ファチマの聖母の会・プロライフ

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ヴィガノ大司教:中絶はサタンの「秘跡」

2023年10月30日 | プロライフ

中絶はサタンの「秘跡」

2023年9月12日(火曜日)

ABORTION: “SACRAMENT” OF SATAN
中絶はサタンの「秘跡」

カルロ・マリア・ヴィガノ

中絶が理由で刑務所に入ることがありえます。ある国々では、子どもたちが殺されるクリニックの前で沈黙の祈りをやめない者に対して罰として科されるのが、刑務所です。しかし、罪のない人間を殺しても刑務所に入れられることはありません。

中絶が理由で差別されることがありえます。母親の胎内で殺された子どもの命を憂慮する人々につけられる社会的汚名という差別です。この子どもは、生まれる瞬間まで「細胞の塊」とみなされ、各政府の中のある殺人者たちにとっては、生まれた後でもそう【細胞の塊と】みなされます。

彼らはそれを中絶とは呼びません。「リプロダクティブ・ヘルス」(生殖医療)、「妊娠の終了」と呼ぶのです。それは、政治的正しさ(politically correctness)によって押し付けられた義務であり、オーウェル的なニュースピークです。そして、罪のない命に対するこの恐ろしい犯罪を、無菌的な害のない表現の後ろに隠す人々はまた、切断や破壊的な治療によって、人々を、それも思春期前の子どもたちを、ありのままではない姿にすることにも賛成しています。彼らは、それを「ジェンダー転換」と呼んでいます。中絶や子どもの身体切断に賛成する人々は、病人、高齢者、認知症患者、身体障害者、そして国家や個人が生きるに値しないと判断した人々を、何歳であっても殺すことにも賛成しています。それは、合法化された殺人というよりはむしろ「安楽死」と呼ばれ、「旅への同行」と呼ばれます。サイコパンデミックの茶番劇のとき、北欧のある国も、高齢者に対して、保健サービスに負担をかけないように呼びかけて、彼らの自宅に、誰にも迷惑をかけずに「道からどける」のを助けるキットを送り、葬儀費用は政府が負担することを保証しました。

死。死のみ。生まれる前の死。生きている間の死。自然死の前の死。重要なことは、罪のない人々、つまり子ども、病人、高齢者の死に賛成する人々が、死刑に反対していることです。彼らは、貧しいから、年老いているから、受胎させた人々に望まれていないから、という理由で生きるに値しないと判断される場合もありますが、人々が虐殺されたり、恐ろしい犯罪が行われたりした場合、そのような犯罪者たちに対する死刑の適用は野蛮だとみなされるのです。

奇妙なことに、この自殺や殺人への熱狂的な扇動、この生に対する死の押し付けの中で、グローバリストのエリートの高齢者カーストは例外なのです。これらの権力ある年老いた億万長者らは、武装した警備員に守られた要塞にバリケードを築き、死を諦めず、そして若く見えるために、肉体が腐らないように、トランスヒューマニズムの「雲」の中で「永遠の命」を保証するために、あらゆる手段――最も忌まわしい手段でさえも――に頼っています。エリートたちは、生、老い、病も支配したいのです。

何十年にもわたって続けられ、私たちを最悪の異教の蛮行へと逆戻りさせたこの大虐殺の理論家たちは、自分たちについては絶滅する者の一部だとは考えていないことを、私たちは理解し始めるべきです。彼らのうち誰一人として、中絶された者はいません。彼らのうち誰一人として、治療を受けずに放置された者はいません。彼らのうち誰一人として、裁判所の命令によって死を強制された者はいません。死ななければならないのは、私たちであり、皆さんであり、皆さんの子どもたちであり、皆さんの両親であり、皆さんの祖父母であり、また、生きているから、存在していて二酸化炭素を発生させているから、罪があると感じなければならないのは、皆さんなのです。

中世には、教会や修道院、公共施設のフレスコ画には、「四終(死・審判・天国・地獄)」を参考にした「死の勝利」というテーマが描かれていました。死は人間にとって確実なものであり、よく生き、よく死に、永遠の至福に値するよう、私たちを駆り立てます。死後には、上訴できない審判があり、それによって、私たちがどのように生きたかに応じて、天国か地獄のどちらかに永遠に行く運命にあることを知っているからです。エリートたちが「他人」の命を憎む理由は、功利主義的なメンタリティーの結果ではありません。「誰か」によって呼び起こされる「使い捨て文化」は、命の主に永遠に敗北した「死の勝利」によるものではありません。それはむしろ、天主を否定し裏切った後、天主の座に就きたいというサタンの錯乱によるものです。このことは、グローバリズム思想のイデオローグの一人であるユヴァル・ノア・ハラリが公然と告白しています。ユダヤ人であり、同性愛者であり、男性と「結婚」しており、菜食主義者であり、トランスヒューマニズム的かつルチフェル的な宗教の理論家です。この宗教は、人間の地平から天主を消し去り、新世界秩序の暴君たちを天主の座に就かせて、彼らが次のことを決定することができるようにするのです。つまり、何が正しくて何が正しくないか、誰が生きて誰が死ぬべきか、誰が旅行できて誰ができないか、私たち一人一人がお金をいくら使えるか、どれだけの二酸化炭素を排出できるか、子どもを生めるかどうか、何人生めるか、そして胎内から出る前に脳みそを吸い取ったりバラバラにしたりして自分の子どもを虐殺した後、誰から子どもを買わなければならないかを決定するのです。彼らはまた、出産直前まで子どもを中絶できると決めています。なぜなら、臓器や組織を研究所や製薬会社に売ることで金儲けする方法を見つけたためです。これは、彼らが赤ん坊を殺し続けることを可能にする公的・私的な補助金に加えて、中絶クリニックにとって最も繁栄している市場の一つなのです。

かつてはキリスト教的だった私たちの国々は、今や、父祖たちが異教と偶像崇拝の廃墟の上にキリスト教文明を築き上げた信仰から背教しています。各国民が、かつて悪魔をなだめるために祭壇の上で子どもをいけにえにしたような中絶によって子どもを殺すことをやめたのは、まさにキリストへの信仰のおかげなのです。母親たちが、天主の御母であり私たちの母である聖母をモデルとしてきたのは、まさに私たちの聖なる宗教のおかげなのです。「Mater misericordiæ, Mater divinæ gratiæ, Mater purissima, castissima, inviolata, intemerata, amabilis, admirabilis.」(あわれみ深き御母、天主の聖寵の御母、いと潔き御母、いと操正しき御母、終生童貞なる御母、きずなき御母、愛すべき御母、感ずべき御母)。今日、まさに「母」という名前こそが、私たちの子どもたちの口からその名前を消したいというところまで、蛇【悪魔】の憎悪を解き放つのです。なぜなら、この言葉の中には、無原罪童貞のご胎内での天主の御子のご托身を可能にした、あの言いようのない神聖な絆が、そして罪と死の支配の終わりを承認した、あの謙虚で、従順で、寛大な「なれかし」(Fiat)が含まれているからです。

しかし、この背教は、文明と民主主義の進歩のように見せかけられ、人間の尊厳と信教の自由の名の下にたたえられ、エリートに従属する腐敗した位階階級によって称揚されていますが、天主と道徳の前では中立ではありません。この背教は、実際には、天主に対するサタンの反逆であり、議会や法廷から、学問の場から、新聞の紙面から、そして手術室から聞こえる「Non serviam」(私は仕えない)の叫びなのです。

中絶は、サタンへの礼拝行為です。中絶は、悪魔に捧げられた人間のいけにえであり、このことは、「悪魔教会」(church of Satan)の信奉者たちによって誇らしげに肯定されています。この信奉者たちは、中絶が禁じられている米国の州で、中絶された胎児を地獄の儀式に使うことができるように要求しています。一方、世俗主義の名の下に、十字架、そして聖母や聖人の像は取り壊され、その代わりにぞっとするようなバフォメットの像が出現し始めています。

中絶は、恐ろしい犯罪です。なぜなら、子どもから地上での生命を奪うだけでなく、その子が洗礼の恩寵を奪われるため、その子から至福直観を奪い、リンボ(地獄の辺)に行く運命を与えるからです。
中絶は、恐ろしい犯罪です。なぜなら、存在するのを天主がお望みになり、天主が創造され、愛され、天主が十字架上でご自分の命を捧げられた霊魂を、天主から奪い取ろうとするからです。
中絶は、恐ろしい犯罪です。なぜなら、自分の命を犠牲にしてでも最も守るべき人間を殺すことが合法であると母親に信じさせるからであり、また、この犯罪によって、その母親は暗殺者となり、悔い改めなければ、自らに永遠の滅びを宣告し、日常生活においても非常に耐え難い後悔の念にさいなまれて生きることが非常に多いからです。
中絶は、恐ろしい犯罪です。なぜなら、罪のない者を、「まさにその罪のなさゆえに」攻撃し、昨日の、そして今日のセクトで行われた子どもたちの儀式殺人を思い起こさせるからです。私たちは、グローバリストの陰謀団が小児性愛やその他の恐ろしい犯罪の「邪悪な合意」(pactum sceleris)に縛られていること、また、権力、巨大金融、エンターテインメント、報道のメンバーがその邪悪な合意に縛られていることをよく知っています。

この世には、サタンに献身し、キリストの敵と宣言された破壊転覆者のエリートによって流された罪のない血が滴り落ちています。イタリアの法律194号のように、「一定の条件下で」妊娠中絶を許可する法律を正当化する一定の高位聖職者たちの話を聞くと、私は、彼らが自らをカトリック信者と考えることができるのか疑問に思います。いかなる人間の法も、「なんじ殺すなかれ」と命じている、天主の法と自然法を踏みにじることはできません。自らを「カトリック信者」と称しながら、不道徳な法律を承認することで福音に反する政治家たちの共犯的沈黙を伴う、この日常的な虐殺を許している限り、いかなる国も繁栄と調和を望むことはできません。中絶を禁止することは、サタンに従属する新世界秩序(New World Order)に反対したいと思う統治者が真っ先に取り組むことでなければなりません。このために闘うことは、洗礼を受けるにふさわしいすべてのカトリック信者の必須の責務でなければなりません。

私たちの主は、ご自身についてこう言われました。「私は道であり、真理であり、命である」。この世のかしら【悪魔】のモットーはこうでしょう。「私は深淵であり、嘘であり、死である」。中絶を拒否しましょう。そうすれば、敵対者(Adversary)【悪魔】から、彼の明白な、地獄の勝利の主要な道具を取り去ることができるでしょう。中絶を拒否しましょう。そうすれば、何百万もの霊魂が、愛し愛され、偉大なことを成し遂げ、聖なる者となり、私たちとともに戦い、天国に値することができるでしょう。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

イタリア語版



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