ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

偉大な奇跡:御聖体拝領

2022年02月15日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ペトゥルッチ(PP. Petrucci)神父様のお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

ペトゥルッチ(PP. Petrucci)神父様のお説教  
2022年1月19日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
親愛なる兄弟の皆様、先ほど聖ヨハネの福音の朗読がありました。聖母童貞マリアの頼みの結果、我らの主、イエズス・キリストが公に行った最初の奇跡についてでした。カナで婚礼へ招かれていました。新郎新婦が恥をかかないために、イエズスは水をワインへ変える奇跡を行いました。このすごい奇跡は人前での初めての奇跡でした。これによって、イエズスはご自分の栄光を示し、弟子たちがイエズスを信じることを助けるためでした。
カナの奇跡は目に見える奇跡でしたが、目に見えない、より偉大な奇跡の兆しでした。最後の晩餐の時の偉大な奇跡の兆しでもあります。つまり最初のミサ聖祭です。パンとワインをご自分の御体と御血へ変えた大奇跡です。まえもって、十字架上の犠牲を実現して、再現するためでした。翌日に十字架上に登られて御生贄をお捧げしました。



最後の晩餐の大奇跡はミサ聖祭の制定です。ミサ聖祭は新しい同盟、新約の犠牲です。このように世の終わりまで、毎日、我々とともにイエズスは残すことになさいました。我々の霊魂を養うためです。聖櫃にましますイエズスが我々の礼拝を迎え入れるためです。世の終わりまであなたたちと一緒にいるという風にイエズスは仰せになりました。ですから、イエズスはこの約束を果たされるために最後の晩餐にミサ聖祭を制定して、この大奇跡を行われました。

奇跡という時は広義での奇跡です。なぜなら、厳密に言うと、この奇跡は目に見える事柄というか、認識できることであります。これは、良き天主は我々に示し給う啓示を示すために奇跡という道具を使います。カトリックという宗教こそ唯一に真の宗教であることを示すためです。

しかしながら、確かに、普段、ミサ聖祭の聖変化は感知不可能です。歴史上に御聖体にかかわる奇跡も数えきれないほどに多くあり、天主はそれを感知する多くの奇跡も行われたのですが、これはイエズスのご現存を改めて示すための奇跡です。イタリアだけでも、有名なこのような奇跡はLanciano, Bolsena, Ferrareなどが多くあります。パリなら、Les Billetes教会での御聖体の奇跡も有名です。他にも無数にあります。

ご聖体に実際に我らの主の御体、御血、ご霊魂とご神聖、イエズスご自身が本当にましますことを可視化するような奇跡です。しかし、普段なら毎日与かるミサ聖祭では基本的に感知できない大奇跡です。それでも大奇跡です。目に見えない大奇跡ですが、御聖体の良き結果によってこそ、この大奇跡は可視化されます。はい、御聖体拝領によって信徒においてミサ聖祭の大奇跡は目に見えてきます。

最悪、最大の罪でも信徒が赦されるという大奇跡は、また、悪いことがされても、かえってこの悪人のために祈り、彼を赦すというカトリック信徒の在り方にあります。イエズスは人々、敵を赦すようにと福音書においてわれわれに教えられました。使徒たちに「天にましますわれらの御父」すなわち、「主祷文」という祈りを教えた時に示された教えです。



「主祷文」を祈るたび、我々は「われらが人に赦すごとく、われらの罪を赦し給え。」と言います。山上の垂訓の際にもイエズスは同じ教えを与え給いました。「あわれみのある人は幸せである、彼らもあわれみを受けるであろう。」(マテオ、4,7)
しかしながら、天主から憐みを受けるためには、我々も心から人を赦す必要があります。そして我々に対して悪を成した人々の善を望む必要があります。イエズス・キリストは十字架上にましましたとき、彼を殺そうとする人々のために祈られた通りです。
最初の殉教者である聖ステファノも彼を投石して殺す人々のためにも祈ります。

御聖体拝領によって我らの主イエズス・キリストは人を赦すための恩寵を我々に与え給います。また、教会史を貫いて現代に至って殉教者はいつもいました。我らの主イエズス・キリストを否認するよりも、死ぬことを選ぶ殉教者です。イエズス・キリストへの愛のため。
このような英雄的な行為をするための力はやはり聖体拝領によってでもあります。恩寵を受けて、本来ならば無理なる殉教死への決意が可能となって、殉教者の歴史を通じてイエズスの天主性も、カトリック教会が天主によって制定されたことも示されています。

多くの殉教者は聖体拝領においてこそ、イエズスを愛する恩寵を受けました。ローマでの3世紀の聖タルチシオがいます。殉教者で、聖人です。ウァレリアヌス皇帝の時代の迫害でした。聖タルチシオは弾劾で死刑判決を受けた囚われた信徒たちのために、御聖体を運んでいました。最後の試練をよく受け入れられるために、彼らを強めるために御聖体を運んで、ご聖体拝領を助けました。そしてある日、聖タルチシオは御聖体を運んでいましたが、涜聖を避けるために、聖タルチシオは御聖体を守り続けた結果、殺されました。これほど御聖体は大切であります。
はい、御聖体拝領によって、このような恩寵を受けることができます。



また、20世紀の最初の聖マリア・ゴレッティも有名です。自分の童貞を守るために貞潔を捨てるよりも、貞潔に対して大きな罪を犯すよりも殉教死を選んだ聖人です。聖マリア・ゴレッティを犯そうとした男は憤怒して、彼女を包丁で殺しましたが、聖マリア・ゴレッティは殺人を赦しました。そして、これで話は終わるわけではありません。殺人はその後、裁かれて刑務所の刑罰をうけます。彼は刑務所の独房で絶望して、自殺することを考え始めます。しかし、聖マリア・ゴレッティが彼の前に現れて、いずれか天国で一緒ですからというようなことを彼に言いました。

これを機に、殺人者は徹底的に回心します。刑務所を出たら、聖マリア・ゴレッティの母の下へ行き、赦しを希います。母は心広く彼を赦しました。そしてご降誕の祝日になって、同じ教会で、母と殺人は隣に跪いて、聖体拝領しました。罪を赦す英雄的な力を与えるのが聖体拝領なのです。カトリック信徒が聖マリア・ゴレッティの母のように英雄的に人を赦せるのは聖体拝領のお陰です。



御聖体という大奇跡のもう一つの可視化した帰結は貞潔の実践です。童貞、貞潔、純潔とも呼ばれる美しい聖徳です。「心の清い人は幸せである。彼等は天主を見るであろう」(マテオ、5、8)とイエズスは仰せになりました。
聖パウロも動物のように振舞う人は天主のことを知ることはないということを説明されています。貞潔によって、我々の霊魂を天主へ高めることが可能となります。地上に生きながら、天主と共に生きて、天使のように生きられることを助ける聖徳です。

しかしながら、本当の貞潔の実践は天主の恩寵を抜きにして不可能です。この恩寵はまた聖体拝領によって与えられています。もちろん、貞潔についての助言などは説教によって受けられるし、このような多くの機会で貞潔という徳を実践するためにどうすればよいか教えられます。
貞潔にとって危険な機会を避けるのは基本ですね。残念ながら現代では貞潔を脅かす機会は数え切れないほど多いです。町を歩いたら電車に乗ったら、インタネットや画面でいつも一杯あります。ですから、慎重にして、賢明に処することによって、貞潔は守られ、賢明さは貞潔の守護者です。

あとは苦行です。つまり、犠牲などによって自分の身体などを意志に従わせます。楽園から追放されてから、我々人間には保全の賜物はもはやなくなりました。われわれの感覚的な部分、つまり身体や感覚、感情などは意志と理性に背くことが多くあって、簡単に理性に従うことがなくなりました。アダムとイブが持っていたような保全の賜物はもはやなくなりました。洗礼を受けても保全の賜物を取り戻したわけではありません。ですから、苦行する必要があります。償う必要があります。犠牲を捧げる必要があります。苦行によって身体や感情などを意志と理性に従わせます。例えば悪い好奇心に譲らないようなことに努めたりすることが大事です。そして、誘惑が来た時に、祈ることが大事です。とても大事です。

これらは貞潔を守るための基本対策ですね。しかしながら、この上ない薬は、戦いにおいて勝利するための至上の武器はご聖体拝領です。そして、頻繁に聖体拝領することです。できれば毎日の聖体拝領です。大昔から身についてしまった、また霊魂における悪習などを打ち破るために聖体拝領は必要不可欠です。特に毎日の聖体拝領は一番効果的です。

ある人は「しかし、仕事や学校の勉強など、交通上の不便などで、毎日の聖体拝領は難しい」といわれるかもしれません。確かに、事情はいくらでもあるでしょう。しかしながら、考えてみてください。病気になった時、仕事や勉強を休んで、全力を尽くして治るために薬など治療をとりますね。これは身体の世話をするためだけですよ。

霊魂の病ならなおさらに取り組むべきです。比較にならないほどに霊的な病気は身体上の病気よりも深刻です。なぜなら霊的な病気のせいで、地獄での永遠の劫罰を被らされる危険があるからです。たとえば、平日の朝ミサのすべてに与る時間が足りないとしても、御聖体拝領するために来るだけでも可能です。・・・聖体拝領の心の準備をよくしていたら、聖体拝領できます。その後に、感謝の祈りをして、礼拝すればよいのです。

霊的な薬なので、治るために拝領しましょう。特に貞潔の徳を守り続けるために、増やすために聖体拝領は必要不可欠です。なぜなら、聖体拝領というのは我らの主、イエズス・キリストご自身を頂くのです。神聖なるイエズスの人間性も含めていただけます。イエズスは真の天主、真の人間でありますので、真の人間でもあります。そして、イエズスの神聖なる人間性は非常に力強いです。福音書を見たら、イエズスの服の縁の先ぐらい触れることができただけで治療不可能な病気が直されたりして、すごい奇跡ばかりです。イエズスの御体と接触していた服に触れるだけでこのような奇跡があるのですよ。



ですから、考えてみてください。御聖体拝領する時、しばらくの間、イエズスの御体はあなたの体内にましますよ。15分間ですか。奇跡を希う絶頂の機会です。ほら、御体はあなたの霊魂に来給い、体内にまします。どれほど多くの恩寵を頂けるかは想像を絶します。もちろん、我々の霊魂において障害がないという条件があります。つまり大罪の状態で聖体拝領してはいけません。絶対に。深刻な涜聖となります。

しかしながら、そうではないかぎり、聖体拝領しましょう。我々が必要としている恩寵を希いましょう。毎日の戦いにおいてイエズスの御助けを仰いで、毎日のための恩寵を得ましょう。貞潔の徳なら、いつも毎日絶えまない戦いなので、良い状態での毎日の聖体拝領は非常に効果的です。もちろん我々が受ける恩寵は聖体拝領する時の我々の聖化、状態次第です。ですから、聖体拝領をよく準備することが非常に大事です。聖体拝領するたび、その前に我らの主への愛を励み、燃やしましょう。我らの主と一体になりたい気持ち、一体となる決意を改めて堅くしましょう。お赦しを願いましょう。

聖体拝領の遠い準備は我々の義務を忠実に行うことにあります。常に、瞬間瞬間に、天主のみ旨を常に仰ごうとして、天主のみ旨を認識して、み旨に従うことにあります。試練や苦しい時においてもですね。

そして聖体拝領の直前の準備も重要です。我らの主との一体を望み、励み、天主への愛を燃やし、これからすぐ、人を愛することを心に拝領することになるので、完全に障害なくイエズスを我々の心の奥まで染みるように。我々を強化なさるように。

そして聖体拝領の後に、感謝の祈りをしましょう。これは大事です。少なくとも数分ほどは感謝しましょう。来給うたことへの感謝。できれば聖体拝領後だけではなく、ミサの後も感謝を表すために祈りましょう。これら聖体拝領の前、中と後の時間は非常に貴重です。



このタイミングを狙ってこそ、我らの主、イエズス・キリストとこの地上で可能なこの上ない親しいかかわり、対話となりますので、我々の霊魂を最大にイエズスのために開けましょう。我々の傷や悲しみや望についてイエズスに明かす最高のタイミングです。もう、聖体拝領したら、我々の内にましますのですよ。イエズスは天主です。イエズスは我々を愛しておられます。個人として我々を愛しておられます。罪や過失にもかかわらず、憐み深い愛をもって我々を愛しておられます。

聖体拝領する時にこそ、イエズスと親しく一致しましょう。そして、感謝の祈りなどは、聖母マリアを通じてお捧げしましょう。聖母マリアを通じてイエズスはこの世に来給うたのです。同じく、聖母マリアを通じてこそ、イエズスの御下まで参ります。聖母マリアに頼んで、我々の代わりにイエズスへ我々の祈りを運んでいただきましょう。我々よりも聖母マリアこそがイエズスを一番愛して、よく知り、祈り方もこの上なく知っておられる聖母マリアです。ですから、聖母マリアに頼みましょう。よりよく、より深くイエズスと一致するように聖母マリアの助けと保護を頼みましょう。また霊的な戦いにおいてわれわれが必要とする恩寵を聖母マリアを通じて願いましょう。

このような良い心で聖体拝領できたら、キリスト教的な生活を実際に実践できるようになることを確信できます。つまり、キリスト教的な生活とはイエズス・キリストに倣うということです。イエズスの教えと模範に従うことです。イエズスが実践された聖徳を我々も実践することです。このように、すこしずつ、毎日の戦いを経て、最期になったら、天での報いを得られますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
 


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。