歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

阿闍世王の懺悔と救済の物語

2018-03-26 |  宗教 Religion

宗教哲学フォーラム
ー日本の宗教思想と宗教的思惟からの霊性ー

シンポジウム提題:田中 裕  (2018/3/25 於上智大学)

阿闍世王の懺悔と救済の物語

考察の課題―五逆の罪を犯したり、正しい仏法を誹謗した者にも救済はあるか。

『無量寿経』の第一八願の願文の末尾に「唯除五逆誹謗正法」とあり、これは従来「ただ五逆の罪と誹謗正法の罪だけは救いの対象から除外する」という排除規定として読まれてきた。そうすると摂取不捨という弥陀の本願と矛盾しないだろうか?

伝統的解釈

すでに曇鸞の時代に、この問題は意識され、道綽の安楽集では、の第一八願趣意では、排除規定は省略されている。善導は、これを排除の意味ではなく如来の願いを込めた抑止門とされ(謗法・闡提・廻心皆往)未造の者に対する抑止、已造の者は廻心さえすれば救うという意味に解釈する。除外規定は教育的配慮として付加されたというのが伝統的解釈では支配的である。

新しい読み方―本文批評にもとづき罪悪と罪を犯した人を区別する

「五逆」も「誹謗正法」も犯した人をいうのではなく、「罪そのもの」を指す。したがって、この文は「五逆と誹謗正法の罪を犯した者を救いの対象から除外する」という排除規定ではなく「五逆と誹謗正法の罪そのものを取り除く」と理解する。観無量寿経に

「除八十億劫生死之罪」「除無量億劫生死之罪」「除却千劫極重悪業」・・・の文があり、多く「除・・」は極悪人を救いから排除するという意味ではなく、罪そのものを端的に除くという意味である。[1]

親鸞の解釈

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふ言葉なり、五逆の罪人をきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんためなり。(『尊号真像銘文』)

五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪をけすまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらしめんがためなり。(『唯信証文意』))

『教行信証』は信巻の根本テーマとして、「逆謗摂取釈」を取り上げている。そして、浄土三部経だけでなく涅槃経の「阿闍世王懺悔」の物語を長文に亘って引用している。

それ仏、難治の機を説きて、涅槃経に云わく。迦葉、世に三人あり、その病治し難し。一には謗大乗、二には五逆罪[2]、三つには一闡提[3]なり。かくのごときの三病、世の中に極重なり。悉く声聞縁覚菩薩のよく治するところにあらず。善男子、譬えば病あれば必ず死するに治することなからんに、もし瞻病・随意の医薬あらんがごとし。もし瞻病[4]随意の医薬なからん、かくのごときの病、定めて治すべからず。まさに知るべし、この人必ず死せんこと疑わず。まさに知るべし、この人必ず死せんこと疑わずと。善男子、この三種人、またまたかくのごとし。仏菩薩に従いて聞治を已りて、すなわちよく阿耨多羅三藐三菩提心を発せん。(『涅槃経』現病品からの引用)

阿闍世王の物語の引用

また言わく、その時、王舎大城に阿闍世王あり。その性弊悪にしてよく殺戮(せつろく)を行ず。口の四悪[5]、貪・恚・愚痴を具して、その心、熾(し)盛(じょう)なり。….しかして眷属のために現世の五欲の楽に貪著するが故に、父王、辜なきに横ざまに逆害を加す。父を害するに因りて、己が心に悔熱を生ず。…..時に大臣あり、名付けて月称という。王の處に往至して、一面にありて立ちて申さく。大王、何が故ぞ憔悴して顔容悦ばざる。身痛むとやせん、心痛むとやせん。王臣に答えて言わく、われ今身心に豈痛まざることを得んや。我が父辜なきに、横さまに逆害を加す。われ知者に従いて嘗てその義を聞き「世に五人あり、地獄を免れずと。言わく五逆の罪なり」と。我今已に無量無辺阿僧祇の罪あり。いかんぞ身心をして痛まざることを得ん。また良医の我が身心を治するものなけん。(「涅槃経」梵行品からの引用)

一 臣下達のアドバイスと当時の「尊師」と評判の高い人たちの教え

月称のアドバイス(尊師 富蘭那を王に推薦)

〇王のようにいつも憂い苦しむものは憂いが増すばかりで無益この上ない。

〇王は地獄に落ちることを恐れているが、地獄とは、だれもそれを見た者はなく、実際には存在しないのに、世の人が勝手に想像しているだけである。だから、地獄落ちを恐れる必要なない。

蔵徳のアドバイス(尊師 末伽梨句賖梨子(まかりくしゃりし)を推薦)

〇 世間の法にも迦羅羅虫や騾馬の子が母親のからだを害して生まれる例があるから、王のしたことを不自然だと言うことはできない。

〇仏法では人間以外の衆生を殺害することでも罪になるが、王法は仏法とは違う。国を治めるものは、父王を殺して王になったとしても王である立場には変わりはない。父王が死んだ後、その子が王になるのは当然である。

実徳のアドバイス(尊師 冊闍耶毘羅緹子(さんじゃやびらていし)を推薦)

〇父王は前世のカルマによってそのような死に方をしたまでであって、阿闍世王が罪を犯したわけではない。すべては前世の宿業によるのだから、阿闍世王は罪の意識を持つ必要はないし、悩み苦しむ必要もない。

悉知義のアドバイス(尊師 阿耆多翅舎欽婆羅(あぎたししゃきんばら)を推薦)

〇(唯物論の立場から)地獄も餓鬼も天界も存在しない。

〇 前世の業が因縁となって次の世に果報となるなどと言うことはない。

〇 阿闍世王のように父王を殺して王位を継いだ者は過去にも現在にもたくさん居る。だから罪を感じて悩む必要はない。それは世間にはよくあることだから。

吉徳のアドバイス(尊師 迦羅鳩駄迦旋延(からくだかせんえん)を推薦)

〇 大地の一切は破壊されるものだから、何を破壊しても罪にはならない

〇 父は殺害されて天界にいくことができたのだから、それは悪いことではない。

〇 殺生はかえって新しい命を得ることなのだから、罪ではない

〇 有我の立場をとると、自我という実体は永遠不変だから、肉体を殺してもその人の本体は死んでいない。

〇無我の立場をとると、殺す人も殺される人もそもそも存在していないのだから、罪は成立しない。

〇 火が除木を焼き、斧が木を切り、刀が人を殺してもそれらには罪はない。直接に害を加えた者に罪がないのだから、間接に手を下したものに罪はない。

無所畏のアドバイス (尊師 尼乾陀若提子(にけんだにゃだいし) を推薦)

〇 先王は沙門を重んじ婆羅門をうけいれなかったが、王は沙門と婆羅門を平等に受け入れ人民を安んずるために先王を殺害したので、それは罪ではない。

〇 殺害とは寿命を奪うことであるが、命は風気であり、風気の本質は殺害できるものではない。

耆婆のアドバイス (自身が医師であった耆婆が、彼が帰依していた釈尊を推薦)

〇 慚愧こそが人をして人たらしめる。

慚とは自らが罪を作らないこと。愧とは他人に罪を作らせないこと。また

慚とは自ら恥じること、愧とは人に向かって自らの罪を告白することである。また

慚とは人に対して恥じること、愧とは天に対して恥じることである。

慚愧のないものは人とは呼ばず、畜生と呼ぶ。慚愧があるから父母、師や年長の人を敬い、父母、兄弟姉妹の関係も保たれる。

 

阿闍世王の懺悔の物語の構成

〇 耆婆のアドバイスに続き、誹謗正法の重罪を犯した提婆達多の物語が語られる。

〇 亡父 頻婆沙羅(びんばしゃら)の声が天上より聞こえる。

阿闍世の犯した悪業の罪は決して逃れられないこと、速やかに仏陀のみもとにいくべきこと。仏陀以外の誰もおまえを救うことはできない。誤った考えを持つ六人の大臣の言葉に従ってはならない。

〇 涅槃を前にした仏陀の言葉の引用

「善男子、わが言うところのごとし、阿闍世の為に涅槃に入らず。かくのごときの密義、汝いまだ説くこと能わず。何を以ての故に。われ為と言うは、一切凡夫、阿闍世とは普くおよび一切五逆を造るものなり。また為とは即ちこれ一切有為の衆生なり。われついに無為の衆生の為にして世に住せず。何を以ての故に。それ無為は衆生にあらざるなり。阿闍世とは即ちこれ煩悩等を具足せるものなり。」

 

親鸞の教行信証のみならず、道元もまた鎌倉行化に際して書き残した文書、いわゆる「白衣舎の示誡」のなかで涅槃経の上記の部分をそのまま引用している。鎌倉行化の目的は、おそらく北条時頼に菩薩戒を授けるためと想定されるが、時頼もまた阿闍世王と同じく若くして覇権を守るために権力親族を殺害した権力者であった。

 

菩薩行としての道元禅について

いわゆる仏祖の座禅とは、初発心より一切の初仏の法を集めんことを願ふがゆえに、座禅の中において衆生を忘れず、衆生を捨てず、ないし昆虫にも常に慈念をたまひ、誓って済度せんことを願ひ、あらゆる功徳を一切に廻向するなり。(『宝鏡記』)

 

道元の道詠歌(一七四六年に面山瑞方が編集した『傘松道詠』所収)

  

愚かなる我は仏にならずとも衆生を渡す僧の身ならん

草の庵に寝ても醒めても祈ること我より先に人を渡さん

 

正法眼蔵 「授記」の巻―成仏の保証

 

佛祖單傳の大道は授記なり。佛祖の參學なきものは、夢也未見なり。その授記の時節は、いまだ菩提心をおこさざるものにも授記す。無佛性に授記す、有佛性に授記す。有身に授記し、無身に授記す。……

釋迦牟尼佛藥王に告げたまはく、又、如來滅度の後、若し人有つて妙法華經を聞きて、乃至一偈一句に、一念も隨喜せん者に、我れ亦た阿耨多羅三藐三菩提の記を與授すべし……

我身是也の授記あり、汝身是也の授記あり。この道理、よく過去現在未來を授記するなり。授記中の過去現在未來なるがゆゑに、自授記に現成し、他授記に現成するなり。

 

道元最後の旅―法華経行者としての道元

 

夜もすがらひねもすになす法の道みなこの経の声と心と

道元の伝記である建撕記など道元の和歌を収録した古写本の巻頭にある歌で、「法華経五首」という題が付されている歌の一つである。「夜もすがらひねもすになす法の道(通霄終日作法道)」とは夜も昼も不断に「法道(のりのみち)」を行ずること。この歌は、その行仏が、皆、法華経の語りかける声であり、法華経の心に他ならないと詠んでいる。道元は「行仏」という言葉をよく使うが、それは法華経の言葉を聞くこと、法華経の心に「感応道交」して「仏を行ずる」ことを意味しているようだ。正法眼蔵「唯仏与仏」に「仏の行といふは、尽天地とおなじく行ひ、尽衆生とともに行ふ。もし尽一切にあらぬは、仏の行ひにてはなし」とある。 「行仏」を可能ならしめる根拠は「唯仏与仏」によれば、自己に先立つ現実の「仏の行」である。 「谿声山色」に仏の声を聞き、「而今の山水は古仏の道現成なり」という正法眼蔵のことばが対応している。

 最晩年、道元禅師は療養のために滞在していた京都で、病状の予想外の悪化に直面し入滅の近きを悟り、法華経「如来神力品」の次の句を誦しつつ、面前の柱に書き付けた。(建撕記)

若於園中(もしくは園中において) 若於林中(もしくは林中におおいて) 若於樹下(もしくは樹下において)若於白衣舎(もしくは白衣の舎)若在殿堂(もしくは殿堂にありて)若山谷曠野(もしくは山谷曠野)

是中皆応起塔供養(是の中皆まさに塔を起て供養すべし)

所以者何当地是処(ゆえいかんとなれば、まさに知るべし是の処は)

即是道場諸仏於此(すなわち是れ道場にして、諸仏は此において)

得阿耨多羅三藐三菩提(阿耨多羅三藐三菩提を得)

諸仏於此転於法輪(諸仏はここにおいて、法輪を転じ) 

諸仏於此而般涅槃(諸仏はここにおいて般涅槃す)

 

道元の遺偈

五十四年 照第一天 打箇𨁝跳  觸破大千 咦 渾身無覓 活落黄泉

(五四年第一天を照らす この𨁝跳を打して 大千を触破す 咦(にい)

 渾身もとむるなく 活きながら黄泉に落つ) 

「活きながら黄泉に落つ」の解釈―究極の菩薩道として

「黄泉に下る菩薩」と「地涌の菩薩」(法華経「従地涌出品」)という二つの対比的イメージ

原始キリスト教の使徒信条―「苦しみを受け、十字架につけられて死し、黄泉に下り、三日の後に死者の内から復活するキリスト」を信じる信仰との比較  

  



[1] 北村文雄著『教行信証と涅槃経』、永田文昌堂 参照

[2] 五逆:殺母・殺父・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧

[3] 一闡提:icchantika 断善根・信不具足の極悪罪人

[4] 瞻病:看病することまたは看病人 

[5]四悪:妄語・両舌・悪口・綺語

 

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