歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

素以為絢 ということ-孔子の美学思想

2008-07-03 | 美学 Aesthetics
中国は偉大なる精神文明を過去において持っていた國である。共産党政権のせいで、それが中国の若い世代から忘却されてしまったのはまことに嘆かわしい。しかし、孔子は文化大革命の時に排斥されたとはいえ、儒教には2000年以上にわたる悠久の歴史があるのである。マルクシズムの如き底の浅い唯物思想の影響の方が一時的なものであったということになるだろう。江文也の音楽上の仕事もかならずや将来、再評価されるに違いなかろう。理不尽なかたちで失われた彼の音楽作品が再び見いだされることを強く望むものである。

さて今日もまた、「論語」にたちかえって典礼を機軸とする彼の藝術論を考えたい。

子夏問曰:「巧笑倩兮,美目盼兮,素以為絢兮。何謂也?」

子曰:「繪事後素。」

曰:「禮後乎?」

子曰:「起予者商也!始可與言詩矣。」

子夏問うて曰く:「巧笑倩(せん)たり,美目盼(はん)たり。素以って絢を為すとは、何の謂いぞや」

子曰く:「繪の事は素(しろ)きを後にす。」

曰く:「禮は後か」

子曰く:「予を起す者は商なり。始めて共に詩を言うべきのみ。」

「素(しろ)」という言葉は、絢爛豪華な「色彩」とは対極にたつものであるが、それこそが「絢」を完成させるものだというこの言葉は、古典時代の中国の美学がいかに洗練されたものであったかを伝える。敢えて言おう。素人の持つすばらしさが、技巧を尽くした後で、その技巧を完成させるということ、飾らぬ美しさこそが、飾る美しさのあとに目指されるべきものであるという「美」のとらえかた、あるいはそれは「美」だけでなく「善」を尽くしたあり方について言及されていると言うべきかも知れない。あたかも、すべての色彩が光において合一すれば白色光になるように、色を持たぬ「素」こそが、全ての色がそこから生まれそこへ帰す究極なのである。孔子が教養の完成としておいた「禮」もそうであって、「素」を最初にして最後とする精神があって、「禮」もまた生きるのである。我が国においても、舞踏家が素踊といって、衣装など付けずに踊ることがあるが、それは化粧や衣装をすべて捨て去ったときにそのもととなる「素」を最初にして最後のものとする美学からくるのであろう。
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