もう1つの感性の本棚

書くことを仕事にしている者として、日常をどのような感性で掬い取るか。

締め切りという感覚~ストック

2007-04-25 23:32:53 | 締め切りという感覚
 先週末から、新潟の月岡温泉~東京~富山~東京という動線を描き、明日から5日間の台湾旅行。
 その準備として、連休明けのための原稿を書き溜めておく必要があったが、結局はPCを持っていくことになりそうだ。
 きょうまでの移動中にも勿論原稿を書いていたが、目先の締め切りをクリアするだけで終わった。

 仕事の内容は重要だ。しかし、そこには相手がある。フィールドはともかく、現状では作家ではなくリポーターとして書いている以上、自分の采配は制限される。
 純粋に自律的にやれるのは、仕込んだ仕事を完成させてストックしておくこと。
仕事のやり方を変える最も原始的な観点だ。
 追われるのではなく追いかけるためにも、それは大切。

 今週の締め切りは来週の仕事。
 と、自分で締め切りを作ってこなせれば、原始的であっても仕事は変わる。

 自分の場合、その原始的なことが実践できない。目先の締め切りをクリアすることに終始する。

 なぜ仕事のやり方を変える必要があるのか、と言えば、仕事を楽にしたいということではなく、さらに面白くしたいと思うからだ。
 企画性は、追われながらでは容易に発揮できるものではない。
 
 旅行先の台湾で仕事を、と言ってるようではまったくダメ。
 移動しながら消化できる仕事の特性に甘えているようなものだ。

 自分にダメ出しを連続しているが、この年齢になっても変わらねばというあがきはある。
 だが、そのあがきは、自分に許そうと思う。

 人生の締め切りは、まだ迎えていないのだし。


 
 











移動という感覚・そこに自分は住んでいるわけで~キャパ

2007-04-19 20:30:44 | 移動という感覚
 来週末からGW。
 ワクワクする気持ちと、片付けなければならない仕事を意識した不安が交錯している。

 東京に勤務していた去年の今頃は、締め切りを過ぎた外注原稿書きの仕事を抱えたままインドに行くという無茶をした。資料とPCを持って行ったが、結局、ホテルでは仕事の上っ面に「触る」程度で済ませた結果、しばらく経験したことのないやってもやってもゴールが見えない地獄の日々が日本で待っていた。
 やれば出来るという記憶ではなく、もうあんな経験は嫌だ、という思いだけが鮮明に残っている。

 さて、今年。
 勤務地が新潟に変わり、どういうGWを過ごすことになるか。
 これがまた、スリルがありそうなのだ。

 すでに明日20日金曜日から、それはスタートする。

 20日(金)□朝から新潟県内で工場見学などの仕事をこなし、月岡温泉に宿泊。
 21日(土)朝新潟市内に戻ってきて病院に寄った後、東京の自宅に帰省。
 23日(月)飛行機で富山へ。そのまま2泊し、25日夜に直江津から東京に戻る。
 26日(木)午前中に台湾へ出発(仕事ではない)。
 30日(月)帰国。
 1日(火)午前中に新潟に戻る。
 2日(水)夜東京に戻る。
 3日(木)6日まで東京で過ごす予定だが、長野の知人宅へ車で行く可能性。
 7日(月)朝新潟に戻る。
 9日(水)新潟・直江津仕事で日帰り。
 10日(木)新潟から軽井沢に移動し、仕事。そのまま宿泊
 11日(金)軽井沢で仕事ゴルフ。夜、家人と待ち合わせ、軽井沢泊。
 12日(土)家人とゴルフ。
 13日(日)車で東京に戻る。
 14日(月)朝新潟に戻る。
 
 20日からの25日間、新潟にいるのはわずか4日間。
 スケールとしては関東甲信越と近場のアジアを絡めた行動半径に過ぎず、原因は自分にあるのだが、頭がチカチカする。本項も予定を整理するために書いたようなもの。
 いつどこへ行って、どういう手段で移動して、といった情報処理能力がパンクしそうだ。改めて、この程度のキャパなんだと自分で思う。
 この動線上で、原稿も処理していかなければならない。昨年同時期に抱えていた仕事量を思えば大したことはない気もするが、ちょこまかさでは勝る。

 そう。スリルなんですよ。
 ネタを仕込んでしまえば移動しながら出来る仕事ではあるが、齟齬が生じると、関係者に迷惑が掛かり、後々自分の裁量権を狭めることにもなりかねない。
 だが、遊びも自分で入れたのである。移動が嫌いではないからか。
 どうにか乗り切らなければならない。

 動線上から、「街の縁取り」「移動という感覚」「締め切りという感覚」を書き込むと思う。 
 台湾は写真付きで報告したい。






 


























 



 
















移動という感覚・そこに自分は住んでいるわけで~駅弁

2007-04-18 00:38:04 | 移動という感覚
 人生とは、生まれてから死ぬまでの休まぬ移動とも言えるが、卑近では、まあ会社から家、旅や出張という移動がある。
 それをどう過ごすのかは、人生の間違いない部分をどう暮らすのかと同義でもあると思う。
 移動の中で街の縁取りを感覚しようとする記録は、別項に譲り、本カテゴリーでは、移動の時空間における形而下的なリポートをしていく。

 さて、第1回目は駅弁。
 駅弁を買う習慣は基本的になく、時間があれば、例えば東京駅だと大丸の地下で惣菜を買って新幹線に乗るパターンが多い。
 だが、きょうは買いました。東京から新潟に戻る際、上野駅で大間のマグロを使ったものを。

 1680円也。

 きょうのランチは選択肢がないことがわかっていたし、たまにしか買わないから、少し気張った。

 味について結論から言うと、まずいわけではないが、という程度。コストパフォーマンスとしては、御徒町でマグロのブツを買って白い御飯で食べた方が格段にいい。
 だが、損をしたとは思わない。次に買う必要がなくなったから。それが分かればいい。

 駅弁が好きな人がいるが、それは移動という演出があるからではないだろうか。ハレの食べ物なのである。
 移動食をどう楽しむか。移動という感覚において、重要なことである。   
 
  





 

街の縁取り80~六甲山麓の町

2007-04-18 00:11:21 | 街の縁取り
 まったく何の用もなく、途上の街角に佇む。
 そんな行為を昔から続けてきた。
 思いつきで駅を降りる、通りがかりのバス停でたまたま来たバスに乗り込む。

 見知らぬ街に自分を投擲してしまうわけではなく、結果的に刹那的なものなのだが、自分では放浪者の視線に近いものを自覚する。

 旅とは、そこで暮らす人々を見に行くことだ、という言葉に触れたことがある。
 写真は、六甲山麓の町で本項前回で少し記した。

 そこには生活がある。
 生まれ、食べ、働き、笑い、怒り、泣き、セックスをし、眠り、死んでいく時空間が横たわっている。
 何かとても憧れ、そして寂しい。

 自分にも帰る場所はあるが、儚さに回帰する彼我の往還。
 ちょっとしたきっかけで根無し草になる気もする自分。 
 
 いつか、どこかでひたすら安堵する日々が訪れるのを待ちながら、一生を終えるのだろうか。
  
  
 

TB練習帳~私の好きなスイーツ

2007-04-16 05:27:00 | TB練習帳
「母恵夢」と菓子がある。
 原料は、白餡、砂糖、小麦粉、卵、マーガリン、バター、ベーキングパウダー、香料。
 ソフトな皮が上品な甘さでほろほろと口の中で溶ける白餡を包んでいる。
 東日本では、福島の「ままどおる」と似ていると言えば、通りがいいかも知れない。
 どちらかが他方を真似たとの説もあるが、どちらも美味しいのでよろしい。

 スイーツとしてはインパクトが弱いかも知れない。飾り気もなく、憑かれたように求める甘さもない。
 ただ、「母恵夢」は「母恵夢」でしかない。似た味はあったとしても代替出来ない。

 シュークリームは、それが食べたくなった時、稲村省三のものであっても、コンビニのものであっても、「シュークリーム」として最低限妥協できるが、「母恵夢」の代わりはない。

 家人は、「ままどおる」の方が美味しいと言うが、まあローカルフードと捉えれば、精神性と結び付いているのかも知れない。 

 



 

 

街の縁取り79~神戸の並び方

2007-04-12 19:35:25 | 街の縁取り
 今更、2月のことを書くのも何だが、まあ神戸に行ったわけです。
 本項78の続き。

 午後から夜まで自由(サボリとも言う)だったので、元町のステーキ屋で神戸牛ランチを食し、南京町のカフェでチーズケーキのデザート、さらに神戸牛で有名な森谷商店でコロッケと味噌漬けを買い求め、バスで六甲山麓までフラフラと散歩に出掛けるという半日を過ごした。

 同じ港町でも、新潟と最も違う点は集積度。わざわざ言うまでもないことだが、住宅、商店街、工場、そして港湾までが山と海に挟まれた場所に固まっている。
 この集積が様々な角度を作り出し、空間密度を上げる。横浜と比べてもその凝縮性が大きな魅力だ。
 そして大き過ぎない。
 地形も影響していると思うが、東京のような多くの街が連なっているのではなく、都会としての縁取りがかなりはっきりしている。東京と神戸は対極にあると思う。
 
 観光するものは一切ない六甲山麓の団地は、元町から出ているバスの終点で、こういう場所に何故か自分は行きたがる。
 その背後はもう山で、街路は海に向かって傾斜が大きく、玉を転がせばどこまでも転がっていく感じ。横浜の山の手とはやはり違う。すでに六甲山を越えて街は開発されており、そんな端っこも旧市街と言えたりして。

 自分は、瀬戸内海に近い街の出身なのだが、神戸は憧れの場所だった。思いを募らせてそこに住み着いた幼馴染もいる。結局は流れて行方不明になったが。

 もう少し言葉でイメージを辿れば、賢くて端麗な異性が大人に成長していく舞台。それは決して深窓の令嬢とかではない。
 訳が分からないかも知れないが、言葉にするとそうなる。
 自分にとって、おしゃれとかといった言葉で表現する街ではなく、社会性を求められる場所と言えばより正確か。
 単なる大都会への憧憬とは、やはり違う。

 感覚的な文章になったが、わかって貰えるだろうか。

  


  





   
 



 
 

  





 
  
  
 
 


  




 

締め切りという感覚・特別編~乾燥

2007-04-10 19:16:33 | 締め切りという感覚
 ひどい。3月から4月の今まで更新がゼロ。
 本ブログを書くという行為が、習慣からすっぽり抜け落ちた。毎日更新という年明けの誓いはどうした、自分!
 極めて少数ながら、それでも毎日立ち寄って頂いている方々に感謝します。

 仕事がどうしたとかは関係なく、感性が乾いていたとの自覚がある。
 更新しなくても誰に迷惑が掛かるわけでなし、世間がそれでどう変わるものでもない。
 だが、日常を感性でどう受け止め、それをどう書き留めるか、つまりささやかであっても、一つの表現行為の休止は、感性そのものが作動していないのと同じ。
 以前は、そういう休止状態に対して相当危機感を持っていた。生活するのも楽ではないが、感性というフィルターを欠けば、世界はただ即物的なものとして流れていく。

 駄文を書き続ける気持ちを回復出来たか。
 また続きますよ。