化学工場で[多分学費を稼ぐため]働いていた際、当時 AUB の副学長だった Archie Crawford の部屋に俺は呼び出された[訳注12]。
副学長は俺に今期の学費を払うよう求めてくると思ったが、そうではなく、あらゆる政治活動を想起する行動を禁止することを暗に示唆した。
Crawford 副学長が俺の AUB のキャンパス内外における課外活動の実態に関する取調べを始めた際、ただちに明白となった。
Crawford 副学長とレバノン当局はそうした政治活動に懸念を示し、政治活動を騒乱と体制転覆の土壌を育てるブツとみなした。
[副学長などの]妨害の後、カーテンの後ろから忍び寄って俺の両手を縛り、大学の門の向こうに用意されていたジープに俺を乗せた 2人のレバノン当局の捜査官に衝撃を受けた。
警察署での取調べの最中、俺は共産主義者だと非難された。
俺が1週間後に釈放された後、大統領の Charles Helou が俺をレバノンから追放する大統領命令を出していた[訳注13]。
レバノンにいた俺の家族は、複数のレバノンの政治的指導者に俺がレバノンに住む許可を得ようと接触したが、ことごとく無駄に終わった。
そして、俺の判決の日が来た!
俺の父の姪[原文は cousin だが、これだと理屈が通らないので・・・]と結婚した Mahmoud al-Nouman が、この件を審理する判事だったことを知って喜びの一日になるはずだった。
俺の審判の数時間前、俺の父は突然判事の Nouman が家を訪れたことに驚いた;当初俺の父は、判事が全ていい方向にもっていくことを約束するために来た、と考えていた。
父はどんだけ間違っていたことか!
どのように切り出していいか Nouman が分からずにいた後、ついにこう述べた:「叔父さん、私はあなたの息子の件から担当を外され別の判事に担当が移ったことを告げるためにここに来たんだ」。
俺の父が理由を問う前に、Nouman はこう告げた:「同じような事件では、判決はすでに下され、判事は封がされてる判決文を開けてそれを読むだけなんだ」
「高レベルでの政治決定なんだ」
「国の政策なんだ」
「私達は本当に何も言えないんだよ!」
次の日、担当の判事は自分が読むために書かれた判決文を読み上げた。
「3ヶ月の禁固刑+レバノン国外追放を命ずる」
俺の家族は Sami Solh 首相に俺の国外追放を命じた大統領令を中止するのを上手いこと納得させた結果、俺は釈放された[訳注13]。
大統領令による追放が行われた Muhammad Lasawi と Nashat al-Shaar という友人を探すため、俺は刑務所から出た。
Lasawi は、彼に同情しシリアを渡ってレバノンに来れる様に手伝ってくれたレバノンの羊飼いと会ったレバノンとパレスチナの境界[要はイスラエル国内]までトバされた。
しかし、レバノン政府の反共主義の立場に同調した Shishakli 政権は、Lasawi を逮捕し8年間の禁固刑にした[訳注14]。
そして 少し後に釈放された後、 Lasawi は病気にかかり身体に障害を持ってしまった。
al-Shaar に関しては、現在も暮らしてるであろうイラクにシリア経由で逃走できただけ幸運だった。
刑務所から釈放された際、俺は1年間大学を休学させられれたことに気付いた。
ここ1年の苦難は俺の父を酷く傷つけ、人生における最悪の日々を過ごしていたかのようだった;俺達家族の財政的問題について大きな影響が出たため、 UNRWA の物資配給への列に並ばなければならなかった・・・。
俺は仕事を探し、Makassed 学校で教員を始めることに決めたが、俺が常にパレスチナ運動について生徒達と議論したことを運営側は好まず、結局俺はクビにされた。
仕事も見つからず学校から学校へ移動するという終わりそうもない状況は、自殺にすら手を染めかねないくらい絶望した酷い状態に俺を追い込んだ。
ある日俺は理髪店で、俺の不幸な境遇に共感できるだろうと思った友人と再会した。
偶然そこに来た奴は俺達の会話を聞いてこう述べた、「あんた達 Hout 一族は、レバノン国民の一員だしあんた達の父や祖父はレバノン人として住民登録したよな。なんでレバノンの市民権を得ようとしないんだ?」
俺は父の所に駆けつけ、父にレバノンの市民権を得るようにお願いをした;父は俺を罵り、早口で答えた:
「俺にパレスチナの人としてのアイデンティティを捨ててほしいのか?」
「例えレバノンから追い出されてもそんなのは不可能だ」
父の反応をみて、俺は自分でレバノンの市民権を得ることにし、俺が本当に生まれた年の1年前にレバノンで生まれたと称した偽造登録用紙で申請した。
申請が 3回却下された頃、俺は AUB を卒業した。
その後、判事の Othman al-Dana が俺を呼び出し俺がレバノンの市民権を得るのにこだわる理由について聞き出そうとした。
クウェートの学校と契約を交わし学校の1年[9月?]が始まるまでにそこに行かないと駄目なんだ、と俺は語った。
これが何の疑問も出されることなく、俺がレバノンの人になりレバノン市民権を得た方法だった。
[市民権獲得に関わる思いがけない混乱後で]俺がクウェートにたどり着いた際、教育省が俺をクビにして別の教師を雇っていたことに気がついたが、別の学校で職を見つけることができたんだ。
その際、俺がパレスチナの運動について理論を確かにする基盤となった al-Hawadeth という雑誌の編集長の Salim al-Lawzi に情報提供を始めた[訳注15]。
加えて、この雑誌は流浪生活を送るパレスチナの人達と対話する機会を俺に与えてくれた。
ここを拠点とすることで、パレスチナ解放戦線(the Front for the Liberation of Palestine)と呼ばれた秘密の政治活動を始められたし、1964年まで al-Hawadeth の印刷所で印刷された月刊の機関紙 Tariq al-Awda(帰還への道)を発行できたんだ[訳注16]。
解放戦線のメンバーは着実に増え、レバノン・クウェート・シリア・ヨルダン・西岸地区、単純労働者から教師に技術者まで異なる階層に属する人達も難民キャンプから来た新入り同様メンバーに含んでいた。
俺達の目的は、パレスチナの解放に向けた闘争でありこの運動におけるアラブ的な性格を強調することだった・・・。
---- 訳文以上 ----
↓の続きモノでもある・・・。
・Shafiq al-Hout 氏を偲んだ?(その1)(2009年9月27日 flagburner's blog(仮))
なので、ここを読む前に先に触れた記事(というか訳文)を読んでね(無責任)。
---- 以下訳文 ----
(続き)
翌朝、俺達はベイルートの港にたどり着いた。
数多くの[先に難民となったのかどうか不明だがレバノンに住んでいた]パレスチナの人達とレバノンの人達が、パレスチナの人達にいる知り合いや親族を歓迎した。
皆の顔は疲れていて生気がなく、未来になにが起ころうとしてるのか知らなかった。
思いがけない好意によって、港で働く人たちが俺たちをもてなしてくれた。
彼らは、パレスチナの人達がレバノンに来て夏休みを過ごすたびに会いに来てくれたのだ。
俺たち家族を受け入れてくれたレバノンに住む甥は、俺達が夏の数週間を過ごす彼の家に車で家に連れて行った。
そこで、いつも俺達家族がそうしていたように、夏休みを過ごすために Souk al-Ghareb 地区にある家を借りることにし、冬にパレスチナに帰る計画を立てた。
しかし、非常に長く待ち望んでいた帰還は、俺達が思ってすぐに行われるものでなかった。
冬が早く訪れ、人々はベイルートでの仮住まいを探し始めた。
だがレバノン出身だった俺の祖父は、レバノンに定住することに反対した。
家具付きの仮住まい以外を借りようとしなかった。
夏の終わりごろになって、祖父は病気を患った。
祖父は、Jaffa に埋葬されることだけを願った。
祖父が重い病気になり意識がハッキリしなくなると、al-Ghareb の家の窓から見えるレバノンスギの木を、Jaffa の家の窓から見てたオレンジの木と見間違えるようになった。
レバノンスギの木を指さし、俺の父に祖父が植えたオレンジの木の下にレバノンスギの木を[伐採してから]埋めるようにお願いしてたはずだ。
そして、これが Souk al-Ghareb のレバノンスギの木が祖父にとってのオレンジの木になったか、という理由だ。
"The Yafawi"(Jaffa 出身の男):俺達家族が夏を Aley というレバノン山にある村で過ごした後、ベイルートで皆が俺を呼び始めた際の呼び方だった。
長く待ち望んだ Jaffa への帰還は、再び延期された。
この新しい呼び名は、俺のアイデンティティを定義する数多くの新たな疑問を投げかけるきっかけとなった。
俺は誰なんだ?
なんで俺達は[移動とかを]制限され、狭い意味でのアイデンティティしか持たされないのか?
俺はベイルート出身とか Jaffa 出身の男というものより幅広いアイデンティティ -- レバノン出身とかパレスチナ出身なんてのよりもっと幅広い -- を持ってるに違いない。
当初、俺達は Jaffa への帰還がすぐに行われるかもと感じ、出る準備をするべきだと思い、家具を買うのは賢明でないと判断したので、俺たちは家の代わりになる家具付きの仮住まいを借りろという父の意思を受け継いだ。
俺の友人 Ibrahim Abu Loghod から送られた、英国高等学校卒業資格試験合格を祝ってくれた電報を受け取ったのはそこの家だった[訳注6]。
その直後、俺の将来に関する大きな疑問が俺の心を揺さぶり始めた。
俺のヒーローである Youssef Wehbeh が映画で行っていたのと同じように、俺は自分の弁護人を守れないだろう、と。 というのも、ベイルートのアメリカ大学(AUB)にこの専攻[法学]が存在しなかった上、俺は英語で教育を受けてきたので一縷の希望だった[ベイルートにある]他の教育機関で勉強をできないため、俺は弁護士になる夢を断念せざるを得なくなったのだ[訳注7]。
俺にとって他の選択肢は何か?
「医学部に入学して 、-- 心を安らかにしてくれたり、大きな名誉を与えてくれる -- 医者にならないか?」と俺の父が提案し、俺はそれに従った。
俺は1949年に AUB に入学した。
潜在的に爆発寸前のアラブ世界の縮図のごとく、俺は入学してから数カ月の間、AUB にいる異なる政治的立場を支持する人達と -- 他の新入生同様 -- 思想的な意味で格闘していた。
「アラブ諸国は、同じ歴史を共有し同じ言語[アラビア語]を使っている。1つの国家を作るべきだ」
これは、アラブナショナリスト運動の強硬派を形成し俺を引き込もうとした George Habash+Hamad Jabboury+Wadi' Haddad の持論だった。
その際、連帯・自由・社会主義はパレスチナを解放する際という意味を持ち、その「残された任務」とともにアラブ国家にいることを強調した Saadoun Hamadi+Fouad Arrikabi+Leila Bouksmati の3人に俺は興味を持った[訳注8]。
バース党の指導者から、俺の手を掴んで AUB の西館から引きずり出し、カフェテリアでお茶とタバコでもと俺を誘い、ソ連こそパレスチナ運動[難民の帰還実現とか]を解決するために助けるだろうと俺に請け合った Mansour Armaly まで、ほとんどの政治団体が俺達を自らのイデオロギーに染めようとした[訳注9]。
「[資本家達に]反逆するであろう搾取されてる階級のために闘い、俺達を抑圧から解放しなければならない」、と Armaly はよく語っていた。
誰が真実を語ってたのかわからなくなった。
入学当初、大学生活と私生活はとりたてて俺の悩みの種ではなるほどでなかった。
俺の知ってる人たちは大学周辺から遠いところにいたので、俺達はそこに住んでいた。
友人たちの協力により、パレスチナの人達からなるクラブを結成することに決めてレバノン内務省に許可を申請した。
「Mufti Amin al-Husseini の所を訪問して、クラブ設立許可を支持するよう働きかけよう。彼は、レバノン政府高官に相当影響力のある人だし」、と俺は提案した。
で、俺達は、al-Nouzah に行った後、Hajj Amin が住んでた Mansourieh に向かったが、Hajj Amin とレバノン当局は俺達を失望させた[訳注10]。
クラブ設立許可を得られなかったのだ。
その後何俺達は何をしたのか?
俺は友人と一緒に、俺達の運動に責任を負ってくれるであろうパレスチナの人達を加えるために難民キャンプを廻った。
依然として難民たちが押し寄せるひどい生活状況にも関わらず、帰還するためにはできる限りの事をやると繰り返し述べるくらい信じがたい情熱をもって俺達を受け入れてくれた。
パレスチナの人達[の帰還を求める]運動に確実な関与をしたことは、Tel al-Zaatar、Shatila、Burj al-Barajne、Rashidieh といった難民キャンプで示された[訳注11]。
こうした大規模な政治的活動は、俺達の教条を受け入れなかった Hajj Amin al-Husseini の支持者達に警戒されたようだ。
このことは、俺達を待ち伏せしていきなり襲い掛かったり酷く殴ったりして al-Husseni の支持者から俺達に届いたいくつもの脅迫が示していた。
悪いことに、レバノン治安局を呼びつけ俺達を共産主義者だと非難した。
当時、共産主義は誰からも非難される最悪の犯罪の1つだった。
直ちに、俺にとって一番良いことは、俺の活動の中心を大学に向けることだと決断した。
大学生活中、俺達の[生活を送る上での]経済状態は悪化し始めていた。
俺達家族は、叔父と叔母が住んでいる同じ家に引越しした。
さらに、俺の父は大学の学費を払える余力がなくなった。
AUB に複数ある政治運動間での競争は頂点を迎え、共産主義者・国粋主義者・バース党党員やその他の政治主義を持つ人達が覇権を握るべく戦っていた。
俺は、学生達の生活の基本条件[向上]に中心を当ててたことで俺に強く印象付けた共産主義者の政治運動に加わった。
こうした要求は、俺の知ってるパレスチナの学友達にも影響を及ぼした大きな運動となった。
1951年に行われた学生達による選挙後、俺が化学工場で[多分学費を稼ぐため]働いていた際、当時 AUB の副学長だった Archie Crawford の部屋に俺は呼び出された[訳注12]。
副学長は俺に今期の学費を払うよう求めてくると思ったが、そうではなく、あらゆる政治活動を想起する行動を禁止することを暗に示唆した。
Crawford 副学長が俺の AUB のキャンパス内外における課外活動の実態に関する取調べを始めた際、ただちに明白となった。
Crawford 副学長とレバノン当局はそうした政治活動に懸念を示し、政治活動を騒乱と体制転覆の土壌を育てるブツとみなした。
[副学長などの]妨害の後、カーテンの後ろから忍び寄って俺の両手を縛り、大学の門の向こうに用意されていたジープに俺を乗せた 2人のレバノン当局の捜査官に衝撃を受けた。
警察署での取調べの最中、俺は共産主義者だと非難された。
俺が1週間後に釈放された後、大統領の Charles Helou が俺をレバノンから追放する大統領命令を出していた[訳注13]。
レバノンにいた俺の家族は、複数のレバノンの政治的指導者に俺がレバノンに住む許可を得ようと接触したが、ことごとく無駄に終わった。
そして、俺の判決の日が来た!
俺の父の姪[原文は cousin だが、これだと理屈が通らないので・・・]と結婚した Mahmoud al-Nouman が、この件を審理する判事だったことを知って喜びの一日になるはずだった。
俺の審判の数時間前、俺の父は突然判事の Nouman が家を訪れたことに驚いた;当初俺の父は、判事が全ていい方向にもっていくことを約束するために来た、と考えていた。
父はどんだけ間違っていたことか!
どのように切り出していいか Nouman が分からずにいた後、ついにこう述べた:「叔父さん、私はあなたの息子の件から担当を外され別の判事に担当が移ったことを告げるためにここに来たんだ」。
俺の父が理由を問う前に、Nouman はこう告げた:「同じような事件では、判決はすでに下され、判事は封がされてる判決文を開けてそれを読むだけなんだ」
「高レベルでの政治決定なんだ」
「国の政策なんだ」
「私達は本当に何も言えないんだよ!」
次の日、担当の判事は自分が読むために書かれた判決文を読み上げた。
「3ヶ月の禁固刑+レバノン国外追放を命ずる」
俺の家族は Sami Solh 首相に俺の国外追放を命じた大統領令を中止するのを上手いこと納得させた結果、俺は釈放された[訳注13]。
大統領令による追放が行われた Muhammad Lasawi と Nashat al-Shaar という友人を探すため、俺は刑務所から出た。
Lasawi は、彼に同情しシリアを渡ってレバノンに来れる様に手伝ってくれたレバノンの羊飼いと会ったレバノンとパレスチナの境界[要はイスラエル国内]までトバされた。
しかし、レバノン政府の反共主義の立場に同調した Shishakli 政権は、Lasawi を逮捕し8年間の禁固刑にした[訳注14]。
そして 少し後に釈放された後、 Lasawi は病気にかかり身体に障害を持ってしまった。
al-Shaar に関しては、現在も暮らしてるであろうイラクにシリア経由で逃走できただけ幸運だった。
刑務所から釈放された際、俺は1年間大学を休学させられれたことに気付いた。
ここ1年の苦難は俺の父を酷く傷つけ、人生における最悪の日々を過ごしていたかのようだった;俺達家族の財政的問題について大きな影響が出たため、 UNRWA の物資配給への列に並ばなければならなかった・・・。
俺は仕事を探し、Makassed 学校で教員を始めることに決めたが、俺が常にパレスチナ運動について生徒達と議論したことを運営側は好まず、結局俺はクビにされた。
仕事も見つからず学校から学校へ移動するという終わりそうもない状況は、自殺にすら手を染めかねないくらい絶望した酷い状態に俺を追い込んだ。
ある日俺は理髪店で、俺の不幸な境遇に共感できるだろうと思った友人と再会した。
偶然そこに来た奴は俺達の会話を聞いてこう述べた、「あんた達 Hout 一族は、レバノン国民の一員だしあんた達の父や祖父はレバノン人として住民登録したよな。なんでレバノンの市民権を得ようとしないんだ?」
俺は父の所に駆けつけ、父にレバノンの市民権を得るようにお願いをした;父は俺を罵り、早口で答えた:
「俺にパレスチナの人としてのアイデンティティを捨ててほしいのか?」
「例えレバノンから追い出されてもそんなのは不可能だ」
父の反応をみて、俺は自分でレバノンの市民権を得ることにし、俺が本当に生まれた年の1年前にレバノンで生まれたと称した偽造登録用紙で申請した。
申請が 3回却下された頃、俺は AUB を卒業した。
その後、判事の Othman al-Dana が俺を呼び出し俺がレバノンの市民権を得るのにこだわる理由について聞き出そうとした。
クウェートの学校と契約を交わし学校の1年[9月?]が始まるまでにそこに行かないと駄目なんだ、と俺は語った。
これが何の疑問も出されることなく、俺がレバノンの人になりレバノン市民権を得た方法だった。
[市民権獲得に関わる思いがけない混乱後で]俺がクウェートにたどり着いた際、教育省が俺をクビにして別の教師を雇っていたことに気がついたが、別の学校で職を見つけることができたんだ。
その際、俺がパレスチナの運動について理論を確かにする基盤となった al-Hawadeth という雑誌の編集長の Salim al-Lawzi に情報提供を始めた[訳注15]。
加えて、この雑誌は流浪生活を送るパレスチナの人達と対話する機会を俺に与えてくれた。
ここを拠点とすることで、パレスチナ解放戦線(the Front for the Liberation of Palestine)と呼ばれた秘密の政治活動を始められたし、1964年まで al-Hawadeth の印刷所で印刷された月刊の機関紙 Tariq al-Awda(帰還への道)を発行できたんだ[訳注16]。
解放戦線のメンバーは着実に増え、レバノン・クウェート・シリア・ヨルダン・西岸地区、単純労働者から教師に技術者まで異なる階層に属する人達も難民キャンプから来た新入り同様メンバーに含んでいた。
俺達の目的は、パレスチナの解放に向けた闘争でありこの運動におけるアラブ的な性格を強調することだった・・・。
---- 訳文以上 ----