歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

絶対者の人格性と非人格性-1

2005-06-24 |  宗教 Religion
絶対者の人格性と非人格性をめぐって-人格的なるものと最も普遍的なるもの―

田中 裕



日露戦争で弟を亡くした西田幾多郎にたいして鈴木大拙は次のような英語の一四行詩を捧げて追悼の意を表している。(注1)

O human life, what a fragile thing thou art! 
ああ、人の命よ、汝はなんと儚いものか
A drop of dew on a weather -beaten leaf, 
風雨に晒された木の葉の上の露の一滴
By passers’ feet down-trodden; and how brief 
行く人に踏まれ、そしてかくも短き
Thy glitter! Too soon fated to depart 
汝の輝き!あまりにはやく逝く定め
To a region, who perhaps didst thou first start. 
おそらくは汝の来たりし初めの場所に
The mornful thought doth follow us like thief; 
弔う思いは秘やかに我らに従い
Heavily opressed we are without relief;  
打ち沈む我らに安息はない
Eternal void, would thou allay our heart!  
「永遠の空」よ、我らの心を癒やし給え
And yet ours is to strive, to weep, to bear;  
しかし我らの心は、苦しみ、泣き、忍び
Human are we, with fire in our veins burning; 
人である我らには血潮がたぎる
To Reason’s hollow talk let’s not concede. 
理性の空虚な話には耳を貸さぬように
Our tears run free, the heart its woes declare! 
涙を存分に流し、心は悲しみを叫ぶ
From every grief endured life’s lesson learning 
耐えた一つ一つの悲みから人生の教えを学び
Into the depths of Mystery we read.  
「不可思議」の奥底にそれを深く読みとる


この追悼詩のなかで、若き大拙が、キリスト教徒ならば、神(God)と呼びかけるべきところにで、「永遠の空」Eternal Void と云い、次に「汝(thou)」と呼びかけている事に注意したい。すなわち、キリスト者ならば

「神」よ、我らの心を癒やし給え     God, would thou allay our heart!

と人格神によびかけるべき場所で、大拙は

「永遠の空」よ、我らの心を癒やし給え  Eternal Void, would thou allay our heart!

と呼びかけているのである。そこでは、あたかも「空(eternal void)」が人格化され、「汝」として呼びかけられているかのようである。 大拙は、何故このような表現を使ったのであろうか。 
何故にEternal Void という否定的な表現から、「我々の心を癒す」べき「汝」という人格への呼びかけが可能となるのであろか。また、それは、絶対者の人格性、ないし、非人格性という問題に対して、どのような関わりを持っているのであろうか。

語の普通の意味に解するならば、Eternal Void は、肉親あるいは自分にとってもっとも親しきものの死に直面した空虚感、やるすべのなき感情であろう。 何によっても癒されることのない「空しさ」という意味が第一の意味である。それは、この世の儚さがもっとも切実に感じられる瞬間であろう。その「空しさ」は、理性によって克服されるものではなく、ただ「苦しみ」「泣き」「忍ぶ」という人間的な感情をそのままに吐露することによってのみ耐えることが出来る。そういう、全人格的な存在の根柢から「汝」という呼びかけが起きる。そして、「理性の空虚な話」には耳を傾けずに、「涙を存分に流し」「耐えた一つ一つの悲しみから人生の教えを学び」「神秘の奥底にそれを深く読みとる」ことを詠んで、このソネットは終わっている。

「永遠の空」といっても、それは佛教哲学で理論的に語られている「空性」のように、非人格的なものではなく、そのただなかから「汝」への呼びかけを可能ならしめるような「空」である。
この詩を捧げられた頃の西田自身もまた、鈴木の書簡に呼応するかのように、肉親の死に見舞われた友に宛てて次のように文を残している。(注2)
ものには皆値段がある。一人、人間は値段以上である、目的そのものである。いかに貴重なる物でも、そはただ人間の手段として尊いのである。世の中に人間ほど尊いものはない、物はこれを償うことはできるが、いかに詰まらぬ人間でも一のスピリットは他の物をもって償うことは出来ない。(中略)
今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていたものが、忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、いかなる訳であろうか。もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほど詰まらぬものはない。ここには深き意味がなくてはならぬ、人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。死の問題を解決するというのが人生の一大事である。死の事実の前には生は泡沫の如くである。死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることが出来る。

この西田の文には、あきらかに、人間を手段としてではなく目的として扱うべきことを説いたカントの人格主義の影響があるが、たんなる実践理性の倫理的な要請としてではなく、肉親の死という出来事に直面したときの個人の根源的な悲哀の情念と、それにもとづく全人格的な応答として書かれている。

哲学が絶対智を問題にするとすれば、それは、プラトンの「善」やアリストテレスの「不動の動者」のごとき非人格的・非歴史的なる超越者を志向するのが一般的である。ユダヤ・キリスト教的な宗教的世界のごとく、人格的・歴史的なる「神」への信仰は、哲学的知恵から見れば「愚かなこと」であり、理解しがたい世界である。しかしながら、「善の研究」の宗教論のテーマは「神」でり、最終章に付加された「智と愛」において、西田は、
神は分析や推論に由りて知り得べきものでない。實在の本質が人格的の者であるとすれば、神は最人格的なものである。我々が神を知るのは唯愛又は信の直覺に由りて知り得るのである。故に我は神を知らず我唯神を愛す又は之を信ずといふものは、最も能く神を知り居る者である。
と云っている。(注3)すなわち、当時の西田にとっては、人格的なる實在の本質は、非人格的なるものに向かう分析的知性によってではなく、「愛」または「信」という絶対者への人格的関係によってこそ認識されるものであったといえよう。

『善の研究』では、「意識現象のみが唯一の實在である」という実在論の立場がとられたが、当時の西田が理解していた意識現象とは知・情・意のすべての精神活動が含まれており、人格的存在と不可分のものであったと言ってよい そのような個人的精神の働きは、「神性の分化せるもの」であり、「各自の発展は即ち神の発展を完成する」ものである。我々が何事かを知るという働き、何事かを感じ、そして愛するという働き、何事かを意欲するという働き等、すべての意識現象の根柢にある「統一的或るもの」を「神」として人格的に把捉せしめる「愛」もしくは「信」の働きが強調されている。

我々の個人的な知情意の根柢に、分析的知性の及ばぬ人格的な絶対者を信仰によって直観するという議論は、鈴木大拙の「大乗佛教概論」(Outlines of Mahayana Buddhism)にも見られる。「善の研究」が西田哲学の原点ということが言えるとすれば、鈴木大拙の「大乗佛教概論」は、彼の佛教思想の原点が何処にあったかを我々に教える書でもある。この書は、二十世紀の米国の読者に向けて書かれた大拙自身の「大乗起信論」という性格をも持っている。それは、中国を経由して日本に伝えられた大乗佛教の伝統の中から、現代に通じる普遍性を持つ宗教思想を大乗佛教者として生きている大拙自身が主体的に選び取ったものであったが、大拙は、大乗佛教に於ける絶対者の人格性の問題と深く関わりを持つ「法身(dharmakaya)」の概念について、次のような注目すべき独自の見解を示している。 (注5)
法身は基本的に三種の面で我々の宗教的意識の中に映し出される。第一は知恵、第二は愛、第三は意志である。法身が知恵であることは、法身が宇宙の流れを盲目的にではなく合理的に方向付けるという言明から知ることが出来る。また、法身が愛であることは、それが一切の生き物を慈父の優しさで包み込むことから知られる。そして、それが意志であると考えざるを得ないのは、この世の一切の悪が最終的には善になっていくことを確固たる活動の目的にして居ているからである。意志がなければ、愛と知恵は現実化しないであろうし、愛がなければ、意志と知恵は推進力を失ってしまう。そして知恵がなければ、愛と意志は不合理なものとなってしまうであろう。実際、この三つの側面は互いに協力しあって法身の唯一性を成り立たせているのである。(中略)佛教者たち、とくに浄土系の佛教者達は、法身のうちに、全能の意志、すべてを包含する愛、そして一切を知る知恵が存在していると考える。しかし、彼等は、より知性的でない信奉者やちの心に、もっと具体的な表象を、もっと人間的な姿で著し出そうとする。そして其の結果、法身は絶対的なものであるにも関わらず、一切衆生を生死の苦しみから解放するために、自分自身に向けて祈るのである。しかし、法身が自己の内奥の本質から起こす、この自分自身に向けられた祈りこそが、まさしく法身の意志をかたちづくるものなのではないか。(But are not these self-addressed prayers of the Dharmakaya which sprang out of its inmost nature exactly what constitutes its will?)
ここで、大拙のいう「自分自身に向けられた祈りself-addressed prayers」という言葉に注目したい。この祈りは、自己自身に向けられた「法身」の祈りであるが故に、神々と人間との取引としての祈祷―相対的な祈り-とはことなり、絶対者としての法身自身の本性に従う自発的なる「意志」として捉えられている。すなわち大拙は浄土真宗に云う「本願」を、究極的には、そのような法身の「自己自身に向けられた祈り」として捉え、それを法身自体の「自らなる意志(spontaneous will)」と解釈しているのである。(注6)  

このような大拙の大乗佛教解釈は何処に由来するのであろうか。それを解く鍵の一つは、大拙自身が英訳した「大乗起信論」の真如熏習を論じている次のような箇所であろう。注7
普遍的な知恵と普遍的な意欲をもってすべての佛陀と菩薩は一切の衆生の普遍的な救済を達成することを望む。彼等の側にあってはこの要求は永遠であり自ずからなるものである。そしてこの知恵とこれらの意欲が一切の衆生を熏習する力を有するので、衆生は、佛陀や菩薩を思い想起させられ、ときに彼等に聴き、ときに彼等を見、一切衆生は(霊的な)利益を得るのである。すなわち、純一な三昧に入り、彼等が出会う障害を滅ぼし、宇宙の絶対的な一性を意識することを可能ならしめ、無数の佛陀と菩薩を見ることを可能にするすべてを貫く洞察を獲得するのである。

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