知識は永遠の輝き

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科学的方法とは何か? 序-4 すべては伝聞なのに

2019-08-29 06:13:05 | 科学論
 序-3の続きです。参考文献は序-1にあります。

 前回の最後に触れた人の残した記録の信頼性に関してのポイントとは、どの伝聞情報をどこまで信頼するのか、その信頼の根拠は何なのか、という点です。


 ある言明が科学的に正しいか否かは観察事実と整合するかどうか(矛盾しないかどうか)で判断すべきである、というのが経験主義以来の科学的方法の鉄則です。しかし一個人では本当に自分で観察できるのは現代科学の中のごくごくわずかな事実しか不可能です。私自身もほぼすべての素粒子実験を始めとして多くの実験結果や観察結果は書物から知ったものばかりです。すなわち大部分が"伝聞情報"です。これでは科学的方法に従っているとは全然言えないのではないでしょうか? これら多くの"伝聞情報"が科学的に正しいものだと私はなぜ確信できるのでしょうか?

 まずは教育で身に着けさせてもらった基礎的な科学的知見というものがあります[*1]。それらのあるものは実際に観察で確認したものや今も確認し続けているものもあります。また演繹の部分であれば紙上の考察だけで正しいと確認できるものがあります。そして自分の力の及ばないことでも、世界中の科学者たちが追試や検証を行っていることを知っています。

 もちろん私が知ることのできる世界中の科学者たちの活動はほとんどが"伝聞情報"ですので、私の科学知識に対する信頼は基本的には彼らの総体に対する信頼で成り立っている一面があります。この世界中の科学者たちの活動がひとつのまとまったものとして緩やかに組織され、人類共通の科学的知見というものが実体として成立したのはやはり近代ヨーロッパ以降のことと言えるでしょう。そしてそれ以来、実体としての人類共通の知見内容の面でも入れ物の面でも年ごとに発展を続けています。もしも今、核戦争か何かで人類の文明が崩壊したら、これらの人類共通の知見も多大な打撃を受けて、それ以降の人々は現在の我々ほどには科学的知見を持つことができないでしょう。文明が崩壊したとは言えなくても、例えば全地球規模で学問の自由が失われるような事態になったとしたら、やはり人類共通の知見も少なからぬ打撃を受けるはずです。

 さて例えば宗教的知見のいくつかも世界的規模の組織で集積されています。その中には世界の成り立ちや世界の始まりに関する知見もありますが、私はなぜこれらの知見は信頼しないのに世界中の科学者たちの活動による知見は信頼するのでしょうか? "伝聞情報"であることも同じ、多数の"世間的には信用できるであろう多数の人々"の活動により支えられていることも同じ、だのに何故? こう正面から問われるとうまく言葉にできずに自暴自棄になって「区別できない」と叫んでしまう真面目過ぎる人もいるかも知れませんが、区別できないなんてことはありません。うまく言葉にしにくいだけです。

 科学的知見の集積というものが信頼できる一つの大きな理由は、それらの多数の知見の間に矛盾がないということでしょう。なにしろ新しく報告された実験報告や観察報告、新規な理論などは既知の正しいとされる知見と矛盾する場合は決して正しいとはみなされないのですから。そのようにフィルターにかけられたものだけが集積されているというわけです。

 それに対して宗教的知見などの場合、異なる宗教の間は言うに及ばず、同じ宗教の中でさえも矛盾の有無が厳しく問われることはあまりないでしょう[*2]。どちらかというと、そのひとつの言明だけでなんとなく真実を突いているならば有効とみなされると言えるのではないでしょうか。

 というわけで、観察される現実世界(物質世界と言うともっと適切に聞こえるかも)の実相を正しく知ろうとする目的においては、現在の世界中の科学者たちの活動から得られ蓄積されている知見というもの以上に信頼にたる"伝聞情報"など存在しない、というのがまともな感覚というものでしょう。

 そして様々な言明の間に矛盾があるかどうかという判断だけならば、論理的な思考さえ厭わなければ誰にでも紙の上だけで行うことができます。それぞれの言明が事実と照らして正しいか否かは、それらの言明の間に矛盾があるかどうかということとは独立したことだからです。だからこそ数学の正しさは公理が現実を反映しているか否かに関わりなく成立するのです。こうして論理的な矛盾の有無なら、一個人でも確実に判定できるのです。

 物理化学分野は演繹的部分が大きいので論理による一個人での判断がしやすいのですが、生物分野や地学分野となるとだんだん観察報告部分が増えてきて判断が難しくなります。歴史分野に至ってはまさに"伝聞情報"の塊である史料が全ての情報の元なので真偽の判断は本当に難しくなります。それを裏付けるかのように近年でも日本の歴史教科書の大幅な変更なども起きていますから、昔の教育からの知識のままでボーッとしているとチコちゃんに叱られます[*3]

 "伝聞情報"の塊である史料は人が作ったものであり嘘や間違いの可能性が多大にあるのですが、多くの史料を比較して記載の矛盾の有無などを検討することにより、正しい部分をあぶりだすことを行います。また自然科学的手段で史料自体や様々な遺物や遺跡を調べることにより導かれる"過去の事実"もあり、これには昔の史料の書き手による嘘や間違いは入ってきません。このような手段を駆使して解明された"過去の事実"は、解明までの経緯(これはそのまま根拠ともなる)も含めて人類の共有財産として集積されていきます。このような世界中の歴史学者達の活動を信頼することで、私のような一個人の"歴史的事実"に対する正しさの判断は成り立っていると言えるでしょう。

 もちろん歴史の記載を検討する時にも、それらの記載の間の矛盾の有無などは一個人でも判断できるものも多々あります。しかしそのためには、自然科学における特に実験科学の検討などより遥かに多彩な証拠の検討を迫られますから、推理小説の犯人当てよりもさらに苦しい思考を迫られることも多いでしょう。それと各歴史分野の専門家以外の者の場合、自分が基本知識と思い込んでいる知識が実はフィクションからの記憶だったりすることも多いですから要注意です。"歴史物語"を楽しむだけならともかく、真剣に"歴史的事実"を検討しようとすることになった場合は、最新の知識を慎重に調べていく心がけが大切でしょう。


 次回に続く

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*1) 作家の佐藤優はそのいくつかの著書の中で「日本の高校教科書をしっかりマスターすれば、その教科の学問に関してはほぼ対応できる」との趣旨のことを書いているが、その通りだと思う。ここでは出典は確認しないがビジネスパースン向けの勉強術みたいな本だったと思う。ここで対応できるというのは言うまでもなく、新しい知見を学ぶ力がついているという意味も含まれており、高校教科書の知識だけ身に付ければ大丈夫という意味ではない。ただ「高校教科書だけ読んで」マスターできるかというと難しいかも知れない。
*2) とはいえ宗教の中で論理が問われないわけでもない。宗教上のディベートで連戦連勝の天才高僧の逸話は世界中で珍しくない。この手の理屈っぽい連中が宗教界ではなく俗世の学問や技術に関わる職業になだれ込んでいるのが現代文明の特徴のひとつとも言える。
*3)
3-1)現代教育調査班(編集)『こんなに変わった!小中高・教科書の新常識 (青春新書プレイブックス)』青春出版社(2018/01/20)
3-2)河合敦『もうすぐ変わる日本史の教科書: “常識”を塗りかえる新しい定説が続々―― (KAWADE夢文庫)』河出書房新社(2017/09/20)
3-3)山本博文(監修)『こんなに変わった! 日本史教科書』宝島社(2017/05/20)
3-4)高橋秀樹,三谷芳幸,村瀬信一『ここまで変わった日本史教科書』吉川弘文館(2016/08/25)
3-5)山本博文『こんなに変わった歴史教科書 (新潮文庫)』新潮社(2011/09/28)


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