何しろ1日1投稿がモットーの瓦版ブログです♪

2014年6月8日の日曜日、YouTubeにgooボタンが付いていたので登録♪
継続は力なり!で内容は投げやりかも笑。

坂本龍馬を暗殺したのは誰なのか

2016年12月06日 23時45分27秒 | 歴史上の人物

 

黒幕は英商人のトーマス・グラバー氏か

 「 薩長同盟提案書 」は、もうしばし待たれよ。(^O^;)

今回のパクリ企画、「 薩長同盟提案書 」をオフィスソフトで
作成する上でググって調べていくと、ここの部分とは関係ないが
今だに謎とされる「 坂本龍馬暗殺事件 」の刺客が誰なのか
分かって居ないという「 」が浮かび上がってきた。

 坂本龍馬 氏( 享年33 )が、暗殺されてしまった
近江屋( おうみや )事件 」は、その名の通り幕末の
慶応3年11月15日( 1867年12月10日で奇しくも
龍馬氏の誕生日 )の夜9時頃に京都河原町の醤油商、
近江屋の2階で火鉢を囲んでいた同じ土佐藩士である
中岡慎太郎氏( 享年30 )と共に何者かに拠って殺された。

 龍馬氏は、刺客の急襲によって額、背中、再び額と
3個所を斬られて、ほぼ即死状態だったという。

暗殺の実行犯は4人の刺客が襲ったか

 色々ググって調べていく中で、この情報が一番
「 確度 」が高そうだと感じたのでシェア。↓

 

( 以下、国立国会図書館「 月報596号 」から引用 )↓

“ 現在となっては実行グループの特定は困難だが、
近江屋の2階に上がった直接の実行犯が、
佐々木只三郎( ささきたださぶろう )
今井信郎( いまいのぶお )
渡辺篤( わたなべあつし )
世良敏郎( せらとしろう、世良家の相続前は「 小林甚七重幸
の4人で有ったとする事に問題は無い。”

( 引用ココまで )↑

引用元URLリンク ⇒ http://bit.ly/2hk3WKq

 ブラウザでも閲覧O.KのPDF( ダウンロードも可 )P26~P36まで。

 後に、他の実行犯仲間が捕らわれる事を危惧してなのか
自身の売名の為なのか定かではないにせよ今井氏が2度に渡って、
嘘の供述 」を繰り返した事とは異なり、渡辺氏には
もともと公表するつもりの無かった「 渡辺家履歴書 」に
真犯人以外には知る由の無い真実の暴露 」を書いているのだ。

 瀕死の重傷を負った中岡慎太郎氏は、2日後に
息を引き取ったが事件当時、襲われた時に「 こなくそ! 」
( もしくは「 こげなくそ! 」 )と言う刺客の声を聞いている。

ちなみに「 こなくそ! 」は愛媛の方言で「 コンチクショウ! 」で
「 こげなくそ! 」は薩摩弁で「 このやろう! 」を意味する。

1階にいて刺客とは知らずに客の取次をした用心棒で
元十両力士の「 山田藤吉 」( 雲井龍 )氏( 享年19 )も斬られ
1日後に死亡している。

 この暗殺が実行される前に龍馬氏から
「 軍鶏( シャモ )を買うて来てくれぬか 」
と、お使いを頼まれて外出していた
土佐藩御用達の書店「 菊屋 」( 中京区 )の長男、
鹿野峰吉 」氏( かのみねきち、16 )は無事だった。

ちなみにこの龍馬氏や慎太郎氏に「 峯やん♪ 」と呼ばれ
可愛がられていた用使いの峰吉氏は
明治10年(1877年)の西南戦争で
熊本鎮台司令長官( 元土佐藩士 )谷干城( たにちかげ )氏
の采配で会計方軍夫として従軍している。

 ちなみに峰吉氏の、お墓は今も京都市
左京区田中門前町の「 了蓮寺 」( 知恩寺境内 )
に有る。( 1918年没 )

京都見廻組の今井信郎氏の供述は的外れ?

 事件後の1870年( 明治3年 )に、ある事件で捉えられた
見回り組の今井信郎氏が供述し、さらにその後の
明治42年( 1909年2月3日 )の大阪時事新報でも
「 拙者が坂本を斬った 」と告白しているが、これは直後に
当時現場に駆けつけた土佐藩士の中の1人、谷干城氏に拠って
現場の状況や受傷の状態が供述と違いすぎる 」として、
矛盾点を挙げた上で、こちらも言下に否定された。

ただし今井氏は実行犯の中の1人では有るようだ。

今井氏の供述では近江屋の2階に上がった4人の実行犯の他に
1階では見張り役の「 桜井大三郎 」氏と「 土肥仲蔵 」氏の
2人が担当したと言うが、これも定かではない。

 ちなみに、1回目の供述後は薩長同盟の盟友でも有った
西郷隆盛氏の計らいに拠って釈放された、と言うのだ。

それでは、今井信郎氏は己の功名心や自己顕示欲の為と、
仲間をかばう為だけにデタラメを言い続けたのであろうか?

ここで、ぜひともあなたに共有させて頂きたい投稿記事を、
ご紹介させて頂く。( 同じgooブログであるが故に、
今回はトラックバックも併用する。 )↓

( 以下、gooブログから引用 )↓

“今井信郎は生涯、外部の人に対しては本当の事を話していない
( 中略 )生涯一度真実に近いことを身内に語っている
( 中略 )この手紙で今井省三は龍馬殺害を命じたのは
大目付・永井尚志 」玄蕃頭で有る事を明確に述べている”

( 引用ココまで )↑

 

 あまり長い文章をコピペすると、< blockquote >タグで括っても
「 重複コンテンツ扱い 」になってGoogleから
「 ペナルティ 」を受ける恐れが有るので、本当に重要な部分のみを
引用させて頂いた。

元記事はコチラから ⇒ http://bit.ly/2g680jV

 龍馬氏は江戸幕府のNo.2の若年寄格でもある
「 永井尚志 」玄蕃頭のもとへ11日と14日に訪れている事が
「 龍馬書簡 」と「 丁卯日記 」に綴られている。

 この他にも「 肥後藩国事史料 」には
「 坂本を害し候茂『 ( 摩 )人 』
なるへ( べ )く候事 」と書かれているし、イギリス人通訳の
「 アーネスト・サトウ 」氏は薩摩藩の「 吉井幸輔 」氏から
「 3人の名も無き男から殺された。 」と聞かされている。

 この他にもYouTube にアップされているTV番組
( カトパンが司会 )録画からのアップロード
( ↑のリンクした記事にも書かれていたが )
コンテンツも拝見させて頂いたが、事件現場には
新撰組が出入りしている料亭の下駄と、そこの隊士の
「 原田左之助 」氏の刀の鞘が残されていた証言からも
新撰組が疑われ、事件後に局長の「 近藤勇 」氏が
幕府から取り調べを受けて居るが、いずれも不明である。

 だが、秘密の暴露を行った暗殺実行犯の内の1人、
剣豪渡辺篤氏の回顧録、「 渡辺家履歴書 」には
「 刀のサヤを取り忘れて帰ってしまったのは
世良敏郎( 小林甚七重幸 )といふひと 」と書かれてあるのだ!

 しかし....「 薩長同盟 」を成立させた立役者の
坂本龍馬氏が、後から薩摩藩に刺客を放たれるって、
世知辛い関西地方だなぁ、と思う。

太平の世なのは江戸の街だけだったのか。

薩摩藩が京都見廻組に接触していた

 今度はNHKのTV番組録画からのアップロードコンテンツである。

一般的に坂本龍馬氏を殺害せしめるは幕府御用達の
京都見廻組 」が真犯人だとの説が有力だが、その中でも
与頭( くみがしら )を務める佐々木只三郎氏に目を付けて
接近したのが「 薩摩藩 」であった。

和歌の名手でも有った佐々木氏に接触を試みたのが
薩摩藩士で和歌の達人と言われた「 高崎正風 」氏。

高崎氏は佐々木氏の故郷である会津の詩会に忍び込んで
佐々木氏との接触を図る一方で、見廻組きっての剣の達人
「 渡辺 篤 」氏には武道に秀でた薩摩藩士、
「 海江田 信義 」氏が接近。

渡辺氏が京都に作った道場に海江田氏が来て、
そこで「 三本勝負 」をするなどして近づいている。

 実はこの2人こそが、暗殺実行犯の中で
最も重要な面々だと言われているが、薩摩藩は
この2人との密かな繋がりを、ここで持ったのである。

さらに薩摩藩は龍馬氏が潜伏している場所、時間帯などは
全て把握しており、この情報を
京都見廻組に提供していたのだった。

 そして翌年、慶応4年( 明治元年 )の1月に起きた
「 鳥羽・伏見の戦い 」で京都見回り組は
先に挙げた今井信郎氏と渡辺篤氏以外は
全員戦死しているか行方不明にと言うのが定説に。

 だが、これも事実は違う。

実は実行犯の中でもう1人、鳥羽伏見の戦いを
生き残っている人間がいた。

それが「 小林甚七重幸 」こと「 世良敏郎 」氏である。
( 詳細は↑のリンクから )

その後大正4年( 1915年 )8月5日の大阪朝日新聞には
死の直前の渡辺氏が坂本龍馬暗殺を告白した記事が
掲載されたが、これも今井信郎氏と同様に現場での状況や
暗殺に関わった人数構成の違いなどから、こちらは
元土佐藩士の谷干城氏に否定されている。

 この他にも「 池田屋遭難事件 」で幕府の捕り方2人を射殺した
事への幕府報復説や土佐藩説、薩摩藩説、長州藩説、紀州藩説
など数え上げたらキリがないが真犯人は今だに分かっていない。

 ちなみに、これがもし薩摩藩の陰謀だとするならば、
その理由はただ2つ、
武力を以って倒幕したい薩摩藩の方針にそぐわないから
というのがまず1点、そしてもう1つは
新政府の内大臣( 今で言う総理大臣 )に、
徳川慶喜公を推挙していたから
と推論する他無い。

 この事はまた後日、記事にしたためる予定でいる。

そんな中、個人的には龍馬氏が興した日本初の株式会社と言われる
亀山社中( 海援隊、長崎県長崎市 )」とも密な取引の有った
グラバー商会の商人でイギリス人の
「 トーマス・ブレーク・グラバー( Thomas Blake Glover ) 」氏
( 満73歳没 )が本当の黒幕だと思うのだ、が.....

土佐の「 いごっそう 」龍馬氏を狙ったワケとは

 「 トーマス・グラバー 」氏は日本在住の英商人で
日本で初めて蒸気機関車を試走させ、長崎に西洋式ドックを造るなど
幕末日本の近代化に大きく寄与した
スコットランド出身の武器商人である。

 ここで、私めが今鋭意製作中の「 薩長同盟提案書 」とも
大きく関わって来るところなのだが、龍馬氏は
この2つの大藩を結びつける上で、実は大きな後ろ盾が
有ったのでは無いか?と言われている。

それが前述させて頂いた、イギリス武器商人の
トーマス・グラバー氏の存在である。

事実、薩長同盟締結の前年の8月に亀山社中は
グラバー商会からミニエー銃4300丁とゲベール銃3000丁を
9万2千4百両で買い付け、薩摩藩城代家老「 小松帯刀 」氏
( こまつ たてわき。私めの先祖では無いwww )によって
下関から入港し、長州藩の手に渡ったのである。

また同様の手口で蒸気軍艦「 ユニオン号 」を
3万7千7百両で長州藩が購入している。

 長州藩の武器購入額は169億円、亀山社中も46億円もの
ビッグ・ビジネスと、なったのである。

ちなみに、この取引きでは長州藩から薩摩藩へ
500俵もの米俵( 兵糧米 )が用意され、
お互いの不足を補う形で薩長同盟の「 いしづえ 」を
作ったとされる。

( 兵糧米は結局、薩摩藩は謝辞という形で受け取らず
亀山社中が受け取った格好。 )

 さて、孤立無援の長州藩は何故ここまでの
武器や軍船を購入できるほどの財力が有ったのだろうか。

 時は遡って、長州藩の七代目藩主、
毛利重就 」氏が採った資産運用「 撫育方 」と言うシステムを
宝暦13年( 1763年 )に興し、幕末には何百万両と言われる
他藩を圧倒する隠し財産を持っていたと言う。

 

 それでは、なぜ「 トーマス・グラバー 」氏が、
ビジネス・パートナーである龍馬氏の命を狙ったのか?

ココからは、完全な私め個人の推測であるが、ズバリ!
大政奉還 」に繋げた龍馬氏の「 和平的な行動 」が、
グラバー氏の、お気に召さなかったのでは無かろうか?

 無論、「 大政奉還 」は龍馬氏個人の働きだけで
実現できたものでは無いが、「 船中八策 」などの
龍馬氏の発案を元にして( と言われている )土佐藩の家老、
後藤象二郎 」氏が「 自分の案 」とした上で土佐藩主の
山内容堂 」氏に進言した。

 容堂氏の同意を得た後藤氏が容堂氏らと共に連著した上で
10月3日に二条城に行き、その時の老中、
板倉勝静 」氏に「 大政奉還建白書 」を提出し
江戸幕府15代将軍の、「 徳川慶喜 」氏に進言した。

 慶応3年の10月14日( 1867年11月9日 )慶喜氏は朝廷に
政権を返還し翌日に勅許、無事に「 大政奉還 」と、あいなった。

 土佐藩を再脱藩した「 浪士 」と言う身で有ったが、
慶応3年( 1867年 )2月に盟友、中岡慎太郎氏と共に
龍馬氏は脱藩罪を赦免され、許されている


 龍馬氏は土佐藩士の家老、後藤象二郎氏に対して、
「 大政奉還の建白が拒否された場合、貴殿は切腹の御覚悟でしょうから
その時は、徳川慶喜公を路上で待ち受け仇を討ちましょう! 」
と言う内容の手紙を、したためている。

 しかし、こうなると、「 内戦での武力衝突が無くなってしまう 」
すなわち、「 武器が売れなくなってしまう 」と考えたグラバーは
邪魔な存在の龍馬氏を始末しようと画策したのでは無かろうか?

なにせ、グラバー氏は江戸幕府側にも、火薬700トンなどの武器を
売りさばいていたのだから、売れて儲かれば何でも良いと言う
感じなのだろうか。

 だけどなぁ......今じゃ司馬遼太郎氏の小説「 龍馬がゆく 」で
英雄に、なっている坂本龍馬氏だが、あそこまで東西奔走して
頑張ったのに、その見返りが「 暗殺 」で33歳の若さで殺される
結末って、かなり悲しい感じもするよなぁwwwww (;・∀・)

 今日は以上だーっすぅ。^^

坂本龍馬―明治維新につくした志士 (学習漫画 日本の伝記)
クリエーター情報なし
集英社

( 瓦版ブログはamazon.co.jpを宣伝しリンクする事に依って、サイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムであるamazonアソシエイト・プログラムの参加者です。 )



最新の画像もっと見る

コメントを投稿