25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

セッション

2017年10月15日 | 映画

 思えば、親子である種のスポーツ競技を幼い頃から励んできたゆえの成功者が世に出ることがある。成功するものはわzかばかり。成功に及ばなかった彼ら、彼女らはどのようにこころの始末をするのだろう。陽が当たるほんの一点。その他は影の部分である。彼らは陰をどう生きるのだろう。

 アメリカ映画の「セッション」は親子とは関係のない話である。主人公は音楽大学に通うドラマーである。ジャズのフルバンドでその腕を発揮し、ドラマーで食っていきたい。高校の教師である親はミュージシャンという職業に敬意を払っていない。

 彼は一人のカリスマ的な教授に呼び出され、フルバンドに加わることになる。ここはしのぎを削る場である。教授は口汚くののしり、無能だと、言いまくる。視聴者にはわからないわずかなテンポの速さや遅さにを敏感に感じとる教授。かれは好きな人とも別れて、練習に練習をする。教授についていこうとする。それでも教授は彼の腕をなじり、クソミソに言うもである。集合場所に到着するにも、運悪くバスが故障し、レンタカーで行くにも最早間に合わない、というところで交通事故を起こす。それでも彼はコンサートで演奏する場所に向かいドラムを叩くのだ。手、指は動かない。バンドを台無しにしてしまう。ほとんど彼は狂ってしまっている。

 父親は教授を訴え、教授は大学を辞め、町のジャズバーで演奏をしている。彼は茫然とした日々を過ごしている。彼の闘いはこれから始まるもである。

 ピアノ、バイオリン、絵画などで生きていける人は数少ない。どこかで折り合いをつけなければならなくなる。その折り合いをつけるかどうかの線上をこの映画は描いている。

 複雑な感想を持ったが、彼は口汚い教授との闘いを克服したのであった。それはプロになる者の一人である。音楽とはこれほど難しいものなのか。浮かべるは友の剣道八段への挑戦。狂うしかないのか。映画はそう言っていた。