25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

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2015年03月28日 | 日記
母親を月1回。九鬼の診療所にいくのに、付き添いをする。もう尾鷲総合病院の整形外科では治療がないため、内科的な薬がだせないためである。交通事故が2014年の2月11日に起こり、すでに1年と2ヶ月になろうとしている。事故前の母と事故後の母はずいぶん違っているが、変わらないのは「生きる意欲」を保っていることである。
 母は尾鷲生まれであるが、12歳の頃から20歳まで大阪で育った。河内長野の義姉の家が軍需の部品製造で景気がよかった。それで義姉は母を養育してくれたのである。大阪のどこか知らないが、高等女学校を出て、大手の銀行に就職した。敗戦とともに、昭和20年、母は尾鷲に帰ってきた。兄と妹が尾鷲にいた。

 母の父親は相撲の尾鷲巡業のときに脳溢血で死んでいた。残った妻(母の母、僕の祖母)は気の強い、辛抱強い女であった。母の兄が尾鷲の女性と恋愛に陥り、子供まで孕んでしまったというのに、その母は頑迷に反対した。生まれた子供を引き取ることまでした。彼女はその孫と一緒に暮らすことになった。母の兄は職人的な才があって高度経済成長期にのって、零細企業の主となった。当然、新たなお嫁さんももらった。そのお嫁さんが他の女が産んだ子供と夫の母を忌み嫌った。母の兄は尾鷲から遠ざかった。
 
 一方で、母の妹は気立てのよく、明るく(僕もおぼえている)いい女性だった。だがいい人ほどというか、男のストーカーに会い、それで苦労したようだった。彼女は公務員と結婚したが、38才で胃がんで死んだ。残った長男と次男は憐れであった。僕はその長男を励まし、大学にいくことをすすめ、1年間、自分のアパートで面倒をみた。面倒をみたというより、住む場所を提供したにすぎないのだが、彼は、無事に大学に合格した。それもつかの間、今度は父親が気の狂ったような男に半殺しのめにあった。その事件以後、彼は大学に戻ることはなかった。次男の方はトラックの運転手になった。

 祖母に育てられた母の兄の子供は、43歳で自殺した。彼は生前、母親と父親のこと、新しく作った家族、それも妻ではなくて子供のことばかり言っていた。おそらく家族の形成のしかたがわからなかったに違いない。自分が父としてどう振舞っていいのかわからかったのだ。

空虚であるが、次に若葉の季節を迎えることへの移ろいの時期でもある。
 89歳になる母とそんな話をしながら生き還りをした。母の診療を待つ間、九鬼の沿道で、釣りをしている人を見かけたので覗いてみた。ガシが一匹とグレが2匹バケツに泳いでいた。話できいたことが夢のごとく、なんでもない歴史の話のように脳の中を通り過ぎていく。母はと言えば、自分の妹が何で死んだのか、記憶も定かでない。なんだか、この歳までくれば「なんにもない」というところまでいくのだろうか、とふと思った。それが現実なのだ。