邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

続・前人未到の道を行く  

2011-07-28 | ●邪馬台国訪問始末
❻不弥国へ
 「東行、不弥国に至る。100里。官を多模と言い、副を卑奴母離と言う。1000余の家がある」。
 佐賀市の東部には諸富津・浮盃新津・寺井津などの津が古くから存在した。奴国に比定した佐賀市から水路と佐賀江川を利用して東へ向かい、ここから船で筑後川を渡る。佐賀市から約7km。渡った先には城島町の環濠集落が控える。ここが不弥国で、筑後川河口を固めた砦型官衙集落の一つである。
 このあたりに散在する遺跡や古木をのちほど提示するが、それらが、佐賀平野と筑後川河口部に安定した陸地や浮島が存在したことを証明する。無数の水路が走る湿地帯にあって、同じく多くの浮島が存在しただろうことは容易に推測できる。それだけに、徒歩と川船をどう使い分けてどういうルートをたどったのかは、現代の私たちには定かではない。

 古代における川の渡り方としては、川幅が広い大河川は当然ながら渡し船を使う。中小河川の渡り方としては、流れが緩く浅いところは歩いて渡る。岩が多いところでは岩の上を歩くか、あるいは岩と岩の間に丸木を渡してつなぐ。川幅が狭ければ丸木を渡して橋をつくるなど、ケースバイケースだったと思われる。3世紀半ばの倭人の木造建築や古墳にみられる石組み技術から判断すれば、河原に木杭を立てて橋脚にしたり、自然石を積み上げて橋脚を築いたりもしていたものと思われる。
 当時としては、虫食い状態の水路が入り組んだ土地を陸行するのはほとんど不可能である。かといって、船や橋渡しによる渡河と陸行とを頻繁にくり返したのでは、荷物の積み降ろしだけでも大変な手間を要する。また、当時の通交手段としては水路通交が最上の手段だったことからも、可能な限り船を使ったものと私はみている。ただし、有明海の遠浅干潟の沿岸航行は不可能である。したがって、内陸部の河川と水路を使った船行がメインになる。『倭人伝』が陸行か水行かの行程手段を書かなかったことからも、伊都国から不弥国にいたる行程は、ほとんど川船を使った水路航行だったのではないかとみている。


●伊都国から不弥国までの水路航行想定
 現在も残る複雑な水路の現状から想定すれば、本床江川から佐賀城の南方を八田江川へ出て、そこから東へ抜けて筑後川へ抜けられたものと思われる。 (現在では何ヵ所か途切れた部分もあるが、古代においてはつながっていたものと思われる)。 また、嘉瀬川を下って途中から本床江川へ出て、八戸を経て佐賀城の北を回り込んで佐賀江川から筑後川へ抜けることも可能だったはずである。



※図は、水路航行をメインに伊都国から奴国へ、奴国から不弥国への行程を想定したもの。
  


※不弥国に比定した城島町の地形


●多くの弥生遺跡を残す筑後川河口域
・大川市。大川公園の隣に、神功皇后ゆかりの風浪宮という神社があるが、ここにある楠の古木もまた樹齢2000年といわれ、古くから島または陸地だったことを物語る。

・城島町。古くは筑紫潟と呼ばれた城島町は、有明海沿岸の干潟に出来 た無数の島の一つである。宇志岐神社の周辺で発見された弥生式土器類 ・貝塚などは、弥生期の集落があったことを物語っている。

・柳川市。有明海に面した柳川市周辺には、弥生時代前期末頃から2000年以上にわたる多様な遺跡が存在する。遺跡の分布を時代ごとに見ると、柳川市周辺の有明海沿岸部は弥生時代にはかなりの陸地化が進んでいたことが分っている。これまでに実施された発掘調査から、弥生時代前期末から中期初頭(約2200年前)には稲作が始まり、集落が形成され始めたと推定されている。
①徳益八枝遺跡(柳川市大和町徳益)
 弥生時代前期から中期初頭(約2200年前)の集落。調査では多数の弥生土器、斧や矢じりなど石器が出土したほか、軟弱な地盤に柱が沈み込まないように工夫された掘っ立て柱建物や井戸が検出された。
②磯鳥フケ遺跡(柳川市三橋町磯鳥)
 弥生時代中期後半(約2000年前)に比較的短期間に営まれた集落が調査された。約4000平方メートルの広範囲にわたり掘っ立て柱建物群や井戸などが検出されており、集落はさらに広範囲に広がっていると思われる。
③蒲船津江頭遺跡(柳川市三橋町蒲船津)
 弥生時代後期(約1800年前)の集落。徳益八枝遺跡、磯鳥フケ遺跡と同様に、多くの掘っ立て柱遺構が見つかっている。
④扇ノ内遺跡(柳川市西蒲池)
 石田と呼ばれる田圃に残る大型の石の地下から甕棺が出土しており、支石墓の可能性がある。
⑤その他。西蒲池地区の古塚遺跡・将監坊遺跡・古溝遺跡 ・下里遺跡、東蒲池地区の榎町遺跡・大内曲り遺跡、矢加部五反田の矢加部町屋敷遺跡などがある。
⑥弥生時代の貝塚。三島神社貝塚(柳川市西蒲池)や島貝塚(柳川市大和町鷹ノ尾)が知られる。(柳川の遺跡)

 はじめて目にする人には驚きだろうと思うのだが、柳川市エリアにはかなりの数の弥生集落があったのである。遺跡の多さと確かさにからみると、かつての山門郡の有力都市をなしていたものと思われる。
 この地が、無数の天然クリークに囲まれた天然の要害だったことは、戦国時代に蒲池治久が築いた柳川城(柳河城)が証明している。この城は本丸と二の丸を並べ1キロ四方の外掘と内掘りの二重堀を廻らした中に築かれた平城で、掘割りに包まれた天然の要害をなしている。俗に「柳川三年、肥後三月……」と、攻略には3年かかる難攻不落の城とうたわれた。

・筑後市北島。裏山遺跡は弥生の集落遺跡で、欠塚古墳は5~6世紀の築造とされている。諸富津から筑後川を横切って花宗川を使って筑後市北島へ向かうと、10数キロメートルのところに裏山遺跡がある。

・みやま市。山門郡瀬高町・山川町と三池郡高田町の合併によって現「みやま市」となった。この一帯も遺跡が多いことで知られている。
①大道端遺跡:瀬高町大字大草字大道端に南北360m、東西50mにわたる集落遺跡。弥生時代の竪穴式住居跡3軒、古墳時代の竪穴式住居跡6軒、2区では古墳時代の竪穴式住居跡では11軒、溝2条、3区では古墳時代の竪穴式住居跡21軒、溝1条を検出。出土遺物は甕、器台などの弥生土器と甕、鉢、壷、器台などの土師器がみられる。
②金栗遺跡:古墳時代後期から営まれた遺跡。幅3m、1・5m、深さ1・5m、一辺40mの方形溝で囲まれた環溝集落。約480坪の溝内に竪穴住居跡16、焼灰4、炉跡3、井戸跡6が発見された。
③その他。藤ノ尾遺跡、御仁田遺跡、松延遺跡がある山門遺跡群、東町遺跡、大江遺跡、鉾田遺跡、三反畑遺跡など古い遺跡がある。
④みやま市高田町上楠田。5世紀中ごろの築造とされる全長約58・5mの前方後円墳「石人山古墳」がある。ここには、阿蘇溶岩を削った石人1体と、大・中・小3基の舟形石棺が発見された。
⑤瀬高町坂田。直径45m・高さ5・7mの「権現塚古墳」がある。二段状の円墳で、築造年代ははっきりしていない。周辺からは、縄文時代後期~晩期の住居跡や、勾玉、管玉、石斧、また、甕棺48基、弥生~古墳時代の住居跡、縄文~古墳時代の土器、その他数多くの遺物が出土している。(みやま市歴史資料館・瀬高の歴史と文化)
 


※有明海側の遺跡分布

 先に戸と家について触れたが、1000余の家があった不弥国も重要任務を帯びたポイントだったとみている。3000家を有した一大国は海上往来と出入国管理の防衛と監視の要衝、1000余戸の伊都国は「臨時の外交窓口」を兼ねた砦集落。そして1000余家の不弥国は、筑後川河口を固める防衛・監視網の一つとして、軍人や役人が詰めた官衙集落だったとみる。『倭人伝』に登場する伊都国も不弥国も、狗奴国との紛争が本格化したことで臨時に使用されたルート上の拠点である。 
 さて、末盧国から水路航行を交えた行程で700里やってきた。筑後川河口部と有明海沿岸部に弥生遺跡がしっかり存在したことで、「『倭人伝』のいう方角に進めば有明海の干潟か海中に達する」という、たかをくくったような言説も姿を消すことだろう。


●不弥国から先の水路航行
 不弥国に比定した城島市からは、筑後川を下って若津港から向島の水路へ入る。そうして、下牟田から蒲池を経て沖瀬川と合流する地点へ出る。ここから沖瀬川を東へ進めば、ほとんど水路航行だけで矢部川へ出ることができる。城島市からは内陸部の水路を通ることも可能だったはずで、幾通りもある行程のうち最も合理的な水路航行を選択したものとみている。いずれにしても、沖瀬川から矢部川へ出たあたりで上陸し、あとは陸行で南下することになる。
 


 このあたりから八女へかけてを邪馬台国に比定する説も古くからある。その論拠となるのが、幾つかの古墳の存在や山門という地名だろう。これは、中国歴史書の書いた邪馬臺を「やまと」と読んだり、のちの大和の語源がここにあるのではないかという推論に依拠するようである。だが、山門と大和とは本質的に意味が異なる。
・水門(みと・みなと=水戸) 水の出入り口。内海と外海の境をなしている狭いところ。または大河川の河口。
・穴門(あなと) 関門海峡の古称。
・山門(やまと) 山のふもと、山のふもとの出入り口。山と山に挟まれた峠。
・狭門(せと=瀬戸) 陸地に挟まれた狭い海路。
・速門(はやと) 流れが速い海峡をいう。「早水の戸」とも呼ばれた。
 山門とは、狭い海峡水路をいう穴門、河川や海水の出入り口をいう水門、流れが速い海峡をいう速門と同じで、そもそもは山の出入り口や、山に挟まれた峠道のことだと私は理解している。


●陸路南下の絶対条件
 残る1300里で邪馬台国である。このまま、矢部川から南へ陸行する。ただし、九州を南下する場合に留意しなければならないことがある。それは、福岡県と熊本県の境を筑肥山地が横切っていることである。阿蘇山系から連なる1000mクラスの鞍岳を東端として、北側は800~1000mクラスの山系が囲み、そこから西へは400~700mクラスの山並みが続く。一方、遠浅干潟の海は沿岸航行ができないし、海岸線は切り断った岩場で道路はない。
 そうしたことから、九州山脈の西側を陸路で南北に往来するには、明治時代頃までは南関(なんかん)という峠を通るしか手がなかった。ここが、有明海側の唯一の陸路であり唯一の幹道であって、筑肥山地を挟んで北と南の両側に「山門」の地名が残るゆえんもここにあると私は思う。
 ということで、筑肥山地をよぎって南へ陸行するには南関を通らざるを得ない。これが、地理・地形という物理が設定する絶対条件となる。


 
 

最新の画像もっと見る