25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

記事のタイトルを入力してください(必須)

2015年03月21日 | 映画
 映画「山桜」(藤沢周平原作 監督篠原哲雄)を真夜中に観た。3回目である。3回ともなってくると違った面にもっと意識的に気がつくことがある。

 あらすじは、江戸後期の北国の藩。小金を貸し、利息をとって喜んでいる義父。時の権勢に要領よくついていく夫。意地悪な義母。そんな不幸な結婚生活に耐える野江(田中麗奈)。映画は山桜を大きく映すところから始まる。出会いの暗示映像である。野江はある日、1本のその山桜を見つける。花に手を伸ばすと1人の武士(東山紀之)が現れるが、彼は野江が今の婚家に嫁ぐ前に縁談を申し込んできた相手、手塚弥一郎だった。凛とし、優しい弥一郎だった。昔、剣術をするも男の野卑さを見て偏見をもっていたので、その縁談を断ったのだった。一本の山桜を枝を折り取り、自分を気遣ってくれる人物の存在に勇気づけられる野江だったが、手塚は悪政をたくらむ藩の重臣を斬ってしまう。 この時に映像は暗雲立ち込める風景から始まる。農民たちの悲惨な生活が描かれる。
 
 やがて色づく紅葉の映像があり、厳しく耐える冬の予感があり、弥一郎は饑饉の中でさえも税を貸し、払えないものの田を召し上げる政策をすすめる藩の重心(村井国夫)を斬る決意をし、城中で堂々と斬ってしまう。一方野江は離縁し、実家に戻る。雪が降り始め、厳しい北国の風景が映像にでてくる。弥一郎は牢にいるままである。切腹はとうに覚悟している。野江は実家で静かな生活をしているが、長男も成長してくることからどこかに一軒家はないか、そこで縫い物でもして今後一人で生きていこうと思い初めている。だが、弥一郎が折ってくれたあの桜の一事がわすれらない。長男の弟は弥一郎を尊敬している。嘆願書をだそうと父に意見するのも、野江は聞く。弥一郎の行為をよくやってくれたと思う重臣も、農民も多い。父は殿が春になると帰国するので、裁断を殿に一任するといことだ、と言う。やがて、雪解け水が小川を流れ、風景がうっすらとした雪景色になる。野江は弥一郎の母が住んでいる家に出向くが勇気がでない。
 
 野江の母と早くに死んだ叔母の墓参りをする。そこで叔母がどうして一人で、嫁ぐことはなかったのかを聞き、叔母には縁談があり、婚約もすましていた夫になるはずであった男が急死してしまったことを教える。病弱だった叔母は「それで幸せだったのではないあ」と野江は思う。墓参の帰り道、母は、「あなたはちょっと回り道しただけですよ」と暗に弥一郎のことが気にかかっている野江にそんな言葉を言う。
 
 映像は雪の風景がなくなり、野辺に小さな黄や、白や紫の花が咲き始める。そしてまたあの桜の木の下に行く。野江は弥一郎の母のところにいく決意をする。野江は「ごめんくださいませ」と呼びかける。手には桜の花がついた枝を持っている。弥一郎の母が出てくる。
その立ち居振る舞いはさすが富司純子である。自分がなにものであるか告げると、弥一郎の母はちょっと驚いたように微笑み、「弥一郎はよくあなたのとを言っていましたよ。嫁いだことを知ると怒っていましたよ。」「でも、あなたがいつかここに来てくれるだろうと私は思っておりました」と言って、家の中に招き寄せる。二人で弥一郎を待つことになる。やがて大名行列の場面があり、一青窈の歌が流れ始める。「栞」という歌である。

 映画全体の音楽はチェロソナタである。静かで寡黙な映画だが、北国の風景が巧みに物語を暗示している。僕はまた一人涙を浮かべたのだった。何かこみあげてくるカタルシスがあるのだ。おそらく時代劇の名作である。