歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

辯證法にかんする覚書 :ヘーゲル 2

2005-05-12 | 哲学 Philosophy
ヘーゲルは伝統的な形而上学(客観的観念論)の立場から、思考と存在とを同一視し、概念や思考諸規定を事物の本性、対象の本質とみなしている。悟性や、理性、さらに概念・判断・推理といったようなものは、たんに個人としての人間のうちにだけあるのではなく、客観世界のすべての領域(自然と社会)に、世界の本性として内在しているのである。精神の世界(個人・社会)も自然の世界も同じ論理的法則によってつらぬかれているからこそ、われわれの思考は事物の客観的真理を認識しうる。

「悟性とか理性とかが対象的世界のうちに存在するということ、精神と自然とが普遍的法則をもっており、この法則にしたがってその生命とその諸変化が生ずるということが言われる限り、思考諸規定も同じように客観的な価値と存在とをもつことが承認される」とヘーゲルがいうのはそのことである。この場合「普遍的法則」といわれているのがつまり論理的法則であって、彼のいわゆる「論理的なもの」(das Logische)あるいは「理念」の運動法則にほかならない。

そしてこの論理的なものの運動法則に従って自然や精神が生成発展するところに、事物の様式とか概念の様式とかいわれるものが成立するのであって、これがつまり彼のいう「方法」なのである。

「悟性は対象的世界のすべての領域にみられる。」(『小論理学』第八0節補説)
「理性は世界に内在するもの、世界のもっとも内面的な本性である。」(同じく、第二四節補説一。)
「概念も判断も一にわれわれの頭のなかにあるのではなく、また単にわれわれによって作られるのではない……。概念は事物そのものに内在しているものであり、それが事物をまさにそのものたらしめるのである。」(同じく、第一六六節補説)

 ところでこの論理的なものの運動法則はヘーゲルによって純粋な根源的な客観的思考法則=存在法則という性格を与えられている。というのは、純粋な概念と真実の存在とが「論理的なもののうちに含まれる二つの契機」だからである。

論理的なもの(理念)は純粋な論理の世界に生きている魂ともいうべきものであるが、そのうちにある二つの契機によってそれは自然の世界にも精神(社会・歴史・人間)の世界にも姿を現わす。理念みずからが自分の法則(弁証法)に従って運動発展し、自然と精神とのあらゆる領域で自己を展開し実現してゆくのである。したがって現実世界におけるあらゆる存在の活動は理念の運動法則の現われにほかならない。このことをヘーゲルは「自然および精神の諸形態は、純粋な思考の諸形式の特殊な表現様式にすぎない」ともいっている。

では、その「論理的なもの」の運動はどのような形でおこなわれるのか。ヘーゲルはそれを、次のような三つの側面あるいは契機に分けて説明する。「論理的なものは形式の上からみて三つの側面をもっている。すなわち、

(a)抽象的あるいは悟性的な側面、
(b)弁証的あるいは否定的理性的な側面
(c)思弁的あるいは肯定的、理性的な側面
がそれである。(『小論理学』第七九節)
Das Logische hat der Form nach drei Seiten: die abstrakte oder verständige, die dialektische oder negativ-vernünftige, die spekulative oder positiv-vernünftige

「(a)悟性としての思考は、固定した規定性と、それの他の規定性にたいする区別性とに立ちどまっており、このような制限された抽象的なものが、それだけで成立し存在するとみている。」(同じく、第八〇節)
Das Denken als Verstand bleibt bei der festen Bestimmtheit und der Unterschiedenheit derselben gegen andere stehen; ein solches beschränktes Abstraktes gilt ihm als für sich bestehend und seined.

「(b)弁証的な契機は、このような有限な諸規定がみずから自己を揚棄すること、そしてその対立規定へ移行することである。」(同じく、第八一節。)
Das dialektische Moment ist das eigene Sichaufheben solcher endlichen Bestimmungen und ihr Übergehen in ihre entgegengesezte.

「(c)思弁的なものあるいは肯定的理性的なものは、諸規定の対立のなかにあるそれらの統一を、すなわち諸規定の解消と移行のなかにふくまれている肯定的なものを把握する。」(同じく、第八二節。)
Das Spekulative oder Positiv-Vernünftige faßt die Einheit der Bestimmungen in ihrer Entgegensetzung auf, das Affirmative, das in ihrer Auflösung und ihrem Übergehen enthalten ist.

すなわち、
(a)人間の思考はまず悟性としてはたらくが、悟性の原理は抽象的同一性であり、単純な自己関係であって、一つの規定をその他者からきりはなして孤立させ、両者を無関系なもの、絶対的に区別されたものとみる。
普通、形式論理学が最高の思考法則としてかかげる同一律や矛盾律は、この悟性の原理を命題にしたものにほかならない。

「同一性の命題〔同一律〕は、すべてのものは自己と同一である、すなわち、A=A、また否定的には、AはAであると同時に非Aであることはできない〔矛盾律〕、というのであるが、この命題は、真の思考法則ではなく、抽象的悟性の法則であるにすぎない。」
Der Satz der Identität lautet demnach: ‘Alles ist mit sich identisch; A=A; und negative: ‘A kann nicht zugleich A und nicht A sein’.----Dieser Satz, statt ein wahres Denkgesetz zu sein, ist nichts als das Gesetz des abstrakten Verstandes.

ところで、古い形而上学の思考方法は、この抽象的悟性の法則に従ったものであった。そのために、たとえば、「世界は有限か無限か」、「魂は単一か複合的か」というような問題のだし方をして、それをあれか-これかと一面的・固定的に解決しようとした。そこでは、有限と無限、自由と必然、本質と現象、善と悪、などといった対立的な諸規定の相互が、絶対的な区別をもち、動かすことのできない対立をなすと考えられていたのである。

しかし、(b)具体的な真理はそのような一面的で固定した規定によって汲みつくしうるものではない。もし有限な思考規定をもって無限なものを把握しようとするならば、思考は必然的に自己矛盾に陥らざるをえないであろう。そして、このことを「純粋理性の二律背反」として示したのが、カントの偉大な功績であった。古い形而上学の立場では、認識がもし矛盾におちいるならば、それはただ偶然の過ちであって、推理や論証における主観的な誤謬にもとづくと考えられていた。

カントによれば、これとは反対に、思考が無限なものを認識しようとすれば矛盾(アンチィノミー)におちいるということは、思考そのものの本性に属することがらなのである。」すなわちカントは「悟性の諸規定によって理性的なもののうちに定立される矛盾が本質的であり必然的である」こと、つまりそれが一つの思考法則であることを示したわけである。しかし彼は根本においてやはり古い形而上学と同じ同一性の論理に立ってこの問題を解決しようとしたために、このような矛盾のなかに真理を見いだすことができず、アンティノミー(純粋理性の弁証的推理)を仮象の論理、すなわち虚偽を生みだす思考の法則性と考えた。しかも、カントは宇宙論からとられた四つの特殊な対象にのみアンティノミーを認め、矛盾の普遍性ということに気づかなかった。しかし実際は、ヘーゲルによると、アンティノミーは「あらゆる種類のあらゆる対象のうちに、あらゆる表象・概念および理念のうちに見いだされる」真理の法則性なのである。そして思考そのもののこの本性こそ、彼が「論理的なものの弁証的契機das dialektische Moment des Logischen」と名づけるものにほかならない。(*『小論理学』第四八節、および同節補説)

もっとも、ヘーゲルはあらゆる矛盾が真理だとか、形式論理学の矛盾律を否定してよろしいとかいっているのではない。むしろ「悟性的な思考にもその権利と功績を認めなければならない」ことを彼は注意している。悟性の思考法則(同一律や矛盾律)を認めなければ、物事をはっきり区別して考えることはできず、判断や推理は混乱してしまうであろう。

問題は悟性を否認することではなく、悟性がすべてであり最後のものであり絶対であるとする考えをすてることである。われわれの思考は悟性につきるものではなく、より高次な理性的思考というものがある。われわれは悟性を欠くことはできないが、真実のものをとらえようとすれば悟性的思考にとどまることはできない。悟性は有限なものであって、無限なもの・絶対的なものを認識する力をもたない。だからといって、悟性をすてて理性だけで絶対的なものを把握しようとするならば、われわれは直接知の立場に陥る。それは概念的把握ではなく、真の理性的思考とはいえない。

真実の哲学的思考は、有限な悟性規定によって媒介されながら無限なものの理性的認識へと発展するのである。この場合まず、有限な悟性規定は自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対の悟性規定へ移行する。が、これはすでに理性的思考へのたかまりであり、ヘーゲルはこの「高次の理性的運動を弁証法と呼ぶ」のである。「〔学の〕内容を.動かすものは内容自身であり、内容がそれ自身でもっている弁証法である」という彼の言葉もこれをさしている。

 だから弁証法とは概念の自己揚棄の運動法則といってよい。

概念のこの自己揚棄の運動は、概念が自分自身のなかにもっている否定的な契機(これをヘーゲルは「弁証的なもの」とよぶ)を推進力としておこなわれる。

すべての概念は、有限な悟性規定としては、自分自身のなかに自分を否定するもの・自分の対立規定をもっており、したがって自己のうちで自己と矛盾し、そのことによって自己を揚棄してその対立規定に移行するものである。概念のこの自己揚棄は自己否定・自己矛盾の運動である。だからヘーゲルはこれを「否定的=理性的な側面」ともよぶ。

しかし、(c)この概念の自己揚棄はたんなる否定ではなく、自己を保存しながら自己を否定する運動である。

概念が一つの規定からその対立規定に移行するということも、有限な悟性規定が同じく有限な反対の悟性規定に変化することではなく、これらの対立する両規定を統一的に含む、より高いより豊かな概念に転化することを意味する。概念の自己揚棄と対立規定への移行という弁証法的運動は、このようにして対立した規定の統一という肯定的な成果を生みだす。だからヘーゲルはこれを「肯定的=理性的な側面」とよび、あるいは「思弁的な側面」ともいうのである。

aufheben(揚棄する・止揚する)というドイツ語が二重の意味をもつことについて、ヘーゲルはこう述べている。

「アウフヘーベンという言葉をわれわれは第一に<除去する><否定する>という意味に理解し、従って例えば或る法律・制度等々がアウフヘーベンされたと言う。しかしアウフヘーベンは更に《保存する》ことをも意味し、この意味でわれわれは、或るものがよくアウフヘーベンされていると言う。この用語上の二義性によって同じ語が否定的な意味と肯定的な意味とをもつのであるが、この二義性を偶然とみてはならない。いわんやそれを、混乱をひきおこすもとだといって、ドイツ語に対する非難の種にしてはならない。むしろそのなかに、単に悟性的な《あれか-これか》以上に進んでいるドイツ語の思弁的精神を認識すべきである。」(『小論理学』第九六節)

**思弁(Spekulation)という語をヘーゲルは「肯定的=理性的な思考」という意味で使用する。(『小論理学』第八二節補説。)

さて、ヘーゲルの「論理的なものの運動」は上のような三つの側面ないし契機をもって進展する概念の自己運動であるが、このような進展形式は思考の本性からでてくる本質的・必然的なものとされているのであるから、ヘーゲルはこれを悟性の思考法則にたいしてより高次の理性の思考法則と考えていたわけである。

しかし注意すべきことは、さきにも述べたように、悟性の思考法則はたんに否定され除去されるのではなく、揚棄されるのだということ、すなわちそれは理性の思考法則のなかに一つの契機として保存されているということである。悟性をはなれて理性がなりたつのではない。悟性と理性とを《あれか-これか》の形で分離し対立させる考え方は、それ自身悟性的な思考法だといわねばならない。

もう一つ、ヘーゲルはこの理性の思考法則を全体としては必ずしも弁証法的法則とよんでいないことも注意する必要があろう。ヘーゲルの思考方法が全体としては思弁的方法とよばれたように、この方法の客観的基礎である思考法則も、全体としてはむしろ思弁的思考法則とよぶべきものである。

しかし方法についていわれたと同じように、ここでもまた、弁証法的な側面が法則全体の核心をなすということができる。この核心に着目してヘーゲルの思考法則を特徴づけるならば、それはやはり「弁証法的法則」あるいは簡単に「弁証法」とよんでさしつかえないのである。

このようにみてくると、へ-ゲルの弁証法的思考法則は、古い形而上学の思考方法の基礎にあった抽象的同一性の論理(悟性的思考法則)を揚棄した矛盾の論理(高次の理性的思考法則)であり、これが彼の弁証法的思考方法を成立させる論理的基礎であったことがわかる。

それはすでにプラトン=新プラトン派にみられたような、矛盾の論理を真理の論理(存在認識の法則)と考える伝統をうけつぐものであるが、ヘーゲルの前進はこの客観的思考法則を根源的な弁証法として把握した点にある。

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