25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

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2015年03月08日 | 音楽
 昨日もまた音楽CDを探すのに名古屋まで行った。ヴェートーベンが音楽概念を変えるといって作った「大フーガ」「弦楽四重奏曲代番」が手に入った。
 僕は全くクラシック音楽には素人なので、まず、とりあえず、クラッシック音楽として残っている作曲家のCDを買い、とりあえず聞いてみることにしている。
 クラシック音楽は「気分を落ち着け、癒し、あるいは感動するためにある」という楽しみ方をする人もいるだろう。あるいは曲の構成とかオーケストレーションなどの細部に興味を示したりする人もいるだろう。あるいは同じ曲を別の楽団や指揮者が演奏するとどうなるのかと楽しむ人もいるだろう。僕は、きっと比較の方にいき、一番気にいったものをいつしか選び出し、それを何度も聴く、ということになるような気がする。

 村上春樹に凝ったと思ったら、今度はクラシックに凝ってしまった。今、様々な作曲家のものを聞いている。楽団や指揮者に関経なく、ブックオフなどにあるものを買いあさり、聴いている。

 今ひとつ言えることはブラームスのハンガリー舞曲は僕はウィーンフィル(指揮者 クラウディア・アバド)のものよりもリュプラナ・ラジオ・シンフォニー・オーケストラ(指揮者 アントン・ナナット)の方が好きだ。テンポがややゆっくりであるが、なんと言うか野性味、民族味があると言ったらいいのだろうか。すると今度は小澤征爾のものはどんなだろうかと思えてくる。そういうことが楽しみだ。

 音楽という学問は古代ギリシャの時代からあったらしい。それは数の理論でもあった。音楽には「宇宙の音楽」があり、「人間の音楽」があり、「道具の音楽」があると考えられた。ひとつの弦の長さを半分にすると音は1から高い2になるとい風に考えていく先に楽器の誕生があった。9世紀頃にメモのような楽譜ができ、それが発展して今の五線譜になった。演歌も五線譜で表現することはできるし、こぶしも表現することができる。(バリ島のガムラン音楽は楽譜がなく、見て、聞いて覚えるものである。)
 ひとしきり音楽の歴史も勉強している。
 それが楽しい。もちろん「こころと身体」のことも依然として興味を持ち続けている。