東京駅午前4時過ぎ。
そんな時間に着いてもまだ山手線は走っていない。
ホームのベンチに座って時が過ぎるのをじっと待つ。
山手線は「やまてせん」と読むのか「やまのてせん」と読むのか誰も知らず、恐る恐る「やまのてせん」と呼んでいた。
僕らにとっては環状線は都会の象徴。
間違ってもそのまま乗ってれば廻ってこれる。
しかも待たずにすぐ来る。
「さて、今日はどう動く?」そういってはみたものの僕はもう帰りたいとさえ思っていた。
前日の朝5時出発で23時間かけて到着した東京までの距離は、若い体にもかなりの打撃だったのだろう。
まずはギターとベースをコインロッカーに預ける。
ようやく動き始めた山手線にのり上野をめざした。
地図を見て、宮田がいった。
「赤門いけそうだよ。上野から」
JR乗り放題の私たちは出来るだけ私鉄や地下鉄には乗りたくなかった。
「せっかくじゃし、東大みとくか」
受験する資格もないくせに記念に東京大学の赤門を見に行くことにしたのだ。
上野から赤門のある本郷3丁目まで、地図上を見ながらなんとか歩いた。
多分迷ったんだと思うけど、1時間ぐらいはかかったように思う。
いまならそんなにはかからないはずだ。
おお、ここが最高学府かと、ひとしきり感動し、次をめざした。
次の目的地は日本テレビ(当時市ヶ谷)。
ズームイン朝で当時の司会者「福留さん」の後ろで手を振りテレビに映るのが目的。
地図で見ると市ヶ谷の駅から近そうだけど、赤門から最寄のJRの駅は先ほどの上野。
今の道を引き返すのは馬鹿らしい。
じゃあ、そのまま進もうということになった。
歩いて歩いて。
ようやくついたズームイン朝にはジャッキーチェンが映画のプロモーションのため来日していた。
かなりのハイテンションで、ガラス張りの窓に張り付き、司会者の後ろで狂ったように手を振る、あほずらの私。
当時まだ家庭にそこまで普及していなかったVHSビデオ。
出発前に高橋くんに録画を頼んでおいたんだ。
帰ってきてそれを見て死にたくなったのも事実。青春の汚点である。
市ヶ谷の駅で、我々はお互いの見たい大学を、それぞれ別で見に行くことにしたのは、最後のテンションをズームイン朝で使ったためだろう。
もう話すこともなく気まずいムードが流れ始めたからだ。
どこに行くのかさえ聞かなかった。
僕はどうしても見たかった大学へ。
中央線を乗り継いで多摩方面に向かった。
そこは父親の母校。
子供の頃からお前もそこに行けといわれ続けていた。
山奥の学校で、門の辺りで女性に声をかけられた。
あまりおしゃれな感じじゃない女性は私にサークル入会を勧めてるようだった。
晴れて合格したらお願いしますね。
初めての東京でのお友達だし多くを望むまい。
ちょっとうれしかった。
後にそのチラシは、韓国などで集団結婚式を挙げる統○教会のサークルだということがわかりぞっとした。
そんなことも知らず、一番みたいところを見た私は、新宿に戻り、そして代官山へ向かった。
どうしても行きたかった街。
今でこそ代官山は誰でも知っているだろうが、23年前にはほとんど知られていなかったし、ショップもほとんどなかった。
HRMの本店があることが、その街は私に向かわせた理由。
目ざとく見つけたトレーナーは最後は寝巻きとなったが、当時超お気に入りのアイテムだった。
一通り見てまわり、18時ごろ東京駅に再度集合したときには足は棒のようだった。
あんなに大切に抱えてきた楽器たちはもうこのまま置いて帰ろうかと思えるほど疲労困憊していた。
今からまたあの23時間を過ごすのか。
そう思うと、憂鬱で離れていたときの行動をお互い聞くでもなく、時間がたつのをじっと待っていた。
「おれ新幹線で帰ってもいいか?」宮田がポツリという。
続く。
そんな時間に着いてもまだ山手線は走っていない。
ホームのベンチに座って時が過ぎるのをじっと待つ。
山手線は「やまてせん」と読むのか「やまのてせん」と読むのか誰も知らず、恐る恐る「やまのてせん」と呼んでいた。
僕らにとっては環状線は都会の象徴。
間違ってもそのまま乗ってれば廻ってこれる。
しかも待たずにすぐ来る。
「さて、今日はどう動く?」そういってはみたものの僕はもう帰りたいとさえ思っていた。
前日の朝5時出発で23時間かけて到着した東京までの距離は、若い体にもかなりの打撃だったのだろう。
まずはギターとベースをコインロッカーに預ける。
ようやく動き始めた山手線にのり上野をめざした。
地図を見て、宮田がいった。
「赤門いけそうだよ。上野から」
JR乗り放題の私たちは出来るだけ私鉄や地下鉄には乗りたくなかった。
「せっかくじゃし、東大みとくか」
受験する資格もないくせに記念に東京大学の赤門を見に行くことにしたのだ。
上野から赤門のある本郷3丁目まで、地図上を見ながらなんとか歩いた。
多分迷ったんだと思うけど、1時間ぐらいはかかったように思う。
いまならそんなにはかからないはずだ。
おお、ここが最高学府かと、ひとしきり感動し、次をめざした。
次の目的地は日本テレビ(当時市ヶ谷)。
ズームイン朝で当時の司会者「福留さん」の後ろで手を振りテレビに映るのが目的。
地図で見ると市ヶ谷の駅から近そうだけど、赤門から最寄のJRの駅は先ほどの上野。
今の道を引き返すのは馬鹿らしい。
じゃあ、そのまま進もうということになった。
歩いて歩いて。
ようやくついたズームイン朝にはジャッキーチェンが映画のプロモーションのため来日していた。
かなりのハイテンションで、ガラス張りの窓に張り付き、司会者の後ろで狂ったように手を振る、あほずらの私。
当時まだ家庭にそこまで普及していなかったVHSビデオ。
出発前に高橋くんに録画を頼んでおいたんだ。
帰ってきてそれを見て死にたくなったのも事実。青春の汚点である。
市ヶ谷の駅で、我々はお互いの見たい大学を、それぞれ別で見に行くことにしたのは、最後のテンションをズームイン朝で使ったためだろう。
もう話すこともなく気まずいムードが流れ始めたからだ。
どこに行くのかさえ聞かなかった。
僕はどうしても見たかった大学へ。
中央線を乗り継いで多摩方面に向かった。
そこは父親の母校。
子供の頃からお前もそこに行けといわれ続けていた。
山奥の学校で、門の辺りで女性に声をかけられた。
あまりおしゃれな感じじゃない女性は私にサークル入会を勧めてるようだった。
晴れて合格したらお願いしますね。
初めての東京でのお友達だし多くを望むまい。
ちょっとうれしかった。
後にそのチラシは、韓国などで集団結婚式を挙げる統○教会のサークルだということがわかりぞっとした。
そんなことも知らず、一番みたいところを見た私は、新宿に戻り、そして代官山へ向かった。
どうしても行きたかった街。
今でこそ代官山は誰でも知っているだろうが、23年前にはほとんど知られていなかったし、ショップもほとんどなかった。
HRMの本店があることが、その街は私に向かわせた理由。
目ざとく見つけたトレーナーは最後は寝巻きとなったが、当時超お気に入りのアイテムだった。
一通り見てまわり、18時ごろ東京駅に再度集合したときには足は棒のようだった。
あんなに大切に抱えてきた楽器たちはもうこのまま置いて帰ろうかと思えるほど疲労困憊していた。
今からまたあの23時間を過ごすのか。
そう思うと、憂鬱で離れていたときの行動をお互い聞くでもなく、時間がたつのをじっと待っていた。
「おれ新幹線で帰ってもいいか?」宮田がポツリという。
続く。