邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

●多民族複合の縮図

2011-07-28 | ●邪馬台国始末
●多民族複合の縮図
 それでは次に、倭人の構成実態や九州特有の墓制などを見てみよう。
 中国には現在50を超える少数民族と呼ばれる非漢民族がいる。 (中の苗族などはさらに細かい枝族に分かれる)。このように、風貌や形質が同じで異なる文化をもつようになった主因は、海浜部・河川流域部・平野部・山間部・丘陵部・山岳部など、生活環境によるところが大きいものと思われる。
 古代における日本列島には、北方から長江流域に移入した羌族を含めて、 長江流域の複数の民族が渡来してきたものと思われる。 彼らは基本的には同じ民族なのだが、少しずつ文化の異なる民族である。 集団ができると、内部の結束を高めるために外に敵をつくる。 同じ民族でも、みながみな友好的だったわけではなく、多かれ少なかれ排他的な側面を持つ。
 ある土地に先住の渡来集団がいて同居できないとみた後続集団は、 先住渡来集団の生息地を避けて、海浜・平地・河川流域・丘陵・山岳など、列島各地で住み分けることになる。丘陵地では棚田を造って稲作が行なわれ、山岳地帯では焼畑農業が行なわれる。 そうした、少しずつ異なる文化を持つ人びとが、自分たちの文化・習慣を守りながら混在し、共存してきたわけである。
 たとえば、ソバの起源は中国雲南省の山岳地帯にあるらしい。日本でも縄文時代前期に栽培が始まっていたともいわれる。焼畑農業も縄文時代から行なわれてきたが、熊本県や宮崎県の一部の山岳部では、現在でもソバの焼畑栽培が行なわれている。稲と同じ渡来ルートを使って、ソバの種子をもって渡来してきた丘陵・山岳民族がいたのだろう。
 民族と諸文化は、複合に複合を重ねて混雑してしまっている。かろうじて民族の原型ともいえるものをとどめているのは、頑に他民族との同化を拒絶して、その伝統と文化を守ってきた一部の人たちである。他民族との同化を拒めば、結果として少数化への道をたどる宿命にある。そうした典型としての実例を、中国辺境の奥深くに住む少数民族といわれる人たちが見せてくれている。
 私は、日本列島にもそうした多様な民族がいただろうことを、隼人・熊襲・土蜘蛛と呼ばれた辺境の社会部族に見る。


●「山越の民」と隼人・熊襲
 三国時代のこと、呉の都・建業に近い丹楊という山岳地帯には、山越と呼ばれる勇敢で剽悍で戦いが得意な不服民族がいた。丹楊は山が険しく、山越の兵は強く、容易に抑えることができなかった。そうした中で、呉の武将たちは山越討伐を軍事演習を兼ねた手柄仕事として、山越族を平定しては呉軍に編入していた。こうしたことから、古来、丹楊郡は強兵を出すことで知られていた。(曹操も丹楊から兵を補給したことがある)。呉の武将・陸遜は丹楊から数万の山越兵を得たというから、呉は、山越の民を重要な兵力供給源としていたようである。
 この、まさに「山越狩り」ともいえる兵力確保事業は、呉主の孫策から孫権へと受け継がれることになる。そうした中で、呉は山越の民を略取したり強制移住させる政策を続けた。三国時代以後は山越はほとんど見られなくなるというから、呉に追い散らされたか滅ぼされたような状態だったようである。この山越族の一部が、山を降りて海を渡った可能性は非常に高い。
 険しい山岳地帯を庭同然とし、勇猛で剽悍で戦いが得意で頑強。そして、いかなる権力にも服わない。こうしたところは、まさに隼人・熊襲と呼ばれて大和権力を悩ませた社会部族に通じるところがある。

●隼人
 隼人という社会部族の歴史は、中央への従属と抵抗という二面性でもって語ることができる。
 『記紀』によると、隼人の祖先と神武天皇の祖先は兄弟ということになっている。彼らは、大和政権成立後もつねに天皇・皇族の身辺に仕え、犬のような吠声・武力・通訳言語能力・呪力といった特殊能力でもって、長く身辺警護や司祭を務めてきた歴史的事実がある。
 (朝廷内だけではなく、渡来人集落に張り付くようにして隼人の集落が置かれていて、都の内外から警護していたとされる)。
 彼らの犬のような吠声と口笛は、緊急伝達の駅伝では狼煙とは比較にならないほど早いし、夜警では合図として威力を発揮する。私はこの「吠える人」が吠人と呼ばれ、『記紀』に隼人と書かれたのではないかと見ている。
 それほどに、一旦服従を誓ったら頑固なまでに忠実な隼人が、歴史上何度か朝廷に反抗する。大和政権は、隼人が反乱を起こすたびに九州に兵を送り込んで鎮静化や懐柔にあたる。それでまた服従することになるのだが、大和政権としてはどうしても隼人の剽悍さ・武力・呪力などの特殊能力を必要としたらしいのである。
 
 「寸鉄をおびず」が鉄則の王宮にあって、武器を所持して王の身近かに侍う者が侍のはじまりである。支配者の身辺で武器を所持できたのは、支配者にとって最も信頼のおける者である。あなたが支配者だったとして、あなたが寝ている時も武器を持たせて身辺警護をさせるのに、最も信頼がおけるのは誰だろうか。古今東西の歴史が示す通り、出てくる回答は親近血族である。 自らが征服した異民族に任かせたりしては、いずれ寝首をかかれることになる。とくに隼人はそういう気質の種族なのである。
 隼人は実在した社会部族である。その隼人にも、柔軟な部族もあれば頑なに服わない部族もあった。中でも、大和政権下にあって、その国家づくりと体制維持に重要な役割りをもって関与した隼人もいたのである
 侍う者たちは、朝廷人の日常生活の世話から身辺警護・王都警備に至るまで、絶対の信頼をもって服従した。 つまり、支配者の身辺で最初に武器を所持して警護に務めたのは、支配者に最も近い人種だったのである。
 隼人が支配層の近習として仕え身辺警護に務めた事実からやや極論すれば、倭国・日本国へと脈絡する支配層の民族的出自が、隼人と同じかそれに極めて近かった可能性も想定の範囲に入れておく必要がある。
 
●熊襲
 熊襲は、8世紀に成立した『日本書紀』が創作した架空の存在である。実在した社会部族の隼人とは違って、『記紀』に登場するだけで前後の歴史がない。かの装飾古墳を単に熊襲の墓制だとする所見もあるが、仮にそうだとすれば装飾古墳の分布からみて、熊襲は九州北部から近畿・関東に及ぶ範囲に定着していたことになる。だが、それは考えられない。
 興味の部分は、熊襲と呼ばれた社会部族にモデルがあったか否かである。これについては論拠の乏しい推論にならざるを得ないのだが、大和朝廷の統一事業が隈なく徹底していなかった時期において、服わない少数集団が、九州の沿岸部から河川流域・山岳部に至る辺境にで散在していたのだろう。そうした幾つかの集団を『日本書紀』が熊襲と書いたようである。

 熊本県の熊は、古くは久々知(くくち)に隈部(くまべ)という土地があって、11世紀初頭に土着した藤原氏の後裔が菊池氏を称して久々知が菊池となった。菊池の隈部はその後、室町時代に隈府(くまふ)から隈府(わいふ)と呼ばれ、南北朝時代には隈本(くまもと)と呼ばれて、1607年に加藤清正がこれを熊本に改めた。この歴史的経緯で分かる通り、8世紀に『紀記』が書いた熊襲と、17世紀に加藤清正がつけた熊本はまったくの無関係である。
 創作歴史書の熊襲の部分だけを鵜呑みにした上で、熊襲=服わぬ者という直線思考で、熊襲を熊本と決めつける偏向史観が目立つ。だが創作歴史書のいう熊襲を信じるのであれば、熊襲とは図で示す通り九州北部(筑前・筑後、豊前・豊後)に最も多かった部族であり、九州北部こそが熊襲の本場なのである。熊本平野と阿蘇地方は、むしろ熊襲の空白地帯(代々朝廷に恭順だった土地)である。また、『倭人伝』に登場する狗奴国を熊襲とする見解もあるようだが、熊本県で熊襲がいたのは球磨地方(人吉盆地)である。

 その熊本平野の遺跡・遺物をみてみよう。
 古くは、菊池川流域は九州で最大というよりも日本列島で最も多く、稲のプラントオパールが分布する。時代的にも、縄文前期から晩期にかけて継続的している。ここで出土したプラントオパールは、長江河口の河姆渡遺跡から大量に出土した炭化米と同じ熱帯ジャポニカである。また、松菊里型円形住居跡(遼寧式青銅器文化)の発見、朝鮮系無文土器の出土。とくに、縄文晩期の玉つくり工房跡から出土した首飾りは、地元産のヒスイでつくられていたことが判明している。(熊本大埋蔵文化財調査室)
 弥生時代になると、丹塗り土器・朱塗り土器が出土。弥生の製鉄工房跡の発見。小型銅鐸の出土、銅鏡・巴型銅器の出土、小銅鐸・細型銅戈の鋳型の出土。最古級の小型国産銅鏡の出土。木製短甲の出土(福岡県の今宿五郎江遺跡よりも早く出土している)。西日本最大級の貝塚の存在、大小の環濠集落の存在、吉野ケ里クラスの環濠集落の存在(方保田東原遺跡)。また最近になって、熊本県が製鉄と鉄鍛冶の中心だったことが村上恭通・愛媛大学教授によって証明されている。
 古墳時代には、西都原古墳群を遥かに凌駕する500基もの古墳が集合した塚原古墳群の存在、平原1号墳の2倍もの方型周溝墓の発見などなど。他の地域で出れば騒ぎになるような遺跡・遺物が目白押しである。
 また、人口の面でも、熊本平野は弥生時代においては人口密集地帯であり、当時の中心的なエリアの一つだったのである。このように、あらゆる文化の面において他の倭人地域と何も変わるところがない。むしろ、縄文時代から弥生時代にかけては先進的でさえある。なわち熊本平野は、まさに倭人が棲息する先進地域だったのである。



※黄色丸は景行天皇が退治した熊襲。オレンジ丸は神功皇后が退治した熊鷹と土蜘蛛。多くは、『日本書紀』国生みの「肥前・肥後・日向」を除く筑紫国・豊国・熊曽国・隼人国に、熊襲と呼ばれた種族がいたことが分かる。そもそも熊襲とは、沿岸部や河口部から河川の上流部や山岳部にまで広く散在した様ざまな社会部族のことで、特定の勢力や集団のことではないと思われる。

●土蜘蛛
 熊襲の項でも触れたが、大和朝廷の初期段階においてその権力が隈なくいきわたっていなかった時代に(換言すれば日本列島が倭人という民族グループでまとまる以前に)、朝廷の統治を受けていなかったり朝廷に服属しなかった辺境の少数部族集団が日本各地にいた。これらの多くが土蜘蛛と呼ばれたようである。
 体系的には(先縄文人に近いようで)、身長が低く手足が長く、その脛の長さは八束もあったといわれる。土蜘蛛の別称に夜都賀波岐・八掬脛があるが、これは八握(握りこぶし8つ分)の脛の長さを意味する。それほどに、脛や足が長いということだったようである。彼らは主に、河川の上流部、山岳部、島嶼部の洞穴で生活していたといわれる。
●土蜘蛛の分布(カッコ内は部族数)
●新潟県(1)●福島県(8)●京都府(2)●奈良県(6)●大阪府(1)●茨城県(8)
●福岡県(2)●大分県(5)●佐賀県(6)●長崎県(4)●熊本県(2)●宮崎県(2)
 土蜘蛛の中には稲や埴輪に関する知識を持っている者もおり、言語的にも朝廷側と極端な相違があった様子もなく、民族的にも朝廷側の人間との大きな相違はなかったようである。土蜘蛛と同じ辺境の社会部族でありながら、八女津媛のように朝廷側に恭順した者は土蜘蛛と呼ばれない例もある。
 (『古代土蜘蛛一覧』を参考に整理)
 基本的には朝廷側と同じ民族(縄文期に長江河口から渡来した先住民)でありながら、個々に少しずつ異なる生活習慣をもっており、かつ隼人・蝦夷といった特定呼称で呼ぶほどのまとまった勢力ではなかったのだろう。こうしたところをみても、かなりの種類の非漢民俗(現代の中国の少数民族と同族と思われる民族)が長江河口から渡来し、それぞれの棲息エリアに住み分けていたものと思われる。だが、やがてはこうした社会部族も融合し複合し、倭人という大きな民族の枠組みを構成することになるのである。
 
※徐福と土井ヶ浜人
 少し横道になるが、触れておかなければならないことがある。 
 私は徐福の東渡伝承は史実を告げていると思っている一人である。『史記』にみるかぎり初めての出港から10年間にわたって人員や物資をシャトル輸送している。ということは、移住先もそれほど遠くはなく、比較的確実に往来できた所にあったと思われる。中国側で徐福伝承が残るのは秦皇島をはじめ渤海沿岸に多いが、これは彼が人員や物資の調達や積み込みで立ち寄ったところとみなされる。
 私が移住集団のリーダーだとした場合、集団を小分けして四方に分散移住させる。というのも、自然災害や地域紛争など何かことがあって一部の地域集団が壊滅しても、移住集団が全滅することはない。また、1箇所に大量に移住できるような土地には先住民集団がいたことだろうし、その土地の生産能力に応じた人数しか移住できない。この二つの理由からである。集団が分散移住していれば、(囲碁の布石に似て)その棲息領域が集団の領域となる。かくして、集団相互のコミュニケーション・ネットを活かしながら、集団の存続と繁栄を確保する。徐福伝承が全国各地にあるのは、そうした集団小分け移住策をとったからだろうと私は見ている。
 横道というのは、山口県の土井ヶ浜遺跡の人骨の件である。これが中国・山東地方の人骨と共通するといわれて久しいが、私は、これらが徐福が帯同した移住民かその子孫の可能性を考える一人である。
 逆に、肥前・肥後・日向に徐福伝承がほとんどないのは、このエリアには山東の徐福集団とは少し異なる先住民勢力がいたからだと私はみている。集団小分け移住策をとった徐福一行だが、遥か縄文時代から継続的に渡来して倭人文化圏を構築していた先住民勢力には数的に勝ることはなく、倭人(弥生人)の主力とはなり得なかった。
 確かに、現代まで連綿と続く日本人の形質は、タテに短くヨコに広い。圧倒的大多数は足が太く歪曲して短く・骨盤が広く(タテに長くヨコに細い漢族とは違って)、中国南方の少数民族のそれに酷似する。日本人の中にも漢族の体形をした人をみかけるが、それは絶対数において少数派でしかない。


●九州に「~の君」と県が多いわけ
 古墳時代になると、九州には「~の君」を名乗る豪族が多く登場する。宗像の君、筑紫の君、水沼の君、肥の君、芦北の君、大分の君などなど。君とは、天皇家の血筋の皇族が天皇家から離れて名乗った皇別豪族の呼称である。絶対的に恭順で信頼のおける親近血族に要衝とその領民を抑えさせるのが政権安泰政策の常道で、支配者が親近血族に領地を与えて各地に配するのも古来からの通例だった。こうした多くの君たちが、朝廷から大小さまざまな領地をもらって九州を分担支配していたのである。
 しかも九州は、大陸・朝鮮半島との玄関口であり、その先進度と重要さにおいてほかに勝るところはない。玄関口であるだけに、放置しておいても豊かで先進的になる。だからこそ力をつけ過ぎないよう、(大和朝廷直轄地の県を除く)領地を細かく分断したうえで親近血族に管理させた。それが、九州に「~の君」を名乗る豪族が多い所以でもある。(それでも筑紫の君と称した磐井のように力をつけすぎる者が出る)。
 ※九州には「~の君」と並んで県が非常に多い。県は大和朝廷直轄地の名称で、県の長を県主といった。東日本では県は少なく、地方豪族がそのまま国造となる。このように、大和政権下の九州のほとんどは、君と県主が支配・管理していたのである。
 それでは、なぜ九州には大和朝廷とつながりの深い「~の君」と県が多いのかと考えたとき、「九州が倭国支配者たちの故地だったからではないのか」という仮説が当然のごとく浮上する。これについて順を追って考えてみたい。

●磐井の墓は装飾古墳か
 筑紫の君・磐井の墓とされる岩戸山古墳は石人を配していることで知られる。同じく石人を配した石人山古墳は装飾古墳である。
 福岡県在住の知人が岩戸山古墳資料館に確認してくれたところによると、「八女古墳群の特性から岩戸山古墳の石室は装飾されている可能性が大きい」とのことであった。未調査の状況下で確かなことはいえないが、もしも磐井の墓が装飾古墳だとすれば、装飾古墳は天皇家に連なる皇別豪族たちが展開した墓ということになる。
 筑紫の君・磐井については、その響きから九州全土の支配者でもあるかのように思いがちだが、実は、数多の君と並んで筑紫という領域を支配していた一豪族にすぎない。その証拠が、磐井の乱の前後の状況に明確にみえている。磐井は、継体天皇の命を受けて半島に出兵する近江毛野臣にこういう。
 「昔、我とお前とは伴(とも)として、肩や肘をすりあわせて、共に器を同じくして食うた」。
 ここで磐井は「伴として」という言葉を使っているが、これは、彼が継体以前の天皇につき従っていた(仕えていた)ことを示唆している。
 さらには、物部麁鹿火が磐井を討ったあと、磐井の子の葛子は父に連座して誅されるのを恐れて、糟屋の屯倉を献上することで死罪を免れることを求めた。「父に・連座して・誅されるのを恐れて」とは、「咎(罪や過ち)」の存在を示唆する表現であり、この一件が謀反めいた内紛の様相を呈していることが分かる。
 古代史論空間の一部でいわれるように、磐井が九州全土の支配者でこの戦いが王朝間の戦争であれば、破れた王朝は滅亡で九州全土の処理問題に発展しているはず。だが磐井の場合は、領土の一部割譲で済んでいる。これは、もともと天皇家とこれに連なる者の内輪の確執だった証拠である。いわゆる「同族の争い」である。

●やや余談になるが、私は磐井の謀反の動機についてはこう考えている。
 皇位継資格をもつ皇親の範囲は4世血族までとされていたが、継体天皇は応神天皇の5世孫である。磐井は、継体天皇が正統な継承資格をもたない傍流だったことから、これに対して反発したのかも知れない。 いかにも九州の頑固豪族らしい所行である。確かに継体天皇は、「傍流にありながら皇位を継承した」ことへの恐れと謙虚さに満ちた発言をしている。
・継体天皇の治世7年12月8日、詔していわく。
 「朕は皇位を承けて宗廟を保つことを獲て、恐れ戒め慎んでいる」。
・継体天皇の治世24年春2月1日、詔していわく。
 「磐余彦(神武)の帝、水間城(崇神)の王より、みな博識の臣に頼り明哲に佐けられた。故に道臣が謨を陳べ、而して神日本(神武)は盛る。大彦命が計略を申べ、而して瓊殖(崇神)は隆えた。継体の君に及び、中興の功を立てんと欲するは、賢哲の謨謀(計画ごと)に頼らずにできようか。小泊瀬天皇(武烈)の天下は、ここにおいて隆え、幸いにして前聖を承け、太平の日久しく隆えた」。
 ※文中の「継体の君に及び」という文言から判断すると、継体天皇も磐井と同じように、要衝地を与えられた皇別豪族の一人だったようである。 また、一部で喧伝されるように、継体が系統の異なる出自だったり、継体の即位が半島渡りの異民族による皇位乗っ取りであれば、「宗廟を保つ」「中興の功を立てんと欲する」という発言はしない。むしろ『日本書紀』は、乗っ取りを誇らしげに書いていたことだろう。
※5世血族で天皇となった継体天皇の後継者たちとしても、継体天皇を傍流のままにはしておけなかったとみえて、705年に皇位継承権の範囲を5世血族まで拡大している。

●さて、「九州が倭国支配者たちの故地だった」「4~5世紀頃の倭国政権中枢の九州から近畿への計画的な遷都」を私なりの方法で論証したところで、「装飾古墳を造ったのはのはどんな人たちで、いったいどこから来てどこへ行ったのか」という問題に戻る。

 倭国の政権中枢が大和州へ移動したあと、支配者一族から分かれた地方豪族が、重要な九州の地を分割管理していたことを物語るのではないかと私はみている。すなわち、「~の君」を称する皇別豪族たちが展開したのが、装飾古墳ではなかったろうか、というのが私の所感である。
 かくいう根拠は明確である。装飾古墳に描かれた幾何学文様は、中国において荊蛮・百越などと呼ばれた三苗族に由来するものである。すでに述べたように、その荊蛮たちの民族的習俗が「文身・黒歯」である。これは倭人の習俗でもある。中でも黒歯は明治初期まで皇族・貴族もしていたという、極めて民族色の濃い習俗である。つまり、幾何学文様に潜む信仰的精神性と文身・黒歯はセットで、倭人の特徴的な習俗なのである。このことから、装飾古墳の被葬者たちも同じ習俗をしていたものと思われる。

 その装飾古墳は、紛うことなく九州土着豪族の墳墓である。とはいうものの、大和朝廷が列島統一を果たしたあとの九州に、朝廷直轄の「県」と「~の君」を名乗る皇別豪族たちがひしめき合う中で、これらとは別の土着勢力がそちこちにいたという史実はない。いたのは南端の隼人と、熊襲と土蜘蛛という少数社会部族である。それでは装飾古墳を造ったのは誰かと考えたとき、導き出される回答は、「~の君」を名乗る九州土着の皇別豪族たちしかないのである。



●装飾古墳と「~君」と「県」分布
※「~の君」の領域と「~の県」の領域の詳しい区分は分かっていないので、装飾古墳の分布図に、おおまかにその位置を重ねてみた。個々の版図も境界も不明なので一概にはいえない面もあるが、装飾古墳の多くは「~の君」のいた領域に造られている。
※上妻の県は、時代的な前後関係で八女の県・山門の県などと呼ばれたようである。
※水沼の君と芦北の君の領域には装飾古墳が少ない。ただ、未調査の古墳が少なくない現時点で、安易に「ある・ない」と断定する愚行は避けたい。
※私は、九州にある大古墳群の塚原古墳群と西都原古墳群は大和朝廷が営んだ国営墓域とみている。県主は大和朝廷直轄地を管理する役人だから県の中にその墓を造ることはなく、彼らの多くは塚原古墳群、西都原古墳群などの国営墓域に埋葬されたものと思われる。
※鹿児島県に装飾古墳が少ないのは、古墳時代のこの時期、九州南端は朝廷に服わぬ隼人の領域で、朝廷の支配がおよんでいなかったからだろうし、関東各地にまで散在する装飾古墳も、九州の皇別豪族の中から、要衝地を与えられて地方に赴任した者の墓とみている。


 いまわが国では、工事の段階で偶然に姿をあらわした遺跡や、発掘調査が可能な範囲の中小の古墳から得られた情報で、倭国という国家とその支配層の歴史動向が語られている。「ささいな手がかりで大きな出来ごとを語る」という、手法が普通に行なわれているのである。 


●社会部族の多様さを物語る墓制の多様さ 
 九州に装飾古墳が出現するのは古墳時代に入って1世紀以上を経た4世紀末から5世紀初頭にかけてである。一方で、九州南部では装飾古墳とは異なる地下式横穴墓と、地下式・板石積石棺墓が展開する。これもまた九州独特の墓制である。

◆地下式板石積・石棺室
 4世紀代から5世紀にわたって築造された様式。西は天草から、水俣・人吉盆地、川内川流域、えびの高原・小林市まで分布している。鹿児島県さつま町の群別府原古墳群は古墳時代の5世紀末ごろの築造で、6基の地下式板石積石室が検出されている。副葬品は,鉄剣・鉄鏃などの武器が出土している。6世紀ごろ築造の天草の「妻の鼻」地下式板石積・石棺墓では、鏡や玉類のほかに、大量の鉄製武器が出土している。(Wikipedia)
◆地下式横穴墓
 5世紀前半から7世紀初頭にわたって造営された様式。竪坑を垂直に掘り、そこから横に玄室を掘り込んだ横穴墓。地上に目立つものがないから発見されにくく、盗掘を免れている例が多い。人骨の保存状態も比較的よい。推定では数千基はあるといわれている。西都原古墳群を北限に、一ツ瀬川、大淀川、宮崎県中央内陸部から霧島山麓の諸県盆地、西はえびの市、川内川の各流域地帯、鹿児島県大口市から熊本県人吉市まで分布を広げている。出土品は、甲冑などの武具、轡・杏葉などの馬具、剣や大刀、鏃など鉄製の武器類、銅鏡、玉類、馬具や須恵器、土師器なども出土している。(Wikipedia)



※地下式横穴墓と地下式板石積・石棺墓の分布。
(「熊襲・隼人の時代を語る」 鹿児島県歴史資料センター黎明館 橋本達也氏を参照して作成)。
●赤丸が地下式横穴墓。オレンジ▲印が地下式板石積・石棺墓。青★印が地下式横穴墓と地下式板石積・石棺墓の折衷墓。
九州山地を境に東西で様式が異なるが、両者は互いに交流と共存ができていたらしく、東西の境目にあたるえびの高原・小林市では混在している。明らかに装飾古墳とみなされる地下式横穴墓もあり、板石積と地下式横穴の折衷墓もある。

 地下式板石積・石棺墓が天草・球磨地方から川内川流域にかけて分布していること、阿久根市の脇本古墳群では、横穴式石室と地下式板石積・石棺墓が共存していること、地下式横穴墓が宮崎県中部以南から鹿児島県南東部の肝属郡にかけて分布することが分かる。肝属郡は前方後円墳の南限でもある。また人口密度の面でも、宮崎・都城・肝属郡が飛び地的に多い。まさに、九州南部の西側が地下式板石積・石棺墓で、東側が地下式横穴墓と分かれている。
 
 分布図から、西側の地下式・板石積石棺墓が熊襲の墓制で、宮崎・都城・肝属郡に展開する地下式横穴墓を隼人のものとする説もある。実態はどうなのろうか。試みに、大淀川河口部に展開する有名な生目古墳群の例をみてみよう。
 大淀川右岸に展開する有名な生目古墳群は、3世紀後半ごろから築造が始まり、古墳時代前期のものとしては九州最大の古墳群とされる。全長143メートルの前方後円墳をはじめとした100基近い古墳に混じって、36基の地下式横穴墓が確認されている。このように、南九州では高塚式古墳(いわゆる円墳や前方後円墳)と時代を並行して、地下式横穴墓、地下式板石積・石棺墓が展開する。高塚式古墳と、南九州独特の地下式横穴と地下式板石積墓の混在は、大和政権下の南九州において地域色の濃い古墳文化が営まれたことを示している。
 地下式横穴墓の副葬品をみても、鏡、剣、直刀、鉄鏃、骨鏃、刀子、勾玉、管玉、土師器、須恵器と、他の倭人有力者や軍事豪族の墓から出るものと大きな違いはない。この葬送儀礼が倭人の信仰精神に基づくものであることが明白である。すなわち、前方後円墳も地下式の横穴墓も板石積石棺墓も、同じ信仰的精神性をもった倭人の墓制であり、それほどに多様な民族がいて、まだまだ個々の「民族的個性」を色濃く残していた時代だったということだろう。




●九州勢力の進出拠点の痕跡
 奈良県の唐古・鍵遺跡について先に触れたが、こから出土した土器の絵を再現した女性と男性の司祭の姿を見ると、衣裳の紋様は紛うことなく装飾古墳と共通するし、隼人色の濃い祭祀スタイルである。
 (土器の破片に残された絵から復元された楼閣は、デザイン形状的には明らかに中国的であり、軒先に蚊取り線香をつけたような風情は日本の風土に合わない。茅葺きか藁葺き屋根だった弥生時代に、板葺きか樹皮葺きの屋根をしているが、それだけでその土地の建物を描いたのではないことが分かる。採るべき選択肢は、その土器がどこからもたらされたのか、どこでつくられたのかといった、土器の材質や作風などの形質調査である。そうした考古学的努力がなされたか否かは不明だが、この建物のおかけで、唐古・鍵遺跡は異国情緒漂う遺跡公園となっている)。
 とにかく、関東地方に3世紀末ごろには前方後円墳が登場する事実に鑑みると、時間的には少なくとも3世紀半ばには東方進出事業が進行していたことになる。たしかに『倭人伝』は、「使訳の説明を介して把握できているのは30カ国だが、女王国の東にも国があり、しかもそれらもみな倭種の国である」と述べている。 この当時の列島情勢はかなりダイナミックに動いていたらしい。

 朝鮮半島との通交ルートと関門海峡を抑えた勢力が、「仮にも」人・もの・文化の通交を制限すれば、瀬戸内海側は裏日本と化す。この状態では、瀬戸内・近畿地域に九州勢力と拮抗する勢力が育つ可能性は皆無といってよいほどない。そこで私はこう考える。 北部九州勢力が半島ルートと関門海峡の制海権を握っていて、ここの通交をコントロールしながら、四国・本州に拠点づくりを進めていた。先述したが、唐古・鍵遺跡の存在とその消長をみると、(隼人の一部を従えた)九州勢力による奈良盆地開発が行なわれていたらしく、九州勢力が築いた拠点の一つだったのではないかと思うのである。


●九州から離れた出先工房
❶淡路島の鉄鍛冶工房 (垣内遺跡)
 幾つも山を超えた標高200Mの山の上にある。鏃は近畿地方の鉄を切って整えただけの単純な鏃ではない。この鉄工場は弥生後期後半から突如立ち上がり、弥生の終了とともに終わり古墳時代には引き継がれなかった。 鉄材と鉄製品と鉄の加工技術は、倭国の国家的統制対象である。貴重なもの貴重な技術だけに、襲撃や略奪を回避するために、九州から離れた出先工房は特殊な所に設けた節がある。
①炉床編年で期(床上で直接火入れを実施、炉として溶解に必要な高温を維持できない)800度程度が限界だったと考えられる。 また、出土する鉄製品は大型の鉄器はみあたらず、小物の鉄器製作であり、 薄い鉄素材か棒状の小さい鉄素材を鏨切り加工で鉄製品を作った鍛冶工房と考えられる。断裁鉄片も多数みつかっており、北部九州のような本格的な高温鍛接技術は入っていない。
②北九州で始まった鉄の鍛冶加工の弥生時代中期以降の歴史をたどると 鉄器の普及は東から西へ前進するその過程で時代が後になるほど、鍛冶炉が簡易型に退化する傾向がみられ、この五斗長垣内遺跡の鍛冶炉も退化簡易型の鍛冶炉の流れの中にあり、羽口も出土していない。
③鍛冶工房内で見つかった大型鉄製品は当初鉄素材か?と期待されたが、板状鉄斧と判明。 鍛冶炉の構造などからするとこの厚くて硬い板状鉄斧を鉄素材として使いこなせる技術はなかったと考えられる。
③これらを合わせ考えてゆくと 現段階では この鍛冶工房が大和や卑弥呼など大集団とつながる広域流通の鍛冶工房とは考えられず、 周辺近隣集団へ小物鉄器中心の鉄器を提供する鍛冶工房であると考えられる。 (卑弥呼の時代にはこの鍛冶工房は消失。周辺の集落もほとんど消失して 卑弥呼の時代まで集落の継続もない)。この五斗長垣内遺跡の役割は 現段階では周辺近隣集落群の連携対象の鍛冶工房であったと淡路の狭い地域対象の鍛冶工房と考えたい。
 (「五斗長垣内鍛冶遺跡の役割と時代的位置づけ」村上恭通)


❷丹後半島の玉造り工房 (奈具岡遺跡)
 丹後半島を北に流れて日本海に注ぐ竹野川の幅狭い浸食谷の、細かな尾根が複雑に入り組んだ段丘上にある。作業場として使われたテラス式建物跡が多いところをみると、組織的かつ計画的に置かれた生産工房のようである。ここにみられる鍛冶場跡は、玉加工用の鉄具をつくるための鍛冶場だったらしい。また、玉造り用の鉄の錐などをつくるための二次利用鉄材(鉄斧など他の製品をつくった切れ端不良品を集めた材料)がみつかった。 ここで生産された「品物」が国内では出ていないことから、鉄材入手の交易商品としての玉造り工房跡だろうといわれている。ここでつくられた製品は半島や大陸へ運ばれたか。
 
 この二つの遺跡の立地をみると、海路を使った西側との通交を意識して設けられたことがよく分かる。日本の考古学社会の欠点一つでもあるが、半島や大陸の「もの」が出れば、すぐに「直接交易」を連想する。直接交易にしても対馬・壱岐を経由しなければ不可能だし、行った先の倭人拠点には九州から有力者が配置されて管理している。 (半島の倭人拠点は壱岐・対馬に負けず劣らず重要だった)。鉄材は厳重な統制品であり、鍛冶技術も鍛冶職人も統制対象である。これらは、九州を経由しなければ列島各地へ広がることもできないという現実を見逃さないようにしたい。


 土偶といっても、意匠・サイズ・形状・製造技術など全国まちまちである。前方後円墳といっても、その形状や規模、石室の石材や構造や積み方、棺の形状や材質など千差万別である。装飾古墳といえど、形状はむろん装飾の手法・画法・描画テーマにも違いがある。墓づくりそのものも、地下式といえど横穴式墓や板石積み墓があったりと、少しずつ異なるものが同居している。それでいて、鏡と剣を重要な呪具とする葬送儀礼は全国共通である。
 こうした枝葉の違いは、それぞれの創意工夫が流儀となり地域性となった面もあるだろうし、基本的には同じ民族なのだが少しずつ文化の異なる多様な民族が渡来して、倭人という枠組みを構成していた証拠ともいえる。彼らは日本列島において、大陸における民族構成の縮図を描いていたといっても過言ではないようである。

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