テニアン島北部。エーブル滑走路跡、ハゴイ空軍基地、旧日本軍牛飛行場跡。2013年4月10日(水)。
2013年4月9日から14日までサイパン、テニアン、ロタへ旅行した。3月10日頃、グアムへの旅行を前にして、太平洋戦争の戦跡と古代チャモロ文化での関連が深いサイパンを4月に行くことを考えた。
トラベルコちゃんで格安航空券を検索すると、ない。ツアー料金を調べると「さわやかプラス」のアウトレットツアーが安かったので、申し込んだ。一人参加料金とホテル4泊分込みで成田往復61900円。日本からの直行便は成田からのデルタ便しかなくなったので、航空券が高いという。なお、今回の旅行費用総額は約14万5千円。名古屋・東京間夜行バス往復運賃は9410円。
4月前半までは天候が安定しているというネット情報により、時期を選定。サイパンへは1997年11月に会社負担の旅行以来。体験ダイビング、テニアン島往復、射撃をした記憶がある。
日程は実質的には10・11・12日の3日間。サイパンとテニアンだけを想定していたが、地球の歩き方を読むと、戦災を受けていないロタ島には古代から近代までの史跡が残っているのを知り、3島巡りという窮屈な日程になった。
サイパン・ロタ島の空路は撤退などにより、定期便が不便になり、フリーダム・エアだと1泊が必要になるので、240ドルの日帰りツアーを選択し、スターマリアナズエアーで往復した。往復運賃は190ドルと聞いたが、サイパンでの空港・ホテル間のタクシー利用を考慮すると安い。スターマリアナズエアーのテニアン便のセスナが2011年11月に墜落したため、150ドル前後のツアーは現在催行されていない。しかし、ロタ島は素晴らしい島だったので、大正解だった。
サイパンの観光は戦跡中心に考えた。当初、レンタカーで自力で回ろうとしたが、ネットで探ると、地獄谷、極楽谷、ドンニー野戦病院跡は私有地を通るという厄介な問題がある。タポチョ山は悪路で四駆が必要ともされたので、パウパウツアーズの戦跡ツアーに参加することにした。
ロタ島ツアーは12日のみ催行、戦跡ツアーは11・12日のみ催行だったので、10日はテニアン島という日程になった。しかし、北マリアナ博物館とメモリアルパーク内ビジターセンターは10日の朝に見学し、サイパン空港を11時30分発のテニアン行に搭乗して、午後をテニアン見学に宛てることとした。テニアンとロタのレンタカーはネットの代理店から依頼した。
「戦跡の歩き方」のHPを読み、案内図などをスクリーンショットでネクサスに入れ込んだ。小西誠「サイパン・テニアン戦跡完全ガイド」はアクセスガイドがないので余り役立たないが、持参した。事前に「タッポーチョ 太平洋の奇跡」「我ら降伏せず」「烈日サイパン島」「日本領サイパン島の一万日」「戦火と死の島に生きる」「観光コースでないグアム・サイパン」などを読み、映画「太平洋の奇跡」「ウィンドトーカーズ」をDVDで観た。前者は愚作。
4月8日(月)夜に名古屋から夜行バスに乗り、4月9日(火)早朝に東京駅着。思い立って、数年振りに築地へ行った。場内の外れで外人が並んでいる寿司屋を発見。岩佐寿司で、壁の写真には中曽根大勲位やアマゾンCEOなど多数。十数人の客はほとんど欧米人。ロシア系言語を話す人はグルジア大統領の写真があると喜んでいた。2100円の握り寿司を食べた。次に、早稲田大学の演劇博物館を見学。建物はチューダー期の復原。演劇家佐野碩の企画展。叔父は佐野学。メキシコでは評価が高い。黒岩百合子の談話あり。思想検事に出した上申書は面白い。次に、神楽坂へ行き、フレンチレストラン「ル・コキアージュ」でキッシュのランチ。食後、神楽坂を散策したのち、東京大学総合博物館を見学して、東京観光を終了、京成上野から成田空港へ向かった。
4月9日(火)20時15分発のデルタで成田を発ち、4月10日(水)0時20分頃サイパン空港着。前回のグアムと違い、スムーズに入管を通過。さわやかプラス差向けパウパウツアーズの送迎バスでガラパンのセンチュリーホテルへ到着。ツアー利用では最低ランクのホテル。3階まで階段で昇る。室内設備はまあ良好。バスタブにお湯が溜まらないのは事前情報通りで驚かない。WIFIはあるものの電波が弱く、廊下近くでやっと受信できる程度だが、ネクサス7を利用できるので、無いよりまし。久し振りに海外向けNHKを視聴した。
4月10日(水)7時頃起床。徒歩5分の99セントスーパーで朝昼食購入。テニアン便の相談をしようと、DFS内のツアーデスクに向かうが、11時までは電話対応のみ。電話すると、当日のフリーダムエアーは手配できないと言うので、フリーダムエアーに直接電話して11時40分に乗ると通告すると、11時までにカウンターに来いと言われた。それまでに、ガラパンの目標箇所を回らねばならない、砂糖王公園まで歩きかけるが、ホテルへ戻りタクシーを依頼。9時40分頃、タイ人女性のタクシーに乗車。砂糖王公園へ着いたとき、タクシーメーターが25ドルだったので、奇異に感じた。ガラパンから空港までが通常25ドルと書いてあるのだが。空港下車時に75ドルという表示だったので、仕方なく払ったが、ぼられたに違いない。
ガラパンの見学を終え、サイパン空港へは10時50分頃に到着。テニアン島へ向かう航空会社のカウンターへ行き、11時40分の便を予約したと告げると、怪訝な顔をされた。スターマリアナズエアーだった。横にあるフリーダムエアのカウンターへ移り、航空券を発行してもらう。往復69ドル。待合室で待っていると、11時15分頃に搭乗を促された。乗客は2人。11時20分頃に滑走を始め、テニアン島へ向かった。
テニアン島北部。エーブル滑走路跡、ハゴイ空軍基地、旧日本軍牛飛行場跡。
テニアン空港上空から西岸のサンホセ地区方向。
テニアン空港に到着したフリーダムエアのセスナ機。4人乗り。
待合室を出て道路向かい側にあるアイランダーのオフィスでレンタカーを借りる。トヨタ・ヤリス。半日45ドルと保険で74ドル。地図を貰うが、英語・中国語・ロシア語表記。ブロードウェイを北上する。
旧日本海軍通信所跡。ブロードウェイを10分近く北上すると、右側にこの建物がある。頑丈なコンクリート造で状態は良い。近年まで牛の屠殺場として使用されていた。
旧日本海軍通信所跡。内部に入るが、面影は少ない。2階への階段もあるが、薄気味が悪いので昇らなかった。
アメリカ記念碑。戦没した米兵の慰霊碑として戦後にアメリカによって建てられた。鳥居や灯篭を移して配置しているため日の出神社と誤って呼ばれている。
本来の日の出神社跡は、この手前南500mほどのところにあるが、気づかずに通過した。北部見学の最後に見ようとそのまま北の飛行場方面へ向かったことが、50ドルの臨時出費につながった。飛行場からチュル・ビーチを見学し、南西方向へアメリカ記念碑までの短絡路を進んだところ、灌木の枝が道路を覆っていたため、車の側面に擦り傷が付き、ジャングルを走ったのかと言われて修理費用を払わされた。
潮吹き海岸。ブロードウェイを北東へ進むと交差点に出た。海岸へ向かうと潮吹き穴のある海岸へ出た。10mほどの高さで常時盛んに吹き出している。日本にもあるが、これほどの潮吹き穴はなかなかない。
北部地区から見るサイパン島は至近距離に見える。タポチョ山の山腹もはっきり確認でき、戦闘時では戦車の動きも逐一視認できたものと思われる。
潮吹き海岸への交差点 に反対の西方向へRUNWAY ABLEと表示がある。道路が粗末だったので、気づかず北進したが、間違ったと気づき、さきほどの交差点へ戻って、エーブル滑走路へ西進した。
日本軍飛行場指揮所跡。エーブル滑走路への表示を西へ進み、いくつかの道標に導かれて、牛飛行場駐機場跡の広大な広場へようやく行き着く。この地区は旧日本軍牛飛行場跡の主要部に相当する。航空隊司令部庁舎跡や防空壕跡も散在するが、まず右奥の当施設から見学。残存状況は良好。
日本軍飛行場指揮所跡。米軍作成の案内板。米軍の日本軍施設・航空機への破壊状況が分かる。
日本軍飛行場指揮所跡。内部。
日本軍飛行場指揮所跡から牛飛行場駐機場跡を見る。視線の先には2棟の防空壕跡が見える。右
の北側には日本軍航空隊司令部庁舎跡がある。
日本軍航空隊司令部庁舎跡。この建物には、昭和19年2月以降、角田覚治中将指揮下の第一航空艦隊司令部が置かれた。 マリアナ沖海戦において、第一航空艦隊司令部は中部太平洋方面の基地航空隊を指揮下に置いていたが、第一航空艦隊は米海軍の空襲によって壊滅した。残存の搭乗員・整備員・司令部職員も、その後、テニアン島で米軍との戦闘によって玉砕した。
司令部庁舎らしく2階建ての重厚な建物である。内部は立ち入り禁止。
日本軍防空壕跡。牛飛行場駐機場跡の西端にある。サイパン島にある旧日本海軍共通の形状。コンクリート製の防空壕で、地上に作られている。
日本軍防空壕跡。入口には鉄の扉があり、当時は隙間にゴム製パッキンが装備され、毒ガスの攻撃にも耐えることが出来た。扉の前には爆風よけのコンクリート製防壁が造られている。
日本軍防空壕跡。内部に入り、左右の奥を眺める。
パノラマ写真。左から防空壕跡、左奥に航空隊司令部庁舎跡、全体が牛飛行場駐機場跡、右奥に飛行場指揮所跡。この地区はまとまって見学できる。
航空隊司令部庁舎跡の左側道路から北にある原爆搭載ピットへ向かう。
原爆搭載ピット。長崎へ投下された原爆の積荷場跡。保存と展示の為に現在はガラス張りのシェルターが設置されている。
一帯は広場になっていて、滑走路へ向かうB29駐機場の跡。左方向に少し離れて、広島へ投下された原爆の積荷場跡がある。
原爆搭載ピット。広島へ投下された原爆の積荷場跡。
原爆搭載ピット。内部。原爆は大型で重量もあったため、大掛かりな搭載設備を必要とした。
日本軍燃料庫跡。原爆搭載ピットへのアクセス道を戻り、周遊道路を200mほど東へ向かうと、北側に日本軍燃料庫跡・弾薬庫跡への案内看板があり、車を中へ乗り入れて駐車。説明看板があり、左右へ各施設への道が分かれている。道が良さそうな、右の日本軍燃料庫跡へ向かうと、すぐに燃料庫跡が見えてきた。
珊瑚礁の崖に挟まれた谷地形を切り開いて建設された燃料庫は谷の奥に造られている。貯蔵された燃料に火災が発生した際、被害を極限する為の配慮という。
日本軍燃料庫跡。燃料庫の入口も分厚い鉄筋コンクリートに覆われた堅牢な造りで、扉も2重になっているのが分かる。燃料庫は米軍上陸直後に火災が発生し、その火勢の為に米軍も近寄ることが出来なかったという。
内部には入ることができる。
日本軍弾薬庫跡。説明看板地点へ戻り、左の道を進む。足元は悪く、5分近く歩かされる。弾薬庫も燃料庫同様、天然の谷を通路として周辺から隔離されて造られた。戦災により、弾薬庫は大きく破壊され、現在は入口付近の瓦礫のみが遺されている。
このあと、北部飛行場西側海岸の米軍の上陸地点となったチュル・ビーチへ向かった。