25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

三島由紀夫 二つの謎 2

2018年11月24日 | 文学 思想
 三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地での演説のあと、自害したのは1970年の11月25日であった。同じ浪漫派であった小説家、文学評論家である村上一郎が三島由紀夫の後を追うように刀で頸動脈を切って自害した。「あとを追うように」と書いたのは、ぼくの記憶のなかで三島由紀夫が死んで、さきにやられたと思ったかのようにすぐに自害したとすっかりそう思っていた。東大闘争など全共闘が革命の最前線に立ったときに、三島由紀夫の楯の会はその阻止への先頭に立つだろう。自分はそのときに三島と斬り合いをするのだ、と村上は言っていた。当時、ぼくは吉本隆明の主宰する同人誌「試行」を読んでいて、村上一郎もそこに文を書いていた。それで、かれの単行本「志気と感傷」を買って読んだことがある。1943年には海軍に入隊している。「北一輝論」を書いたとき、三島は絶賛したらしい。
 しかしながら昭和の2.26事件の捉え方も三島は青年将校らの純粋性を重くみるが、村上はあの事件が成功していたら日本はどうなっていたか、と考える事件と捉えた。村上一郎は三島由紀夫をどこかよく似た、しかし決定的に違う好敵手であった。ぼくはそのくらいのことしか知らない。
 彼の自害は1975年(昭和50年)3月29日だと、今になって確認した。ぼくは1971年くらいの自害だと思っていたのが、三島の自害から4年半も経っていたことに驚いたのだった。あの頃の時系列がうまく整っていない。思えばぼくはその間にイギリスに一年行っているし、帰ってから大学の留年もしている。外にでることも少なく本ばかり読んでいた。この頃は難解なものを読んでいた。マルクーゼ、ベルグソン、吉本隆明・・・。すでに社会に存在するレールからは外れていた。

 三島由紀夫が死んでから、1971年の新入生が入ってきた時期は学生の雰囲気もガラリと明るく、カラフルにもなった。ぼくの友人たちは2年生を終えてスペインへ、オランダへと留学をした。学生も三島由紀夫も巻き込んだ政治の季節は終わっていたのだ。ぼくは一年間結構危険なアルバイトをして、旅費をかせぎ、3年生を終えてからの留学に備えた。学生運動家も、長い髪を切って企業戦士となっていった。その団塊の世代がその後の日本経済を牽引し、今もその人口の多さから良かれ悪しかれ、日本社会大きな影響力を持つ。
 政治の季節の終わりの始まりのとき、三島由紀夫は自分の生い立ちも、自分の思弁も、自分の美意識も、自分の筋肉も立ち切った。村上一郎は資本主義の成熟で行き場所がないように56歳で死んでしまった。
 ぼくのような人間がロンドンで勉強ができたのも円が高くなったためである。日本はすでに三次産業が60%以上を占める社会に変化していた。一億総中流社会はほぼ達成されていた。

 三島由紀夫は達観していればよかったのに、と思う。学生などと論じあってもしかたのないことなのに、と思う。遅れて肉体を発達させた三島は言葉はすでに熟成しきっていたが、筋肉をつけ肉体を改造することで、学生とよく似た気分に駆り立てられた。脳のマトリックスが換わったように思える。その新しい脳で若者を近くから見てきた。東大闘争は興奮に充ちていた。豊饒の海最終巻、老成した本多繁邦の最後を書き終え日付を記し、彼は仲間と集合し、市ヶ谷に向かったのである。これには自分は「文学的に死ぬ」ということも意識されているようにも思える。三島の乳児期は母を奪われ、病床の祖母に溺愛されたのだった。頭脳は言葉の面だけで早熟であった。それらも全部含めて、自死、心中。決行は1969年では早く、1970年の安保延長を待ち、若者の純潔性が終わった時期と重ねたのではないか。
 大澤真幸の三島論を読みながら、ぼくはそう考えてしまう。