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気ままに…

思い出のいとぐちにと

終戦の日

2010-08-15 | 思い出
E子さんお花ありがとう

日は朝からテレビも新聞もその日に関わることを伝えていました。どれを見ても涙が溢れます。
父が戦死したのは自分が3才位で、弟は父に抱かれたこともありません。
戦時中のことは、幼かったので、後に写真を見たり人から話を聞いたことを、自分が本当に覚えているように思っているのかも知れません。
く母が話してくれたのは、空襲警報が鳴ると電気を消して皆で防空壕に入ったそうですが、緊張をほぐす為だったのでしょうか、みんなで私に歌を歌うと早く家に戻れるというと、お山の杉の子や予科練の歌を直立不動の姿勢で歌ってくれたと言っていました。覚えているのはその時の空が夕焼けのように真っ赤だったことです。
供の頃、家には空襲で焼け出されて疎開してきた親戚の人たちもいて、とても賑やかでした。
父が居なくとも大勢の家族に囲まれさびしい思いもせず過ごしてきましたが、自分がその立場になって、母の大変さを思いやることができるようになりましたが、それでも親孝行より心配のかけ通しで、今年90を迎え亡くなりました。二十歳半ばから今まで、自分のことは措いて家族のために尽くしてくれて、感謝の思いでいっぱいです。きっと父も「ありがとう」と出迎えてくれたでしょう。
の勧めでここ数年、弟の所と行ったり来たりの母でしたが、母の世話をさせてもらって本当によかったと思っています。そのひまわりのようだった娘と母の新盆です。

蓮を見に

2010-07-23 | 思い出


去年の今頃より1週間位早かったと思いますが、お友達Nさんに誘われ蓮の花を見に連れて行ってもらいました。今年は残念なことに出かけられないので、思い出して楽しんでいます。



 

隣町でしたが、朝5時頃に出かけてゆっくり眺めてきました。
車の中でのおしゃべりも楽しかったなぁ~   とてもよい日でした。


夢をみました

2009-03-12 | 思い出

赤ん坊をおんぶしていました。丸々と太っていて、それに眠ってしまったのでずっしりと重いのですが、背中の感触の何ともいえない心地よさです。目覚めてからも、もう少し夢の中にいたかったと思ってしまうくらい幸せでした。こんなに年老いてから、初めて母親になった頃の夢をみるなんて不思議です。



4月29日に

2008-04-29 | 思い出
日は天気が好いし、午後から出掛ける予定があったので、朝のうちはな・まるを連れて散歩に出掛けました。中学校の脇を通りかかると校庭で野球の練習試合が行われていましたが、中学生ともなると今まで見慣れていた可愛い小学生とはちがって、さすがお兄さんという感じで頼もしさをも覚えました。
の日は亡くなった夫の誕生日。夫が子供の頃、舅は近所の子供たちを集めては仕事の合い間にもキャッチボールの相手をするほど子供と野球が好きだったと、近所の人達からよく聞かされていましたが、残念なことに娘が生まれて間もなく亡くなられてしまって、優しいおじいちゃんに遊んでもらうことはできませんでした。

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お釈迦様の誕生日に

2008-04-08 | 思い出

今日は雨、結構強く降っています。いつもの用事で出掛けましたが、雨に濡れた花や緑が鮮やかでとても綺麗でした。

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数年前、池袋まで出迎えに来てくれたお友達と、目白のそのお宅まで歩いて一緒にお花見をしました。桜を眺めながらあちこちのお寺さんにもお寄りしましたが、丁度「はなまつり」が行われていて、華やいだ雰囲気の中お釈迦様に甘茶を灌いで誕生をお祝いし、神田川沿いをおしゃべりにも花を咲かせながら歩いたことを昨日の事のように思い出しました。
お友達とはその後何回かお逢いしましたが、懐かしさが募ります。


手紙

2007-09-30 | 思い出

今日は朝から静かに雨が降っています。数日前の暑さが嘘のように肌寒く、物寂しさを感じました。何をするともなく、以前から片付けようと思いながらも其の侭になっていた部屋の引き出しをあけると、ある手紙が目に付きました。
拝復 曼珠沙華が簪の様な美しい花を咲かせる様になりました。その日から急に気温が下がり秋らしさが増して来ました。これで漸く暑さ寒さも彼岸迄と言うたとえが生きる様な気がいたします。
と、認めはじめているその手紙で あの日 のことが昨日の事のように鮮明に思い出され、懐かしさとともに無常さをも思い知らされました。いつも元気を分けてくれた友の笑顔とはもう二度と逢えないのです。このお手紙をくださった温和な老紳士Sさんはお元気にお過ごしでしょうか…。


お正月に

2007-01-04 | 思い出



    初春のおよろこびを申し上げます。今年もよろしくお願い申しあげます。



子供の頃、お正月の楽しみと言うとお年玉は勿論でしたが、綺麗な絵の描かれている羽子板で羽根突きをしたり、福笑いやいろはがるたをして遊ぶ事でした。
普段は忙しくて、家族揃って遊ぶ事はほとんどありませんでしたがお正月だけは別で、小学校も2~3年生になると百人一首の仲間に入れてもらうようになり、祖父が詠んでくれて家族みんなで楽しみました。
その時に最初に祖母が教えてくれたのが
僧正遍昭の 天津風 雲の通路 ふきとぢよ  をとめの姿 しばしとどめむ という歌でした。その頃意味はよく解りませんでしたが をとめ だけはよく覚えておいて、その札だけは誰にも取られまいとじっと目を凝らして見つめていたことと、その時のみんなの笑顔を懐かしく思い出します。

今までに、去年ほど多く親しくして下さった方々との永久の別れをしたことも無く、暮の押し迫ってからの訃報もあって、年末年始も何もやる気がなくだらだらと日が過ぎてしまいましたが、そのような年配になったものとつくづく感じられ、尚更日々を大切に過ごさなくてはいけないと思い直したところです。



お風呂

2006-11-27 | 思い出



朝「お母さん、夕べ髪を洗って体をよく流さないで入ったの?」といわれました。「ちゃんと流しましたよ」というと、髪の毛が沢山浮いていたと言うのです。
「え~っ!!」と言いつつも…
沢山とは大げさなと思いましたが心当たりはありました。晩くに入ったのでてっきり自分が最後と思って気を緩めてしまいました。そうでなくとも最近特に目が悪くなって、眼鏡をかけないと細かい物が見えにくく、眼鏡を外している時がなくなりましたが、お風呂には外して入ります。いつもは出てから眼鏡をかけて見直すのですが、流してしまうのだからと其の侭にしてしまいました。寒くなるとさっと流して入ってしまい、温まってからゆっくり洗う事がおおくなりました。勿論タオルを湯船に入れたりはしませんが、当たり前のことをちゃんとしなければいけませんね。

思い出しましたが、子供の頃はお風呂には井戸から水を汲み入れていました。水道がない時代ですから今のように便利に蛇口からお水やお湯が出るわけではなく、もちろんシャワーなどありません。お風呂で使う水はバケツで運ぶのです。家族も多かったので最後の人まで気持ちよくお風呂に入れるように、お湯を汚さぬよう初めに体を洗い綺麗に流してから入り、坊主(手拭いで空気を包んで膨らませる)を作ってもらう時は別でしたが、風呂桶の中には手拭いを入れないようにみんなで気をつけていたようです。
母はその頃からず~っとそうしていると言っていました。




菊の花の香りに

2006-11-16 | 思い出


 懸崖 
というとまっ先に思い出すのは祖父のこと、
おじいちゃんです。
物心のついたころには裏庭に何十鉢もの鉢が置いてあり、祖父が丹念に菊を育てていました。1本立て、3本立て、懸崖などと見せ方も色々あって菊の種類や色も異なっていましたがそれを立派に咲かせて、文化の日に隣町の 氷川様 で毎年行われる菊花展に、出展するのを楽しみにしていました。
その時にみんなに一番きれいに咲いているのを見てもらうには、手入れを怠れません。蕾みを持つと尚更大事にして、雲行きがあやしくなると屋根の下に鉢を取り込んだり(それは母も大分協力していたようでしたが)、蔵の中に入れて咲く時期を調節したりと忙しそうでしたが、日あたりの好い縁側に腰を下ろし、祖父が運んできた鉢の菊の花びらを愛おしそうに1枚1枚筆先で注意深く整えているのを、見ているのが好きでした。菊花展の前日にはダットサン(荷台のついた車)の荷台いっぱいにその花達を乗せて、叔父達が気をつけながら祖父と一緒に氷川様まで運んでゆきましたが、私も一緒について行った事があります。
展示会では祖父の菊の花にいつも金の短冊がキラキラと輝いていて、子供心にもとても嬉しくておじいちゃんを誇らしく感じたことを覚えていますが、今はそれがとても好い思い出になっています。


 一番手前の羅漢様が… 
の写真と上の菊の写真は、数年前に初めてパソコン教室のお友達と一緒に「デジカメ講座」で川越の 喜多院 に行き、その時に写した写真です。

そして 五百羅漢 を見ましたが、そのお顔の中に誰か知っている顔に出会うとか聞いていましたが、まさかそっくりな顔に出逢うとは思ってもいませんでした。息子にそっくりでした。このような所で出逢えるとは…
とても嬉しくなって仏様に感謝しました。

 下線の引いてあるところはリンクします





運動会

2006-09-25 | 思い出

動会で思い出すのは小学生の時の事で、その頃は生徒達の家族が校庭にゴザを敷き、そこに座って応援してくれていて、お弁当は一緒に校庭で食べることができました。お昼になると、母が張り切って作ってくれたお重のなかの色とりどりのお料理を家族や友達、そして周りの人達と分け合いながら食べて嬉しかったことと、まだちょっと青いみかんの香りが1番の思い出です。
分は運動は苦手で、応援してくれる声が聞こえると、その方によそ見をしながら走っているので、もちろんびりの方でした。せっかく観に来てくれた祖父は、いつも私にはがっかりしていたようです。「ekoは、いつもどうぞお先に…、どうぞお先に…と走っている」と言っていました。それに引き換え運動が大好きな弟は、毎年種別ごとに選手に選ばれて大活躍なので、観る回数も多く応援する張り合いもあって、多分それが楽しみにみんな来てくれていたのかもしれません。私にとってもその時は弟を誇らしく思いました。
んな私が忘れられないのは、遊戯で「野菊」を踊った事で、大好きなその歌を聴くと、多分3~4年生の時だったと思いますが、途中で転校してきて暫くして又引っ越して行ってしまった友達のことを、そんなに親しい間柄ではなかったのですが思い出すのです。
             
http://www.mahoroba.ne.jp/~ ←なつかしい童謡・唱歌・わらべ歌・寮歌・民謡・歌謡  
 「野菊」は索引な行「の」の中にあります。


「南小最後の運動会」のようすです。