邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

1・『倭人伝』通読行

2011-07-28 | ●『倭人伝』通読
 『倭人伝』の文章構成は以下のように分類することができる。これを読むに臨んで重要なのは、その文章が何を述べる文節に書かれているのかと、そこでは何を述べているのかを明確に分別し把握することである。そうすることで、局所的解釈や断章取義に陥る危険性も回避できる。

『倭人伝』の文章構成
1. 倭地の沿革
2. 邪馬台国に至る道程と主要各国の概略
3. 文身(刺青)の習俗
4. 倭地風土記(風俗、産物・生物、軍備、気候風土、葬喪儀礼、世俗信仰、世俗生態など)
5. 法制・罰則
6. 税制
7. 市場流通管理
8. 検閲・査察
9. 倭人の礼儀作法
10. 女王誕生の経緯と鬼道
11. 魏使来訪時の卑弥呼の周辺状況
12. 女王国の周辺状況
13. 倭地訪問調査記録の結び
14. 倭国の朝献と皇帝の詔書内容
15. 魏との交流経緯と国内紛争
16. 卑弥呼の死とその後

 おおむねこのように構成されているのだが、構成に従って通読しながら、従来、誤解や曲解のまま流布してきた部分を質し、採るべき解釈を提示しながら進める。原文と読み下し文は提示したので、私の口語翻訳を添えて、それぞれの項目に登場する語句・呼称・事象など関連事項の説明を加えながら、邪馬台国への道のりをたどる前に『倭人伝』全体の内容を俯瞰する。


●倭地の沿革
 「倭人は、帯方郡の東南の大海の中にある山島に住んで、諸侯の領地単位に似た国々を形成している。もとは百余国に別れていた。後漢朝の時代に朝献する者があった。いま、伝訳的信使(使者)を介して把握しているのは30カ国である」。

 冒頭にあたるこの文章は、倭人の住む島の大まかな位置関係を述べたもので、邪馬台国の方角を指しているわけではない。編纂担当者としても、九州島の東にも倭人の住む島(四国島・本州島)があることを把握しているわけだから、倭人の住む大海中の島の方角を述べたにすぎない。なお、「漢の時朝見する者あり」とは、後漢朝への倭奴国の57年と帥升の107年の朝献を指している。
 ※帯方郡(現在のソウルあたり)
 ※山島(海中の山からなる島)
 ※国邑(当時の中国では諸侯たちの領地や国をいう)
 ※使譯(伝訳的信使=使者)


●「倭人」伝としたわけ
 『倭人伝』冒頭の「倭人」という書き方についてだが、『倭人伝』を収録した『三国志』魏書・東夷伝をみると、高句麗人伝、夫余人伝、韓人伝とはなっておらず、民族や種族の呼称に「人」をつけたのは『倭人伝』だけである。こうした理由は、先に触れた韓伝の記録にあると思われる。

 中国側が列島の倭の存在を正式に知るのは後漢代だった。そうして、伝説や情報として聞くだけだった列島の倭を公式に中国人が訪れるのは魏代になる。魏からやってきた調査団が、中国史上はじめて列島の倭を目撃したのである。
 その調査記録を受けて東夷伝を編纂する側としては、自らが韓伝で触れた「朝鮮半島の倭」と「列島の倭」とを表現上区別しなければならない。かといって夫余や韓と同じように民族や土地の名をとって「倭伝」とすれば、それに先だつ韓伝に何度か登場する「半島の倭」の伝と混同されかねない。
 せっかく発見した大海の彼方の伝説の倭人の記録である。誤解されては、地理学的・民俗学的発見の偉業を伝えることができない。そんな当事者なりの思惑があって半島の倭と区別するために、東夷伝の中でも列島の倭に限って「人」をつけて「倭人伝」としたのだろうと私は判断する。


●使訳して通じる所30国
 「通じる」にも「意思が通じる・情報が通じる・動静を通じる・道が通じる」など色んな意味がある。必ずしも通交だけをいうわけではない。以下に提示するのは「情報や音信を通じた」という事例である。
『三国志』魏書・東夷伝
 「魏の世、匈奴遂に衰え、更に烏丸、鮮卑に爰わり、及び東夷ありて使譯時に通じる」。
『後漢書』倭伝
 冒頭では「使驛して漢に通じる者30国ばかり」としているが、倭伝の結びでは「使驛の伝える所こに極まる」としている。これも、「使驛が伝える情報によって把握しているところでは」理解しても差し支えない。(ここでいう使驛は使譯の間違い)。
『後漢書』西羌伝
 「また使驛を数遣わし動静を通じ、塞外の羌夷に耳目の吏をなさしむ、州郡因りて此の警備を得べき」。
『旧唐書』倭国伝
 「648年、また新羅に附して表を奉じ、以て起居を通じる」。
 631年に使節として倭国に派遣された高表仁が、礼の問題でこじれて朝命を伝えないまま帰国したあとしばらく通交が途絶えた。それから17年を経た648年になって、「倭国が上表書を新羅に委ねて音信を通じた」というのである。
 
 『倭人伝』のいう「今使訳して通じるところ30国」を、「倭国の30カ国それぞれに魏と交流があった」という解釈する人が多い。これに譲って考えてみよう。
 その場合、『倭人伝』自体が「その余の旁国は遠絶にして詳かにするを得べからず」と21カ国名の羅列で済ませることはない。魏政府としても、朝貢の担当窓口による使者からの聞き取り調査などで相応の国情は把握する。そうしなければ対応の吟味・検討もできないし、化外慕礼として帝紀に記録することもできない。使訳がお互いに往来していれば、帝紀に年月入りで記録されているはずなのだが、倭王卑弥呼以外に魏に朝献・朝貢したという記録は一切書かれていない。『倭人伝』が「その余の旁国は遠絶にして詳かにするを得べからず」としたことがまさに、「30カ国それぞれに魏と交流があった」という解釈を否定する。

 また、中国天子を相手とした外交「資格」の観点からも、朝貢外交ができたのは倭国王一人である。「国邑の長がそれぞれに魏と交流した」という読みは、歴史の現実からもほど遠いものがある。『倭人伝』も、把握していない倭種の国があったことに触れていたが、ここはやはり「伝訳的信使の説明を通じて把握できている数は30カ国」と解釈すべきである。


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