歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

昭和12年頃の東條耿一と北條民雄

2005-05-01 |  文学 Literature
昭和12年2月の「山桜」に掲載された東條耿一の「初春のへど」という文章を、私は、昭和12年1月の「山桜」に掲載された北條民雄の「井の中の正月」という文章と共に読んだ。それらがともに、昭和11年の「長島騒擾事件」、ストライキをした患者を「井の中の蛙」と批判した塚田キタローの文章に露骨に見られるような療養所の文藝の「あり方」に対する根本的な批判であるという、そういう文脈の中に置いて読んだのである。

塚田キタローが昭和十一年の山桜に発表した文と、それに反論した北條の「井の中の正月」という文は、所謂療養所文藝がいかなる時代に如何なる状況の下で書かれていたかを知る重要な資料である。この時期の東條耿一と北條民雄の文学に対するスタンスは非常に近いという印象がある。

「文学をしなければ生きられないが、同時にその文学を軽蔑せずにはいられない」というジレンマに二人とも直面していた。

それは、北條民雄の日記の中にはっきりと現れている。とくに療養所文學ー当局の管理の中で、慰安と教化の方針のもとに編集された文学-の限界を彼等は感じていたはずである。

北條民雄は、マックス・シュティルナーの「唯一者と所有」一冊をもって療養所の外に飛び出し、自殺を常に念頭におきながらの放浪の後で、どうしても死にきれずに療養所に舞い戻り、再び文芸の創作に戻る。しかし彼は、心身の疲労から腸結核になって、この年から重病棟に入る。こういう北條を東條耿一は側にいて、つぶさに見ていたはずである。この時期のふたりの文章に、このシュティルナーとニーチェへの言及が見られるのは、この西欧の思想家のかいたものに共感するものがあったからだろう。「初春のへど」は様々な二律背反に苦しむ東条の分裂した姿を提示している。

更に、この「初春のへど」で重要なのは、三好達治の詩を引用して
「君よ、この詩を心ゆくまで味わつて見給へ。この一篇の作品の中に、清澄な音楽と、渺茫とした味はひが如何に巧みに秘められ表現されてゐることだらう。この詩の情操してゐるものは作者がその心の中に、魂のもの侘しい薄暮を感じ、頬白の啼いてゐる風景の中で、その心に擴がつて來る薄暮の影を、侘しく悲しげに凝視してゐるのである。」
と書いているところであろう。東条はこういう三好の様な詩を書くことを目標にしていたからである。

三好から東條が何を学び、それを自分の詩の世界で如何に展開していったかを知るために、まず「繍眼兒」という表題をもつ三好の詩を見てみよう。

     繍眼兒(めじろ)よ 気軽なお前の翼の音 身軽なお前の爪の音
     嘴を研ぐ微かな剥琢(はくたく) 日もすがら私の思想を慰める
     お前の唱歌 お前の姿勢  さてはお前の曲芸
     それら 願わくば なみされたお前の自由よ やがて私の歌となれ

昭和10年11月に四季社から刊行された「山果集」に収録された三好達治のこの詩の反響を東條耿一の作品集にたしかに認めることが出来る。三好達治からの詩法、ないし詩語の影響を受けつつ、東條はみずからの生活世界の直中に於いて、それを受けとめ、その意味するものを変容させ、新しい世界を造形している。ここでは、

昭和15年に書かれた東條耿一の短歌集「静秋譜」から、おなじく繍眼兒を主題とするものを紹介しよう。

  黐棒の尖端(さき)に小鈴をつけむ小禽(ことり)来て宿らば忽ち呼鈴(べる)とならむか

  わが眼はや十尺(とさか)前方(あまり)はおぼつかな黐棒(はが)の小鈴の鳴りをし思ほゆ

  一枚の木の葉の如くぶらさがり繍眼兒は黐(は)に驚かずをり

黐棒(はが)というのは、メジロをつかまえる鳥もちの棒のことである。多磨全生園は当時も今も野鳥の多いところで、北條民雄も、とりもち棒で野鳥を捕らえようとする入園者の姿を短編小説に書いている。

第一首は、その棒の先に小鈴を付ければ、それに小鳥がとまって「盲人を導く鈴」(盲導鈴)となってくれるだろう、という意味である。当時は、作者の目が悪化し、10尺前方もみえなくなってしまった、そのころの歌。

この短歌に出てくる繍眼兒(メジロ)は、三好の詩に於けるのと同じく、本来ならば大空を自由に飛び回る詩魂の象徴だろう。こころならずも療養所の不自由舎で盲目に近い生活をしなければならない当時の作者は、メジロに自分の姿を見ていたに違いない。

「願わくば なみされたお前の自由よ やがて私の歌となれ」という三好の言葉は、三好自身の生活世界の中で発せられた「言葉」であるが、それは、療養所で生活していた東條自身によって切実なものとして受容され、東條の世界に於いてあらたに生命を得て、その独自の心の世界の表現ともなり得た。

東條耿一が「初春の反吐」のなかでいっている「義務の文学」とは聞き慣れない言葉である。もっと分かりにくいのは「現実の負担を軽くする義務」という言葉。何かを東条はそういう言葉で伝えようとした。誰かの思想、たとえば悲劇の哲学、不安の哲学を説き、ドストエフスキーとニーチェを論じたシェストフの本などの影響があったのかも知れないが、あくまでも東條自身の生の文脈に即して、この言葉の意味をもういちど考えてみよう。

「現実の負担を軽くする権利」と言うのならば、現代の我々にはわかりやすい。病人には、病苦を軽減する措置を療養所に求める「権利」がある。しかし、東条は「権利」ではなく「義務」といっている。底本を確かめてみたが、これは誤植ではない。

すると「現実の負担を軽くする義務」というのは、どういう意味か。それは文学作品、詩歌の世界に逃避して、慰めを得るということでは決してないだろう。それでは「慰安の文学」になってしまい、北條や東條がもっとも唾棄したものとなってしまうだろうから。

おそらく、「現実の負担」は、そこから逃避することによっては、決して解決されない、それを軽減するためには、その負担を負うことを自らの義務として引き受ける事によってのみである、という決意のようなものが、そこで語られているのではないか。

私は、この「義務」という言葉の使用そのものに、外的な権利主張とは異なるもの、きわめて内面的なもの、彼自身に固有なものにたいする責任、あえていえば「自己の存在に対する責任」を感じる。

北條民雄も又、川端康成宛書簡で次のように言っている。
「この作、自分でも良く出来ているような気がしますけれども、また、大変悪いんではあるまいかと不安もございます。結局自分では良く判断が出来ません。けれど、書かねばならないものでした。(中略)先生の前で申し上げにくいように思いますが、僕には、何よりも、生きるか死ぬか、この問題が大切だったのです。文学するよりも根本問題だったのです。生きる態度はその次からだったのです。」
「最初の一夜(いのちの初夜)」は、自分の生死を賭した問題に迫られて、「書かなければならぬ」ものであるから書いたと、北條ははっきりと言っている。文藝作品としての善し悪しなどは、二の次であった。北條のこの代表作こそ、彼が自分の存在に対して責任を負い、そこから逃避せずに、負担に満ちた現実を真正面から引き受けて書いた作品、東条の言い方を借りれば、「義務の文学」の初心に貫かれた作品のように思われる。
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