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薩長同盟の六ヶ条を分かり易く解説する

2016年12月12日 23時32分51秒 | 歴史上の人物

 

学の無い私めは「 候文 」が意味不明で候

 さて、ここ連日の作業で取り組んでいる、
薩長同盟提案書 」であるが、今日は病院に行って
リハビリの日だったので、まだまだ完成は
しておらんぜよ~。(^O^;)

 もう少し、お待ち下されい。

 で、「 薩長同盟提案書 」を、色々とググりながら
学んでいく上で当然の成り行きとして、「 薩長同盟 」が
締結されたあとの慶応2年1月23日付に木戸孝允( 桂小五郎 )氏が
薩長同盟盟約六ヶ条覚書 」とした書簡を、したためた事が分かった。

 その書簡を受け取って読んだ坂本龍馬氏が慶応2年2月5日付で
裏面に朱筆で確認のサインをしたのち、木戸氏に返信している。

しかし「 」のない私めは、この古文体の様な
候文 」( そうろうぶん )で、したためられている
六ヶ条の条文を読んでも、訳ワカメに候。

無論、TOP画像の様な候文も、なんとな~く
戦う時には二千人の藩兵を出してね♪ 」
っつー感じの大筋の意味は読み取れるのだが、
細かい部分まではサッパリである。

で、今日はこの問題を解決すべく、ググって
知ることが出来た情報を、全てあなたにシェアさせて頂こう。^^

 ちなみにWikipediaから拝借した原文は、全てコピペすると
Googleから「 重複コンテンツ 」扱いにされるのが怖いので、
( コレばっか )全て画像データでの掲載とした。

薩長同盟六ヶ条と龍馬氏の裏書きまで解説

 さて早速、盟約六ヶ条の最初から見ていくことにしよう。

1つ1つ、詳細に説明させて頂くが、実はこれの書簡自体は
薩長同盟が締結された時に書かれたものでは無い。

 薩長同盟が締結された2日( もしくは1日 )後になって、
チョット心配症な長州藩の木戸孝允( 桂小五郎 )が、
この書簡をしたためて、坂本龍馬氏に確認の意味で裏面に
朱筆でのサインを貰っている。

 大まかな内容としては
あらゆるケースで同盟を結んだ薩摩藩は長州藩と協力して
江戸幕府と戦おうね!きっとだからね
? 」
的なニュアンスだ。

この書簡を確認した龍馬氏が裏面に
同盟を結んだ薩長同志の約束は、神に誓って
この内容と九牛の一毛ていどの間違いも無いよ
。 」
とした意のサインをしている。

 それでは、TOP画像の薩長同盟六ヶ条の
最初の解説から参る。↓

 ちなみに六ヶ条自体は、全て条文の冒頭には一、と言う漢数字が
書かれているが、ここでは分かり易く解説するために、敢えて
一~六までの漢数字を振った。

では、次の条文である。↓

 解説:「 戦で長州の勝利がみえた時には、長州の
政治的復権のために薩摩藩は朝廷に申し出る様に尽力すること。」

 次、どんどん行きましょうドンドンと。↓

 

 解説:「 万が一、長州の敗色が濃くなった場合でも
一年や半年で壊滅するようなことはないので
その間、薩摩藩は必ず尽力し協力すること。」

 それでは、その次。↓

 解説:「 幕府軍が東へ帰った時は薩摩藩は朝廷に申し上げて、
すぐに長州藩の無実の罪が解かれる様に尽力する事。」

いよいよラスト2になってきた。↓

 解説:「 薩摩が第一条により京に近い国々に出兵して
圧力を加えた上でも、京の政権を制圧している一会桑政権が
現在の様に朝廷を牛耳った上で薩摩側の要求を拒み、
その道をさえぎる時は最終的に彼らとの
軍事的対決に至る覚悟以外は無い事を長州に対し表明する。」

 で、この条文がラストになりまーっすぅ。↓

 解説:「 無実の罪が解かれた上は、薩長両藩は
誠意をもって協力し合い、今日より双方は皇国のため
天皇の威光が輝き、回復することを目標に
誠心誠意を尽くして尽力すること。」

 ってな感じで、以上が「 薩長同盟盟約六ヶ条 」の
画像引用と、詳細の解説になり候。

まぁ毎回毎回、言い訳する訳でも無いのだが
不肖この私めは「 歴史学者 」では無いので、
細かい部分では相違点が有ろうかと存ずるが、
大まかな解釈は出来ている筈なので、
仮に間違いが有っても目くじら立てずに候。

 それでは最後に龍馬氏に拠る裏書きのサインを。↓

 解説:「 書簡に記入された薩長同盟6カ条は、
小松帯刀( こまつたてわき、清廉“きよかど”とも )、
西郷隆盛の両氏および木戸貫治(孝允)、龍馬も同席して
話し合った内容なので九牛の一毛ほども、これと相違ない。
将来に渡って決して変わる事が無いのは、
天地神明に誓う所である。」

と言う解釈になる。^^

 しつこいようだが、薩摩藩士であった小松帯刀( 清廉 )氏は
私めの祖先では無いwww

薩長同盟の密約を締結した時には京都に有る
清廉氏の屋敷内で、密談を交わしたというが
Wikipediaからの画像をリンクしてみると、
こんな感じの方である。↓

 

http://bit.ly/2gFeg0J

 本当は共有リンクをHTMLソースコードで
貼り付けたかったのだが、それが無かったので、
興味が有る方はクリックかタップをしてみて。^^

維新の十傑 」の内の1人でもある小松氏は、
龍馬氏に勝るとも劣らぬ度量の持ち主だったそうで、
同じ薩摩藩士の西郷隆盛氏が試そうとして、
わざと部屋で横になり、彼よりも身分が高い小松氏を待っていた所、
現れた小松氏は腹を立てる事もなく、
家臣に枕を持ってこさせたという。

 この1件以来、西郷氏は小松氏に対して己の非礼を詫びた上で
以後、忠誠を誓うようになったという。

幼い頃から親の愛情に恵まれずに育った小松氏だったが、
寛容な人柄で人望も厚かったため、若くして薩摩藩の
重職に抜擢された。( 同じ小松でもココまで違うかwww )

 ちなみに「 維新の十傑 」には、てっきり「 坂本龍馬 」氏も
入っているものだと思って居たのだが、まさかまさかの
圏外 」!(;・∀・)

あそこまで日本の未来の為に死力を尽くして奔走した挙句、
最期には暗殺と言ふ悲運の死を遂げた「 明治維新 」の
スーパー立役者 」とも言ふべき龍馬氏がカヤの外とは......
チョットいたたまれないよなぁ.....(-_-;)

でもなんか龍馬氏自身は、こういう名誉だとかには無関心な
思考の持ち主な感じが見受けられるので、仮にいま
生きていたとしても「 そげなもんは、いらんぜよ~♪ 」とか
言いそうな気も、するんだがwww

「 薩長同盟提案書 」もうしばらく、待つこと候。^^

幕末の志士 龍馬とその時代 第8巻 “明治維新の原動力” 薩長同盟締結 (【図説】日本の歴史)
クリエーター情報なし
講談社

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