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気ままに…

思い出のいとぐちにと

心に沁みる歌 8月6日に

2006-08-06 | 思い出

原爆が広島に投下されて61年の歳月が経ちました。私には中学生の時に覚えた忘れえぬ歌がありますが、それは「原爆を許すまじ」という歌でした。自分と原爆との直接のかかわりはありませんが、父が太平洋戦争で戦死しているせいもあってか、この歌を聴くと自然に涙が込み上げてしまいます。
原爆を身に沁みて恐ろしいと実感する方々が少なくなり、若い人のなかには聞いてもあまり分からない人達が増えてきました。忘れた頃にやって来るといわれる災害とは違う、自分達の意思で行う戦争は絶対起こしてはいけない事と思いますし、それには核は持たない方が良いと思っています。
人の一生、せっかく授かった命を大切にして誰もが平和に過ごせる世の中になるよう祈ります。



*  原爆を許すまじ  *
浅田石二作詞・木下航二作曲

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ふるさとの街焼かれ
身よりの骨埋めし焼土に
今は白い花咲く
ああ許すまじ原爆を
三度(みたび)許すまじ原爆を
われらの街に



ふるさとの海荒れて
黒き雨喜びの日はなく
今は舟に人もなし
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
われらの海に



 ふるさとの空重く
黒き雲今日も大地おおい
今は空に陽もささず
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
われらの空に



はらからの絶え間なき
労働に築きあぐ富と幸
今はすべてついえ去らん
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
世界の上に
 
     広島平和記念資料館  http://www.pcf.city.hiroshima.jp/top.html    のホームページです




かえるとおたまじゃくし

2006-06-17 | 思い出

★
学校にあがって慣れてくると、だんだんと友だちもふえて、家まで遊びに行くようになりました。そのなかにYくんがいましたが、Yくんの家は昔からの大きな漬物屋さんで、庭に荷物を運ぶためのトロッコが置いてあって、倉庫にはハシゴのかかった、自分の背丈の何倍もあるとても大きな樽が、いくつも並んでいました。その樽で漬物をたくさん作っていたのでしょうね。お休みの日は誰もいないので、置いてあるトロッコに乗ったりあたりを探検したりして、面白くて時間の経つのも忘れて遊びました。ある日Yくんが大切な物を見せてくれるというので、わくわくしながら後についてゆくと、お風呂場に連れてゆかれましたが、それは家のと違って大きな岩風呂で、その岩にチョコンと緑色の可愛いカエルが一匹はりついていました。それがアマガエルでしたが、色の綺麗なのと、もの珍しさで、しばらくじっと眺めていたことを覚えています。

う少し大きくなってからは、バスでひと停留場ほど離れた場所にある農事試験場へ、友だちと歩いて遊びに出かけ、そばの堀で、手ですくうとぬるっとした感じのする、音符のような形の黒いおたまじゃくしをたくさん捕まえて、ビンに水を張った中で泳がせて、みんなで意気揚々と家に持ち帰ったものでした。
その頃、試験場の池にも、少し茶色がかったとても大きなおたまじゃくしがいましたが、「おたまじゃくしのオバケかな!」と言って、何となく気持ちが悪くて、誰もそれを捕ろうとは思いませんでした。
持ち帰ったおたまじゃくしも、家の井戸端の大きな水桶に入れておくと、だんだん足が生えてきて、そのうち興味がなくなりあまり見なくなって、気がつくといつの間にか一匹も居なくなっていました。
* 農事試験場は今の運動公園の所だったような気がします。

 日本のカエル http://www.hkr.ne.jp/~rieokun/frog/jpanfrog.htm と、
 アマガエル写真館 http://siguiente.hp.infoseek.co.jp/という、チーチャンに教えて頂いたホームページです。








心に残った言葉

2006-05-25 | 思い出




母が思い出すのは、子供の頃一緒に居たお祖母さんからいつも聞いていた
『「ありがとう」と「ごめんなさい」をちゃんと言える子にならないといけないよ』
と言われた言葉だそうです。
お祖母さんは皆がちょっとした事をしてあげても、とても喜んでくれて「ありがとさん」と言ってくれたことが忘れられないと言っていました。


そして…
★

この習字は父が小学校を卒業して家を離れ、知り合いの家にお世話になっていた時に書いたものです。後になってからお椀を包んであったものが残っていて、懐かしいので私が貰っておきました。
一人前になってから一緒に仕事を出きるのを楽しみに、まだ子供の父を手もとから離した祖父の後々の淋しさと大変さがよく分かります。
祖父は弟にはとても厳しく、悪い事をすると黙って孫の手で叩いたそうですが、弟を母から離して遠くに修行にやる事が出来なかったと聞きました。
弟はガキ大将でイタズラだった様で、壊した学校のこし板などを祖父が直しに行って後始末してきたそうです。そしていつも暗くなるまで表で遊んでいたので、私はあまり一緒に遊んだ記憶がありませんが、大人になってからはずい分世話になりました。






  久し振りに、「 美人の日本語」から… 今日は   一入 (ひとしお)    
もともとは、染色の時に、染料に一度浸すことをいうそうです。
染料に浸すごとに、色は濃くなり深くなって、
水色→水浅葱→浅葱→薄縹(うすはなだ)→浅縹→納戸→藍→紺→かち色→濃紺 へと。
人の感情も染め上げられるたびに、深みを増してゆくのでしょうか。
そして純粋な色も綺麗ですが、深い色には奥深い魅力を感じます。とありました。






紙芝居

2006-05-15 | 思い出

小学校にあがってからの楽しみは、放課後にクラスの友だちや近所の友だちと皆で色々なことをして遊ぶことと、そしてもうひとつは 紙芝居 がありました。

紙芝居のおじさんがやってくると、いつも遠くからカチカチと拍子木の音が聞こえてきます。母親にもらった小銭を握りしめて駆けてゆくと、もう顔見知りの近所の子供たちが集まって来ていました。おじさんは大方集まったのを見計らって、子供達から小銭を受け取ると、割り箸の先に水飴をくるっと丸めてつけて渡してくれました。それを受け取るとすぐになめないで、両手に割り箸を持って透明な水飴が銀色に輝くまでぞれぞれがグルグルと練り続けましたが、時々紙芝居に夢中になって水飴の垂れるのも気がつかないこともありました。紙芝居は続きがあって、どうなるのかもっと知りたいところで終わってしまいます。するとおじさんは、水飴の一番白く光っている子におまけをくれて、「又あした(?)ね」といって自転車に乗って帰ってゆきました。面白いのや恐いのや様々なお話がたくさんあるので、飽きることはありません。
その紙芝居屋さんのおじさんが来るのがとても待ち遠しかったです。

http://www.alps.or.jp/match/shibai/index.html ← 「紙芝居の部屋」のホームページです

 ちんとさんに紙芝居博物館のホームページを教えて頂きました。
http://www.digital-lib.nttdocomo.co.jp/kikakuten/kamishibai/kamishibai2/index.html
そして懐かしい「黄金バット」を楽しませてせてもらいました。

そうそう思い出しました。箱の中には水飴のほか駄菓子がたくさん入っていて、コンブも食べた事がありました。色のついたうす~い煎餅の間に水飴を挟んでいた子もいましたが、自分は水飴を練ったのが印象に残っていたのですね。


アマリリス

2006-05-14 | 思い出


思い出の歌です


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みんなで聞こう

楽しい オルゴールを

ラリラリラリラ

しらべは アマリリス


月の光

花園を あおく照らして

ああ 夢を見てる

花々の眠りよ


フランスみやげ

やさしい その音色よ

ラリラリラリラ

しらべは アマリリス


小学校の入学式も終わってじょじょにお友だちができると、放課後家に帰ってカバンを置いてすぐに学校にもどり、約束した友だちと一緒に桜の花びらに糸を通して首飾りを作って遊びました。
その時に2階の音楽室から聞こえてきたのがこの曲です。誰かがピアノを弾いていて、その音色を聞きながら何とはなく自分が今までよりずっとお姉さんになったような気がして、アマリリスの曲と一緒にその時の光景はずっと覚えています。(曲の題名とどんな花かは後になってから知りました)


http://classic-midi.com/index.htm クラシック MIDI ラインムジーク より 
とてもよい曲を沢山聴けますよ 
http://classic-midi.com/midi_player/mbox/mbox_Ghys_amariris.htm ←オルゴールMIDI ヘンリー・ギース「アマリリス」





叱られて…

2006-05-13 | 思い出


円盤のような形の真ん中に穴があいていて、それを口にはさんで吹くとピィ~ッと鳴るのが面白くて、吹きながら帰ってきました。でも家のそばに来ると今までの楽しさが消えて、この笛をみんなに見せてはいけない気がして、ポケットにしまいこみました。「ただいま~」と言って中に入ると、母に「どうしたの?」と、こまごまと聞かれ全部話してしまいました。何でわかったんだろう~ととても不思議でしたが、口の中や周りが真っ赤では誰にでもわかってしまいますね。

家が商売をしていたので、店にはお釣銭が何時も置いてありました。近所のお兄ちゃんがそれを持ってきたら遊んでくれるというので、そっとつかんで遊びに行き裏の駄菓子屋さんで買ってもらったのでした。薄べったくて四角いそのお菓子は、甘くておいしかったので遊びながらゆっくりなめていましたが、その時に口中が紅く染まってしまったようです。笛を隠してもすぐに分かるはずです。

お金を盗むような悪いことをしたので、叱られて表の土蔵の中に入れられてしまい、泣きながら「ごめんなさ~い」「もうしません」と叫んでも真っ暗で物音ひとつ聞こえません。誰も助けに来てくれないので、恐くて外に出たくて思いっきり扉を引っ張ってもびくともしませんでした。
その時間はたった5分も経っていなかったようでしたが、幼かった私にはとても恐くてか、お漏らしをしてしまったそうです。それは覚えていませんが、もうこんなこと絶対するまいと思いました。

お兄ちゃんの家には母が話しに行ってきて、後でその子は家の人にぶたれたそうですが、元気でそれからも遊んでくれたので子供心にもほっとしました。
お風呂に入れようとして着物を脱がせたらお金が1枚おちたことが前にも一度あったそうで、その時の事はまったく覚えていません。いけないことを繰り返して心配かけたから、そのおしおきで蔵に入れられてしまったんですね。
学校にあがる前の出来事で、蔵に入れられたのはその時だけでしたが時々思い出しました。



おやすみなさい

2006-05-10 | 思い出

物心のついた頃には父はいなくて、床の間に父の写真が飾ってありました。家族みんなでの夕食がすんで、最初にお風呂に入るのは祖父です。私はいつも祖父か祖母と一緒に入りましたが、祖父と入ったことで思い出すのは、母に叱られて泣いた後などに「どうして叱られたのかわかるか?」といって、やさしく教えてくれた事。祖母はお風呂に入ると“のざきまいりは~ やかたぶ~ねでゆこ~よ”などと楽しく歌を歌いながら両手で舟をこぐ様にして体をゆらゆらゆらしました。それから手拭いで風船を作ってくれたことなど楽しい思い出がいっぱいです。
お風呂から出ると明日着るものをきちんと自分でたたんで布団の枕元におき、それから茶の間にいるみんなに、座って「おやすみなさい」をして、父の写真の前でまた同じように挨拶をしてから布団に入りました。
それがいつ頃まで続いたかははっきり覚えていませんが、中学生になると挨拶はしても、もっと簡単になってしまったような気がします。




菜の花畑

2006-03-29 | 思い出





家の近くの畑にも菜の花が咲く頃となりました。
菜の花というと懐かしく思い出すことがあります。
小学校の正門を入ると正面に立派な玄関がありました。その建物の2階か右側の校舎の2階かさだかには覚えていませんがそこに音楽教室があって、春には東側の窓を開けると、外は一面の菜の花畑でよい香りが匂ってきました。辺りがみな黄色の世界でとても明るく、そこからの眺めが大好きでした。菜の花畑の先の方には仲良しのA子ちゃんの家があり、学校が終わると家にランドセルを置いておやつもそこそこに飛び出して遊びに行ったものでした。
菜の花を思うと、絵のようにその景色が浮かんできます。


                  
そしてこの歌も大好きです


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菜の花畠に、入り日薄れ

見わたす山の端(は)、霞(かすみ)ふかし

春風そよふく、空を見れば

夕月(ゆうづき)かかりて、におい淡(あわ)し


里わの火影(ほかげ)も、森の色も

田中の小路(こみち)を、たどる人も

蛙(かわず)のなくねも、かねの音も

さながら霞(かす)める、朧(おぼろ)月夜


ほっとした気持ちになれますね~