さて二十二歳で二人の子持ちとなったわたくしと夫は小さなアパートで子育てをしました。
ちょうど実母は仕事を持ちまた家を建てるという事で私の助けはできなくなっていました。それで私は同じアパートで五十代の方に預けようと思いお願いしました。その方は快く引き受けて下さいましたが子供たちがなつきません。ある日雨の日だったのに子供二人はその方の部屋に入らなくなってしまいました。彼女は傘を持ち子供たちとともに一日外にいたと言います。
後で子供たちに聞くと嫌な思いをしたとのことです。でも私はそれで諦めました。
そのあと関西へ嫁いでいた姉がご主人とともにこの町へ転職のため帰ってきていました。それで姉は「私がみるしかない」と思い申し出てくれたのです。
姉は自分の子供三人と私の子供(そのあと生まれた)三人、六人を五年間みてくれました。
私はそのような助けを得て三十年働くことができたのです。
姉のイラストです。でもちょっと似てないかな?もっと可愛いですね。
その5年間が終わり夫は親族のいない養母、父を思いかえると言います。
マーしようがないですよね・・・でも彼らと別居した1年後に信仰を持った私は「主にあって夫に従え」とあるので夫に従って共に帰りました。
帰ってからまた一人生まれましたので、姑は懲りていたらしく子供の世話をしてくれました。
でもヨカッタですよ。実は70代後半から姑は骨粗鬆症で動けなくなってしまいましたから
イライラした時など「あの子の世話をしてくれたのだから・・・」と思い共に暮らすことができました。
その2年後に子供は二万人に一人なるという難病になりました。ですから私は姑とともに頑張りました。彼女も私が職場に行っているときは母親になってくれたのです。
でも若い私は彼女のやり方にいろいろ言いたいことはありました。でも見てくれている人には何も言えませんでしたね・・・
このように子供たちが大きくなるまで行政のサービスを受け、又オバーチャンとともにようやくやれたのです。ハーッ!! こんな何もできない私が周りに助けられて四人の子供たちを育てあげたのです。
さて、どうしもて忘れられないことを一つ書きますね。
別居中のことです。二人の子供たちを保育所に預けに行くため私は自転車の三人乗りをしました。
一人はうしろに、又もう一人は自転車の前に乗せて時間のない小さな私は自転車に乗り走りました。
またある日などそのもう一人オンブして歩きました。さすがに乗れませんでしたね。
でも若かったからできたのです。今では本当に良い思い出です。
「dorucasu えらかったね!!」と自分をほめています。メデタシ・メデタシ!!