ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

光りと闇

2022年02月08日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ(D.Puga)神父様のお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

プーガ(D.Puga)神父様のお説教  
光りと闇
2022年1月6日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
愛する兄弟の皆さま、本日、ご公現の祝日のミサ聖祭をお捧げします。ご公現の祝日はキリスト初期には、ご降誕の祝日よりも重視されていました。なぜなら、全世界、全時代の国々への王たるキリストの統治を公に宣言する祝日であるからです。というのも、キリストはこの世に来給うたのは善意のすべての人々を救うためだからです。そして、善意の人々を真理へ導きたもうために来られました。

このように東洋からの三博士の場面が思い起こされます。この三博士に関する細かな情報はほぼ記されていないのですが、とにかく遠い外国から来たのです。また、どこから来たかは記されていないこと自体に意味があります。不明なよくわからない場所から来ました。これは霊魂を救うために不可欠となる本当の教えを持っていない異教徒が生きている闇を象徴しています。



そして、天主は三博士に頗る恵みを与えられました。東洋の空にある星が現れて、博士らを驚かせ、この星によって導かれることになります。この星は自然法則に従っているかのように見えますが、実際、不思議な星です。消えたり現れたりする星です。止まったり動きだしたりする星です。ある人はその星が見えたり他の人はその星が見えなかったりします。この星とは恩寵を象徴します。恩寵は我々の人生においてわれわれを導いてくれます。三博士の手柄というのは、この星を見て、「不思議だな」と正直に認めたことにあります。この星は理性で自然法則で説明できない星だと博士たちが素直に認めたことにあります。

現代なら、我らの主、イエズス・キリストの人生を研究している多くの著者たちはイエズス・キリストのご降誕前後の歴史書物を調べ尽くして、このような不思議な星が記されたどうか調べています。流れ星でも天文学上の稀な現象でも表しうる何かの記述を求めています。しかしながら、何も彼らは見つけないのです。このような不思議な星は皆が見えたらこれほど不思議なので、歴史書物において何らかの痕跡が残るはずだという前提ですね。

問題はこれらの著者には大きな勘違いが存在します。自然上の現象を求めて、超自然上の現象を理解しようとするところが間違いです。なぜなら、聖書などを見ても、この星が見えるのは三博士のみであるようです。そして、この三博士の手柄は素直にこの不思議な現象を引き受けて、信頼したということです。ほら、この星に従ってどこへ導かれるのはわからなかったのです。三博士は、結局、このようにしてエルサレムに到着します。おそらく来たことのない町だったでしょう。そこで星は消えたと福音に明記されています。

これを受けて、三博士は素直に「生まれたばかりの王はどこにいるだろうか」とあちこちに調べていきます。そして、ヘロデの耳に入って、ヘロデは三博士と会って、三博士に事情を聞きます。すると生まれた王の話などが出て、ヘロデは司祭らに問合せをします。司祭らは「聖書に照らして救い主なる王はベトレヘムに生まれるだろうと預言されている」という答えがきます。そして、三博士は次にベトレヘムへ赴きます。どこにあったのかもよくわからなかったでしょうが、エルサレムの近くにあるから分かりやすかったでしょう。しかしながら、エルサレムを出ると不思議な星は改めて現れます。三博士はこれを見て喜びます。そして星は王たる子のいる場所まで導いてくれます。福音書に明記されているように、幼きキリストのいた場所はその時、家でした。これで分かるように、ベトレヘムの洞窟だった馬小屋でのお産の後、聖ヨセフは何とかしてよりよい宿を見つけただろうということを示します。



幼きイエズスがおられた家の上に星が止まりました。そして消えました。三博士は素直に家の中へ入りました。そこに何かがあったでしょうか。福音書によると「幼き子がその母マリアと共にましますのを見」た(マテオ、2,1-12)のです。愛する兄弟の皆さま、とても短い文章ですが、この福音記者の記述は美しいです。なぜなら、聖母マリアに自分自身を捧げて聖母マリアに信頼したら、かならずイエズスを見るということを示す短文です。マリアこそはイエズスへ導く道です。マリアこそが我らの主、イエズス・キリストを我々に与えてくださったのです。

それから、三博士はひれ伏してこの世の王になるために来給うた天の王なるイエズスを礼拝しました。そして、三博士はその後、おとなしく帰ります。しかしながら夢を見て、エルサレムを通らないで帰るようにという勧告を受けます。なぜなら、み摂理は三博士が、やがて起こるヘロデの虐殺の命令に間接的にでも貢献しないようにし給うたからです。善意のこの三博士はみ摂理に守られたのです。福音書によると三博士は「他の途をとって自分の国に去った」とあります。要するに、今度は三博士は聖なる生活を歩む道をとったでしょう。そして東洋においてイエズスのことを伝える道を歩んでいったでしょう。三博士は天の王、我らの主、イエズス・キリストに会いました。

その後、何があったのかよくご存じのとおりですね。天使は眠っていた聖ヨセフを覚まして警告します。速やかにマリアと幼い子を連れてエジプトへいきなさいと。この子を殺そうとする人がいるからと。
そして、聖ヨセフは何の質問も返事もしませんでした。ほら、エジプトは遠いし、生まれたばかりの子を連れて大変だし、そこで仕事もできるかな、そこでの言葉もわからないし、いろいろ心配事が湧いたはずです。しかしながら、素直に聖家族は旅立ちます。どれほど長い逃亡になるのもわからないままです。長い旅となります。異教の地で住まざるを得なくなります。どれほど長い時間になるかわからないままですね。短期間になるか長期間になるかもわかりません。一生、そこで残ることになるかどうかもわかりません。



聖ヨセフと聖母マリアには星が与えられなかったです。用意された星も光もありませんでした。闇だけです。わからないままです。信仰の闇だけです。なぜでしょうか?本物の光なるイエズスとともにいるからです。イエズスのお陰ですでに神聖な心を持っています。このように、天主はご自分の命で生きている霊魂を導き給います。奥深い、静かな、目に見えない恩寵によって天主は聖ヨセフと聖母マリアを導いておられます。しかしながら、イエズスに倣って生活を送る人には、聖なる道を歩む人にはみ摂理に頼り、自分を捧げることになります。わからないとしても。

このように、聖ヨセフと聖母マリアは数年ほどエジプトに住みました。いつナザレへ帰れるかもわからないままです。
そして、長い長い数年後、ある日、突然、天使が現れて、聖ヨセフに「ふるさとに帰ってもいい。この子を殺そうとした人は亡くなったから」と。そして、聖ヨセフは素直に聖家族を連れて帰ります。すぐに。帰っても地元がどうなっているかもわからないままです。歓迎されるかどうかもわからないままです。仕事を再開できるかどうかもわからないままですが、天使が伝えた天主の命令に従うまでです。素直に。闇と影の内に。

愛する兄弟の皆さま、聖なる人生を歩むのは、このような自己犠牲が必ず出てきます。わからないとしても腑に落ちないとしても、どうしても闇に巻き込まれているものの、み旨をよくわからないとしても、素直に自分をお捧げしてみ摂理に信頼することが重要です。信仰の闇です。天主は聖霊の賜物によって我々を内面的に導いてくださるのです。

ご公現の祝日の次の主日は聖家族の祝日となります。福音書の朗読は神殿で発見されるイエズスの場面です。皆、ロザリオを唱えるたびに黙想する一つの場面なので、よくご存じだと思います。この有名な場面においても同じような闇があります。不明ですね。聖ヨセフと聖母マリアと12歳のイエズスは毎年の神殿参拝を行うために、エルサレムへ行ってきました。そして、帰り道のおり、イエズスがいないということになります。イエズスは隠れたかのようです。福音書に記されているので、我々が知っていますが、イエズスは神殿におられました。律法学者に教えたりして、律法学者の質問に答えたりしておられました。博士たちはまだ闇の内にいるので、迷いの内にいるので、イエズスさまは彼らを照らされます。天主は人々を照らすために来給うたのです。

しかしながら、その間に、聖ヨセフと聖母マリアは神殿におられることを知らないで、迷います。いったいイエズスはどこにおられるのか、どこに行かれたのか、拉致されても無事なのかなどなど。聖母マリアにはイエズスがいずれか霊魂を救うために死に給うべきことが告げられました。具体的にどのように死なれるかはよくわからないままだったので、急に幼きイエズスがいなくなったらこのような心配になってもおかしくないのです。三日間ほど、聖ヨセフと聖母マリアはイエズスを捜しています。二人とも闇の内のままです。天主への信頼と天主のみ旨のままに自分を捧げるまでです。疲労がたまっても、心配事があっても、天主のみ旨のままに。

「私のせいなのか。誤ったことでもしたのか。罪があるのか。一体なぜこのようにいきなり預かった子は消えたのか」というような心配事があっても、天主のみ旨のままに。聖ヨセフと聖母マリアは三日間ほど不安や苦悶のうちのままです。聖ヨセフと聖母マリアは非常に聖なる生活を生きていて、天主の非常に近くに生きていて、天主の内に生きているのにということです。



以上の場面の結末はご存じのとおりです。三日間ほどの探索の挙句に、もう探しつくした挙句に、聖ヨセフと聖母マリアはおそらく途方に暮れて祈るために神殿に来たでしょう。すると、そこになんと律法学者に教えられる幼きイエズスがおられました。
すると、聖母マリアは幼きイエズスに言い出します。「子よ、私たちになぜこんなことをしたのですか」と。そしてイエズスは「私が、私の父の家におらねばならないことを、知らなかったのですか」と答えます(ルカ、2,42-52)。

聖母マリアはイエズスの返事について最初、よくわからないようです。なぜなら、聖母マリアはイエズスが天主の御子であることを知っているものの、イエズスのこの上ないご使命などについてまだよくわからないし、この三日間にイエズスは不在になる必要があった玄義もよくわからないままだからです。なぜなら、この三日間はイエズスが死に給うた後の三日間の預言でもあったということを聖母マリアが知るよしもなかったわけです。また十字架上の後の三日間の聖母マリアの不安の兆しであるこの三日間なども知るよしもなかったのです。

光と闇がともにあるという玄義です。キリスト教徒の人生はまさにそれです。時には善き天主は多くの恵みを与えてくださり、眩しいほどの光を与え給うのです。具体的には、我々を慰める周りの出来事によって、み摂理を垣間見せてくださる時があります。しかし、時には周りのすべてが崩れるかのように、我々を見捨てられたかのように、砂漠を渡るときもあります。なぜなら、試練は、外の慰めがなくても、信徳、望徳、愛徳を鍛えて、実践させてくれるように励ましてくれるからです。

本日の福音書の最後ですが、イエズスは聖ヨセフと聖母マリアと一緒にナザレに帰りました。「彼らに従順したもうた」と。本日の福音書の最後の言葉です。
なんと!天主の御子はナザレのこの貧しい男に、若い女に従順しておられたと!天主の御子なるイエズス、天地を創造されたイエズスは長年、三十年間、親によく従っておられました。あらゆる物事の主なるイエズスは従順でいるようになさったのです。
聖パウロは思い起こすのです。罪がこの世にはじめて入ったのは我々の人祖、アダムとイブの不従順の故でした。同じように、十字架上の天主のみ旨への従順も三十年の親への従順と謙遜も含めて、キリストの従順の故にこそ、救済をこの世に齎し、本物の光をこの世にもたらされました。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


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