歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

コスモスと実存 主体主義の原理の再定式化(2)

2007-04-19 | 哲学 Philosophy

物理学に適用されたデカルト的主体主義は、単に外的関係をもった個体的に存在する物体というニュートンの仮説になった。われわれは、デカルトが物体の第一の属性として記述したものは、実際は、現実的諸生起間の且つ現実的諸生起内の、内的関係性の形式であると考えることによって、デカルトと分かれるのである。こうした思想の変化は、物理学の基底的な思想としての、唯物論から有機体論への転換である。

 単なる外的関係を持つ実体としての物質の概念は、ホワイトヘッドが「空虚な現実性」と呼んだものに該当している。「空虚な現実性」とは、「主体的直接性(subjective immediacy)を欠いた真なる事物(res vera)」(PR29 という概念を意味している。このような空虚な現実性を否定することは、有機体の哲学にとって本質的である。(PR29) 現実的なものは、すべて、主体にとって、直接に与えられるということは、近代の主体主義においては、独我論に直結する危険性をもっている。他我や外界の存在は、主体としての自我に内属する所与からの構成としてしか位置づけられないからである。主体が実体的なもの、主語的なものとして捉えられる限り、複数の活動的存在が主体として並存するという事態は哲学的な隘路となる。

  独我論の隘路から抜け出せない近代哲学の主体主義と違って、ホワイトヘッドのいう「再定式された」主体主義は、主体を実体ではなくて、出来事ないし生起(occasion)として捉える。より厳密に表現するならば、主体とは、現実的な経験の生起(actual occasion)のただ中において目指される(aimed at)ものなのである。最初に独立した主体がものとしてあって、それが様々な経験をするというのではなく、経験の生起という出来事の中で、主体が形作られるのである。ホワイトヘッドが現実性と呼ぶ多くの事物は、相互に連帯しており、一つの活動的存在の成立にとって、他の諸々の活動的存在が内的に連関するということ、を肯定することなのである。

知覚に客体化された所与が露呈しているということは、それらが所与になっている直接的経験と共通性community をもっていること、として知られていることである。この「共通性」は、相互含意を包含している共通の活動性という共通性である。この前提は、有機体の哲学においては、始原的事実として主張されている(PR80) 。それはわれわれの生命の組織体のどの細部にも暗々裡に仮定されている始原的事実としてである。

主体そのものが、経験の生起において形成されるということは、我々が日常に前提している個人的な人格の同一性、物体の存続性など過去との連続性、未来に向けての革新性(novelty)が、改めて、「出来事的世界観」のなかで問題となるということを意味している。その都度の経験の生起において、過去の現実性が継承され、再活性化(re-enact)される仕方を記述しなければならない。プロセス哲学においては、これは、特に、生成論的分析(genetic analysis)と呼ばれ、『過程と実在』第三部の中心的な主題となっている。その際、中心的な役割を果たすのが、ホワイトヘッドが「相依性の原理」と呼ぶものである。この原理は、物理学の相対性原理 (the principle of relativity) と原語では同じ術語であるので、混同を避けるために「相依性の原理」と訳すことにした。物理学では、the principle of relativity (相対性の原理) は、あらゆる基準系が原理的に対等であって、絶対的な基準系が存在しないという特殊な意味をもっているが、形而上学の書物である『過程と実在』では、the principle of relativity(相依性の原理)は、ありとあらゆる「有」に適合するもっとも普遍的な原理として立てられているからである。

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