歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
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詩編に聴く-ヴィヴァルディのモテット『主がその愛するものに眠りを与へ給し時』について

2020-11-06 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
詩編に聴くー「主がその愛する者に眠りを与へ給ひし時に」(共同訳127・Vulgata典礼訳126) 
ヴィヴァルディ作曲 モテット Nisi Dominus (主いまさねば)から 
 
-----主がその愛する者に眠りを与へ給ひし時---
Cum dederit dilectis suis somnum,
主がその愛する者に眠りを与へ給ひしとき
ecce hæreditas Domini, filii;
見よ,子供らは主の嗣業(ゆづり)にして
merces, fructus ventris.
胎の實はその報(むくい)なり
-----------------------------------------------------
 
 ヴィヴァルディの『四季』は自然の移ろいゆく様を叙景した表題音楽であり、印象的な旋律と即興的なヴァイオリンの合奏のおかげで、バロック音楽の人気演目として名高い。欧米だけでなく、異文化の壁を超えて、日本でも最も好まれているバロック音楽の一つであろう。季節の移り変わりに美を見出す独特の感性を持っている日本文化の伝統もまた、この曲を親しみやすくさせた理由の一つだろう。
このような「自然」をテーマとした曲と比べて、「超自然」をテーマとしたヴィバルディの「宗教曲」は日本では聴く機会が少ないが、彼の作曲したモテット、Nisi Dominus (主いまさねば)の中の Cum dederit dilectis suis somnum (主がその愛するものに眠りを与へ給ひし時)は、ミサ曲「グロリア」と並んで、ヴィヴァルディの代表的な宗教音楽として欧米ではよく上演される。
これは、旧約聖書の時代に「都上りの歌ーソロモンの詩」としてヘブライ語で朗詠された詩篇に由来するが、ギリシャ語訳聖書を通じてヘレニズムの文化の中に受容された。このギリシャ語訳詩編に従うラテン語訳が、Vulgata聖書に踏襲され,カトリック教会の典礼に採用された。ビバルディの音楽はそれを歌詞としている。
 もともとヘブライ語で書かれたこの詩篇が、成立当時にどのような意味で朗詠されていたか、またその前半部分と後半部分は一つの詩なのか、元来二つの詩であったものを後世の編集者が一つにまとめたものなのか、そういうことには専門の聖書学者の間で様々な意見があるが(関根 正雄 『詩篇注解』下巻51頁参照)、ヴィヴァルディ自身がここをどのように解釈したのかを知る手がかりとしては、彼が、この歌詞を後半部分の始まりにおいていることが重要な意味を持つように思われる。
 この詩は「ソロモンの詩」であるから、「神に愛された人」はソロモンと取るのが自然であり、サムエル記下12:24-25や列王記上3:5−14のが背景にある。おそらく、神に最も愛された人であるソロモン王が夢の中で、神に祝福されたという伝承に基づくものであろう。
 しかしながら、ヴィヴァルディのこのモテットの冒頭の調べは、悲痛に満ち満ちた嘆きで始まる。それは、子宝に恵まれた家の繁栄というような意味での世俗的な幸福の約束とはとても思われない。
 何度も繰り返されるCum dederit dilectis somnum の調べも、伴奏のヴァイオリン合奏も、死によって全てが失われる世界の空虚さをも響かせているようにも感じる。
「もし主いまさねば、すべての労苦は虚しい」という通奏低音の只中に登場する「fructus ventris」の言葉は、ニヒリスムの極点からの大いなる転換ー悲哀の極点からの祝福への転換ーを先取りしているかのようにも聞こえる。「胎の實はその報(むくい)なり」という一節に注目したい。これはアヴェ・マリアの言葉の予示でもある。つまり、70人ギリシャ語聖書からカトリック典礼へと受け継がれた詩編解釈の伝承の中では、この詩編は、主の受肉と受難および復活という超自然の出来事をソロモンの夢の中で予言する詩として、歌われているのである。
 アウグスチヌスも、その「詩篇釈義」の中で、この詩篇126をキリストに関係づける霊的な意味に解釈している。
 ヘブライ人にあっては地上の家族と子孫の繁栄を主に祈る詩であったものが、そのような幸福を絶たれた人たちを救済するために自然を超えた神が夢の中に登場するのである。
物質的な自然の只中に受胎し、一人の人となって、すべての人を救済するために自ら受難を引き受けたこと、そのような主なるキリストによってこそ、ソロモンの知恵が、世俗の知恵ではなく神の知恵となったことを示す詩として解釈できるだろう。そうしてみるとヴィバルディという「自然」を歌うことにかけては天才的な作曲者は、同時に「超自然の自然」を賛美する作曲家でもあったと言えるのではないだろうか。

Vivaldi, Nisi Dominus - Cum dederit - Sara Mingardo, Giovanni Paganelli

Esecuzione dal vivo su strumenti originali a Busseto (PR). Sara Minga...

youtube#video

 

 


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