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根室市 日本100名城1番・ノツカマフ1・2号チャシ跡

2024年07月25日 09時02分25秒 | 北海道

日本100名城1番・ノツカマフ1・2号チャシ跡。根室市牧の内。

2022年6月14日(火)。

北海道内でチャシ跡は500ヶ所ほど確認されており、根室市内には32ヶ所のチャシ跡が残り、うち24ヶ所は「根室半島チャシ跡群」として国指定史跡に指定されている。また、2007年には日本城郭協会が定める日本100名城のひとつ(お城番号1番)として「根室半島チャシ跡群」が選定された。 

根室市内のチャシ跡が築かれた正確な年代は不明だが、16~18世紀頃とされている。根室市内のチャシ跡は、海を臨む崖上に、半円形や方形の壕を巡らした「面崖式」のチャシ跡が多く、壕を組み合わせた大規模なものが多いことで知られている。現在、見学先として整備されているのはノツカマフ1号・2号チャシ跡とヲンネモトチャシ跡の2ヶ所だけである。

ノツカマフ1・2号チャシ跡はノツカマップ湾に突き出したノツカマップ岬の上にある。オホーツク海を一望できる崖上に、半円形の壕が巡る。

1号チャシ跡は幅5メートル深さ約3メートルの半円形の壕が70メートル×25メートルの範囲で2つ連結しており、壕の内側に盛土が観察できる。

2号チャシ跡は幅約3メートル、深さ約0.5メートルで半円形の浅い壕が巡っている。

ノツカマップは、1778年にロシアの商人シャバーリンが来航し交易を申し出るなど日露外交交渉発祥の地としても知られている。

1789年クナシリ・メナシの戦い

江戸時代の北海道は、蝦夷地と呼ばれていた。蝦夷地は松前藩により植民地のように支配されていた。当時の蝦夷地は米が獲れず、本州のように年貢をとることができなかった。しかし、松前は蝦夷地の交易による利益で、藩が成立していた。最初は、松前藩主や家臣が直接蝦夷地でアイヌの人々と交易していたが、しだいに商人にまかせるようになった。交易品には、和人側からは米・酒・鉄製品、ガラス玉などの食糧や生活物資が、アイヌ側からは・毛皮・ワシの尾羽(矢の羽に使う)などの産物があった。

■根室と飛騨屋

根室や厚岸、クナシリ島の交易を最初に行った商人は、飛騨国増田郡湯之島村(岐阜県下呂町)の飛騨屋の武川久兵衛であった。飛騨屋はもともと材木商であったが、松前藩に多額の金を貸し、松前藩はこの金を返す代わりに、根室などの交易の権利を飛騨屋に与えたのである。しかし、根室やクナシリ地方には、強力なアイヌの勢力があって、飛騨屋の交易は順調に進まなかった。

■ロシアとの関係

このころ、ロシア人は高価な黒テンやラッコの毛皮をもとめて、シベリヤからアリューシャン列島・千島列島に進出していた。1778年にはロシア人が クナシリアイヌのツキノエの案内で、根室のノッカマップに交易を求めて来航した。ロシア人は千島列島のアイヌとも交易を行っていて、ツキノエは、ロシア人商人との結びつきを松前藩や飛騨屋に誇示した。

■最初の蜂起

1789年(寛政元)5月はじめ、クナシリ島のアイヌが一斉に蜂起し、松前藩の足軽竹田勘平をはじめ、飛騨屋の現地支配人・通辞(アイヌ語と日本語の通訳)・番人らを次々に殺害した。さらにチュウルイ(標津町忠類)沖にいた飛騨屋の大通丸を襲い、標津付近のアイヌも加わり、海岸沿いにいた支配人、番人らをも殺害した。

クナシリ島で蜂起したのは、マメキリ、ホニシアイヌら5人が中心の合わせて41人で、番人らを襲撃した。彼らはクナシリ島の若きアイヌリーダーたちで、フルカマップで4人、トウフツで2人、トマリで5人、チフカルベツで8人、ヘトカで3人の合計22人を殺害した。さらにメナシ地方(標津・羅臼付近)では、49人を殺した。結局クナシリ・メナシ地方合わせて130人が蜂起し、71人の和人を殺した。このあたりにいた和人はほとんど全てが殺された。

■蜂起の原因

この蜂起の後、松前藩はすぐに鎮圧隊260人をノッカマップに派遣し、なぜ蜂起が起きたのか取り調べた。取り調べの結果、飛騨屋の支配人、番人らの非道(暴力・脅迫・性的暴力・だまし・ツグナイ要求)の実態が明らかになった。これらは、飛騨屋がアイヌを強制的に働かせるために行われていた。また、アイヌの人々は非常に安い賃金(品物)で、自分たちが冬に食べる食糧を確保する暇もないほど働かされ、餓死するものが出る状態であった。次第にアイヌたちは「このままでは生きていけない」と意識するようになり、飛騨屋の番人らが「アイヌを根絶やしにして、和人を連れて来る」という脅しが、現実味を帯びてきた。さらに、女性に対する性的暴力が続出し、それに対する抗議をしても認めるどころか、さらにひどい暴力を受けるという始末であった。

■直接の原因

このようにクナシリ・メナシ地方のアイヌたちは、過酷で強制的に働かされ続け、いつ何が起こっても不思議でない状況となっていた。

1789(寛政元)年になって、クナシリ島の惣長人(そうおとな=総首長)サンキチが病気になり、メナシ領ウェンベツの支配人勘兵衛がクナシリ島にきて持ってきた酒をサンキチが呑んだところ、そのまま死んでしまった。また、同じくクナシリの長人(おとな=首長)マメキリの妻が和人からもらった飯を食べたところ、まもなく死んでしまった。このような不審な死に方をしたサンキチやマメキリの妻は、普段から毒殺するといって脅かし続けた和人によって、本当に毒殺されたに違いないということになったのである。

■鎮圧隊の松前出発

この蜂起の事実が松前城下に伝わったのは6月1日で、すぐに260人の鎮圧隊が組織された。鉄砲85丁・大砲3挺・馬20頭も準備され、6月11日から19日にかけて、根室のノッカマップに向けて出発した。

■ノッカマップでの取リ調べ

鎮圧軍は7月8日にノッカマップに到着した。蜂起に関係したアイヌたちをノッカマップに集め取り調べが始まった。最初は捕まって殺されるかもしれないという疑いからなかなか集まらなかったが、7月16日までにメナシの183人とクナシリの131人のアイヌがノッカマップに到着した。

アイヌに対する取り調べは、アッケシの首長イコトイ、ノッカマップの首長ションコ、クナシリの首長ツキノエに行わせた。その結果、クナシリでは41人が、メナシでは89人が、合わせて130人が蜂起して殺害に加わったことが判明した。この内、直接の加害者である37人が牢に入れられ、彼らが持っていた弓などの武器も全て没収された。

■37人の処刑

7月20日に取り調べが行われ、その日に直ちに37人に対して、重罪であるという理由で死罪が決定した。

翌21日、本人たちに死罪が申し渡され、指導者であったマメキリから順番に牢から引きだし、首をはねていった。次々と首をはね、5人目が終わり、6人目の時、牢内が騒がしくなり、大勢がペウタンケと呼ばれる呪いの叫びをあげ、牢を壊そうとしたので、鎮圧軍は牢に鉄砲を撃ち込み、逃げる者は槍で突き刺し、大半を殺した後、牢を引き倒し37人全てを処刑した。その後、処刑した者全員の首をはね、洗って箱に塩詰めにし、胴体は一つずつむしろで包んで大きな穴を掘って埋めたのである。

7月24日には37人の胴体を埋めた塚に、太さ30㎝、長さ3.6mの角材の四面を赤く、四角を黒く塗り、ノッカマップ岬の四方から見渡せるところに建てた。現在はこの場所がどこか不明である。7月27日には、長老のアイヌたちに、今後二度とこのようなことがないように申し渡して、鎮圧軍はノッカマップを出発した。37個の首は松前郊外の立石野で首あらためが行われた。

■アイヌと松前藩

この戦いに敗北したアイヌ社会は松前藩との力の差を知ることになり、さらに、本州から持ち込まれる生活物資無しには、生活できなくなっていて、アイヌ自身による独自の政治勢力が育つ可能性が、非常に弱くなるという道をたどることになった。

アイヌにとっては、蜂起前のように武力で立ち上がる力をつみ取られ、政治的にも経済的にも従属関係となり、和人支配下で働かされるということが、日常的になっていった。

■ノッカマップイチャルバ

1974年から毎年9月末に、根室半島のノッカマップで「イチャルパ」(アイヌ語で供養祭という意味)という催しが行われている。寛政元(1789年)のクナシリ・メナシの戦いの犠牲者(アイヌ37人、和人71人 )の供養のために、アイヌの人たちが中心になって祭事が催されている。

 

このあと、ヲンネモトチャシ跡へ向かった。

根室市 根室駅 花咲ガニ 北海道立北方四島交流センター(ニ・ホ・ロ)



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