ドリアン長野の海外旅行記

長期休暇もない有給休暇もないリーマン・ パッカーが、
短い休日と高い航空券にもめげず、海外を旅したお笑いエッセイ

海外旅行記

      
 2009年以前にドリアン長野が14か国を旅した海外旅行記です。
順不同。 タイランド(バンコク) カンボジア(プノンペン、シェムリアップ等) 
メキシコ(ティフアナ) 英国(ロンドン) インド(デリー、ウェストベンガル州等) 
米国(ニューヨーク州、ニュージャージー州、ミシガン州とロサンゼルス
フィリピン(マニラ) 台湾(台北) マレーシア(クアラルンプール等) 
ベトナム(ホーチミン) ネパール(カトマンズ) ミャンマー(ヤンゴン等) 
香港と中国(上海北京) 夏が来れば思い出す 

 ドリアン長野の海外旅行記のリンク集並びにご連絡 令和五年

 コラム 令和五年  いつ頃、渡航したか? 令和五年  令和六年からの方針

「皆、知ってる?あいつ、こんな悪い奴なんだよ。」と言いたいのか?
海外旅行案内書を読んで計画を作ってからカナダを旅行中に自由妨害されて困りました。頼んで無いのに毎日フェイスブックのタイムラインに詰問されて防犯の問題があったので気分が悪かった。 情報操作をされたくないから伝えるが「寂しいと思ったので連絡したら激怒したのはおかしい。」と主張するやもしれない。不平不満を述べながら他人の生活に干渉するよりも社会に貢献して改善してもらいたい。
渡航中は我慢して帰国後に抗議したら加害者は逆上して謝罪せずに暴力的な書き込みをしました。謝罪もないし平成だけでなく令和になっても悪い連絡があり困った。紹介を取り止めたからって逆上するのは論外。 現状に拘泥してるのは管理能力の欠如かな?

平成20年代以降はSNS等を悪用し情報を得た上で悪事を計画する人がおります。過去においては海外旅行中は出会った人のみ加害をしてました。警戒して下さい。在外邦人の中にも悪人はおります。実体験してなければ賛同は少ないかもしれませんけど無意味に詰問する人はいます。
敬具 マーキュリーマーク

NO50 万祝(まいわい)

2007-08-30 | Weblog

NO50 万祝(まいわい)

at 2004 09/14 18:41 編集

望月峯太郎原作のマンガ「万祝」の主人公、大和鮒子は父と二人暮し。格闘技好きで、異種格闘技部の主将をぶっ倒してしまうほど滅法強い(その動きから察するに、フルコンタクト空手と中国拳法を学んだようだ)。
「あたし強くなりたいの。誰よりも」。鮒子が強くなりたいのには理由がある。強くたくましく生きてね、というのが臨終の母の言葉だからだ。鮒子は5歳の時に動物実験のニュースを聞き、胃潰瘍になって病院に運ばれたほど心優しく繊細な子だった。母はそれを心配したのだろう。
今は亡き祖父の兆次郎は腕の立つ一本釣りの漁師だった。その祖父がどうやら、偶然に宝島にたどり着いたことがあるらしい。中米にあるその島にはなんと100兆円もの財宝が眠っているという。鮒子は16歳の誕生日の前日に祖父の手紙を見つける。それを長いが引用する。
「16歳になった愛する孫娘.....鮒子へ。もしワシが港町で幼少時代を過ごさなかったら、また青年になって魚師にならなかったらワシの人生はまったく別ものになったかもしれん。どんな人生がより幸福だったのかとワシの歳になってから運命の検証などしても意味などないだろうがの。だがワシはこれだけはわかる。おそらく今のお前の年頃に海に出ていなければ大人になる前の.....あの年齢のあの時代のまるで神でも宿ったようなめくるめく日々には遭遇できなかったに違いない。.....鮒子よ、ワシが今、憂うのはお前がそんな日々を経験せずに育ち、ただ尻や胸が大きくなり、赤飯を食べ、眉毛の形やスカートの丈に一喜一憂し、空虚さを飾りで隠した不幸な異性を見抜けないまま.....また、世の中の壮大なまでの美しさや醜さに気づかぬまま、ただ成長の必然的な結果として大人になってしまうことじゃ。お前の年頃には漁師だったワシは漁師の習わしにのっとった儀式を行うことで、周りに大人として海の男として認めてもらった。今、16歳になった...未熟で...かわいい孫娘よ、できればこの手紙と一緒に残した地図を手に船出してほしい。おそらくお前はこのまま時を過ごしても不自由なく人生を送れるだろう(特に女の子だから)。それはそれで多分、幸せなことなのだ。しかしワシはお前にも荘厳な洗礼を受けたと思えるような経験や、神が宿ったような日々だと実感できるような時間を通過してほしいんじゃ。それはいろんなことに向かい、苦しくなったり、寂しくなったり、泣いたり、時には闘わなければならないことに遭遇するかもしれん。しかしそのことによって、お前を取り巻くこの世界を芸術的に見ることができたり、人...いや、すべての生き物の営みに敬意をはらうことができたり、本物の懸想(けそう)の気持ちとはどういうものかを知ることができるはずじゃ。お前にめくるめくような.....取りも直さず.....黄金に輝く日々をー。 吉日 大和兆次郎」
私たちは毎日を人をけなしたり、恨んだり、羨んだり、自分の境遇に不平を言ったり、ただ退屈な日常をたゆたうように生きている。そんな人生が死ぬまで続くとしたら、その人の人生は不幸であるのに間違いはない。だけど、そんなものに人生が支配されるほど、人の気持ちがちっぽけな筈がない。この祖父が経験したようなことに遭遇するのは万人に一人かもしれないが、それをただ単に運が良かっただけだと決めつける人を、私は不幸だと思う。そしてこのじいさんを私は無性に尊敬する。じいさんは目の眩むような大金より価値のあるものがこの世にはあると言っているのだ。
物語は鮒子たちの船が宝島のあるパナマ海域に向かって航海を始めたばかり。これはもう一つの「ONE PIECE」。今後の展開が楽しみだ。
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NO49 アジア・コーヒー(中島らもへの誄) 2004 08/06 20:43

2007-08-30 | Weblog

NO49 アジア・コーヒー(中島らもへの誄)

at 2004 08/06 20:43 編集

中島らもが死んだ。アルコール中毒による肝硬変でもなく、ドラッグのオーバードースでもなく、鬱病による自殺でもなく、脳挫傷で死んだ。その何週間か前には町田康との対談及びライブがアメリカ村で行われた。はからずともそれが最後のライブとなってしまった。平日だということで私は行っていない。今さら言っても詮無いことだが、悔やんでも悔やみきれぬ。
中島の死を知った夜、彼の最新文庫「とらちゃん的日常」を買った。彼の死を悼もうとしたわけではなく、たまたま書店で見つけた。
猫が無性に飼いたくなった中島は黒門市場のペットショップで、とらちゃんを三千円で買った、とある。とらちゃんは白黒のトラ猫である。私も去年、黒門市場の同じペットショップで白黒のトラ猫を買った。子猫が三匹ケージの中にいて、白猫が五千円、トラ猫が一万円だった。私がかわいいなあ、と眺めていると隣にいた友人が銀行からお金をおろして買ってくれたのだ。
おれはとらちゃんを撫でてやったり抱いてやったりするが、あんまりな猫可愛がりはしない。なぜなら猫というのは孤高で神聖な生き物だと思うからだ。おれは猫を飼うに値しない人間だ。来し方の悪業を考えるとそう思う。猫を飼うことでおれは一種のみそぎをしているのではないか。おれは一度自分の悪業をおさらいしてみたことがある。何と、殺人とレイプ以外はすべてやっていた。盗み、傷害、カツアゲ、麻薬、詐欺 etc.。これら降り積もった黒い雪を、猫の高貴さが洗い清めてくれるような、そんな気がするのだ。 (「とらちゃん的日常」より)
文庫本に写真が載っているが、メス猫であることも含めてとらちゃんはうちの猫とそっくりだ。
2004年5月30日の日付けの文庫本あと書きで、とらちゃんは今も元気だ、と中島は書いている。その二か月後に彼は亡くなった。とらちゃんは今でも帰らぬ主人を待っているのだろうか。いや、猫のことだから主人のことなど疾うに忘れてしまっているに違いない。中島はそれを良しとするだろう。遺灰は散灰してくれというのが故人の遺言だそうだ。
中島らもは万人の認めるところだが、天才的な作家だった。大阪出身でアメリカで活躍しているコメディアンの大槻タマヨが「天才というのは横山やすしさんと中島らもさん」と言っていたが、まさに万人に分かりやすいという意味での天才だった。天才という言い方が凡庸に過ぎるというのであれば、作家らしい作家であったというべきか。
長篇ももちろん素晴らしいのだが、むしろ私は彼のエッセイや短編に心惹かれてきた。例えば「エキゾティカ」というアジアを舞台にした短編小説集。その中に「ペットとイット」というレディ・ボーイとムエタイ・ボクサーを主人公にした一編がある。コミカルだが嫌みがない。清流のような爽やかさがある。音楽でいうと、モリッシーのようだ。ストーリーは他愛もないといえば、恐らくそうだ。しかし、私は20ページほどのこの短編を読み返すたびに思う。これが作家というものなんだと。
自宅の近くの玉造に、かつての中島らも事務所があった。鬱病の中島はここのビルから飛び下り自殺をしようとして、間一髪わかぎえふに助けられた。前を通るたびにそのことを思い出した。中島の死の当日、わかぎは香港にいたそうだ。今回ばかりは助けることができなかった。死を知らされたわかぎの心中を想うと心が痛む。
その事務所の交差点を南にくだった日之出通り商店街を抜けると、中島のエッセイにも書かれている「アジア・コーヒー」があった。この喫茶店はテレビや雑誌でも取り上げられて有名になったのだが、最初に紹介したのは中島ではなかったかと思う。
「アジア・コーヒー」は喫茶店というよりは、東南アジアにある路傍の茶店という感じだった。店は息子と母親がやっているのだが、あばらの浮き出た不良息子のおっちゃんは、「朝はようから夜おそうまで、ず~っと仕事や。わし、体もたへんで」といつもこぼしていたが、おっちゃんは日がな煙草を吸ってテレビを観ているだけだった。おっちゃんは店の土間に布団を敷いて寝泊まりしていた。
喫茶店なのに売り物は日本中でここだけしかないという、ネーポンという甘ったるい柑橘系のジュースだけ。たぶん、ネーブルとポン柑からのネーミングだろう。友人が記念に持って帰りたいと言うと、おっちゃんは「神戸にある製造元が震災でつぶれてもうてな。在庫がもうないねん。持ち帰りは駄目や」。でも帰り際に、おっちゃんのお母さんが小声で「これ、持って帰り」とこっそりネーポンを渡してくれた。メニューにはコーヒーやぜんざいやインドカレーがあったが、「コーヒーは?」「ない」「ぜんざいは?」「今、やってないねん」「何もないねんな。そしたら、このインドカレーは?」「インドカレーは予約制やねん。あさって来て。仕込みしとくさかい」とおっちゃん。われわれは期待してその日を待った。そして出てきたのは柄のついた家庭用の小鍋。嫌な予感がした。食べてみるとそれはまぎれもなく、にんじんやじゃがいものごろごろ入ったハウスバーモントカレーだった。
その「アジア・コーヒー」も今はない。その近くにも中島と親交のあったプロレスラーのミスター・ヒトがやっていたお好み焼き屋があったが、いつの間にかなくなっていた(ミスター・ヒトは熊と闘ったという伝説のプロレスラーだ)。
もう十何年も前のこと。扇町であった中島らものバンドのライブ。ボ~ッとしている中島に、「中島~、生きてるか~?」と野次。もうこの野次を聞くこともない。永遠に。
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NO48 チョンキンの夜は更けて

2007-08-30 | Weblog

at 2004 06/25 22:25 編集

「300だ」
「高いな。他の商品はないのか」
「いくらなら買う?」
「いや、他の商品はないかって聞いてるんだ」
男がファイルされたルーズリーフをせわし気にめくる。6畳くらいの部屋には壁に向かって作業机が並んでいて、時計の部品が無造作に散らばっている。それを少年が熱心に組み立てている。
ここはチョンキンから100メートルほど離れたミラドール・マンション一階にある工房だ。ミラドールもチョンキン同様、安宿の集合ビルだが、新しい分だけ設備が整っているらしい。話のネタにと、ニセ・ブランド時計の客引きに声を掛けたら、ここに連れてこられた。さきほど連れてこられた二人の中年の白人女性たちも隣の席でルーズリーフの写真を見せられている。
「男物はロレックスだけだ。ブルガリもあるが、これは女物だけだ」
ロレックスは言っちゃあ悪いが、成り金オヤジの趣味だ。まるっきりイケてない。ちなみに私は腕時計は持ってない。ケータイの時間表示で充分だし、海外に行くときは電池で動く、ちっこい目覚まし時計を持って行く。
「この時計イケてねー」「もっと安くしろー」と散々ごねる私にとうとうキレたのか、「あんたの欲しい時計なら外で売っている」と通りに追い出された。仕方ないから、露店で売ってる一個30HKDの時計を買ったね。それにしても、あんなに簡単に客を手放すってことは一日に何人もの客が食いついてくるってことか? それに時計が一個売れれば、客引きと実際に売りつける男にそれぞれ、いくら入ってくるのだ? ああ、知りたい。
チョンキン内にあるインディアン・フード・ショップで頼まれていたカレーの材料を買ったんだけど、久々に頭にきたね。買い物の品を抱えてレジに持っていき、精算した時に持ち合わせが少ないことに気づいた。「両替えしてくるから」と店を出て、近くの両替店で両替して戻ってきた。「えーっと、いくらだっけ?」と店のオヤジに聞くと、「199(HKD)だ」と言うので払って出てきた。近くの通りにある「スタバ」でぼーっとしていると、はっとした。待てよ、199いうたら、めちゃめちゃ高くないか? あわててレシートを確かめてみると、99HKDになっとるやんけ。あーっ! やられたーっ! 100ぼられたやんけーっ!けど、 わっかっとる、悪いのはこのおれやあっ。おれがあほやったんやあー。騙されたんが悪いんや。今からその店にねじりこみに行ってもレシートに書いてあるさかい、どもならんわ。しかし、腹立つからその店の名を書いておこう。チョンキン二階にある「マハラジャ・プロビジョン・ストア」だ。オヤジのインド人は大きいことはできなさそうな、小ずるくて小心者の貧相で女には絶対もてそうもない顔やったでー(小学生か)。
ここで気を取り直して、チョンキンにあるお勧めのレストランを書いておこう。D座には「アフリカン・サービス・センター」という一室がある。理髪をしたり、アフリカ料理を食べさせたりするらしいが、入ったことはない。なんせ、外観は他の安宿と変わりなく、秘密クラブのような雰囲気だ。今度、安宿に泊まってるアフリカ人に連れてってもらうことにして、私のお勧めは三階にある「エベレスト・クラブ」。ここのシェフは一流ホテルで修行していたそうで、ビーフカレーも自慢のノビリティアン・ビリヤーニもとても上品な味だ。内装もゆったりと落ち着いていて、チョンキンにいることを忘れてしまうほどだ。チョンキンには何軒かインド・レストランが入っているが、味と値段の安さを比べてみるとここが断トツだと思う。ネパール人マネージャー、メゲンドラ君が言うには、「日本人もよく来てくれる。香港に住んでいる日本人でここを知らない人はいない」んだそうだ。彼は日本に行ったとき写真を撮りまくり、400枚もの現像を頼んでカメラ屋のおやじをびっくりさせたというほどの大の親日家だ。だけどメゲンドラ君、日本のことを夢中で話す君の話を聞いてたら、もうちょっとで帰りの空港行きのバスに乗り遅れるとこやったで。それに10%割引きのメンバーズカードをくれたんはありがとうやけど、今度いつ使えるか分からんで。ひょっとしたら、使われへんかもしれへんでー。
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2004年五月に発表した海外旅行記

2007-08-30 | Weblog
NO47 チョンキンよいとこ一度はおいで

at 2004 05/21 23:09 編集

チョンキンでの最初の宿はA座7階にある「ウエルカム・ゲストハウス」に泊まることにした。ガイドブックで紹介されているせいか、日本人宿泊客が多い宿だ。受付には誰もおらず、「御用の方は電話して下さい」という貼り紙がある。電話すると、20歳台の女性が出て来た。
「ごめんなさい、忙しくてね。なんせ私ひとりだけだから」
ここは既に満室で、15階の「オーシャン・ゲストハウス」を紹介された。彼女、インドネシア出身のシティは二つのゲストハウスを持ち、原石の販売もしているそうだ。もらった名刺にはルビー、サファイア、ガーネットといった宝石の他に痩身茶の名もあった。若いのになかなかのやり手だ。部屋は三畳ほどで狭いが、チョンキンでは平均的な広さだろう。シティの掃除が行き届いており、清潔。窓からネーザン・ロードが見えるのがいい。エアコン、ホットシャワー、TV付きで130HKD(1HKD≒16円。2004年現在)。可もなし不可もなし。ここには二泊した。チェックアウトした時のシティはぐったりと疲れていた。人を雇ったほうがいいと思う。
次はB座9階の「ハッピー・ゲストハウス」に行く。ここはTVドラマ「深夜特急 香港編」の撮影に使われたらしいので、話のネタに泊まってみようかと思ったのだが、ベルを鳴らしても誰も出て来ない。そのうち、隣のゲストハウスから「そこは満室だよ」とインド人が出て来た。その言葉は客引きが使う常套句だ。インドで散々聞いたわい。その男、グルング(28歳)にうちに泊まりなと誘われる。一泊180HKDだと言っていたが、部屋に案内されたら、「広い部屋を空けたから200ね」とぬかす。「きさまあ~、どこの出身じゃ~い」「カルカッタ」「やっぱり」
「オレは狭くても安い部屋がいいんだけど」「いや、ここしか空いてないから」
せこい奴め、きさまがそういう気なら、俺にも考えがあるわっ! 他に行くのが面倒なので泊まってやる。
だけど、「俺はトラベルライターだ。このホテルのことを雑誌に書いてもいいか」とはったりをかましたら、手の平を返したように「トイレットペパーが無くなったら、言ってくれ」だの「飲料水は外にあるから自由に飲んでもいいよ」だの「エアコンのスイッチはここだよ」だの、さっきと態度がちゃうやんけ。キャッシュな奴め。
「グランド・ゲストハウス」、部屋は広いが、独房のような感じ。ひと休みしてから部屋を出たら、グルングが満面の笑顔で「満室になったよ!」。満室? なぜだあ~?
あくる日の昼前にチェックアウトしようとしたら、玄関にグルングが毛布を敷いて爆睡していた。宿泊客が起こすのはかわいそうだと思ったんだろう、右の手の平に鍵が置いてあったので、私も左の手の平に鍵を置いて出て行く。
さて、香港最後の夜。日本人バックパッカーはA、B、C座に宿泊が集中すると聞いた。分からんでもない。D、E座になるとその怪しさのディープ度に拍車がかかるような雰囲気がある。で、D座に泊まってみることにした。エレベーターに書かれているゲストハウスの名前を見ながら、どこにしようかなと思案していたのだが、名前の書いてあるプレートが新しそうなので9階の「ニュー・チャイナ・ゲストハウス」に泊まることにした。それが大当たりだったね。2002年にオープンしたばかりで、チョンキンとは思えない美しさ。エアコン、ホットシャワー、電話、TV付き(これがなんとリモコンTVだよ。驚いたね)でシングル120HKD~150HKDはお買い得だよ、奥さん! おまけに玄関の入口に宿泊客共有の冷蔵庫があり、長期滞在者のために無料の洗濯機まであるっていうんだから、至れり尽くせりだ。オーナーのピーターさんはE座8階にも「ニュー・ヤンヤン・ゲストハウス」を持っているそうなので、そこも見せてもらったが奇麗だった。宿泊客はアフリカ人がほとんど。ピーターさんも従業員のガーナ出身のアームストロング君(22歳)もフレンドリーでカインドリーだ。名刺を置いてきたから私の名前を言えば、きっとサービスしてくれる(ことを望む)。これで香港の宿泊は問題なしさ。近くにシェラトンやぺニンシュラもあるので、チョンキンに疲れたらロビーのソファーに座って気分をリフレッシュすれば大丈夫。さあ、ジョイン・トゥー・ザ・チョンキン・ワールド!(つづく)
NO46 チョンキン・マンション

at 2004 05/13 18:32 編集

チョンキン・マンションという名の安宿が香港にあるということは知っていた。が、まだ泊まったことはない。香港には返還前にツアーで行ったことがあるだけだ。漫画家でバックパッカーの小田空さんは、
重慶大厦とは、通称を「チョンキン・マンション」。アジアを旅する際にホンコンに基地を置く世界の貧乏旅行者で、その名を知らぬ者はいない、旅人のとまり木。心の故郷(ふるさと)。食わせ物の迷宮。
香港銀座の一等地、右に左に高級ホテルをしたがえながら、ひときわ異彩と異臭を放つ、今にも朽ち果てそうなヨレヨレの汚いビル。
                     (小田空著「目のうろこ」より)
と書いている。どうだ、どうだ、行ってみたいと思わんかね? (オレだけか~い)少なくとも私にはTDLよりも魅力的な場所に思えるぞ(行ったことないけど)。というわけで、死ぬまでに一度でいいからチョンキンに泊まりたいという熱い(のか?)想いを抱いて五月の連休を利用して四泊五日のチョンキンひとりツアーに出かけることにした。なじみのパキスタン・カレー屋のマスターにチョンキンに行くと言うと、「わたし、チョンキンよく知ってるよ。香港にいる時、よくカレーの材料買いに行ったね。もう十年以上も前になるかな。そうだ、ドリアンさん、チョンキンに泊まるなら、パパダ(せんべいのようなもの)5キロとホール・カルダモンとグリーンペッパー・ピクルス買ってきてくれへん? あっ、それから荷物になって悪いけど、ブラック・ラベルとシーバスもお願い」
俺は行商人か~いっ、と心の中で突っ込みつつ、香港へ。
地下鉄尖沙咀(チムシャツォイ)駅のE2番出口を出ると、ネーザン・ロードをはさんで、でかい雑居ビルが現われた。ああ~、あれがチョンキンなのね、と感慨にふける隙もなく、パキスタン人とおぼしきにーちゃんに「ニセモノ時計アルヨ」と声をかけられる。それからこの界隈をうろつくたびに声をかけられることになるのだが、やつらは百発百中、私を日本人と見抜いてしまうのだ。店で買い物をしたら、店員に広東語でしゃべりかけられるのはよくあることだったのに。なぜだ? 「職人芸」、もしくは「匠の技」という言葉を思い出す。
入口にはターバンを巻いたシーク教徒、パキスタン人、アラブ人、アフリカ人という見るからにキツイ人たちがたむろしていらっしゃいます。一階には何軒か両替所があるのですが、入口付近の三軒のブースにはいつも若い女性が座っています。むさいチョンキンにあって、泥沼の蓮、はきだめの鶴、という風情ですね。いや、レートの悪さをごまかすための香港人のこすい作戦かもしれません。チョンキンでは両替の手数料を取らないので、わざわざ遠くからやって来る人もいるみたいです。二階にある「Pacific Exchange Co.」という両替商がレートがいいようです。奥に入ってみると、コンビニ、鞄屋、服屋、土産物屋、インド食料品屋、散髪屋、食堂等がひしめきあってます。「チョンキン・マンションには一階と二階合わせて200軒以上の店があります」と書かれたプレートが天井付近に掲げられていますが、暇な人は確かめてみよう!
チョンキンは金城武、フェイ・ウォン、トニー・レオン出演の映画、「恋する惑星」(英語題名「Chung King Express」)のロケにも使われています。この映画は1994年の作品なんですが、雰囲気はその頃と今も変わってないですね。ただ、一昔前はチョンキンと今は無き九龍城が香港の暗黒地帯の双璧だなんて言われてたんですが、最近のチョンキンは警官が巡回したり、防犯カメラを設置したり、夜中の12時になるとシャッターを降ろしたりと、安全面に関しては格段に進歩していますからね、チョンキンに泊まりたいけど、なんだか恐いと思ってらっしゃるそこのあなた、心配いりませんからねえ~。
17階建てのチョンキンにはA~E座が独立した棟として入っており、100以上もの安宿があるそうです。入って左にはA、B、C座が、右にはD、E座のエレベーターがあります。各座に偶数階行きと奇数階行きがあり、全部で10基のエレベーターが稼働しているのですが、宿泊客や住人、お米や食料品やガスボンベを荷車で配達する人、掃除のおばちゃんでいつも長い行列が出来ています。遅く帰って来たときなんか、行列を見ただけでうんざりします。でも、大丈夫! そんなときに限って、インド人のにーちゃんと香港人のおばちゃんが列に割り込んだ、どーしたと言い争いをしているという心が和む光景に出くわしますからあぁっ!
そんでもって、エレベーターの定員が7人なんですけどね、ガタイのいいシーク教徒のおじさんや小錦なみに体格のいいアフリカ人のおばさんなんかが乗ってくると、すかさず親のかたきみたいにブザーが鳴りまくるんですよ。仕方ないから、最後に乗ってきた人がうらめしそうに降りていくんですが、中には片足立ちになって、両手でバランスを取りながらブザーをやり過ごすという、「伊東家の食卓」で使えそうな裏ワザを駆使する人もいらっしゃいます。(つづく)
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2004年四月に発表した海外旅行記

2007-08-30 | Weblog
NO45 カトマンズの夜

at 2004 04/27 23:23 編集

中山可穂の「熱帯感傷紀行ーアジア・センチメンタル・ロードー」を読んでいたら、次のような文章にぶつかった。著者はインドネシアを旅していたのだが、
「店内のラジオからは、マントヴァーニ楽団の『ブルー・タンゴ』が流れていた。まさかこんなところで、アメリカ製タンゴの名曲を聞けるとは思わなかった。」
僕は、ああ、分かるなあと思った。僕もカトマンズのタメル地区にある古本屋の二階で日本語と英語のペーパーバックを眺めていたら、ラジオからビョークが聞こえてきたことがある。曲名は思い出せないが、ネパールでビョークという取り合わせも妙なもので、年の暮れということも相俟って、異国で独りという寂寥感が身に染みた。
カトマンズに行こうと思い立ったのは、タメルという場所がバンコクのカオサンと同じように世界中のバックパッカーで賑わっていることを本で読んだからだ。ネパール人と異国のバックパッカーが交錯しながら食事をしたり、土産物を売ったり買ったりしている光景を思い描くと居ても立ってもいられなくなった。
夕刻にネパール空港に到着。ロッジのようなイミグレーションを通過し、外に出てタクシーを拾う。数十分走ったが、王宮の前で突然、エンストした。運転手に聞くと、何とガス欠らしい。彼は車外に出て、通りを見つめている。どうするのかと思って見ていると、やがて通りがかったタクシー仲間を捕まえてガソリンを分けてもらっていた。タメルに着いた頃には辺りはすっかり暗くなっていたが、なるほど土産物やホテルや食堂が櫛比し、賑わっている。適当な安宿にバックパックを下ろし、街に出てみた。タメルはカトマンズにおいても異質な場所だと思う。ニューヨークがアメリカにとって特異な都市であると同じ意味で。外国人と牛と地元の人間で賑わっている往来をぶらぶらと歩いていると、小さなスーパーマーケットがあった。そこが気に入って、タメル滞在中は日課のように通った。外国人に混じって食料品を買っていると、不思議と心が安らいだ。多分、一人であっても一人じゃない距離感が好きだったからだろう。食堂では、よくモモ(水牛肉の餃子)とチョウメン(焼きそば)を食べた。席に着いてから最初のお茶が出てくるまで20分、最後の食事が出るまで一時間かかった。白人の客が「ネパールタイムだ」と言うと、他の客はあきらめのような、連帯感のような笑いを洩らした。
ひょんなことから、あるネパール人夫婦と意気投合し、彼らの知り合いの家へ招待されることになった。その家は日本大使館のすぐ側にあり、門扉から玄関まで歩いていくような、ネパールの生活水準からすれば充分すぎるほどの大豪邸だった。主人のチャンさんは台湾出身で、台湾の電化製品をネパールに輸入して成功した人だ。熱心な仏教徒でもあり、広い居間の一角にしつらえた祭壇へのお祈りは毎日かかさない。チャンさんは言う。「あなたが今日ここに来たのは、あなたが生前ネパール人だったからだ。今度ネパールに来た時はホテルに泊まらず、うちに泊まりなさい。いっそのこと、ネパール女性を紹介するから結婚してこっちに住んだらどうですか」。帰りは夫婦にタクシーでホテルの近くまで送ってもらった。食堂に入り、3人でチョウメンを食べた。縁って不思議だね。そう言って3人で笑った。ネパールに来てから三日目だった。
知り合いから知り合いに紹介され、滞在中は数珠つなぎに知人が増えていった。誰もが親切にしてくれた。ネパール人は日本人に似ているところがある。控えめで内気で、外国人に対しては親切にせざるをえない。それに加えて男たちは眉間のあたりに矜持といったものを漂わせていた。彼らの信仰する神のせいなのか、それとも貧しさによって自らを恃みにしなくてはならないからだろうか。勇猛果敢なネパール人はグルカ兵としてイギリスの傭兵になったこともある。僕は日本のサムライと彼らを重ねあわせることもしばしばだった。                 
たとえば、こういうことがあった。ジョッチェンの広場で少年たちにババ抜きを教えて遊んでいた。しばらくトランプをしていると、後ろから肩を叩かれ、知り合いの大人たちから「メシを食べに行こう」と誘われる。「すぐ戻ってくるから」と中座し、彼らとしゃべっているうちにトランプのことは忘れてしまっていた。あくる日、その広場に行くと、昨日の少年が近づいてきて、「忘れ物だよ」とトランプを差し出した。些細なことだが、アジアで未だこのような正直さに出会ったことはなかった。
帰国日、最後に広場に行ってみた。顔見知りの少年を見つけ、これから帰るからと告げる。何かを言おうと思ったが、適当な言葉が浮かばない。「ダンニャワード(さようなら)」と言って歩き出したが、写真を撮っておこうと思いついた。ついでに周りの連中も記念に写しておこう。「写真を撮るよー!」とあたりに声を掛けると、20人くらいが集まった。笑顔の彼らをファインダー越しに覗いていると涙が出そうになった。
タクシーを拾い、空港に向かう。しばらくすると今度はパンクした。車外に出ると、来た時と同じような満月だった。                                                                                                                                                                                                                             
NO44 ウタダ

at 2004 04/02 23:49 編集

I was out stumbling in the rain staring at your lips so red.
よろめき出ると、雨。なんて赤い、あなたの唇。
   
小生、過日久しぶりにテレヴィジョンを聴こうと思い、セカンド・アルバム「アヴェンチャー」を引っ張り出した 。一曲目の「Glory」。冒頭の詩はその一節。
語順に訳出し、体言止め。赤い唇のなまめかしと、雨の冷たさの対比が、いい。訳詞をしたのは岡田英明と、ある。岡田氏は、かつて「ミュージック・ライフ」誌上で、ピストルズの「プリティー・ヴェイカント」をWe are pretty oh so pretty
と繰り返し、そこでvacantと言葉の意味が逆転するのは痛快だ、という意味のことを書いていたが、彼はそこでprettyという単語を正しく理解していたのであり、なんじゃ、そらあたり前やんけと言う人もあるやもしれんが、事実はそうでは、ない。ピストルズは正式なスタジオ・アルバムは畢竟(ひっきょう)、一枚しか捻出していないにもかかわらず、ライブやデモテープやセッション、はてはインタビューなどのCDがそぞろ出ているのであって、もちろんその都度、訳者が違う。その中に、「オレ達は素敵だ」と訳し、その後に何の脈絡もないvacantと言う単語が来ているのに戸惑い、狼狽し、苦心した挙げ句、「だけどかなり抜けてるけどね」等と言う訳詞を恣意に捏造し糊塗しているのを何度も、読んだ。これはもちろん「乃公 (だいこう)等は全くの何もない、カラッケツのカラッポ」だと歌っているのであって、まだある、同じ曲の中に「0ut to lunch」(時流に遅れた)という文言があるが、これを「さっ、昼メシに行くぞ」とあって、小生、全く弱り果てる。プロレスラーの藤原喜明がカール・ゴッチに「大工はノミを磨き、石屋はハンマーを磨く。キミがレスラーなら体を鍛え、大切にしなさい」と言われ、爾来(じらい)、それを座右の銘にし、肉体の鍛練に努めたというが、もちろん、なにがしかの報酬を受けとっているのであれば、プロというのであって翻訳者も日本語と外国語の言葉を鋭意、磨かねばならぬ。
                                     
よくブルースやゴスペル、ジャズ、レゲエ等等という、所謂(いわゆる)、黒人音楽と称される楽曲をやっている我が朝の人が「私は黒人に生まれれば良かった。私はなぜ日本人であることか、私はなんと不幸なんだろう」と、おっしゃる人をたまさか見聞するが、小生、これを聞くと「ふざけんな大馬鹿野郎。プリンの角に頭を打って公民権運動前のアメリカ合州国南部かアフリカ西海岸の奴隷船の黒人にでも生まれ変わってきやがれ」と悪態をつきたくなるのであるが、もちろんアフリカ黒人にもインド黒人にもアメリカ黒人にもアメリカ白人にも中華人民共和国人民にも日本人にもスペイン人にもアイルランド人にもああめんどくせえア・ポステリオリに自分たちの生活、風習に基づいた文化というものがあり、宗教でいえばキリスト教とアフリカの呪術に高度低度の違いはないという考え方で、これを文化相対主義というのであるが、これが正しいのかどうかはひとまず置いといて、日本人が黒人の文化をそっくりそのままいただきって感じでサルマネしてもこのアホンダラそれが何になるの、って感じで。
 拙者が大学で英文学などというヤクザなものを専攻しておった頃。第ニ外国語という面妖なものを単位取得せねば卒業は罷(まか)り成らんとの仰せで仏語、独語、西語、支那語から取捨選択せねばならんということに相成った。英文学専攻の学生は仏語を選択するのが慣例、などと通達用紙に記載されておったのだがケッ、て感じで、結局僕は西語を選び勉学に刻苦精励することになった。理由は以前紐育はハーレムという地をぶらぶらと散策していた時、そのラテン・アメリカ人の多さとあらゆる表記に英語と西語が記されているのを目撃し驚いたからであるが、それはさておき、西語の先生は詩人のアレン・ギンズバーグに風貌がそっくりであったので僕は大いに怪しみ、この人はどこぞの人ぞ?と訝(いぶか)しがったのであるが日本人であることが判明し僕は安心立命した。何ぞ? 
その西語の授業中、僕はコンサイス英語辞典を机上に置いておったのであるが、先生は僕の席を通りがかるおり、ひょいとその辞書を手に取り、しげしげと、と見こう見されるのである。僕は西語の辞書を放擲(ほうてき)していたことに対し、叱責されるのかと鞠躬如(きっきゅうじょ)としておったのであるが、あに図らんや先生は「これはすごいですね」と目を細め、その辞書をためつすがめつされるのである。僕は仰天した。中学生から使用している辞書なので韋編三絶なのは当然といえば当然なのであるが、僕はそんなことに関心を示される先生に感銘した。さらに先生はこうも言われたのである。「私はこのような西語の辞書を三冊持ってます」と。僕はますます感銘を受けた。感動のあまり、「そのくらい辞書を活用しなければ語学は習得できないのでありますね」という意味のことを口走ったのであるが、「いや、まだまだです」と先生はおっしゃられるのである。先生の学問に対する真摯(しんし)な態度、一求道者たらんとする先生の孤高の精神に僕は尊敬の念を覚えたのである。
僕の寝室兼書斎には、あまたの辞書が参差(しんし)乱雑しておる。「リーダーズ英和辞典」「アメリカ俗語辞典」「アメリカ口語辞典」「アメリカ新語辞典」(これは図書館からガメてきたやつ)「最新和英口語辞典」「スピーキング英和辞典」「Give Get辞典」「The dictionary of Comtemporary SLANG」「英語図詳大辞典」「英和翻訳表現辞典」「最新英語情報辞典」「早見優ちゃんの英語にしてみたゲンダイ用語辞典」だってあるし「現代フランス語辞典」「現代スペイン語辞典」「広辞苑第三版」「新選漢和辞典」「新明解国語辞典」「イミダス」に「現代用語の基礎知識」だってある。三島由紀夫は「辞書は引くものではなく、読むもの」と言ったが、いかにも辞書は読んでもおもろい。はは。
僕は成人式のお祝いに市から国語辞典を頂戴したのであるが、僕と同年代(当たり前だ)の阿呆の餓鬼どもはその辞書を毫(ごう)も有り難く思わず、放擲していたに違いないことは想像に難くない。その頃、文学などに入れ込んでいた僕は意味不明の文言が出てくると逐一、辞書を引いて確認していたのである。そうして使用していた辞書は一年を俟(ま)たずしてボロボロに朽ち果てたのであるが、僕の日本語の語彙は飛躍的に伸びたのである。イエイ。
ともあれ、西語は三年間授業を受けたのだが、拙者、西語で覚えた文章は「私の父と母は西語を話すことができます」だけである。嗚呼、やんぬるかな。アディオス。
 
わが君にわけは恋ふらし
わがせの君は涙ぐましも

自分は過ぐる夏、マレーシアに旅した。わが朝のポップスは亜細亜市場を席巻している。街をうろついて聞こえてくるのは宇多田ヒカルだ。自分はクアラルンプールの「タワー・レコード」で宇多田のテープを邦貨、六百円で購った。そしてセレンバンという街を目指し、列車に乗った。その街に目的若しくは所用があったわけではなく、車窓から街並の風景、乃至市井人の生活というものを打ち眺めてみたかったのであり、それには日帰りで逆旅(げきりょ)に帰館できるセレンバンは都合がよかったのである。車窓からは、なるほど森林を伐採して作られた都市だと実感できるほど、熱帯多雨林が生い茂り、抜けるような蒼穹に入道雲が棚引いておる。春霞棚引く山を君が越えいなば。眩しい陽光の中で宇多田の湿ったリズム・アンド・ブルースの唱法は妙に合った。聴いているうちに、自分は不覚にも涙を流していた。    

 沢木耕太郎の「書物の漂流」というエッセイは、こういう書きだしで始まる。
「小説を読んでいて不覚にも涙を流しそうになったことがある。確かにそれが物語の中段とか終局においてというなら別に珍しいことではない。取り立てて口にするほどのことでもないだろう。その時、私は第一章の第一節の第一行目を読んでいたのだ。第一行目の活字を眼にした時、不意に胸が熱くなってしまった。驚いた。狼狽したといった方が正解かもしれない。_私は山本周五郎の『さぶ』を読んでいたのだ。」

シルクロードを西に向かって歩いていた沢木は日本人旅行者から一冊の文庫本を貰う。それが『さぶ』だった。彼はチャイハナでその本を読み始めるが、一ページ目が終わらないうちに、その先を読み進むことができなくなってしまう。
「いまとなれば、その時の動揺は山本周五郎の文体の力によってもたらされたものに違いない、と考えることができる。靄のようにけぶる小雨、両国橋という名の橋、さぶという名の若者、橋を渡るという感覚。一片の雲もなく、一滴の雨も降らない中近東の砂漠にいる私には、それらのすべてがひとつの世界を現前させる激しい喚起力を秘めていた。しかもその世界は、遠ざかりつつあり再び戻ることはできないのではないかと怖れていた土地の、鮮やかな象徴として現前したのである。」

何百日か後、戻れないのではないかと怖れていた日本に帰った彼は再び『さぶ』を手にするが、あの時の胸の熱さを経験することはなかった。
「しかし、」と彼はいう。
「文庫本の『さぶ』は、いまでもなお、シルクロードをゆっくりと往き来しているかもしれないのだ。そう思うと、ほんの僅(わず)かだが、胸が震える。」
自分は宇多田をバスの中で、逆旅のベッドの上で、繰り返し聴いた。聴くたびに日本のことを想った。それはアメリカン・スクールに通う彼女(当時)が、亜細亜の片隅にいる自分に日本人であることの認識を強いたからだ。

「マリリン・マンソンとはアメリカの闇が生み出した怪物だ」
(マリリン・マンソン)
ベルリンの壁崩壊以後、喧(かまびす)しくなってきた感があるが、人種、宗教、文化、言語に関係なく世界中の人々は融和して住むことができる、宇宙から地球を眺めてみれば国境線なぞなかった、僕達は地球号という一蓮托生の船に乗ってる地球人であるから争いはやめよう、ウイー・アー・ザ・ワールド、ウイー・アー・ザ・チルドレン、国境なんぞがあるから戦争、紛争が起きるのだ、反戦、平和、自由、平等、人権が人類にとっての普遍の真理であるから反権力、反国家、もう国民という言葉を使わず市民と言おう、これからは草の根運動だ、一個人が輝く時がきた、国籍を捨て、国際人になろう、等という輩(やから)がいる。妄言である。自分はかかる妄言を吐く人種を信じぬ。「イマジン」から「アナーキー・イン・ザ・U.K」、マリリン・マンソンまで、ロックの一部分は無政府主義を標榜し、国家の解体を宗(むね)としてきた。(ただし後年ジョニー・ロットンはアナーキズムなんて中産階級のマインド・ゲームだと言っていたが)国家が消滅すれば、より紛争及び戦争が勃発するということは自明の理であり、国家すなわち権力であるから他国を侵略する力を有するという民主主義やその漸進形態である共産主義の謂(いい)は笑止である。しかし、自分はイラクの空爆に賛成である。かかる非人道的な行為を看過できぬ。人権思想を持つ、アメリカやヨーロッパの民主主義国家が空爆を決議したのは当然だ。それならば、インドにはサティーという文化(culture)『人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住を初め技術、学問、芸術、道徳、宗教、政治など生活形成の様式と内容とを含む』(広辞苑)がある。夫に死なれた未亡人は生きたまま焼かれるという文化だ。法律では禁止されたが田舎では今でも実施されている。全ての文化を等価値だとする文化相対主義者はサティーを容認できるか。そして民主主義者は人権、平等、女性差別撤廃の名においてサティーを絶対に容認できまい。この悪魔の所行を根絶するために民主主義国家はインドを空爆しなければならない。それができなければ、民主主義は恣意的な思想(イデオロギー)だと言われても仕方がない。アメリカよ、インドを空爆せよ。
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ロンドンコーリング

2007-08-30 | Weblog
NO42 ロンドン・コーリング

at 2004 03/19 22:25 編集

ある日、何気にNHKを観ていたら、普段はめったにNHKなんか観ないんですけどね。ロンドンのイースト・エンドの話をしてたんですよ。イースト・エンドは労働者の街でね、反対にウエスト・エンドは高級ブティックやレストランがある、おされな街なんですよね。ほら、ペット・ショップ・ボーイズの「ウエスト・エンド・ガールズ」って曲あったじゃないですか。あれはイースト・エンドに住む労働者階級の少年とウエスト・エンドの中産階級の少女の歌なんです。この時、あっ、イースト・エンドに行ってみたいって思ったんです。その時までヨーロッパには行ったことがなかったし、興味もなかったんですけど。それにロンドンといえば、僕にとってはパンクなんですよね。その時は1994年でした。ヒップ・ホップ、グランジ、ユーロ・ロックの時代です。カート・コヴァーンが自殺したのもその年だし。パンクなんてもう過去の遺物ですよ。でも、アメリカのパンクと言われるグランジの代表的バンドのリーダーがその年に亡くなったっていうのは、何だか象徴的ですね。ニューヨークで発祥したパンクがロンドンに渡って、十何年か後にその種子がシアトルでやっと発芽して全世界に広がったけど、一つの遺伝子が絶えた、みたいな。それでも、パンクスの一人や二人はヤンバルクイナやカブトガニみたいにひっそりと生息しているだろうと。天然記念物みたいに英国王室が保護してたりとか、そんなわけないか。それで、イースト・エンドとパンクスという学術的にも崇高な、ちょっと、ここは笑うとこじゃないですよ。まあ、淡い期待を抱いてですね、ロンドンに行ったわけです。
ロンドンってとこは、もう京都ですね。ヨーロッパ中から来た観光客がわんさかと歩いてて。僕もフランスなまりの英語でよく道を聞かれました。ヴィクトリア駅なんかに行くと、若者だけじゃなく、中高年の一人旅や夫婦パッカーがうろうろしていました。日本のリーマンのみなさんもね、パチンコを控えたり、「村さ来」に行くのを三回から一回に減らしたりしてね、こつこつと小金を貯めて旅に出たらいいんじゃないかと思いましたね。見聞も広がって、人生楽しくなるんじゃないかと。まあ、よけいなお世話ですね。それに街中の空気がね、すごく穏やかなんですよ。大都市にありがちなギスギスした感じがない。人も穏やかな顔をしてるし。道を尋ねても誰もが親切に教えてくれるんです。おじいさんやおばあさんなんかね、僕の腕をつかんで離さんばかりに教えてくれる。だけど、ハイド・パークを歩きながら思ったんです。ロンドンには住めないなあって。僕の眼には物凄く退屈な街に映ったんです。実際に住んでみたら違うんでしょうけど。
肝心のイースト・エンドですけど、オールドゲイト駅付近にあるとは知ってましたから、そこで降りて人に聞いたんですが、誰も知らないって言うんですよ。仕方なくうろうろと探していたら道に迷っちゃって。そのうち、まっ、いいかって気持ちになっちゃって。もう一つの目的のパンクス探訪ですけど、やっぱりいないんですね。キングズ・ロード、オックスフォード・ストリート、カーナビー・ストリート、ピカデリー・サーカス、スローン・ストリート、カムデン・ロック・マーケットと歩き回ったんですが、見つかりませんでした。それじゃあ、どうしようかなと思ってね、大英博物館を観て帰るのも何だかなあ~でしょ? それでふっと思ったのが、そうだ、ブリクストンに行ってみよう! と。ジャマイカ移民とかのコミュニティーができてて、貧しい区域なんですよ。もちろん犯罪も多いし。クラッシュの「ブリクストンの銃」には、白人が作ったレゲエの中では最高傑作だと思うんですけど、自分たちのパンクのルーツであるレゲエに対して、もし、その敬愛するジャマイカ人たちが暴動を起こしたら、我々は制圧する側に立つのかという葛藤が歌われています。泊まっていたホテルの人からも、ブリクストンに行くならカメラはしまっておきなさい、充分気をつけるのよ、なんて言われたんで何だか期待してしまって。朝一番に地下鉄に乗って行ってみたんですよ。そしたら、アパート、あっちではフラットですか、そこから出勤する白人が出てきて。あれっ? 白人も住んでるの? って思ってね。こっちはニューヨークのサウス・ブロンクスみたいなところを想像してましたから。一体、何を期待してるんでしょうね? 僕は。(つづく)
NO43 続ロンドン・コーリング

at 2004 03/26 23:30 編集

とにかくブリクストンはそんなに荒廃しているとは思えなかった。少なくともアジアのいくつかの都市よりは遥かにマシです。一度だけ黒人に声を掛けられて。素振りを見ると、ああ、こいつは金をせびろうとしてるなと思ったんで無視しましたけど。そういえば、これはブリクストンじゃなくて普通の通りなんですが、歩いていると、物乞いしてるのは若者なんですね。働かなくても失業保険で何とか食べていけるので、無気力な若者が増えているような気がします。物乞いをして断られると、ある若者が「この街はどいつもこいつもファッカーばかりだぜ」と歌っていましたが、ファッカーはお前の方だ、と言いたくなりますね。
その夜はホテルが密集しているアールズ・コートのドミトリーに泊まりました。ここらあたりは何故かオーストラリア人が多いそうなんですが、僕はドミトリーに泊まるのは初めてだったんです。他人がいる空間ではくつろげないんで、今まで泊まったことはなかったんですよ。部屋に入ると、僕のベッドにヒッピーくずれみたいなカップルが寝ている。しかもニューエイジ・ミュージックをかけながら、抱き合ってるんです。一応、「ここ、僕のベッドだけど」と言うと、薄目を開けて、「ああ、そう」なんて言う。まあ、どこのベッドに寝ようが関係ないんですけど。だけど、延々とニューエイジを聴いてるんで、頭がおかしくなりそうで外に飛び出しました。その時、夜のソーホーに行ったんですけどね、キッチュというか、フェイクというか。ブライアン・イーノが化粧していた頃の初期のロキシー・ミュージックみたいな感じなんですよね。あるいは、ジョン・フォックスが在籍していた頃のウルトラ・ヴォックスみたいな、ファーストでメンバーがビニールのジャケット着てて、ネオンが煌めいてるイカしたアルバム・ジャケットがあるんですけど、そんな雰囲気なんですよね。映画でいえば、「ロッキー・ホラー・ショー」とか、フレディー・マーキュリーのもっこりタイツとかを連想しちゃうんですね。えっ?よく分からない? 歩いてみれば分かりますよ。ゲイリー・ニューマンの幻想アンドロイドですから。もっと古い例で言えば、パリスのビッグ・タウン2061ですかねえ。ますますわけ分からんですか。えっと、あと年末だったんで、トラファルガー・スクエアのカウントダウンにも行ったんですけどね、なんだかんだ言っても、イギリスはヨーロッパの中心だと思ったのはね、僕の分かる限りでも、スペイン人、ドイツ人、スウェーデン人、イタリア人、ポーランド人、フランス人、スイス人、あとインド人と中国人と日本人がいたことですね。ええ、4時間その広場をうろついてましたから。12時になったら、そばにいる女性にキスしてもいいことになってるんですけど、無理やり迫ってビンタ張られた男もいました。いい思い出です。いいえ! 僕じゃないですよ。違いますって! 失敬だな、君は! ともかくもですねえ、一番感心したのは、ロンドン郊外を歩いていて、信号のない車道を渡ろうとした時ですよ。車がビュンビュン通ってるんですけど、車道の一歩手前まで来たとたん、左右の車が一斉にピタッと停まりましたからねえ。大阪人、少しは見習って欲しいですねえ、正味の話。
だけど、パンクスに会いたいなんてのは今から考えると、まるで日本に来た外国人がサムライが見たいと言うのと同じ感覚ですね。ジミー・ペイジが来日公演で成田に降りたとたん、「サムライはどこだ?」って聞いたのを笑えません。次にロンドンに行く時は、羽織袴に雪駄を履いて行こうと思ってます。
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NO41 続々ロサンゼルス編

2007-08-30 | Weblog

at 2004 03/04 00:14 編集

目を覚まし、海辺に面した部屋のカーテンを引く。陽はすでに高い。白い波頭の間にサーファーたちが見え隠れする。今日も暑くなりそうだ。ロサンゼルスには四種類の人間しかいない。ハリウッドスターと観光客とメキシカンとホームレスだ。モールに入ってみると何だか気が滅入る。モールってやつは世界中どこでもそうなんだろうが、画一的で面白味に欠ける。オープンシステムになっているファーストフード・レストランは家族連れで一杯だ。誰もがハンバーガーかピザかフライドチキンを頬張っている。なんだかなあ~。ロサンゼルスに滞在して分かったことがある。その壱、食事をハンバーガーとコーラなんかで済ませる人が結構多い。それゆえ、デブはハンパじゃなくデブだ。デブの中のデブ、デビーだ。人間というよりは肉の塊、ミートだ。その弐、タトゥーをしている人が多いが、やつらはそれを見せびらかすために常にノースリーブのTシャツだ。ごくろうさんだ。ためになった。これだけアメリカを学んだら充分だ。今晩荷物をまとめて日本に帰ろう。
「メキシコに行かない?」朝食後、ジョイスが言った。「え”?メキシコに行けるの?」「もちろん、行けるわよ。アメリカからメキシコにはフリーパス。帰るときはIDがいるけど」
メキシコといえばテキーラにサボテンにタコスしか思い浮かばんが、なんだかムーチョなところに違いあるまい。
「行く、行く、連れてって。これからすぐに旅立ちましょう。早く支度して、急いで急いで」「くっ、苦しい~。そんなに揺さぶらないで。てっ、手を離してちょうだい。年寄りを殺すと天国に行けないわよっ!」
というわけで、我々はバスを乗り継ぎ、トラムに乗り、何時間もかけて国境のチフアナに到着した。国境越えするにはらせん状の歩道を歩かなければならないが、そこにはすでに幼子を抱えた母親が何人か物乞いをしていた。目の前の丘にはトタン屋根の粗末な家が斜面にも隙間なく建っている。いきなり劇的に景色が変わった。その参、アメリカとメキシコの国境は世界一残酷な国境だ。「GODを求める人たちがアメリカに行き、GOLDを求める人たちがメキシコに行った。たった一字の違いだが、それが現在の貧富の差となった」という石川 好の本で読んだ言葉を思い出した。もちろん、そんな単純なことではなく、ピルグリム・ファーザーたちも崇高な目的ばかりじゃなかったらしいけど。街を歩くと、その身なりで地元の人間と観光客がはっきりと分かる。前を歩いていたフリルの付いた服を着たアメリカ人少女と、裸足でぼろぼろの服を纏った同じ位の年嵩のメキシコ人少女が偶然にもツーショットになった。「しめた、これを撮ればピュリッツァー賞、間違いなし」とカメラを探しているうちにどこかに行ってしまった。あ”あ”、おれって!
「人生はお金がすべてではないけれど、無いと不便。あったほうが便利だなあ」(相田みつを)
みつを、なに当たり前のことをもっともらしく言ってんだあ! おいちゃんはなあ、ホントはこんなこと言いたくなかったんやけど、最後に言わしちくれ、「ロスに来たのは、とんだ時間のロスだったあああぁぁぁぁ~~っ..................................................................................................。」

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2004年一月に発表した海外旅行記

2007-08-29 | Weblog
NO36 NYホテル編

at 2004 01/30 21:59 編集

デトロイト空港着。国内線のニューヨーク行きの便に乗り換えるため、入国審査の列に並ぶ。長い列はそれでも徐々に何事もなく捌かれていき、やっと私の順番になった。しかし、私の入国カードを見たウーピー・ゴールドバーグ似の審査官の目がキラリと光った(ように見えた)。ウーピーは失礼にも私を無遠慮に眺め回し、質問してきた。 「旅行は一人で?」「アメリカは初めて?」「ニューヨークを選んだ理由は?」 私は「○○の買い付けに」と答えてやろうかと思ったが、むずむずする口を押さえた。冗談でもそんなこと言ったら、奥の部屋に連れていかれかねん勢いだ。あげくの果てに日本人スッチーまで呼びつけて何か尋ねている。周りの乗客は私を不審そうに見ている。あの男、テロリストじゃないかしら、まー恐いわね、そういえば見るからに怪しそうよ、なんて思われたに違いない。恥ずかしいじゃねえか。もう乗ってやらねえぞ、ノー○・ウエ○○! あっ、航空会社は関係なかったか。そこで解放されたけど、個人ツーリストは私だけだったかららしい。ほんとに、もー、いいかげんにしなさいっ! なんてことをわーわー言うてるうちに飛行機はクイーンズにあるラ・ガーディア空港に無事到着いたしました(落語家口調)。
 空港からケアリーバスに乗り、ポート・オーソリティへ。地下鉄でペン・ステーションまで行き、歩いてホテルに向かう。予約はしてなかったが、チェルシー・ホテルに泊まろうと思っていた。チェルシーは昔から作家やアーティストが根城にしてきたホテルだ。古くはO・ヘンリー、ディラン・トマス、トーマス・ウルフ、アーサー・ミラー等、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョップリン、ジェファーソン・エアプレインも常連だった。パティ・スミスと写真家のロバート・メイプルソープも同棲していたし、シド・ヴィシャスが恋人のナンシーを刺殺して逮捕されたのもここだ。とにかく、そんなこんなでようやくたどり着いたホテルのフロントは言った。 「満室です」 があ~ん! こんな夜中からホテル探しか~い。チェルシーの向かいには YMCA があったが、汚くて暗くて不気味なオーラを発している。こんな所に泊まったらモーホー野郎に犯されそうだ。う~ん、こんな時は繁華街に行けばなんとかなるだろう。東京だったら歌舞伎町、ニューヨークだったらタイムズ・スクエアだっ! てなわけでタクシーをとばし、安そうなホテルを片っ端から当たったがぜ~んぶ満室だ。うえ~ん、わしはトルコで猿岩石を探す室井滋かい(ふるっ!)。アジアだったらこんな苦労はせんでもいいのに。と裏通りを歩いているとびっくりした。シャッターを降ろした店先で白人女性が寝袋にくるまって一人で寝ているのだ。まあ、ここは人通りが少ないから安心かもね。ってそんな問題ちゃうやろっ! あんたもホテルが見つからんかったんかい。けど、ここはニューヨークのど真ん中やぞ。こんな所で寝てたらレイプされるぞ、ねーちゃん! (後にも先にもあんな大胆なバックパッカーを私は見たことがありまへん)
 それから2時間後、「NEWYORK INN」というきったねえ連れ込み旅館のようなホテルを見つけた。フロントのパキスタン人は「空室はあるよ」と言う。やれやれだ。でも値段を聞くと、「一晩100ドルだよ」。何でこんなホテルが100ドルもすんねん、足元見やがって。ボったくってんじゃねえぞ。 「年末料金でね。ボスの命令なんだ。さからったら首だよ。ほら、その証拠に」とパキスタンは宿泊リストを見せる。みんな確かに100ドル払っている。一応部屋を見せてもらい、一晩だけ泊まることにした。だけど、隣の部屋の奴らは騒いでいて声が筒抜けだし、床にはゴキブリも走っている。私は思わずトム・ハンクス主演の「ビッグ」という映画を思い出したね。主人公の少年はあることがきっかけで体だけ大人に成長してしまう。元の体に戻るためにニューヨークに一人で行くのだが、初めて泊まったホテルは汚くて物騒な所だ。部屋の外からは喧嘩の怒鳴り声が聞こえてくる。彼は恐くて心細くてベッドで身をよじりながら、めそめそと泣き出してしまうのだ(もちろん大人の姿のままで)。あの時に撮影で使ったホテルはここじゃねえのか、と思ったね。それでも野宿するよりはマシだけど。
 翌朝、ふん、こんなボロっちいわりにバカ高いホテルなんか二度と泊まるかよ、あたしを見くびるんじゃないよ、とばかりに憤然とチェックアウトし、ミッドタウンで宿探しをした。20軒近く当たったが、なんと一軒もなし。ぜ~んぶ断られた。仕方なく昨日のホテルに戻る。フロントにはまたパキスタン。 
 「まいっちゃったなあ。ニューヨーク中のホテルを探したけど、ぜんぶ満室だって」(ちょっとバツが悪い) 「今日は空室はあるかなあ~?」(低姿勢) 「どうかな、今調べてみるよ」とパキスタンはパソコンでチェック。思わず、「Have a heart(おねげえしますだ)」と泣きつく(情けねえ)。「もちろん僕はビッグなハートを持ってるさ」となぜかにやりと笑う。「え~っと、空いてるよ。一晩116ドル」 ぎえ~っ! 昨日より高くなっとるがな! 「今日は大晦日だからね。ボスが......」 「あー、分かった、分かった」
 結局、ニューヨーク滞在中はずっとそのホテルに泊まるはめになった。んでもって今回の教訓。「ニューヨークに行く時はなるべくホテルを予約してから行こう」(って、当たり前すぎて突っ込む気にもなれんわ!)     
NO35 NY地下鉄編

at 2004 01/23 21:36 編集

 地下鉄は楽しい。メタリックでアーバンである地下鉄は輸送手段に徹していて媚びないところがクールでもある。私は地下鉄が大好きだ。地下鉄のある都市に行けば必ず乗る。用がなくてもとにかく乗る。今までいろいろな国で乗った。香港ではなぜか下駄履きで乗った。肩を叩かれたので振り向くと、若い男が私の下半身を無言で指差している。見るとズボンのジッパーが全開していて恥ずかしい思いをした。ソウルではおじいさんに声を掛けられた。私が日本人だと分かると日本語で身の上話を始め、それが延々と続いて閉口した(今思い出したけど、何で地下鉄の便所内にコンドームの販売機があるとですか?)。ロンドンのチューブでは騒いでいるガキに注意したら、「asshole !」と言われた。ロサンゼルスの地下鉄には改札がない。無賃乗車していたら、たまたま検札に遭い、必死で英語の分からないふりをした。このように輝かしき栄光の地下鉄人生の王道を歩んできた私のことを、地下鉄の達人と呼んでくれても一向に差し支えない。そして世界中の地下鉄の中で唯一24時間運行なのがニューヨークである。いわば、地下鉄の中の地下鉄、キング・オブ・地下鉄といってよいだろう。地下鉄を制するものは世界を制す(ホントか?)。
 ニューヨークの地下鉄は何といっても殺伐としているところに趣がある。ホームには電話が何台も架設されている。これらは犯罪時の緊急用だろう。便所は犯罪防止のためにその多くが閉鎖されている。タイムズ・スクエアの駅なんかムッとアンモニアの臭いが鼻を突く場所もある。我慢できずに立ちションしている輩がいるらしい。車両は落書きされても消すことのできるニュータイプが日本から輸入され、名物だったジャクソン・ポロックのようなアクション・ペインティングは見ることができなくなったので残念だ。ニューヨークは人種のるつぼ(メルティング・ポット)ではなく、人種のサラダボウルだと言われて久しいが、ダウンタウンからアップタウン行きの地下鉄に乗ってみるとそれがよく分かる。ウォール・ストリートでは白人が多く、チャイナタウンのあるキャナル・ストリートに停まると中国系がどっと乗り込んでくる。ミッドタウンになると再び白人が多くなり、ハーレムに入ると黒人が多くなる。各人種が融合しているわけではなく、中国人街、韓国人街、イタリア人街、インド人街、ギリシャ人街等と住み分けができているのだ。そういえば夜、間違えて急行に乗ってしまい、慌てて降りた所がサウス・ブロンクスのサイプレスという駅だった。ホームには誰もいない。乗り換えるために地上に出ると、周りにあるビルというビルが焼けただれていた。あん時はビビったな。何しろ、火災保険をせしめるために放火する奴がいるらしいのだ。興味ある方は落合信彦の「アメリカの狂気と悲劇」をお読み下さい。 
 地下鉄は24時間営業とはいっても、夜の9時過ぎてから乗る人はめったにいまい。日中でも路線によってはホームに人がいなくなる駅もある。ホームには「Off Hour Waiting Area」が設けられていて、ラッシュ時以外はそこで電車を待つ。何てことはないのだが、ホームの中ほどにあって、乗客もそこに集まるから少しは安全だ。夜になると警官が乗車してくるので、乗客は彼等の乗っている車両に乗る。駅で乗客のほとんどが降りてしまい、警官もおらず2、3人だけが車両に残っている場合なんかとても緊張する。そんな時に限って、向かいに座っている男がじっとこちらを見つめているような気がする。私はおもむろにポケットからガムを取り出し、それをくちゃくちゃと噛みながら、俺は生っ粋のニューヨーカーなんだぜというポーズをとる。ついでに指の関節をポキポキと鳴らし、俺はカラテのブラックベルトだぜ、俺のパンチはピストルの弾丸より早いぜと威嚇(のつもり)をする。時おり軽くシャドーをしながら、最近ケンカしてねえなあ、体がうずいてしょうがねえぜという雰囲気を目一杯表現する。そいつが次の駅で降りてしまうと、どっと疲れる。我ながらバカみたいだ。もう何年も前のことになるけど、ある雑誌が地下鉄内で身の危険を感じた時の対処策は? というアンケートをニューヨークに住む女性にしたことがある。第一位は「鼻クソをほじって、アホのふりをする」(藤山寛美?)だった。これは効果があるかもしれん。
 犯罪が多発する地下鉄ではあるが、面白いのは何といっても乗客を観察することと、ストリートミュージシャンだ。ロック、ジャズ、ポップス、ダンス、毎日いろいろなパフォーマンスが楽しめる。黄昏どきに構内のどこからかサックスの音が聞こえてくると、ニューヨークだなあと思う。ある時、黒人女性が改札の前に座ってボンゴを叩き始めた。人が徐々に集まってくる。興が乗り、観客の黒人女性が手をひらひらさせて踊り、ヒスパニックの女が腰をくねらせて踊る。他の者はリズムを取り、手拍子をする。30分もの熱演が終わると、いっせいに拍手が起きた。駆け寄って抱きつく人もいた。そのあと電車に乗っていたら、黒人の男が乗り込んできた。小さな紙切れを口に当て、息を吹きかけて音を出している。メロディーはバットマンのテーマだ。でも、誰も「またか」というような顔をして見ようともしない。続いてコメディアンの物真似を披露したが...................し~ん。ううっ、寒い。寒すぎる。おひねりをもらおうと通路を回るが、もちろん無視されていた。思わず、「あほんだらっ! お客さまからゼニをいただこうと思うんやったら、芸を磨かんかいっ!」と桂春団次風に心の中で罵倒する私でした。
 地下鉄はどこまで行っても、何回乗り換えても同一料金だ。改札はトークンを入れ、ターンスタイルという金属のバーを押して入場する。そういえば、ビリー・ジョエルの「ニューヨーク物語」というアルバムは原題が「Turnstiles」だったな。ある日、いつものように地下鉄に乗ろうと、トークン売場に1ドルを出した。窓口のおばちゃんは「15セント足りないよ」と言う。なにいっ、市の職員までがボる気かっ、さすがニューヨークだ、とわけの分からん感心をして身構えると、おばちゃんは無言で背後の壁を指差した。壁に貼ってあるポスターには「地下鉄料金、本日から値上げ。1.15ドル」と書いてあった。   
NO34 NYバスターミナル編

at 2004 01/15 22:22 編集

8番街から9番街の1ブロック、40丁目から42丁目の2ブロックにまたがる巨大なバスターミナルがポート・オーソリティ・バスターミナルです。グランド・セントラル駅(映画「ハルマゲドン」では隕石の破片が直撃して壊滅しました)とペンシルバニア・ステーションという二大鉄道駅にここを加えれば、ニューヨークの三大ターミナルになります。ターミナルといえばホームレスのたまり場になりやすいので御多分に漏れずこれらもそうなのですが、前者の鉄道駅はチケットのない者の待合室への入場を禁じているせいもあって比較的清潔で安全です。しかし、ポート・オーソリティは場所からして周辺に老朽したビルが多く、地元では「地獄の台所」と呼ばれており、治安もあんまり良くありません。そしてホームレスはフリーパス。必然的にこの駅はホームレスの憩いの場アーンド生活の場となっています。一歩足を踏み入れてみれば、まあ、すごいですねえ。「F×××」を連発して、何かに怒りながら歩いている人がいるかと思えば、必需品を一切合切ショッピングバッグに詰め込んで生活しているショッピングバッグ・レディと呼ばれる老婆が座りながら小便を垂れ流しています。窓口でチケットを買えば、ホームレスが「釣りをくれ」と寄って来ます。しつこいようなら無言で睨んでやりましょう。階段には寝ている人がよくいるので、歩きづらいですが踏んづけないように注意しましょう。トイレの洗面台で真っ裸になって体を洗っている人もいます。彼がホモの場合もあるので気をつけましょう。とろんとした目で座り込んでいる人はヤク中なので目を合わせてはいけません。お金をせびられます。夜になると待合室で待っているだけでお金をせびられます。昼間でもボーッと立っているだけでせびられます。ほな、どないせいっちゅうねん、とおっしゃる方もいるでしょう。コツはさっさっと早足で歩き、せびられたら無視することです。英語が分からないふりをするのもいいでしょう。カラテの型をやるのもいいかもしれません。それでもしつこいようなら、相手はどう猛といえども人間です。脅えた態度を取ってはなりません。じっと目を見つめて(これが肝要です)25セントを渡して素早く逃げましょう。それにしても日本のホームレスはおとなしいのに、何でインドやアメリカはあんなに戦闘的なんでしょう?まだまだ日本はホームレスといえども裕福だということなんでしょうか。1階のバスの待合室には「今夜泊まる場所のない人はここに来て下さい」というプレートがあり、住所が書いてあります。マンハッタンにはシェルターと呼ばれるホームレスのための宿泊施設がたくさんあります。そこではベッドがあり、簡単な食事も給されるのですが、いかんせん喧嘩や盗難(靴とかが多いようです)が多発するので敬遠する人もいます。そんな人はこの待合室で寝るのでしょう。
 私はここに来ると、いつも天王寺駅を思い出します。現在は都市開発計画で天王寺駅もその界隈もずいぶ
んときれいでおされになりましたが、一昔前はもっとホームレスが多く、殺伐としていました。自分でもよく分かりませんが、ニューヨークに来るたびに私はポート・オーソリティに足を向けてしまいます。何をするでもなく、ただターミナル内を歩き回るだけですが。
 もし、神さまに名前があるのなら、どんな名前なんだろう
 俺たちは神さまに向かって、その名前を呼ぶんだろうか
 神さまとその栄光を目の前にして何を尋ねる?
 もし一つだけ尋ねるとしたら?
 
 ああ、神さまは貴い
 ああ、神さまは良きもの
 もし、神さまが俺たちのうちの一人だとしたら?
 俺たちのうちの薄汚いやつだとしたら?
 家に帰るバスの中の見知らぬやつだとしたら? 
 もし、神さまに顔があるとしたら、どんな顔なんだろう
 見てみたいと思うかい?
 もし見ることが信じることと同じだとしたら?
 天国やイエスさまや聖者やぜんぶの予言者たちを
 ひとり天国へと帰ってゆく
 電話をかけてくれるのはローマかどこかの法皇だけだ
 
 聖なる転がる石のように
 ひとり天国へと帰ってゆく
 家に帰る途中みたいに
 電話をかけてくれるのはローマかどこかの法皇だけだ
 「One of us」ジョーン・オズボーン (1995年「RELISH」収録 ドリアン長野 訳) 
NO33 NYタイムズ・スクエア編

at 2004 01/09 00:47 編集

1989年12月31日午後10時。タイムズ・スクエア。気温マイナス2度。ぽつぽつと降っていた雨はついにどしゃ降りになった。歯の根が合わないほど寒い。それでも何千人といる群集は誰一人として帰ろうとはしない。私もたぶん、彼等と同じ気持ちだった。それは2000年へと続くデケイド(10年間)の幕開けを世界一の都市で祝ったという記憶を自分の中に刻みつけておきたいから。彼等は家に帰って言うだろう。「90年の始まりにはあそこにいた。みんなとハッピー・ニュー・イヤーを言ったんだ」。 私は夜の8時から待っているが、12時までは途方もなく長い時間に思えた。混雑を緩和するためにあちこちに「Police Line」と書かれた遮蔽板が置かれている。警官の目を盗んで一人の男が、さっと板の下をくぐり抜けて走り去った。近くにいた警官に誰かが叫ぶ。「Shoot him!(射殺しろ)」 周りがどっと笑う。ここでの模様は全米で生中継されるのでテレビカメラにパンされた群集はとにかく騒ぐ。叫ぶ、踊る、手を叩く、こぶしを突き上げる、街角で黒人が1ドルで売っていた紙笛を吹き鳴らす。私といえば、寒さと疲労に耐えながらひたすら待つ。
 11時59分。カウントダウンの斉唱が始まるとSONYの広告の下に取り付けられた電球の塊がゆっくりと降りてくる。下がりきったら1990年だ。ウエルカム・トゥー・ナインティーズ!  
 見知らぬ者同士がハッピー・ニュー・イヤーを言い合い、抱き合う。雨の中、群集がブロードウエイを行進する。この光景はデジャビュだ。どこだったろうと考えていたら、ウオーレン・ビーティ監督、主演、脚本の映画「レッズ」でロシア革命前夜に人々がインターナショナルを歌いながら街を行進する場面だった。今日の夜はニュージャージーに住む友人のアパートに泊めてもらうことになっている。あちこちが通行止めになっているので迂回していると道に迷ってしまった。バス・ターミナルの場所が分からないので雨宿りしながら地図を拡げて見ていると、二人連れの黒人が「どこに行きたいんだ?」と声を掛けてきた。「ポート・オーソリティー・バスターミナル」と答えると、「ついて来いよ」と手招きする。 
 新年に浮かれる人々の喧噪の中、彼等を見失わないようについて行く。20分ほど歩いた。ミッドタウン・ウエストにあるこの24時間運行の巨大なバスターミナルは常に通勤者で賑わっているが、今日の賑わいは特別だ。案内してきた男が言う。「チップをくれ」 1ドル紙幣を出し、渡そうとするが受け取らない。少なすぎたかと思い、「2ドルでは?」と言ってみる。すると、「冗談じゃないぜ。俺たちは長い道を案内してやったんだ。フェアじゃねえ。もっと出せ」とすごんできた。無視して歩き出すと、「聞こえないのか? もっと出せと言ってるだろう」と喚きながらついてくる。「警官を呼ぶぞ」と睨みつけると渋々2ドルを受け取り、やっと退散した。バス乗り場に行くと、また黒人が寄って来て、「どこに行くんだ? チケットは持ってるのか?」と親切(?)にも聞いてきた。彼はチケット売り場まで案内してくれ、言った。「ギミー・ダラー」 ああ、アメリカがチップ社会だというのは本当だ。Money talks in America.(アメリカでは金が物を言う)彼に1ドル渡す。バスを待っていると、日本人女性が二人やって来たので話しかける。二人は姉妹でお姉さんがニュージャージーに住んでいるという。妹が日本から姉に会いに来て、今日はミュージカル観劇の帰りだそうだ。「ブロードウエイのニューイヤーズの騒ぎが恐くて.....」とアメリカに来るのが初めての彼女は気の毒なくらい蒼ざめていた。
 「目的地に来たら知らせてください」と運転手に住所を告げ、座席に座る。バスが出発してからしばらくして奇妙なことに気がついた。奇妙なことといっても、私が日本人だから少しばかりそれを感じるだけのことだ。バスが停留所に着き、乗客が下車する際に、ほとんどの人が他の乗客の方を向き、「ハッピー・ニュー・イヤー」と言ってから降りていくのだ。「これもアメリカだな」私は心の中でつぶやき、自分がアメリカに来たことを初めて実感していた。 
NO32 インド編その8

at 2004 01/01 23:07 編集

早朝、カルカッタのハウラー駅に着く。フーグリー河に架かる巨大な鉄橋、ハウラー橋は通勤する人で丸の内のようにごった返している。喧噪の中、澱んだ河を見ながら私は一人、物思いに沈む。 「今日でインドともお別れだ。長かったようで短かった一週間。物売りや物乞いに辟易し、下痢や発熱に悩まされた一週間。騙されたりもしたけど、親切な人にも出会った。うるさいが、頼もしくもある子供たち。チャイ屋の売り声、灼熱の大地、道端で死んだように眠りこけている犬、漆黒の暗闇、ベナレスの炎、死体、サドゥー、カーリー女神に捧げられるために首をはねられる山羊」 様々な光景が次々に浮かんでは消える。けれどもインドよ、今日でおさらばすると思うと........、あ~嬉しいわいっ! とっとと日本に帰るぞ。帰って風呂に入ってうまいもん食ってゆっくり寝て下痢を直すぞ。こんな国、二度と来るもんかいっ。一刻も早く空港に行って飛行機に乗って文明国に帰るんじゃい。帰るったら、帰るんだ~い!
 帰りの飛行機で同年代の男と隣り合わせになった。どちらからともなく話しかけ、彼はパリでアパートを借りて住んでいたことやアジアのいろんな国を旅した話をしてくれた。私が海外旅行は初めてだと言うと、彼はこう言った。 「それならあなたはこれから何度も旅に出るでしょうね。一人で旅をする快感を覚えたら、それはやみつきになりますよ。僕がそうでしたから」 私はそうはならないだろうと確信していた。こんな苦しい旅なんか二度とごめんだ。
 成田空港に着くと私は激しい違和感を感じた。その違和感は日常生活の中でも長い間続いた。日本はなんでこんなに清潔で日本人はなんで異常なほど清潔好きなんだ? 日本人はなんで大したことでもないことをいちいち気にするんだ?(インド人は何があっても二言目には「ノー・プロブレム」って言うじゃないか) なんで商品には全て値段がついてる? なんでどこに行っても自動販売機があるんだ? なんでみんな、自分のことをすぐに不幸でビンボーだなんて言うんだあ? おまけにふと、インドの子供たちや大人たちの姿がちらついてきたりする。 
 「カルカッタは好きな街だよ」 仲良くなったホテルのボーイにこう言うと、彼は言ったっけ。「一週間の滞在では何も分からないよ」 そりゃ、そうだ。けれども分かったこともいっぱいあったぞ。旅が短いか長いかなんてのはあまり重要ではないと思う。果たして私は自分を変えることが出来たんであろうか? それは本人にはよく分からんが、インドで学んできたと胸を張って言えることなら、一つある。駅のトイレに入って、紙がなくてもちっとも慌てなくなった。どんなトイレでもバッチ来いって感じ。私にはインドで習得した、この黄金の左手がある。紙で処理するなんて、なんて不潔で野蛮ざましょ。あら、あたしも気づかないうちにインドかぶれかしら。オ~ッホッホッ。ちなみに帰国してから軟便が三か月続いたざます。(インド編終わり)
コメント
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2003年12月に発表した海外旅行記

2007-08-29 | Weblog

NO31 インド編その7

at 2003 12/25 22:04 編集

ベナレスで知り合った人が泊まっているホテルに荷物を置かせてもらっていたので、急いで引き取りに行く。町中でリキシャーに乗り、町外れまで行き、そこからオートリキシャーを雇ったのだが、運転手が飛ばすこと、飛ばすこと。急いでくれるのはありがたいのだが乗っている方は気が気ではない。人波を巧みにかわし、F1レーサーのように車を追い抜き、対向する牛の横をするりと通り抜ける。まったく、生きた心地がしなかったよ、あたしゃ(ここだけちびまるこちゃんの声で読んでね)。
 やっと駅に着いてやれやれと思っていたら、駐車しようとする寸前に横から二人乗りの自転車が突っ込んできた。私は後ろの座席であるはずのないブレーキを思いっきり踏んだが、やっぱりぶつかった。自転車は派手に横転したが、男たちに大したケガはなかったらしく、起き上がると猛然と食って掛かってきた。それに運転手が応戦する。回りには野次馬が集まってきた。こういう場合、インド人は激しく罵り合っても手は出さない
(警官が民衆を警棒でどついている光景は時々見る)。インド人と中国人は似ているような気がする。どちらの国も人口が多いので自分を主張しないとやっていけない。謙譲の美徳なんて言っていたらバスにも乗れないし、列車のチケットも買えないのだ。そんな生存競争が激しい国では自然と気性が荒くなるのか、しょっちゅう言い争いをしている。そうやってケンカになるとわらわらと人が集まってきて見物を始める。誰も仲裁はしない。大学の時の先生が言っていた。中国からの留学生が日本に来て不思議に思うのは、街を歩いていても電車に乗っていても日本人がとても穏やかでケンカをしないことなのだそうだ。インド人だってそう思っているのに違いない。しかし、私に言わせればケンカばっかりしているあんたたちの方がよっぽっど不思議だぞ。とにかく座席にリキシャー代を置いて、ケンカをしている二人を尻目に駅へと急ぐ。
 プラットホームには日本人の団体客がいた。五才くらいの女の子が彼等に「バクシーシ」と手を出す。そこにいた若者たちがこう言っていた。「お金ないんだよ。ノー・マネー。わかる?」 「逆にこっちから『バクシーシ』って言ってみればいいんじゃないの」 「そうか、ほら、バクシーシ」 日本人に手を出された女の子はきょとんとしていた。むき~っ! 今でもこの光景を思い出すと腹が立つ。その子は好きで物乞いしてんじゃねーよ。貧しくて働きたくても働けねーから仕方なくやってんじゃねーか。そうやってインドまで遊びに来ている金持ちの日本人(私もだけどよ)がいたいけな子供をからかうんじゃねーよ。金をやるつもりがないんなら、断るか無視すればすむことだろーが、あほんだらっ! と憤慨していると一人の少年が私にお金を乞い始めた。歩き出してもしつこくついて来て、私の靴に額をこすりつけてくる。とうとう根負けして某かのお金を与えた。するとその少年は仲間のところへ戻り、ひそひそと話をしていたかと思うと五、六人がこちらに突進してきた。あわてて逃げ出す。そういえば列車が駅に着き、乗客が降りると子供たちが一斉に乗り込んできた。何をするんだと見ていると、ゴミ箱や座席の下からペットボトルを拾い集めている。そして構内にある水道の蛇口からペットボトルに水を入れてキャップを閉めているのだ。誰に売りつけるんや~? と考えるとはたと思いつくことがあった。中級のホテルに泊まっていて、ミネラルウオーターを頼んだ。ボーイが持って来たボトルには明らかに水が7分目ほどしか入っていない。もちろんキャップは開けた跡がある。こいつの中身は駅の水道水やないかいっ?! 責任者、出てこいっ!(by 人生幸朗師匠)
 こういう風にインドのガキどもは毎日を逞しく生きてゆくのであった。幼少のみぎりから鍛えられているんで、斯くの如く冷酷で抜け目のないインド商人に成長していくのもむべなるかな。合掌。(つづく)
    
NO30 インド編その6

at 2003 12/19 00:32 編集

ベナレス、ベナレス、モスクワの味~って、そりゃパルナスやろがっ! (ベタですまん。しかも関西限定ギャグ)
 ベナレスは英語名のBENARES(ベナリーズ)の日本語読みであり、正式名はバーラナシーだ。現地ではバナラスともいう。ああややこしい。早朝6時にムガール・サライ駅に到着。オートリキシャー(小型オート三輪のタクシー)を拾い、ベナレスヘ。両側に花屋や食堂やゲストハウスやお香や聖水入れを売っている店等がぎっしりと並んでいる狭い路地を下っていくと(曲り角で牛と鉢合わせて角で突かれたりするから気をつけろよって、誰に言ってんだ)、いきなり視界が開けた。聖なるガンガー(ガンジス河)は思ったより広大でダージリンティーのように濁っている。ガート(沐浴場)では老若男女が口をゆすぎ、祈り、体を浄める。神様の乗り物とされる牛も水浴びをし、時おり排泄物も流れる。バラモンは説教をし、サドゥー(ヒンズー教の修行者)は瞑想する。おお、三島由紀夫の「暁の寺」で読んだ、あのベナレスに私はいるのだ。焼けつくような太陽の下、雄大なガンガーに無数のきらめくサリーと半裸の男たち。人々のざわめきと祈り。聞こえてくる讃歌。ガンガーで沐浴せば全ての罪は浄められん。無辜となった亡骸を荼毘に付し、ガンガーに流せば輪廻からの解脱を得ん。ああ、悠久の聖なるガンガーよおっ! 「バクシーシ、バクシーシ、ジー」と肩を叩かれたので振り向くと、乞食が列を作って並んでいる。「バクシーシ!」 ああ、うるさいっ。声を揃えるんじゃないよ。ゆっくりと思索にふける間もないな。そうだ、ボートに乗ろう。交渉して値切り倒し、1時間50ルピーで回ってもらうことに。ボートを漕ぎ出して川中からガートを眺める。いろいろなガートがあるが、中でも大きなガートは何かもう、ひっちゃかめっちゃかに様々なものが混じり合ってこの世のものとは思われない光景だ。
 いくら聖なる河だといっても、川底に人骨がごろごろ転がっていてたまに死体が浮いていて赤痢菌がうじゃうじゃしているような汚い河の水を飲んで下痢をするインド人だっているだろう。死んじゃう人だっているかも。いや、信仰という気合いが入った精神には病原菌も退散するのかもしれない。なんたって、遺灰をガンガーに流してもらうために地方からやって来てベナレスに住み、死ぬのを待っている人もいるんだもんなあ等と思索にふけるためにボートを漕ぎ出して思索にふけっていると、少女の乗ったボートが近づいて来た。
 「この花、神様に捧げる花。10ルピー。買え」 「船頭さん、買わないから先に行っちゃって」 それにしても信仰というものはすごいなあ。椎名誠が「わしもインドで考えた」で書いているように、このように信仰篤きインド人と信じるものなど何もないんだあ~と嘯いている日本人と一体どちらが幸せなのだろうか等と思索にふけっていると、少年の乗ったボートが近づいて来た。
 「ガネーシャ、クリシュナ、カーリー、神様の人形、いろいろある。20ルピー。買え」 「だあ~っ、うるさいわあ~っ! 俺を一人にさせてくれ~っ!」
 ボートを下りて火葬場のマニカルニカー・ガートに行くことにした。布に包まれた遺体を組んだ薪の上に乗せ、火をつける。薪がバチッバチッと音を立てて爆ぜ、布がめらめらと燃えていき、徐々に肉体が現われてくる。時おり隠亡が棒で遺体をつつき、火の回りを早くする。人間の肉体を焼く光景を見るのは初めてなので、最初は衝撃的だったが炎天下で陽炎のような炎を眺めているうちに感覚が麻痺してくる。インドでは何が起きても不思議ではない。 「インドが異常なのか、それとも日本なのか」 思索にふけっていると、いきなり風が吹いてきた。わっ、ぺっ、ぺっ、遺灰が口の中に入っちゃったあ~。
 近くで火葬を見ていた日本人らしき女性に声をかけたら、彼女は北海道の大学生だそうだ。話をしているうちにもう一度ボートに乗ろうということになった。人のよさそうな、おじいさんの船頭に値段を聞くと、20ルピーだそうだ。くう~っ、またしてもボられてたか~。そのボートにはおじいさんの孫だろうか、まだちっちゃな男の子や女の子が5、6人乗っていた。夕刻のガンガーは気温もいくぶん下がり、風が吹いていて気持ちがいい。ガートの喧噪も遠くに聞こえる。この辺りは6時になるともう真っ暗闇だ。それでも路地を歩くと聖地らしい喧噪がここかしこで聞こえてくる。自分が今ここにいることが不思議だ。日本を離れて本当に遠くまで来たんだなあ。と、感慨にふけっている暇はない。今晩8時半の列車でカルカッタに帰らなければならないのだ。ベナレス滞在12時間。ああ、せわしない。乞食や物売りの少年少女たち、明日もしっかり稼げよ。さらばベナレス、また来る日までえ~。(つづく)
NO29 インド編その5

at 2003 12/12 22:38 編集

 事情を話すとおっちゃんは「べナレス行きの列車は今日はもうないから、チケットをキャンセルすればお金が戻ってくる」と言う。おっちゃんに連れられて案内所に行って聞いてみると「国際外国事務局」なる所で明日払い戻しをしてくれるそうだ。やれやれ、とにかく戻ってきたお金で新しくチケットを買い直そう。おっちゃんは「ついてこい」と手招きをする。この時点でも私はこのおっちゃんを信用していたわけではない。だが、今にも倒れそうな状態であれこれ詮索するのも面倒だったので、大人しくついていくことにした。
 駅から5分ほど歩いた場所に旅行会社のオフィスがあり、おっちゃんはそこに入っていく。ここの社員らしい。オフィスで少し休憩してから、リキシャーでおっちゃんの紹介してくれた「ホテル・アトランタ」に行く。ゲストハウスではなく中級ホテルだが、一泊80ルピーと、そう高くはない。おっちゃんは従業員と少し話しをすると帰っていった。部屋に案内してくれた従業員の兄ちゃんに「私は病気である。だから大変苦しい」と言うと、その兄ちゃんは驚いていろいろと世話をしてくれたのだが、その世話が半端じゃなかったんだよ。毛布を持ってくるわ、食べ物を運んできて食べさせてくれるわ、医者を呼んでくれるわ、薬を飲む時間になると水まで持ってきて飲ませてくれた。彼は夜勤なので明日、自分の代わりに私の世話をする人まで頼んでくれた。うっうっうっ。インドでこんなにも人に親切にされるなんてえぇぇ~。私は彼に何度もお礼を言い、やがて眠りに落ちるデリーの夜8時なのであった。
 翌朝は6時に起床。下痢はまだ続いていたが、熱は少し下がったようだ。8時半にべナレス行きの列車が出ると聞いていたので、急いでチェックアウトをする。駅で窓口に割り込んでくるインド人たちと死闘を演じたあげく、やっと二等寝台車のチケットが取れた(100ルピー)。ホテルに戻り、フロントで昨夜の彼に渡してくれと、迷ったが10ルピー差し出した。せめてもの感謝のつもりだったが、あれから10年以上立つ今でもふと思う。あの10ルピーは彼の手に渡ったのだろうか? やっぱり、渡っていないような気がするな。
 駅で昨夜のおっちゃんに出会った。おっちゃんは「いいか、事務局でチケットを見せれば大丈夫だからな」と言って、風を巻くように去って行った。うっ、かっちょいい。私にはおっちゃんの後ろ姿が高倉健に見えた。そして警戒心のせいで無愛想にしたことを激しく後悔した。親切で話しかけてくる人とそうでない人を見分けるのはとても難しい。今日でも構内をうろうろしていると、いろんな人が話しかけてきて教えてくれたのだ。それでもいい人だと思って気を許せば、騙されることもしばしばだ。結局、旅行者は騙されてボられながら旅を続けていくしかない。絶対ボられまいと肩ひじ張った旅は面白くないし、旅行者は基本的にその国にとって客人だから通行料だと思えば少しくらいボられても腹は立たん(と思えるほどの大人になりたいわっ!)。
 しかし、それからがまた大変だった。事務局で聞くと、8番の窓口に行けと言われる。へい、さいですかと8番に行くと13番に行けと言われる。13番に行けば14番に行けと。ああっ、たらい回しだあ~っ。病み上がりの体でひーひー言いながらうろうろしていると、一人の男がここで聞けと13番と14番の間の小さな窓口を教えてくれた。こうしてやっとの思いで払い戻された大枚188ルピーを握りしめ、いつ出発するとも判然としないインド列車に備えて出発(あくまでも予定)時刻の3時間前からプラットッホームで待機していたのであった。青年は荒野をめざす。いざいかん、聖地ベナレスへ! でもここから18時間かかるんだよな。
 二等列車に乗り込むと、その中はインド世界を凝縮したような騒々しさである。立錐の余地もないほど混み合ってる車輌にヤギを連れ込むやつがいるし、物乞いがお金をせびりに来たかと思えばおひねりをもらいに歌を歌いに来る人もいる。ガキどもは「バクシーシ」と遠慮なしに手を差し出してくる。こいつら絶対、無賃乗車だな。ななめ前に座っていたおじさんが「chinese?」と聞いてきた。それからこのおじさんが喋ること喋ること。よく分からないインド英語で、俺はガス会社に勤めてるとか東京と大阪にペンフレンドがいたとか、延々とまくし立て、それを回りの乗客が興味深そうに見ている。何時間かして、車掌が検札にやって来た。私のチケットを見て、「この車輌じゃありませんよ」と言う。おじさんが降りる駅で一緒にホームに降り、ポーターにチケットを見せた。 「ついてこい」(インドではこの言葉をよく言われるなあ) そう言うとポーターは私のリュックを肩に担ぎホームを走り出した。列車がどれくらい停車しているか分からんが、乗り遅れたらベナレスはおろか日本に帰ることもままならん。私は必死に走った。こんな時でもなぜか走りながら夜空を見上げ、月がきれいだなあ、なんて思っていた。ポ?ターの指し示した車輌に飛び乗ると同時に列車が動き始めた。お礼にと彼に1ルピーを渡そうとしたら、受け取ろうとしない。誇り高い人だなと思ったら、「パイサはいらない」と言っている。よく見るとそれは1パイサ硬貨だった。あわててポケットから50パイサを3枚つかみ出し、放り投げた。はあーっ。
 疲れ果て、三段寝台の中段にもぐり込み、泥のように寝る。下痢は依然として続いていた。いろんなことがあったような気がするが、インドに来てからまだ4日目なのであった。(つづく)
 
NO28 インド編その4

at 2003 12/05 23:50 編集

 インディア・エアラインでデリーにやって来た。空港から市内行きのバスに乗る。運転手と客のやり取りを聞いていたのだが、ヒンディー語だと思っていたのが英語だと判明するのに30分かかった。ちなみにインド英語の特徴は th をタと発音し、R をはっきりと発音する。だから thirty はターティーとなり、master はマスタルになる。
 その運転手にホテルを紹介してもらい、宿泊した翌朝のこと。起きると下痢と頭痛と悪寒とおまけに脚の関節まで痛い。これは赤痢かコレラか肝炎か。インドの地で客死したら骨はガンジス河にまいてくれ。後は頼む、って私は一人旅なので自分で何とかせんといかんのだ。食欲はないが、喉がやたらと渇くのでメイン・バザールでミックス・ジュースを飲む。路上のジュース・スタンドなのだがこれがものすご~くうまいのであっちこっちで10杯ほど飲み倒す。
 1月の北インドの朝は寒い。栄養不良のせいもあって毎年、路上生活者が凍死するほどだ。それでなくても寒気がするのでセーターを50ルピーで買う。もう値切る気力も残っとらん。それにしてもニューデリー駅前って敗戦直後の日本の焼跡地みたいだ。朝になるとみんなが路上の至る所で商売用か自炊のための火をおこし、わらわらと人や野良犬や野良牛が集まり始め、その人ごみの中をタクシーやリキシャーが縫うようにして通り抜けてゆく。道端では男たちが座り小便をしている(なぜかインドの男たちは座って用を足すのだ)。
 メイン・バザール(バハール・ガンジ)はその駅前にある、安宿や食堂や映画館や雑貨屋等が立ち並ぶ通りだ。今日の夕方にはベナレス行きの列車に乗らなければならないので、駅のクロークに荷物を預けてからうろうろしようと思っていたのだがっ。だっ、駄目だあ~。苦しい。もう一歩も動けん。このままでは死ぐ。ホテルで休ませてもらおうと日本人に人気の「ホテル・パヤール」に行き、「2、3時間やずまぜで~」と息も絶え絶えに頼むと心良く了承してくれた。「だけど一泊分の料金はもらうよ。30ルピー」と付け加えるのを忘れなかったが。 
 屋上の部屋に案内される。隣の部屋の中年の日本人はインド滞在2か月だそうで、パチパチとタイプライターを打っている。屋上のデッキチェアで昼寝をしに来た日本女性三人は「あの人(私のこと)、病気なんだって。私、薬持っていてあげよう」と話をしていた。私はベッドで苦しみながら期待して待っていたのだが、来なかった(おいっ)。
 しばらく横になった後、ホテルを出て駅に行く。預けていた荷物を引き取ろうとすると、クロークのおっちゃんが、「4時15分にならないとここはオープンしないよ」とぬかす。冗談じゃねえ。おれの持ってるチケットは10分発なんだよ。だから開けてくれ、開けろってんだよ。開けろ~っ! 頼む、開けてちょうだい。ね、少しだけだから。開けてくださいまし。開けてくれないと困っちゃう~。開けてったら開けてぇ~。ねえったら、ねえ~ってば~。とすごんだり、すかしたり、傍らのインド人も見かねて加勢してくれるのだが、おっちゃんは「駄目だ」の一点張り。普段は「いいかげん」を絵に描いて額に入れて壁に飾って一人50パイサでお金を取って鑑賞させるほどルーズなインド人がどうしたってんだ。結局、発車時刻を逃してしまった。しかし、インドの列車は10分、20分の遅れは定刻のうちで、平気で4、5時間遅れることはざらにあるとは後で知ったこと。この時も私の乗る列車がまだ到着してなかったことは充分考えられる。とにかくプラットホームに出て、そこら辺の人に次のべナレス行きの時間を聞いてみた。でも8時半だとか11時だとか1時とか人によって言うことが違う。窓口で聞こうにも大勢の人間が殺到していて、下痢と発熱で弱っている私にはそこへ突っ込んで行く気力はもはや残っていなかった。
 「インド、あんたの勝ちや」 私はへなへなとその場にうずくまった。「何でインドなんかに来てしまったんやろ~。もし生きて日本に帰ることができたら、今度はハワイに行くぞお」とわけの分からんことをうわ言のようにつぶやいている私に、「どうしたんだ?」と一人のおっちゃんが声をかけてきた。(つづく)   



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2003年11月に発表した海外旅行記

2007-08-29 | Weblog

NO27 インド編その3

at 2003 11/28 21:37 編集

インドはいうまでもなく暑い。めったやたらと暑い。気温は、少なくとも香港風邪にかかって病院のベッドでうんうんうなっている重病人の体温よりは高いのは間違いない。歩いていると熱風に包まれたようになって息が苦しいし、脳みそが沸騰してくるので難しいことは理解できなくなってくる。そんな炎天下で男はクルターとパージャーマーの上下、腰巻風のドーティーやルンギーといった服装が多いが、女はどこへ行ってもどんな時でもひたすらサリーだ。道路工事や建築現場でも男に混じってサリー姿の女が土の入ったざるを頭の上に載せて運んだり、レンガを積んだり、ツルハシで穴を掘ったりしている。労働するからちょっとTシャツとスパッツに着替えてくる、というわけにはならないのだ。インド初の地下鉄がカルカッタで一部開通したが、地下鉄工事中も機械を導入する資金がないのでサリー姿の女性を含む人夫たちが手作業で労働に従事していたそうだ。他の国からはあの調子では開通するまでに100年はかかると言われていたぐらいである。そのありがたい地下鉄に私も乗ってみることにした。全線1ルピー。電車内は信じられないことに冷房が入っている。冷房ぐらいは当たり前かもしれないが、ここはカルカッタである。天井で回っている三枚羽の扇風機でもおかしくなかったのに。快適。喧噪と灼熱地獄の地上とは別世界だ。その地上へと昇っていくエスカレーターの前では男の子の手を握ったお父さんが必死になっていた。小さい頃、初めてエスカレーターに乗ろうとした時を誰もが覚えているだろう。動くステップに一歩を踏み出すのはなかなか難しいんである。お父さんが恐る恐る足を出す。タイミングが合わなくてつんのめりそうになる。もう一度足を出そうとするが、次々とせり出してくるステップが恐くて躊躇する。その横では奥さんが「あなた、がんばって」という顔つきで見守っている。そのうしろでは大勢のインド人が「落ち着けよ、あせるなんじゃないぞ。それっ、今だ」というような面持ちで真剣にお父さんを見つめている。小さな子供ならいざしらず、大の男が必死になっているのが笑える。インド人にとっては初めての経験だもんなあ。それはインド人のしつこさに辟易していた私にとって、今思い出しても頬のあたりが「むふふ」とゆるんでくる唯一の光景だった。
 終点で降り、カーリーガート寺院内にあるマザー・テレサの施設「死を待つ人の家」に行く。友人から言付かった医薬品をシスターに渡し、布に包まれた遺体をみんなで運んだ。帰りにカルカッタのメイン・ストリート、チョーロンギー通りを歩く。ここは世界一の人口過密都市と呼ばれるカルカッタにおいてもさらに人の行き来が激しい。夜になると明かりが少ないので、気をつけてないと人とぶつかるのはもちろん、往来に寝ている乞食を踏んづけてしまうこともある。その日もスリに注意しながら歩いていたのだが、いきなり、という感じで通りのまん中に10歳くらいの少年が寝ているのを見つけた。通行人はその少年をじろじろ眺めたり、一瞥しながら通り過ぎて行く。少年には両腕がなかった。上着を着ておらず、本来なら腕の付け根がある場所に赤黒いケロイドの皮膚が少し盛り上がっていた。少年は怒りも恥ずかしさも悲しみも感じさせない無表情な眼でただ空を見ていた。彼は一日中そうやって寝ているのだろう。しばらく見ていたが、彼にパイサやルピーを投げ与える者はいなかった。日本に帰ってから知ったのだが、本当に貧しい親は子供を不具にしてしまうそうだ。そうすれば子供は物乞いとして生きていくことができる。その少年がそうなのかは分からないが、私はやり切れない気分だった。
 人間はどんな環境においても順応していける動物だと私は思う。単純に貧しいから不幸だとか、豊かだから幸福だとかを言うことはできない。先進国にも苦しんで自ら命を断つ人はもちろんたくさんいるし、後進国から先進国の人間を見て、自分にはとてもじゃないがあんな生活はできないと思うこともあるだろう。幸福感というのは主観的なものなので、インド人が皆不幸であると思い込むことは先進国の人間が皆幸福であると思うのと同じくらい愚かなことだ。確かにインドは限り無く貧しいし、不衛生で識字率も低い。障害者も多いし、今もカーストやサティーやダウリー(注)という文化が存在している。悲惨だと言う人もいるだろう。しかし、同カースト内では相互扶助的に生活しているという例もあるし、サティーに至っては自ら進んで殉死する寡婦もいる。まるで藤子・F・不二雄の「ミノタウロスの皿」だ。それはパラダイムの見直しであり、「人権」というタームでは火の中に身を投じる寡婦を止めることはできない。我々の文化で彼らの文化を計ることはできないし、かといって全ての文化は等価だと言うこともできない。けれど少なくとももし、今度生まれ変わるとしたらインドと日本とどちらがいいかとインド人に聞いたら、ほとんどが日本だと答えるんじゃないか(今の私だったら必ずしもそうだとは思わない。その時代のその国に生まれて後天的に形成された言葉をも含む共通の価値観はそう簡単には越えられないからだ。日本人がアメリカに生まれたい、と思うこととは違う)。私はインド滞在中、ずっとそんなことばかり考えていた、っていうか考えられずにはいられなかった。それほどまでに当時の私にとって、インドはカルチャー・ショックだった。(つづく)
注 サティー 夫に先立たれた妻が夫の遺体と共に生きながら火葬される習慣。法律では禁止されたが、なく なったわけではない。
  ダウリー 花嫁の父から花婿に贈られる財産や持参金。ダウリーが少ないために姑に嫁が殺されたり、親の負担を案じて自殺した姉妹もいる。なお、カーストはポルトガル語、ダウリーは英語から来ており、それらを表わす言葉自体インド語には存在しない。
 
NO26 インド編その2

at 2003 11/21 23:16 編集

 「グレート・イースタンホテル」の大理石のバスタブにつかりながら私は考えていた。 
 「カルカッタくんだりまでやって来て、こうやって高級ホテルの風呂にのうのうと入っている場合か。インド8億の民衆の生活を知るためには、やっぱり安くて汚いゲストハウスに泊まって貧しさを肌で感じなければ。民草の中に入っていくのだ。カースト反対! ガンジー万歳!」
 お前は民青かっ! と思わず突っ込みを入れたくなるほどの勘違い野郎だ。あえてゲストハウスに泊まる理由があるとすれば、お金を倹約したいとか、居心地がいいとか、貧乏の疑似体験をしてみたい等であって、民衆の生活なんぞ分かるはずもない。 「それはお前の自己満足やろが~っ!」と今の私なら当時の私に回し蹴りをかますところだ。
 とにもかくにも翌朝、私はサダル・ストリートに行こうとホテルを出た。インドの中でも最も汚いといわれるカルカッタ。そのカルカッタで最も汚いといわれるのがサダル・ストリートだ。ってことは宇宙で一番汚い場所だ。その界隈にはありとあらゆる病原菌が生息しているという。そこに安宿が密集しているのだ。白人バックパッカーに道を尋ねながら歩いていると、老婆やら子供を抱いたお母さんやらが「バクシーシ(おめぐみを)」と右手を差し出してくるのだが、ギョッとなることもしばしば。指がニ本か三本欠けている。五本ともない人も。ハンセン氏病だ。あきらかに顔が変型している人もいた。ううっと重苦しい気分になって先を急ぐ。
 バックパッカーの間ではその名を知らぬ者はおらず、小説にまでになった「ホテル・パラゴン」に泊まろうと思い、リキシャーワーラー(人力車のようにうしろに人を乗せ、自転車でこいでゆく乗り物がリキシャーであり、それをこぐ人)に場所を聞く。すると横にいた客引きの兄ちゃんに「パラゴンは満室だ。俺の知ってるホテルに案内してやる」と紹介されたのが「キャピタル・ゲストハウス」(一泊60ルピー。当時のレートで1ルピー≒12円とお考えになれば大体の目安となるでしょう)だった。実は、客引きがそこは満室だと嘘をついて自分と契約をしたホテルに連れていき、キックバックを得るのはよくあることだったが、当時の私には知る由もなかった。
 生まれて始めて泊まったゲストハウス、キャピタルは冷房なし、トイレとシャワー(水)付き、ベッドのシーツは少なくとも一か月は換えた形跡なしであったが、別に不自由は感じなかった。もう1ランク下がると、トイレとシャワー(水)共同、シーツは少なくとも半年間は換えた形跡なし(南京虫付き)になる。
 宇宙で一番汚いサダルは小便横丁という表現がピッタリくる。あっちこっちがぬかるんでいて、あっちこっちにウンコが落ちている。サダルにいるのはビンボー旅行者と物売りと乞食と詐欺師と泥棒と野良犬だ。乞食とそうでない人の境界はきわめて曖昧で、排水溝で体を洗っている人もいれば、道端で寝ている人もたくさんいる。この通りにいれば、いろんな人にやたらと声をかけられる。
 「ジャパニ、マリファナいらないか? ハシシは?」 「マネー・チェンジしないか? レートがいいぞ、フレンド」「パージャーマー買わないか? 安くしとく。フレンド・プライスだ」 「マイ・フレンド、お土産にサリーはどうだ?」
 おいっ、会ったばかりで名前も知らんのにフレンドたあ、どういう了見でえっ。そう、インドでは友だちになるのに時間は必要ないのだ。友だちができないと悩んでる君、インドに行って、友だちをつくろう! 友だちに国境は関係ないのさっ。さあ、君も今すぐレッツ・ゴー・トゥー・インディア!
 「ハロー、ジャパニ。インドは初めてか? どこから来た? トーキョー? オーサカ? 俺も日本には仕事で行ったことがある。ヤマモトを知ってるか? 俺の親友だ。何、知らないのか。まあいい。ところで俺の知り合いが店をやってるんだが、寄っていかないか? お前はトモダチだから特別に安くしてやるよ。お金持ってないって? ノー・プロブレム。見るだけ。見るだけならノー・マネーだ。オーケー? こっちだ。ついてこい」 
 私もインド滞在中に何回も同じことを言われた(違うのはヤマモトがタナカになったり、ケイコになったりするだけだ)。こうして大阪商人も顔負けの狡猾さでうぶな旅行者を店に引っ張り込み、適性価格の何十倍もの値段をふっかけ、最後にはケツの毛までむしり取ってしまうのだ。ああ、恐ろしや、インド人。
 私の経験では、アジアでの物売りと物乞いのしつこさランキング第一位はやはりインド人だ。断っても無視しても、どこまでもどこまでもどこまでもついてくる(いやな男にナンパされる女の気分か?)。後年、タイやネパールやカンボジアに行った時、物売りや物乞いのあまりの淡白さに「もっと気合い入れて仕事せんか~いっ!」と思っちゃったほどだす。(つづく)
NO25 インド編その1

at 2003 11/14 23:44 編集

人間は二種類に分類される、とは巷間よく言われることである。古典的なものでは猫的人間か犬的人間か、流動型か土着型か、果ては野球に熱中する人間かそうでないか、ドアーズを聴いたことのある人間かそうでないか、その伝でいけばこう言えるかもしれない。この世は二種類の人間しかいない。インドに行ったことのある人間とそうでない人間と。私がインドに行ったのは26歳の時、それが初めての海外旅行だった。――
 なんてね、オレは沢木耕太郎かってえの。このようにインドとなると人はテツガクしてしまうのである。私がインドに旅立った(そんなに大袈裟なもんじゃないけど)のは自分を変えたかったからだ。(まだ若かったんです。すいません) その頃の私は私生活で色々とあって、その打開策を旅に求めたんである。旅に出て、人間をひと回りでかくして日本に戻ってくるぞっ! そのためにはやはりインドだっ! と、かようなことを考えていました。(あの、旅行は一週間だけです。大馬鹿野郎です、私は。生きててすみません)
 といういうわけでエア・インディアで成田を飛び立ち、私は機上の人となった。(まだかっこつけてる) 機内食とサリー姿の太めで愛想の悪いスッチーにうんざりし始めた頃、ようやくカルカッタ(現コルカタ)のダムダム空港(現在はチャンドラ・ボース空港と改名)に着いた。ちなみにダムダムというのは地名である。殺傷力が高く、残酷なので使用を禁止されたダムダム弾はここの造兵廠で製造されたそうだ。
 夜の7時。タラップを降りると、いきなり暑い。じっとしていても汗が吹き出てくる。しかも硝煙というか、焼けたゴムというか、ともかくそんな臭いがする。しかも空港警備員は小銃を持っている。(帰ろう......かな? と少しだけ思いました) 空港ビル内に入ると、国際空港だとは思えないほど薄暗い。空調なんぞはもちろんなく、天井に三枚羽の扇風機がゆったりとハエを追うように回ってるだけ。それにしてもあっちいーな。なんか飲みたい。          
 「Drinking water」と書かれたプレートが目についたので近寄ってみると、そこには公園にあるような噴水式の蛇口(下から口に向かって噴水する、あれね)がぽつんとあった。なにもこんなもんに仰々しくプレートをつけんでも.......。いや、ここはインドだ。水道水が飲めるだけでもありがたいと思わんとな。入国審査と税関を終え、外に出ようとしたが、そこで足がピタリと止まった。なんと外にはインド人たちが押すな押すなと黒山の人だかり(インド人だからホントに黒い)で出てくる人間を待ち構えてるんである。それはなにも私が有名人なのでサインをもらおうとか、インドの地を初めて踏む日本人を熱列歓迎してやろうとかといった気持ちからでは決っしてない。やつらはタクシーやホテルの客引きである。全員が、俺はこの客引きに命を賭けてるんだ。なんてったって、家族の生活がかかってるからな。かあちゃん、待ってろよ。明日もチャパティ-を食わせてやっからな。そらっ! 金持ちの日本人が出てきやがった。今夜のカモはあいつだ。ぜってえ、逃がさねえぜ、なんて顔をしてるのだ。
 ひえ~っ! あいつらの中に出ていくんかいっ! 思わず「ブルース・リー 怒りの鉄拳」でブルース・リーが暴徒と化した群集や拳銃を構えた警官隊に走り出て、飛び蹴りをかますラストシーンが浮かんだね。(おいっ! おもいっきり美化してないか?)
 しかし、ここで回れ右をして帰国してしまっては、末代までの恥だし、航空券が無駄になる。よしっ、待ってろよ、インド人! サムライ魂をみせてやるわあ~っ! と、ここで私は、はたと気づいた。興奮してたんで忘れてたけど、旅行会社で今夜のホテルは予約してたんだ。そのホテルから車が迎えに来てるはずだ。そうだった、そうだった。それならいくら客引きが寄ってこようと恐くはない。私は余裕の表情で空港の外に出た。
 「ナマステ~、インドのみなさん、アイ・ケイム・フロム・ジャパ~ン」 がっ、! 
 「ジャパニ! ジャパニ!」 「タクシー! チープ! チープ!」 「ホテル? カム! カム!」 「グッドプライス!!」 「ベリーチープ!!」 ぎゃあ~! うげえ~っ! 「#$%&♀¥!!」
 うるさいわいっ! 私はフランスに凱旋帰国したトルシエ監督なみにもみくちゃにされた。(トルシエって、確かフランスだったよな。サッカーに無知なので事実誤認があったら許せ、サッカーファン)
 ホテルから迎えに来たらしき人が声をかけてきた。 「エクスキューズ・ミ-、ア-・ユー・ミスター・ナガノ?」 「イエス! イエス! イエース!!」 私はヘビメタのヘッドバンキングのように激しくうなずいた。
 「すみません、ちょっとここで待っててください」 そう言うと迎えの人はどこかへ行ってしまった。間髪を入れず、そこへ別のインド人が現われて、「グレート・イースタン・ホテル(今晩予約していたホテル)なら、こっちだ」と先に立って案内する。思わずふらふらとついていったが、途中で何か変だなと立ち止まった。すると、さっきの迎えの人が追いかけてきて、「ノー! ノー!」と私を連れ戻したのだった。あぶねえっ、ちっとも油断がならねえな、インド人!! (つづく)  
NO24 飛んで上海 その2

at 2003 11/07 22:12 編集

上海の裏通りを歩いていると、かつてはここいらに阿片窟や娼館が立ち並んでいたのかなと感慨深いものがある。租界時代に建てられたオールドホテルの「和平飯店」なんか往事を偲ぶよすがとなるに充分だ。ここにあるオールド・ジャズ・バーでスイング・ジャズに耳を傾けていると魔都と呼ばれ、スパイが暗躍した国際都市上海の在りし日の姿が彷彿としてくる。嗚呼、東洋のマタハリと呼ばれた男装の麗人、川島芳子と李香蘭(実は日本人、山口淑子)との倒錯した怪しいロマンス。「白蘭の歌」「支那の夜」そして「上海の女」に江湖の婦女子は紅涙をしぼるのであった、って私はいくつやね~ん! (と一人でつっこんでます)
 アミューズメント・パークの「大世界(ダスカ)」はレトロ。老朽したビルの中に小部屋がいくつもあり、京劇、奇術、映画館、ディスコ、ゲーセン、似顔絵、お化け屋敷等をやっている。野外ステージでは私が行った時は子供たちが雑技をやっていた。ここの雰囲気は日本の昭和三十年代であり、大阪の新世界界隈に似ている。そういえば、ダスカの作りはフェスティバルゲートにそっくりだ。もしかしたらダスカにコンセプトを合わせて作ったのかもしれない。レトロっていうのは古い感覚と新しい感覚との境界線にできるのだと思うが、その極めつけが街のあちらこちらにあるカフェだ。 
 上海でカフェと呼ばれる喫茶店は上海人にとってのおされな社交場となっているらしい。外装も内装も全然、垢抜けてないのがかえって新鮮だ。私の入ったカフェは席がつい立てで仕切られていて(同伴喫茶?)、ビニールのテーブルクロスの上にアクリル板が敷いてあり(う~ん、レトロっすねえ)、ろうそくが立っている。何だか懐かしい。コーヒーはネスカフェで15元。ソフトドリンクはココナッツジュースしかなくて(しかも缶入り)、20元。日本人は珍しいらしく、店の人たちが話しかけてきたので彼女たちと筆談をした。
 上海を旅した人の本を読んでいたら、上海風呂に入りたくなった。幸い、宿泊しているホテルの裏に「浴徳池」という大きな垢すり風呂がある。さっそく行ってみた。まず、バスタブにつかって、体をあたためる。それからすっぽんぽん状態で大理石の台の上に寝そべり、垢すりをしてもらうのだが、これがくすぐったい。それが終わると個室に案内される。バスタオルを腰に巻いて待っていると、男が二人現われた。一人はマッサージ担当で全身を隈無く揉んでくれる。もう一人は手足の爪を切り、やすりで磨き、角質まで削ってくれた。その間にも別の男が煙草を勧めたり、コーラを持ってきたりと至れり尽せりである。全行程の所要時間は2時間。いい気持ちで受付に行き、請求書を見せられてびっくり! アメリカン・コミックなら目玉が30センチほど飛び出てたね。 二人分で884元!(その時は友人と行ったのだ)
 明細を見ると、爪磨き代はもちろん、コーラ代やおしぼり代までしっかりとつけられていた。そうならそうと、事前に言えよっ! 
 「高い」と思わず言うと、「タカクナイヨ。ニホンジン、ミナハラッテクレルネ」(日本語)と言うのだが、日本人は納得して払ってんのか?
 「もう少し安くならんか?」とねばっていると、従業員が五、六人出てきて無言で圧力をかけてきた。暴力バーならぬ、暴力風呂かいっ、ここは。そんなことだったら、六人の男にチップを計220元もやらんかったらよかったわい。
 「女、いらない?」 帰り道で追い討ちをかけるように、またポン引きが声を掛けてきた。(しかも同じ男) 
 ということで、今回の旅で得た教訓。「インド人と中国人には勝て~~んっ!!」 はいっ、大きな声で皆さんも御一緒にっ! (泣) 



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2003年十月に発表した海外旅行記

2007-08-29 | Weblog

NO23 飛んで上海

at 2003 10/31 19:02 編集


 出発前から中国だった。関空に着いたら、いきなり飛行機が2時間の延着だ。仕方なく待っていたら今度は変更(って?)ということで更に1時間待ち。中国国際航空に乗るはずだった我々はなぜか中国東方航空機に乗せられ、予定より3時間10分遅れでやっと飛び立った。機内放送ではそのことについては一切触れられることはなかった。やるな、中国。さすが豪放磊落、天衣無縫、質実剛健の中国人だ。少しぐらい遅れたからって、四の五の言うんじゃねえよ、墜落するわけじゃあるめえしよ、という態度に私は好感を持つぞ。いいぞ、中国、等とその時はまだ余裕をかましていられた。
 夜の8時に上海虹橋空港着。飛行機の中で今夜泊まるホテルを決めていたので、予約しようとうろうろしていると、「タクシー?」 と小説家の猪瀬直樹にそっくりの男が寄ってきた。
 「○○ホテルに泊まりたいんだ」と言うと猪瀬は「知ってる」と言う。ああ、いつもならそんな手口には乗らないのだが、なぜか猪瀬の後をのこのこと付いて行き、タクシーに乗った。助手席には別の男が乗り込んできた。アジアではこういう事はよくある。タクシーを私用に使うのは日常茶飯事、勝手に友人や家族を乗せたりするので私は気にも止めなかった。猪瀬の相棒が高級そうなホテルのパンフレットを差し出す。
 「○○ホテルは古くて部屋も狭い」
 案の定、タクシーはパンフレットの高級そうなホテルの前に着いた。 「この野郎~」と思ったが宿泊費を聞くと、そう高くはない。夜も遅いし、この高級そうなホテルに泊まることにした。ボーイに案内されて高級そうな部屋に入ると猪瀬たちも付いてきた。ボーイが出て行くと、猪瀬が両替しないか? と言う。レートを尋ねると銀行と同じなので1万円換金することにした。これで用は済んだと思ったが、極悪人の猪瀬はその後、信じられないことを言ったのだ。
 「ハイウエイ代の100元とタクシー代の100元を払ってくれ」
 てめ~、空港でタクシー代はホテル代込みだと言ったじゃね~か。そう言うと 「サービス込みだと言ったが、料金込みだと言った覚えはない」 とわけの分からんことをぬかしやがる。渋々100元だけは渡したが、あとの100元は絶対に払えんっ! と長い間言い争った。しかし、極悪人猪瀬は諦めない。朝まで言い争っていてもよかったのだが、私は言い争いをしにわざわざ中国までやって来たのではない。観光をしに来たんだ、観光を! 明日も早いのでいいかげんに寝たい。私は負けた。極悪人猪瀬に100元払って追い返した。くっそ~、お金も惜しいが、それ以上に極悪人猪瀬に負けたことが悔しい。気分を変えようと食事をしに外に出たが、レストランも食堂も屋台も何もない。あるのは高級そうなアパートと理髪店だけだ。(ここもかいっ!) どうやらここは上海のはずれのようだ。その夜はローソンでハンバーガーとジュースを買ってホテルに帰る。(何で上海まで来てこんなもん食べとるんやあ~~! 猪瀬~っ、てめえのせいやあ~!!)
 翌日は市街地にある東亜飯店に泊まる。このホテルは上海銀座と呼ばれる南京路に面しており、常にごった返している。夜ともなるとネオンサインがまたたき、地元の人間と観光客とおのぼりさんと物乞いでにぎわう。あ、それと忘れてならないのが繁華街には必須の売春婦とポン引きである。上海ガールもさることながらしつこいのがポン引きだ。もし、あなたが上海に来て東亜飯店に泊まり、夜になって南京路に一歩でも足を踏み出してごらんなせい、びしっとスーツに身を固めた兄ちゃんがすっと近寄り「女はどう?」と聞かれる確率はインドのデリーで観光客がお金をせびられる確率に等しい。さらに歩くと3メートルごとに声をかけられるのは間違いない。南京路を端から端まで歩くと、少なくとも20人からは声をかけられるだろう。(私はここをポン引き通りと命名) バカも~ん、それでも中国か! 全く嘆かわしいわい(by 磯野波平)。私も一人の兄ちゃんにマークされ、しつこく勧められるのでしつこく断るのだが、諦めないので「女は嫌いだ。男がいい」と言うと、「それじゃあ、カフェに行こう。案内するよ」と後ろも見ずにスタスタと歩き出した。バ~カめ、他のカモを探すんだな、と私は反対方向へ歩き始めたのだが、そういえばテレビのバラエティ番組でアグネス・チャンがこんなことを言ってたな。
 「中国で誰かが結婚するとするでしょう。相手が上海人だと親は『とんでもない! やめなさい!』って反対するんですよ。ホント、これホントの話ですよぉ」 こんな十何年前の話を思い起こさせるとはさすが中国三千年の悠久の歴史。 私が親だったら、やっぱり反対するな。(まだつづく)
NO22 続 北京の床屋

at 2003 10/24 19:39 編集

 <前回のあらすじ>
 中国ってとこは人はやたらと多いし、言葉はあんまし通じないし、列には割り込むし、日本人だとボるし、ひまわりの種はあちこちに散らかすし、おまけに女までが(以下略)
 店内は清潔で明るく、従業員は男が一人、女が三人、そして男の客が一人いた。そのうちのソファーに座っていた女が立ち上がって椅子に座るようにと促した。営業時間を聞いたら、朝の8時から深夜の1時までだそうだ。なぜ一日17時間も営業してるんだ? 人民をそんな長時間も労働させていいのか? ますます怪しい。女はまず私の首に前掛けをし、洗髪台に頭を突っ込むようにと手振りで示した。その通りにすると女はいきなりシャンプーをし始めた。片言の英語ながら、いろいろと話しかけてくる。 (普通の理髪店に見せかけてるな。パチンコ屋が店内で出玉を換金すると賭博と見なされるから外に景品所を設置するように、これは当局を欺くためのカモフラージュに違いない)
 シャンプーが終わると女は聞いてきた。 「マッサージはどう?」 (きたあーっ!) 「フェイス・マッサージもあるし、全身のもあるわよ」 「いっ、いくら?」 「100元(1元は約14円)」(高い) 私は考えこんで顔のマッサージを頼むことにした。顔だけなら安心だろう。 「それじゃあ、こっちへ」 なんと女は店内にある個室へと案内するではないか。ドアを閉め、二人っきりになる。広さは二畳ほどだ。 (やばい) 棚にはいろいろな乳液やらクリームやらが載っている。 (ますますやばい) 私はリクライニングの寝椅子に寝かされた。 (ドキドキ) 女は私の顔にクリームを塗り、マッサージを始めた。それが終わると先端が輪になった金属製の細い棒で顔を突いてきた。(ん?) あ~、気持ちええ。これは毛穴から脂を抜き取るためらしい。さすが中国式マッサージ。お肌がすべすべ。 「次は全身のマッサージしてみない?」 (きた、きた、今度こそきたあーっ!) 「あのお~、それってどんなマッサージ?」 「は?」 「だから、どういった類いのマッサージかな、と」 「言ってる意味が分からないわ」 
 ここでやめたらせっかく潜入した今までの苦労(なのか?)が水の泡だ。私は不本意ながら受けて立つことにした。さあ、殺せ。女は気合いを入れると、脚から腕から背中から、仰向けからうつ伏せにしたりと汗だくになりながら長い時間をかけて体中を揉んだ。サンダル履きで一日中歩いていたので足はまっ黒。女は一瞬ひるんでいた。終わると体力を使い果たしたのだろう、フラフラと奥へ引っ込んでいった。最後に若い男がハサミとバリカンで念入りにカット。ドライヤーをかけ、スプレーで仕上げ。終わった。1時を過ぎているのに年配の客が一人、入ってきた。(なぜ1時に髪を刈りに?)
 料金はマッサージが100元、シャンプーが100元、カットが50元。それを230元まで値切った。今回、多額の調査費を投じて私が得た物は中国式ヘアカットと、北京の床屋は健全な床屋だったという事実だ。諸君、北京に来たら安心して調髪してもらえよ。その前に料金はちゃんと聞いておくように。体はきれいだったが、お金もきれいになくなった。ふっ、私の思い過ごしだったようだな。疑って悪かったぜ。だけど中国人、ぼるなよおおおおお~っ!!(魂の叫び) しかし、中国はこれで終わるほどまだまだ甘くはなかった。(というわけで上海編につづく)
NO21 北京の床屋

at 2003 10/17 22:32 編集


 北京に来てから気になっていることがあった。理髪店である。町中のあちこちに理髪店があり、しかも深夜まで営業しており、しかも従業員は若い女性ばかりなのである。若い女性に深夜営業。怪しい、怪しすぎる。他の人間ならいざ知らず、この私の目はごまかせ~んっ! 社会主義国でそんなことがあるのだろうかと不審顔の貴兄に貴女、同じ社会主義国のベトナムでは理髪店と売春が結びついていることは周知の事実である。何でも表向きは普通の理髪店なのだが、希望する人にはスペシャルなサービスを施してくれるらしい。実際、ホーチミンでは北京ほどではないが理髪店がちらほらと目につく。夜、シクロに乗っている時に店内を見たら、いつも何人かの女性が椅子に座って暇を持て余していた。中国よ、お前もか。私は大いに失望した、わけでは全然ないのだが、これは是非調査せずにはおられまい。中華人民共和国の首府、北京よ、農民と労働者の叡智と努力によって共産主義国を建設するという高邁な理念の化けの皮をこの私が引っぺがしてやるわ。うわーはっはっはっ、バカめっ!(はオレだろうな、やっぱり)
 というわけで、故宮の近くに泊まっていた私は夜の11時頃にホテルを出た。う~ん、どの理髪店に行こうか? なるべくなら、きれいな従業員のいる店がいいだろう。もちろんこれはベールに包まれた中国人民の実態を調査するというフィールドワークであり、私には不純な気持ちなど毛頭、爪の先ほども、これっぽっちもないのであるが、どうせならきれいな女性の方がいいだろう、うん。しかし、調査があまり進行しすぎると危険なことになるような気がする。その時は腕に覚えのあるカラテで大声を出して逃げればいいだろう。もし女が中国拳法の名手で無理矢理、組み伏せられたらどうしよう。きれいな体で戻ってこられるかしら。不安だわ。いや、毛沢東も 「崇高な目的達成のためには敵を恐れることなく邁進せよ」 と言っていたではないか。(おい、そこのあんた! どこが崇高やねん! って、つっこんだだろう、今)
  私は決心し、心の中でインターナショナルを歌いながら目星をつけた理髪店へと勇躍乗り込んでいった。(つづく!)
NO20 まりりんまんそんライブインオーサカ完結編

at 2003 10/10 01:23 編集

 まりちゃんは取り憑かれたようにfuckやshitを連発する痴れ者で下品な男です。
「よく来たな、マザーファッカーども」
 イエ~イ!
(うるせー!)
「おまえたちのファッキンな中指を俺にみせてみろ」
 イエ~イ!
(ああっ、下品だ)
ステージでは猥褻な女が二人、猥褻なダンスをしています。観客のみなさんは物のけのように踊り狂っていらっしゃいます。熱狂的なコンサート風景を観て、「まるで宗教のようだ」とおっしゃる人がいますが、音楽と宗教は最も遠い所にあると思います。まりちゃんもそこら辺はよくわきまえていて、エンターテインメントに徹しています。まりちゃんの音楽はエッチな本を読んで興奮しちゃったくらいの意味合いしか持たないと思います。たまに興奮し過ぎて銃を乱射しちゃったりするバカちんもいますが。ロック・ヒーローは教祖だと言う人はディズニーランドは宗教だと言ってるようなものです。私は町田康の「CDを800万枚売ったからといって、社会を変えたということになるんでしょうか?社会を変えたいというより、社会によって自分が変えられたいと思います」という言葉を思い出しました。
 いつしかステージ上にはミッキー・マウスを似せて作った世界一邪悪なレプリカ、ミッキー・マンソンが登場しました。さすが裏ディズニーランドです(私は行ったことがないので何だかざまあみろです)。なんだかんだとアンコールもなしに10時きっかりにコンサートは終わりました。
20時20分 バックステージ
「まりりん、出番10分前だぞ」
「ああ」
「また震えているのか」
「何度経験してもステージに上がる前は緊張するんだ。俺は子供の頃から赤面症で対人恐怖症だからな」
「カリスマを演じるのも大変だな。ところで、ステージで破る聖書はどうするんだい? 」
「今回はいい。ここは日本だからな。それよりも俺の大好物のフランクフルトは用意してあるんだろうな?」
「大丈夫だ。ライブが終わったら浴びるほど食べてくれ」
「よし、いつものように円陣を組もう。メンバーとスタッフを呼んでくれ」
「わかった。みんな集まってくれ!」
「みんな、心の準備はいいだろうな。スティーブン、ミッキー・マンソンのレプリカは修理できてるな」
「もちろん、バッチリだよ。まりりん」
「昨日のフクオカのライブで少し破けちゃったからな。今回はゆっくりめに倒してみてくれ。キリストにミッキー・マウスの次はス○ーピーだな。いや何でもない、 こっちのことだ。ロザンナにケイト、いつも恥ずかしい踊りをさせてすまんな」
「なに言ってんの、まりりん。それは言わない約束でしょ」
「そうだったな。今日の打ち上げは西田辺の『酔虎伝』を10時半から予約してあるから思う存分飲んでくれ。でも12時までだぞ、次の公演に差し障るからな。ようし、  ジェローム、いつものやつをやってくれ」
「オーケー、みんな用意はいいか?それじゃあ、いくぞ!世界で最も偉大なアーテ ィストは?」
「まりりん!!」
「マイケル・ジャクソンよりもCDを売るアーティストは?」
「まりりん!!」
「ブッシュ大統領よりも影響力のあるアーティストは?」
「まりりん!!」
「僕たちはみんなまりりんが」
「大好きさ!!」
「ありがとう、みんな。俺が今日あるのは仲間の支えがあってこそだ。今夜もコンサートの成功を願って祈ろう。みんな、目を閉じてくれ。............我らの音楽を司る神よ、我々の奏でる音によって世界が融合されますように。人類のうちに争いも 餓えもなくなり、人々が穏やかに日々を過ごせますように。天国も地獄もなく、ただ今日という日のために生きていくことができますように。殺すことも死ぬこともなく、平和のうちに暮らしていけますように。想像してごらん、国境も宗教さえもなく......」
「ちょっと、まりりん。それって、ジョン・レノンの『イマジン』じゃないの」
「あっ、そうか。こりゃ一本取られたな。あっはっは」
「いやだわ、まりりんたらっ。あはは」
「まりりん、すっかり緊張がとけたようだな。これで今晩も大成功間違いなしだ。 うあっはっはっは..........」
なわけないですよね。あっ、私は会場で売ってたまりりんTシャツ(3500円)を買いました。さすがにまりりんポスターやマリリン携帯ストラップまでは買いませんでしたが。



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NO19 まりりんまんそんライブインオーサカ

2007-08-29 | Weblog
at 2003 09/26 23:20
まりりんまんそんのコンサートに行ってきました。大阪城ホールのアリーナです。アリーナ席なんて生まれて初めてです。まりちゃんと目があって「あとで楽屋に来いよ」なんて言われたらどうしよう(ドキドキ)。ホール前にはたくさんの屋台が出ていました。フランクフルト屋のおっちゃんが「まりりんまんそんも大好きなフランクフルトやでー」と言うので、思わず「うそやっ!」とつっこむと、「うそやないって。うそやったら、おっちゃんお金返したるわ」とぬかしよります。「何言ってんの、まりちゃんが好きなのは別のフランクフルト.....。」やだわ私ったら、おほほ。会場に近づくと、黒い衣装をまとったかなりイタい若者たちがたむろってます。まるでバンコクの娼婦みたいです。ああ~っ、勘弁してくれ~。俺が悪かった~!(いったい何があったんだ!)
 入場の際にはボディチェックがありました。ストーンズのコンサートでもなかったのに。まりちゃんのファンにはガイキチがたくさんいるからですね、きっと。アメリカでのコンサートは大変だと思います。
 二階席へと向かう客を尻目に地下に降りていきます。なんてたってアリーナですから。しかし私は自分の目を疑いました。これはただの一階席。しかも最後列。ステージからは50メートルは離れています。まりちゃんと目があうなんてことは絶対にありません。なんでやねーん、責任者出てこーい!わしは人生幸朗師匠かーい!と一人でつっこんでいるといきなり大音響です。そうでした、今宵のサポート・バンド(早い話が前座です)は「BUCK-TICK」なんだそうです。私は彼らを聴くのも見るのも初めてですが、ビジュアル系のパンク・バンド(?)という感じです。もういいんでわないかっ。もう充分でわないかっ。と思うほど存分に演奏した彼らはやっと引き上げて行きました。多分、アルコールとドラッグでへろへろになったまりちゃんの体力が続かないので時間稼ぎをしてるんだと思います。ずるいと思います。それからステージではサウンドチェックを入念にし始めました。まりちゃんはなかなか出てきません。おしっこに行って帰ってきてもまだ出てきません。世界中で何百万枚CDを売っているかしらんが、一万人の客を待たすとはいい度胸してんじゃねえか、最近天狗になってんじゃねえか、まりちゃんわ。とドス黒い心がわき上がってきた頃にやっと出てきました。開演から1時間半後のことです。(つづく)
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NO18 シャオエン

2007-08-29 | Weblog

 1997年5月、日本の首相官邸に当たる総統府の前を歩いていた。日曜日の昼下がり、空は透き通るような快晴だった。赤レンガの荘重な建物の前には警察官と憲兵(機動隊員)が集まって、何だか物々しい雰囲気だ。
 「ん? 何だ? 何だ?」と足を止めて眺めていると、警察官に職務質問されそうになったのであわてて立ち去る。官庁街であるただっ広い道路の交差点にも市民が集まり始めた。その中にはテレビ局の中継車がスタンバっている。向こうの道路からはデモ隊が何かをシュプレヒコールしながら近づいてきた。一体、何が? 中華人民共和国でも攻めてきたのか? 前年には台湾史上初の民間による直接選挙で李登輝が選出された。台湾独立派を恐れる中華人民共和国は大規模の軍事演習を行なったり、台湾海峡にミサイルをぶち込んだりと威嚇を続けていたのだ。
 「何があったんですか?」 近くにいたテレビ局のスタッフらしき人に聞いてみる。
 「テレビ・スターが殺されたんだ」 彼は詳細を説明する英語力がなかったのか、それだけ言うと黙ってしまった。俳優が殺されたぐらいでこんな騒ぎにはならないだろう。警官隊と機動隊が見守る中、デモ隊とそれに呼応した市民が気炎を上げていた。
 その夜は「華西街観光夜市」に行った。長い商店街は地元の人や観光客でごった返し、店の人たち、特に包丁片手にヘビやスッポンの生き血を売るおじさんの口上で賑わっていた。中にはヘビの頭を噛みちぎり、尻尾をくわえて振り回すという猟奇的おじさんもいた。不思議なのは生き血や漢方薬を売る店にはテレビが置いてあって、そのどれもが日本のプロレスを映していたことだ。やっぱり、精力がつくということをプロレスに託して表現したかったんだろうか。しかし、店先に繋がれていたオランウータンはどういうことだ。
 こんなにもヘビ屋やスッポン屋があるのにはわけがある。裏通りに売春街があるからだ。そこに行ってみた。売春宿は外から覗くことができ、ピンクの灯りの下で女性が立っている。その前の道路には怪し気な男たちが列を作って座っていた。
 
 ホテルに戻り、「あっ、そうか、あれは」と気がついた。三週間前に劇画作家の梶原一騎と歌手、女優のパイピンピンの娘が誘拐され、殺害されたのだ。犯人たちはその時点でも逃亡中で、さらに凶悪な事件を繰り返していた。後に5万人もの市民が治安改善のための法律改正や政府官僚の辞任を求めてデモを行ない、内閣は総辞職に追い込まれた。そのデモだったのだ。当時は日本のみならず、世界中にそのニュースが連日のように報道されていた。私はその事件の残虐さを知り、誇張ではなく、犯人たちへの激しい怒りと殺された17歳の少女への思いで胸がつぶされそうになっていた。
 少女の小指を切断し、母親へ送りつけるという行為。食事も与えず五日間に渡って暴行を加え続け、最後には遺体を全裸で排水溝に捨てるという行為。肝臓の五か所が破裂。胸部や腹部等に夥しい量の内出血。死因はロープで首を絞められたための窒息死。
 少女が味わった地獄のような恐怖と苦痛。私には懸命に想像してみることしかできない。そして犯人たちのこと。パイピンピンと犯人たちは経済発展を遂げる以前の貧しい台湾を共に生きた、同世代の人間だった。主犯格三人のうち、二人は警官との銃撃戦中に自殺。あとの一人はなおも逃亡し、南アフリカ大使館武官官邸に立て籠ったが、ついに投降した。パイピンピンはその後、台湾の治安の改善を目指し、ボランティア活動を精力的に行なっている。犯罪のない社会作りを世界にアピールするため、長野オリンピックには聖火リレーに台湾代表として参加した。
 せめて私は自分の命が続く限り、17歳で殺された少女のことを忘れないようにしようと思う。そうすれば彼女は生きる。私たちの記憶の中に彼女は生き続ける。
 
参考文献 「燕よ、空へ」 パイピンピン著 木村光一訳 / ルー出版
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NO17 マニラのスラム

2007-08-28 | Weblog
 夜の9時前にニノイ・アキノ空港に到着。ロビーに出ると熱気、じゃないなこれは、殺気を感じる。なんだか誰かに狙われているような気がして、少しびびる。ホテルを予約して、米軍用のジープを乗り合いバスに改造したジプニーに乗り込んだ。窓から通りを眺めていると、浜 なつ子の「アジア的生活」(講談社文庫)の文章を思い出してきた。
「スラムは特別な地区にあるのではない。メトロ・マニラ(マニラ首都圏)のいたるところにある。例えば、あなたがニノイ・アキノ国際空港を降りてタクシーに乗り、マカティの5ツ星ホテルに泊まり(そこまで気張らなくても安ホテルでも同じなのだが)、日中は車で移動して夜は繁華街で過ごすとなると、「タイやシンガポールほどではないが、フィリピンもずいぶんと経済発展しているんだなあ」と思うだろう。ところが、一歩、メインストリートをはずれて体重を右足でも左足でもいいから、どっちかに傾けて薄暗い路地を折れてみるがいい。
 そこには、ああっ、と驚く光景が広がっている。」 
 
 とそれから浜氏はスラムの様子を描写し、
「しかし、わたしにとってスラムは混沌という名の〝楽園″であり、生命力溢れる根元的な場所である。
  (略) ある意味で、最も俗なるところが聖に通じ、最も醜いものが清らかなものに近く、最も単純なものが真実に迫るという逆説を痛感できる、哲学的な場所でもある。」
 
 と続けている。私はこの文章を読むたびに、うひゃひゃと体が弾むような感覚になるのだ。私はスラムが大好きだ。電車に乗っていて、線路沿いにあるスラムを見つけると途中の駅で降りてしまうくらいだ。そんなに好きなら一生スラムに住みついたらどうだ、と言われると困るけどな。
 マニラには観光名所らしき場所はあまりないが、私にはどうしても見ておきたい所があった。東南アジア最大のスラムといわれるスモーキー・マウンテンだ。夢の島のようなゴミの集積所にバラックを建て、人が住み始めた。ゴミが自然醗酵し、煙がたなびいているのでスモーキー・マウンテンと呼ばれるようになった。スモーキー・マウンテンのあるトンド地区には無用な立ち入りは絶対に厳禁、とガイドブックには書いてある。それでもどお~しても行ってみたい。私は覚悟を決めた。海外旅行保険に加入してないのが残念だ。アバト・サントス駅でタクシーを止め、ドライバーに聞いてみる。 「あんたは悪人か、それとも善人か?」 (マニラのタクシー・ドライバーはボる奴が多いからな) 「なぜ、そんなことを聞く? もちろん俺はグッドマンだ」 交渉して、スモーキー・マウンテンをぐるっとひと回り、300ペソで行ってくれることになった。ドライバーのソシモは気のいい人で、運転中もずっとしゃべりっぱなしだ。 「人生で大切なのはお金よりも友だち、神様、家族だと俺は思うね」 「香港に研修で行ったことがあるよ。外国に行ったのはそれっきりだ」 「トンドなんかになぜ行きたいんだ? あんた、ジ?ーナリストか? トンドで警官がナイフで刺されたことがあるし、タクシーだって石を投げつけられたこともあるんだぜ」等と話を聞いているうちに、車はいつしか迷路のような細い路地に入り込んだ。一見してスラムと知れる、その住民たちが車を取り囲むようにしてじろじろとこちらをねめるように歩いている。ソシモの言葉を思い出して、こちらとしては気が気ではない。やがてマニラ湾沿いの道路に出た。う~ん、と思わず私は目を見張った。なにしろトタン屋根とありあわせの木造で建てられたバラックが何キロにも渡って延々と続いているのだ。それは今まで訪れたアジアのどの国でも見たことがなかった、圧倒的な光景だった。電気は引いているが、水道はないとソシモは言う。
 スモーキー・マウンテンには以前、人が住んでいたが現在は政府によって強制撤去させられて家はない。気が遠くなるほどの広大なただのゴミの山だ。少し行くと、今にも崩れ落ちそうな五階建てくらいのアパートが密集していたので、その前の広場に車を止めてもらう。広場にいる大勢の大人たちや子供たちが何事かとこちらを注視してきた。
 ソシモに「外に出ても大丈夫か?」と聞く。 「ああ、大丈夫だ」 「ここで待っていてくれ」 あたりを窺うようにしてゆっくりと車から出て、一番近くにあったアパートの階段をのぼる。そこで私は自分の目を疑ったね。各部屋のドアはなぜか全てなくて、中がまる見え。室内には所狭しと何人もの人間が住んでいるのだが、住んでいるのは人間だけではなかった。猫や犬に数羽の鶏までもが同居しているのだ。一軒家ならともかく、アパートの一室で人が家畜と暮らしている光景は異様だ。それは、まるで家畜小屋に住人が住まわさせてもらってますって感じなのだ。もしかして、あれはペットなのか? いや、そうではあるまい。スラムの住人にそんな余裕があるはずがない。現金収入を得るため、もしくは自給自足の食料として飼って、いや、同居しているのだろう。上の階まで行きたかったが、住人の眼光が鋭くなり危険を感じたので車まで戻る。
 「一緒にアパートの上まで行ってくれないか?」とソシモに頼むと、「駄目だ。危険だよ」と言う。あとから考えてみると、危険なのは我々だけでなく、もし車を残しておけばその車だってどうなっていたか分からない。仕方なくトンドを離れ、リーサル公園で降ろしてもらった。歩いて駅まで行こうとしたら、一人のフィリピーノに時間を聞かれた。そのままついてきて、歩きながら自己紹介を始めた。年は29歳。父は日本人、母はフィリピン人。何年か前に離婚し、父は香港にいるが母は行方不明。彼には子供が二人いて、ミルクを欲しがっていると何度も言う。ふ~ん、なるほどね。案の定、「セブン・イレブン」で粉ミルクの缶を二つ買わされた。自分のためにお金をくれ、というのならともかく、小さな子供がおなかを空かしているという言葉に断ることができなかった。願わくはだな、あとでその粉ミルクを換金して、お人好しの日本人はちょろいもんだと舌を出さんように願っているぞ。
 その男は粉ミルクを受け取り、ホテルの所在地を尋ねるとお礼のつもりなのか「案内するよ」と歩き出した。おい、ちょっと待ってくれい。わしはLRT(高架鉄道)に乗って帰るからいいんだ。と言ってもそいつは先頭に立ってどんどん歩いて行く。待てっちゅうねん、お願いだ~、頼むから待ってくれ~。ここからホテルのあるエドゥーサ駅まで6キロはあるぞ。 「心配しなくても大丈夫だよ」 いや、だからそういう問題じゃなくてえ。男は黙々と歩く。薄暗い夜道をひたすら歩く。月がきれいだった。一時間歩いてホテルに着く。えっ、本当に着いたのか? 初めは着いたのが信じられんほどだった。リキというその男は妻子のためにお金が欲しいと言う。 「いくら欲しいんだ?」 「200ペソ」 ありがとう、リキ。案内してくれてよっ!私は彼に50ペソ渡した。リキは少し不服そうだが礼を言って帰っていった。また一時間かけて。
 それから私はホテルでイタリア料理を食べた。500ペソほどだった。近くにカジノがあるというので行ってみたが、カラーのないシャツを着用している人は入場できません、と断られた。帰り道でぼろぼろの服を着た6歳くらいの女の子が右手を突き出してきた。小銭を1ペソしか持ってなかったのでそれを渡すと、女の子は無言で首を振った。でも、どうすることもできんのでそのまま帰った。私は人権主義者じゃないけど、つくづく人間は不平等だとその夜は思った。
* 当時のレートで1ペソは約4円
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NO16 カンボジア~その2

2007-08-28 | Weblog
NO16 カンボジア~その2
アンコール・ワットやアンコール・トムにはカメラのフィルムや絵葉書や笛や扇子を売りつける少女がごまんといる。観光客を見つけると、「お兄さん、お兄さん」と雲霞の如く寄ってくるのだ。彼女たちをかきわけ、かきわけ遺跡を見ているうちに、ふと思った。プノンペン市内ではほとんどお金を使うことはなかったが、遺跡を見るためにシェムリアップに来てからは予想外に散財した。まず、プノンペンからシェムリアップ間の航空券が55ドルに、帰りのスピード・ボート代が25ドル。アンコール・ワットに一回入場するたびに20ドル必要だ。あと、バイクタクシーやホテル代も結構使ったし、出国税もいるから、その分だけ所持金から引いてみるとだな........。があ~ん! 今日のホテル代を払ったらすかんぴんやあ~っ! 困ったあ~、どうすんねん、と遺跡の中で一人、頭を抱える私であった。
 ともかくホテルに戻り、リュックをかき回してみると、ベトナム紙幣が5万ドンほど見つかった。すぐに中国人経営の両替商で両替してもらうと、9ドルになった。う~、ありがたや、これでご飯が食べられる。あとは日本円の硬貨をかき集めると2000円ほどになったが、硬貨は両替できない。日本人のツアー客をアンコール・ワットの前で待ち構えて、紙幣に両替してもらおうか等と思案しながらもう一度ホテルに戻ると、フロントで日本人らしき男が二人、話をしている。そう思うやいなや私は一目散に駆け寄り、彼らに話しかけていた。
 「すいません、日本のかたですか?」 「そうですよ」
 事情を話すと、心良く両替してくれた。のみならず、ホテル内にある中華レストランでご飯をおごってくれ、1万円も貸してくれた。いい人やあ~。聞くと、これからバンコクからネパールへ行き、帰国するのは二か月後だそうだ。あとから考えると、二か月もの間、2000円も使えない硬貨を持ち歩くのはさぞかし邪魔だったであろう。川原様、ありがとうございました。おかげで私は生きて日本に帰ることができました。
 さっそく、二日間世話になったバイクタクシーのソーウオッポにガイド料を払う。大金が入って気が大きくなっていたので奮発して20ドル渡した。とたんに彼の顔がだらしなくデヘヘ~となったので、しまった、払い過ぎたなと思った。初日にガイド料を聞いたら、「It depends on you 」(お任せします) と言われていたので少なかったら悪いと思っちゃうんだよな。敵も人の心理をよく心得てるよ。いかん、いかん。せっかくのお金を大事に使わんとな。それからは出費をできる限り押さえた。ずっと頭を洗ってなかったのでシャンプーを買いにコンビニに行った時も、5ドル(!)もしたので30分迷って結局、買うのをやめたくらいだ。(頭がかゆい)
 だけどプノンペン・ポチェントン空港の出国税が20ドルだったのは痛かったぞ。その日はバンコクで一泊し、翌朝ホテルの前でタクシーを拾う。空港まで350バーツだというので「バーツの持ち合わせがない」と財布の中身を見せた。運ちゃんはその中にあったドル紙幣を目ざとく見つけ、空港で5ドルを両替すればいいと提案し、運賃も300バーツに負けてくれた。空港の銀行で5ドル出すと、両替は最低10ドルからだと言う。仕方なくボロボロの5ドル札をもう一枚差し出すと、古いお札は受け取れん、とぬかす。きしょーめ、ビンボー人だと思ってなめんなよ。今度は1ドル札を5枚取り出すと、それも駄目だと拒絶! ふぎーっ! どないせいっちゅうねんっ!! 結局、最初の5ドルだけ両替してもらった。(なら、最初からそうしろよな)
 ドンムアン空港の出国税は250バーツ(現在は500)。出国審査を終えるともう外国の通貨は必要ない。手持ちのお金を日本円に換金し、この時点で所持金が1000円と9ドルと5・5バーツ。  
 なんとか帰国して自宅にたどり着いた時の所持金は1133円だった。昔、「がっちり買いまショー」というテレビ番組があったが(知ってるか?)、その海外版があったとしたらわしの優勝やあ~っ!
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 尊敬する人は大山倍達とマザー・テレサとジョン・ライドンと町田康と中村うさぎです。ピストルズを聴いて人生に目覚め、スマッシング・パンプキンズで人生の悲哀に気づいた野球嫌いのA型の魚座の極真空手を愛するインドア派。 -大阪在住の鳥取県産まれ-









ご注目

 ドリアン長野がフェイスブックで行った投稿の転載は令和六年二月からは重要な出来事は特例としても転載は見送ります。催事の連絡は令和五年のみで終えます。
 カレーの投稿についても令和六年に集約し投稿したのでそれで終えます。海外の出来事の紹介は例外的な出来事を除外し令和六年三月末迄とします。

 苦難は同情すれども無理強いされてまで共闘する気はありません
 2012年にドリアン長野と私が会談した時に某ホームページの紹介を辞める提案をして黙認されました。
 私が2015年にカナダを旅してる時に毎日フェイスブックのタイムラインに詰問してきたストーカーがいました。
 彼等の目的は私の弱みを握った上で紹介を再開させることです。
渡航中の人に対し詰問するのは犯罪の被害にあう可能性を高める行為です。
 損害を作りだす公共の敵は当方に関わらんでほしい。
 発表してませんが2011年によろしくない書き込みをしてきた人がいました。
 特定のホームページについて「紹介してるのが悪い。」と考えてる人は「紹介されてるのが悪い。」とも考えてる。
 紹介先の取捨選択と書き込みの否定は、不可避でした。

 パスポートの入手、渡航先の選定、旅先の海外旅行案内書を購入して読んで予習、必要なら電子渡航認証等の申請や観光ビザの所得、外国語の学習、旅費と休暇の捻出、複数存在する旅に必要な商品の購入、外貨の保有、交通費、宿泊費、海外旅行保険の支払い等を済ませないとお気楽に海外旅行は行えません。

 海外旅行記の内容はドリアン長野が渡航した時の状況です。海外では町名が言語によって異なりますので旅行記内において日本では一般的ではない町名が存在します。  予算やお薬は多めに用意して下さい。 複数の時計を利用し時差に対応しましょう。
準備してから旅行代理店、航空会社(又は、船会社)、ホテル等に予約と支払をしましょう。
 海外旅行保険の加入は必須です。 kaigairyokouhoken.com
出入国に関わる法規制や価格等は過去と現在で異なるので渡航前に各自で確認下さい。
 私はドリアン長野からホームページについて頼まれ平成15年にgoo簡単ホームページを利用した後、こちらを担当してます。
 一日から14日に一回以上、14日から月末迄に一度は投稿する予定です。
敬具 管理人 マーキュリーマーク

回顧を兼ねた書評


僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。 旅も好きだが、旅行記も好きだ。この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。何よりも文章がうまい。奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、一気に読め、感動的でさえある。朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。