もう1つの感性の本棚

書くことを仕事にしている者として、日常をどのような感性で掬い取るか。

締め切りという感覚~NO PLAN

2007-08-15 20:24:45 | 締め切りという感覚
 6月28日以来の更新。いざ何か書こうとした時、少し頭が真っ白気味だ。
 で、この間の精神状態を端的に表現すると、「NO PLAN」になる。
 
 勿論、日常こなさなければならないことが途切れはしない。仕事はしている。だが、「NO PLAN」の言葉が脳裏から離れない。余りよくない精神状態かも知れない。

 先日、ある中小企業に取材に行った際、ある貼紙が目に付いた。そこの社長は、気に入った言葉を書き出して社内に掲示するのが好きなようだ。駐車場にもわざわざ「社長」と地面にペイントしている。

 さて、その貼紙には、こう記されていた。

 夢なき者には目標なし
 目標なき者には計画なし
 計画なき者には行動なし
 行動なき者には成果なし
 成果なき者には幸福なし

 ビジネス本か人生案内的な本から書き写したものとは思う。
 が、心の内で、「オイオイ」と呟いてしまった。

 地方勤務を続けて約1年。日常管理が自分に任されている生活を謳歌している気でいて、実は、のっぺりした日々に陥りつつあった。 
 正に、仕事における目先の締め切りはあっても、人生の締め切りを見失い、「これはセミリタイアの感覚ではないか」との自問が湧く。

 本当に「オイオイ」である。
 
 世間の大半が旧盆連休中、少し考える時間があった。 
 「NO PLAN」から抜け出す為の。

 最近、よく思うのは、自分にとって書くことこそが糧であるということ。
 そこに思い込みがあったとしても、その方向において自分を開放してやることが自分の原点なのだ。

 きょうは、群馬・館林で40.2℃を記録したという。
 猛暑の中、『感性の本棚』管理人に復帰します。


 

 

 
  

締め切りという感覚~今年のGWも無事ではなかった

2007-05-02 16:22:09 | 締め切りという感覚
 今年のGWは、連休入りする直前の26日から有休をとって5日間台湾に行き、谷間の1-2日は新潟で仕事、3-6日が東京という予定で進行している。

 26日、成田に向かうスカイライナーの車中、「明日まで何も仕事で連絡が来ないように」と祈っていたが、無事には終わらなかった。

 企業倒産が起きたのだった。

 携帯電話にその一報が来てから、バッテリーを気にしながら信用調査会社や倒産した会社の取引先に連絡し、ネタの仕込みに大わらわとなった。スカイライナーの車外がまたうるさくて聞こえにくいなんのって。

 不幸は重なる。旅行会社のツアー窓口でチケットを受け取ったら、家人の名前間違いで、今度は座席確保に大わらわ。自分ですることはないとは言え、通信用のバッテリーを残すため、公衆電話と窓口を往復しながら、連絡を続ける。チェックインした後、どれくらい原稿を書く時間があるのか計算しながらだったが、刻々となくなっていく。

 座席は確保出来たのだが、出発時間までに30分余りしかなく、自分で書くことをあきらめ、荷物検査、出国審査を受けながら途切れ途切れに携帯電話で会社の人間に情報を教え、代わりに書いてもらうことを依頼した。
 免税店でタバコを買うつもりだったが寄ることは不可能、飲み物も荷物検査前に捨てて口に出来ない有様だった。

 飛行機の座席に汗だくになりながら座り、本当に慌しく出発した。
 しかも何とか仕事をこなせたという感覚はなく、中途半端に人任せにした居心地の悪さを引きずっての離陸だった。

 物理的に現場にいないことで、ある程度諦めを付けたが、台湾に着いた後も移動中のバスで、何度かやり取りをし、周囲からは冷ややかな視線を浴びた。

 1日に新潟に戻った後、倒産をフォローしたが、今度はまったくの別件で上司から叱責の電話が入り、連休明け用の締め切り原稿のことも重なって、一瞬頭が鬱血状態になった。
 夜になってようやく落ち着き、呑みに出た。きょうは倒産関係の仕事があったのだが、まあ現場にいることから慌てず騒がずでこなした。

 さあ、連休後半は東京でストックをどれだけ作れるかが試される。 

















 

締め切りという感覚~ストック

2007-04-25 23:32:53 | 締め切りという感覚
 先週末から、新潟の月岡温泉~東京~富山~東京という動線を描き、明日から5日間の台湾旅行。
 その準備として、連休明けのための原稿を書き溜めておく必要があったが、結局はPCを持っていくことになりそうだ。
 きょうまでの移動中にも勿論原稿を書いていたが、目先の締め切りをクリアするだけで終わった。

 仕事の内容は重要だ。しかし、そこには相手がある。フィールドはともかく、現状では作家ではなくリポーターとして書いている以上、自分の采配は制限される。
 純粋に自律的にやれるのは、仕込んだ仕事を完成させてストックしておくこと。
仕事のやり方を変える最も原始的な観点だ。
 追われるのではなく追いかけるためにも、それは大切。

 今週の締め切りは来週の仕事。
 と、自分で締め切りを作ってこなせれば、原始的であっても仕事は変わる。

 自分の場合、その原始的なことが実践できない。目先の締め切りをクリアすることに終始する。

 なぜ仕事のやり方を変える必要があるのか、と言えば、仕事を楽にしたいということではなく、さらに面白くしたいと思うからだ。
 企画性は、追われながらでは容易に発揮できるものではない。
 
 旅行先の台湾で仕事を、と言ってるようではまったくダメ。
 移動しながら消化できる仕事の特性に甘えているようなものだ。

 自分にダメ出しを連続しているが、この年齢になっても変わらねばというあがきはある。
 だが、そのあがきは、自分に許そうと思う。

 人生の締め切りは、まだ迎えていないのだし。


 
 











締め切りという感覚・特別編~乾燥

2007-04-10 19:16:33 | 締め切りという感覚
 ひどい。3月から4月の今まで更新がゼロ。
 本ブログを書くという行為が、習慣からすっぽり抜け落ちた。毎日更新という年明けの誓いはどうした、自分!
 極めて少数ながら、それでも毎日立ち寄って頂いている方々に感謝します。

 仕事がどうしたとかは関係なく、感性が乾いていたとの自覚がある。
 更新しなくても誰に迷惑が掛かるわけでなし、世間がそれでどう変わるものでもない。
 だが、日常を感性でどう受け止め、それをどう書き留めるか、つまりささやかであっても、一つの表現行為の休止は、感性そのものが作動していないのと同じ。
 以前は、そういう休止状態に対して相当危機感を持っていた。生活するのも楽ではないが、感性というフィルターを欠けば、世界はただ即物的なものとして流れていく。

 駄文を書き続ける気持ちを回復出来たか。
 また続きますよ。

 




 
 

締め切りという感覚32~逃避

2006-12-28 04:00:57 | 締め切りという感覚
 色んな年末の雑用を片付けながら、最後のインタビュー記事の処理を一番後回しした結果、あと2時間で沖縄に出掛ける今になって、PCに向かっている。
 すっきりした気持ちで出掛けたかったが、終わらないと、沖縄でもキーボードを叩く始末になる。
 自分でも嫌になる。こういうやり方しか出来ないのが。

 年内に片付けてしまいたいことは、まだ他にもあったが、自分を憂鬱にさせるのが、ハードルをどんどん自分で低くしていくこと。
 やるべきことを書き出しても、片付かないのが判明すると、最後は開き直る。

 それでも通用している、とは思わない。命は取られないが、怠慢は誰かを裏切り、関係を壊すことにつながる。
 それに、こういうことだと攻めの仕事は出来ない。

 2007年は、アドバンテージを取っていくやり方に変えたい。






締め切りという感覚31~ストレス

2006-12-13 00:28:49 | 締め切りという感覚
 自分にとって、今一番の仕事上のストレスとは何か。
 夕刻になって仕事のゴールが見えないということに尽きる。

 17時を過ぎてからの時間の経つのが早いこと早いこと。
 プールに行く、映画を観る、知らない店で食事をする、といった優雅なアフター5が一向に実現出来ない。

 何をしているんだろうとつくづく思う。
 しかし、投げ出せないのも分かっている。

 今週踏ん張れば、来週が楽になるはずだが、気が抜けない。
自分のイメージと能力のギャップが理解出来ていないことがストレスの一番の理由かも知れない。
 そこが成長しない。





締め切りという感覚30~夕陽を見ながら家に帰る

2006-12-05 23:58:28 | 締め切りという感覚
 もうすぐ深夜0時。
 また会社に居残って原稿を書いている。未処理のものが、まだ数本ある。どうしてこうなるのか。

 今週末は、新潟と上越、富山を行ったり来たりして平準化が出来ないのが直接の理由だが、明日やればいいか、という小さな仕事が積もった結果でもある。いやそちらが直接の理由か。

 朝早く来て定刻に帰る方が、精神的にもいいのは分かっている。分かっていることを実行出来ないところが自分の限界なのだが、東京にいた時よりも自分の裁量権が広がっている点を踏まえると、仕事のやり方を大きく変えるチャンスに恵まれているとも言える。

 この瞬間からの意識改革が、1カ月後の仕事を変えることに繋がる・・・。
 「締め切りという感覚」では、しばらくこの実験記録を残すことに専念したい。

 自分に見えている課題は、2つ。
・油断
・やりたいことを後回しにする

 どれだけ変えられるでしょうか。 


 

締め切りという感覚29~ツケを払う

2006-11-17 06:02:48 | 締め切りという感覚
 出張を控え、雑事も原稿処理も溜まっていたので、水曜の夜、会社に残って作業をしていたら、夜中というか明け方というか午前3時になってしまった。
 誰かに追いたてられてこうなったわけではない。
 自分の裁量で仕事を組み立てているので、こういう歪なやり方の責任は自分にある。
 すべては、自分の時間配分のまずさのツケを払っているだけでしかない。

 マンションに戻って、仕掛けていた洗濯物を干し1時間半程寝てから、高速バスで富山へ移動、駅前でレンタカーを借りて仕事先に向かった。
 まだ体力的に大丈夫であることを確認したが、夜、付き合いで飲んでいる最中、アルコールのせいもあるのだろう、身体の芯から眠気が襲ってきた。ウトウトしてしまうのを必死でこらえていたが、一緒にいた人には気付かれたかも知れない。

 時間的な皺寄せを自分で作ってしまう習慣からいまだ脱却出来ていないのは情けないと思いつつも、まだ繰り返すんだろう。
 意識改革によって、別の時間を創り出すのは、もうずっと自分自身のテーマになっているが油断が入り込んでくる。この油断する、という点が自分の限界でもある。
 どうにかしなきゃ。  
 
 



 

締め切りという感覚28~残せしもの

2006-09-14 10:23:24 | 締め切りという感覚
 新しい赴任地で右も左もわからないと言っている間にも、前の職場での混乱が耳に入ってくるようになってきた。
 煎じ詰めるとマンパワー不足。

 ここ数年、相当人が入れ替わり、しかも新陳代謝を担うべき新人が定着しない。給料や仕事のフィールドに満足できないのが最大の理由だろうが、これは組織としては容易に対応できない。
 自分の場合、愛社精神よりも仕事自体への愛着を優先させてきたが、3年未満で職場を見切るというのは、入社時に続く再度の動機付けが出来るかどうか、その段階に辿り着けないことを意味する。

 先達の立場として、空念仏でない理念を説く責任があるが、個人的には去るもの
を追うことは出来ないという諦念が根っこにある。
 互いに、より大きな飛躍を目指そうじゃないかと呼応しようとした場合、それぞれの選択も尊重するしかない。
 残るのもそうだし、飛び出すのもそう。
 だが、組織としてこの考えは脆い。
 
 環境の変化を面白がってばかりではいられない現実が、一定の時間が経過し、落ち着いてきた中で浮かび上がってきている。








 

締め切りという感覚27~名刺が立つ

2006-09-07 08:47:30 | 締め切りという感覚
 新しい勤務地に赴任して実質1週間強が経過した。
 前任者と共に引き継ぎで取材対象でもあり、新聞購読者でもあり、広告スポンサーでもある仕事先を回る。
 いやもう、名刺が立っている。
 すでに名刺交換は100枚を超えた。
 地場の企業に加え、メーカーや商社の支店も多く、まだ容量超過という自覚はないが、名前や役職などを間違うリスクに溢れている。

 実は取材内容についてもリスクはある。
 これまで対象としていなかったもので、知らない分野を知らない人達を相手に仕事するというシチュエーション。
 これをどう受け止めるか。面白がっている余裕はあるつもりだが、引継ぎはすでに終盤。それを終えた後は1人で判断して行動するしかない。
 ミスの責任は全部自分に降りかかって来る。

 長い旅行に出かけているような気分がまだ抜けず、こういう意識が「根付かねば相手にされない」というモードに切り替わるには、もしかするとミスでもした方がいいのかも知れない。

 
 

締め切りという感覚26~別れという名の出会い

2006-08-24 13:00:40 | 締め切りという感覚
 業界紙記者の仕事における雑感を綴っている「締め切りという感覚」で、以前、自分の異動について触れたが、カラダが動かねばならない締め切りが迫った。

 東京での送別会に続き、赴任地での歓迎会が目白押し。残暑の中、夕刻一番の冷たいビールは美味しい。まだ胃への負担の自覚はない。
 行く先で知られてもいない自分は、まだ歓迎されるはずがなく、前任者の送別会と後任者である自分の首実検を兼ねたものだが、それでも仕事柄、知らない人達に会うことは楽しみ。

 転勤の挨拶をひとしきりやったが、関係の濃淡がこういう時に出る。
長い付き合い、短い付き合い色々あって、色々と気遣ってくれる人もいる。
 改めて出会った気もする。

 赴任地情報についての収集も進み、生活のイメージが掴めてきた。
 イメージ通りにならず、ストレスを抱える場面も出てくるだろうが、それは覚悟次第ということだろう。

 生活を変えることにはエネルギーが必要だが、転勤は「外圧」ながらもいい機会と思っている。
 落ち着いたら、とっ散らかった本ブログも整理して、内容も充実していきます。
 よろしく。 

締め切りという感覚25~自分の異動

2006-07-25 08:19:59 | 締め切りという感覚
 最近、2回にわたって異動について書いたが、さて今度は自分自身が異動・転勤することになった。以前から話が流れていたので驚きはない。
 日本海側の街に赴任することになる。

 これをどう判断するか、仕事上、プライベート上、プラスにもマイナスにも考えられる。他者に対して書いていた「全否定も全肯定もない」というのは本当だ。

 さて、それでも実は楽しみでもある。出張や遊びで何度か行ったことがある街なのだが、故郷と東京以外に住んだことがない地方都市を楽しむメニューをイメージすることは出来る。

 内示を受けた直後から現在の仕事の引継ぎに入る。今まで切り出せなかった業務を、当たり前ではあるが異動を理由に気持ちよくバサバサと割り振っていける。

 また、夜には家人に伝え、東京との往復コストや買い物リストなどを考えつつ、夏休みを利用して当地を巡るプランの策定に入る。

 後に残す仕事にも、これから取り組む仕事にも混乱や思い通りにいかない苦労が伴うのは覚悟しているが、ブログのネタも増えることになるし、内容を整理しながら充実を図っていきたい。


  

締め切りという感覚24~異動の季節

2006-07-20 08:04:54 | 締め切りという感覚
 先日、業界紙ライターという仕事に絡めて書いている「締め切りという感覚」の中で、官僚達の人事異動に触れた。
 この季節、民間でも多くの人が動く。

 完璧な組織はなく、完璧な人間はいないわけだから人事に理不尽は付き物だが、それを全否定してしまえないのは、その真逆もあるからだ。
 システムの不完全さを縫って、上手く渡り歩く人は必ずいる。
 仕事という自己実現とのせめぎ合いにおいて、やる気、目標、居心地の良さなどのプラス面と、緊張、不安、挫折などのマイナス面をチャラにさせている人も必ずいる。
 結局、自力で走るだけでも、他力で走るだけでも満足や充実はなく、そのバランスなのだと思う。

 自分は、どうしても自力で走っているという感覚が足りない。今の場所が居心地が悪いわけではないが、他力によってもたらされた環境を、その枠内で楽しもうという限界を感じる。

 異動の季節には他人の人生の起伏が垣間見える。あくまで仕事上だが。今回、顔見知りの中で地理的に最も遠い場所に赴任する先は南米、最も高く役職の階段を上った先は大手企業の社長だった。

 南米への赴任が左遷ではなく、社長になることが成功でもないと映るのが妙味のあるところで、実人生に全肯定、全否定はない。

 自分はどこに行こうとしているのか、何を持って満足できるのか、取材をしながら自問する季節でもある。

締め切りという感覚23~官僚達の祭

2006-07-11 07:39:48 | 締め切りという感覚
写真は10日夕刻の霞ヶ関である。
蒸し暑いこの日、この町では少し早い夏祭りが行われた。
人事という名の。
課長級の言わば、官僚機構における現場責任者が一斉に動く日である。

主要官庁内では、会議室などの各部屋で主要幹部の新旧交代のお披露目が缶ビールと簡単なつまみ付きで行われ、所管する業界の関係者が参集する。各原課が複数の業界を所管しているため、関係者の数は多く、部屋はすぐいっぱいになる。

そして、名刺交換の列が出来上がる。
新任の幹部は、おそらくこの日だけで最低でも100枚配り、受け取るだろう。
業界側からすると、陳情の先走りとも言える。

幹部は平均して2年程度で次の職場を移っていく。
なぜか。
ポストを転がしていく必要があるからだ。

階段を上がっていく度にポストは少なくなっていき、最高峰の事務次官までシビアな篩にかけられ続ける。
その過程で、官僚として40代ですでに出世に破れた者は、その代償として外郭団体や業界団体、民間企業に転出する。
そして、60歳までに何度か転籍を繰り返し、その度に退職金を受け取る。
国の予算は、国民が思っている以上に隅々まで行き渡っている。それはイコール、官僚のセーフティネットである。

世間一般の感覚で言えば、これは悪だろう。天下り天国、税金の無駄遣い・・・常套句がいくつも挙げることが出来る。
しかし、近代以降、綿密に築き上げられてきたこの巨大なシステムを壊すことは容易ではない。何よりもそのシステムから恩恵を受けている企業の群れが存在する。

官僚にはキャリアとノンキャリアという2種類の人間がいるが、ノンキャリアにとっては、この日はどんな祭だったろうか。
官僚組織の善し悪しについて、意外に醒めた視点を持っている層はノンキャリアに多い。「働かなければ」という意識も強い。彼らが改革の担い手になるためのスイッチを政治家が与えれば、また違うものになる可能性はあるかも知れない。

祭があることは、お囃子が鳴っているわけでもなく霞ヶ関村以外には伝わらないが、事務次官会見、国会の各委員会での答弁などスポットライトがあたる以外にも、こういう恒例のイベントがある。


















締め切りという感覚22~未知という群れの中で

2006-07-06 15:36:08 | 締め切りという感覚
 仕事柄、企業や団体が主催する立食パーティーに時々出かける。

 どうしても日頃の付き合いに濃淡があり距離感にも開きが生じるため、招待状を受け取り顔を出しても、出席者をほとんど知らないという状況もままある。
 これは仕事の枠組みを拡げる好機であり、見知らぬ人達ばかりだからこそ行く、という使命感にもつながるのだが、実際にそうした場に身を置くと、自分の気力が試される。
 声をかけるのは簡単で、それを臆するならこういう商売はしていないが、いったん声をかけたら、面白く内容が転がろうがそうでなかろうが会話を続けなければならない。共通のテーマが短時間の内に見つけられなかったら、これは結構辛い。
 グラスを傾けながら、頭の中が真っ白でとりあえず目の前の人とにらみ合っている居心地の悪さ。
 そうかと思えば、たまたま会話が弾んで有意義な内容となることもある。

 結局はそこかしこに顔を突っ込む図々しさ、図々しさで終わらない目配り、目配りから発展する引き出しの多さが問われる。
 そこまで問うと、自分に適正があるかどうか分からなくなってくるが、今のところ楽しんではいる。

 なお、パーティーに数多く出ていると、人にはホストと客の2種類いると感じる。もう少し言うと、招くことが好きな人と、招かれることが好きな人。
 自分は招くのが苦手という自覚があって、これって人生を枯らすことになるのかな、と思う。
 招くことが好きな人の方が、表情が生き生きしていて、楽しそうに映る。

 あなたはどちらのタイプですか。