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如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

秋の旅(6)

2007-09-28 06:45:22 | インド旅行記
ダルシャン
翌日からダルシャンに通い始めた。ダルシャンに使っている会場は拡張工事をしていて、その工事の騒音があり、会場はほこりっぽい。ダルシャンに集中するにはあまり良い環境ではない。気温も2月の時より高いような気がする。あるいは、湿度が高いのかもしれない。朝のダルシャンでは涼しいのだが、午後のダルシャンは暑い。人混みの中に座るとむっとしてくる。その中で2時間以上もあぐらをかいているのは疲れる。
春に来たときには気づかなかったが、プッタパルティーのアシュラムの北側には大きな湖が広がっている。

春に来た時に比べて、サイババはずいぶん痩せて見える。指など非常に細い。あまりヴィブーティを出さない。両手に手紙を持ったりしている。両手に手紙を持っていてはヴィブーティを出せないのだが、ヴィブーティを出すのがたいへんで両手で手紙を持っているのだろうか。サイババは少し猫背にみえる。老いと体力の衰えのようなものを感じてしまった。
しかし、その数日後には見違えるほど元気になっていたから、あるいは、私の心の持ち方でそのように見えただけなのかもしれない。

プッタパルティに来て4日目に宿を移った。今度の宿は、路地を少し入ったところにあり、3階の部屋は、風通しも日当たりも良い。眺めも悪くない。
アシュラム内の宿泊設備は良く整備されており、収容人数も大きいから、アシュラムの外にあるホテルの数はそれほど多くない。アシュラムの外は修行には適さない場所であるというのが基本的な考え方である。せっかくアシュラムまで来ながら、外に宿泊する事はない。それに、アシュラムの外は良くない想念の波動が多いといわれる。
良くない想念の波動と云われてもピンとこないが、たぶん、霊的な場を波動と呼んでいるのだろう。確かに、経験的にそれはある程度事実である。環境に影響されない人はいない。

しかし、サイババと一対一で向き合おうとした時に、アシュラム内の人間関係が重荷になる場合もあるかもしれないと考えたりもする。
もっとも私の場合は、タバコ好きで、しかも人間嫌いだから、なかなかアシュラムの中では暮らせないのだが。

サイババの発する霊的なエネルギーは非常に強力であるが、受け取る側に心の準備ができていない場合には、何も感じられないかもしれない。また、エネルギーを受け取ったにしても、その後でおしゃべりなどしてしまうと、定着する前に蒸発してしまうかもしれない。それゆえダルシャンの前には、心を静かに整えておくべきだし、ダルシャンの後には、静かな場所で余韻を味わうことが大切だといわれる。
 
サイババの起こす奇跡の特徴は、ヴィブーティや指輪を空中から取り出す物質化現象である。
それにしても、このような物質化と呼ばれる奇跡は理解しがたい。霊的な事柄や、精神的な事柄は、自身の過去の経験からある程度類推できても、そういった物理的なエネルギーを持たない精神的なものと、それこそ物理的エネルギーの固まりである物質とでは、全く別物に思えるのである。
たとえば、光を見たり音を聞いたりすると判断するのは脳であるから、光や音はそこに電磁波や音波がなくても脳がそのように機能すれば見えたり聞こえたりするかもしれない。しかし、物質そのものはもっと客観的な存在であるように思われる。精神が物質を作り出すとか、瞬間移動させると云う事は、全く理解を超えた現象である。

物質世界と精神世界を比べたとき、順序としてまず先に物質世界があり、それから精神世界ができてきたように私は考えていたが、そうではないのかもしれない。あるいはもっと基本的に、精神世界対物質世界という図式が間違っているのかもしれない。

一般の人間の場合でも、まず何かしらビジョンがあって、それを物質世界で実現してゆく。つまり、まず精神があってそれが物質世界を作ってゆくわけで、これはサイババの物質化と同じ流れだ。しかし通常は、物理法則によって説明できるような過程を経て作ってゆく。その過程が省略されているように見えるから奇跡なのだが、考えてみれば物理法則とは、自分自身を納得させるための方便に過ぎないともいえる。あるいは、我々には理解できない別の原理・別の法則・別の手段を使っているのかもしれない。

超能力はある霊的レベルに達すると副次的に備わってくる能力だという人もいるが、そうともいえないだろう。そういった能力と霊的なレベル?には多少の相関関係があるかもしれないが、せいぜいそのくらいだと思う。ちなみに人間以外の動物にも、それに似た能力はあるらしい。

この宇宙の全ては、神の現れであるから、石もタンポポも蟻もネコも全て神の現れであり、それは、個別にそれぞれが神の現れであると同時に、全体として神の現れである。人間の作った機械ですら神の現れなのである。人間は、人工物とそれ以外の『自然』を分けて考えがちだが、両者に区別などないのである。
人類が地上最悪の生物『狂った猿』で終わらないためにも、自らが神の現れであること、そして、あらゆるものが神の現れであることを、謙虚に受け止める事が必要なのだろう。自分が何者であるかを知らないと云うことが、私たちの最大の問題かもしれないのである。

銀行で両替の順番を待っていると、白人のおばあさんがやって来た。痩せた長身で年齢は80を越えているだろうか。肌は老いて、太い血管が腕にのたくっている。鼻は高く、あざやかな口紅をつけている。少し先のとんがった麦わら帽子の先を紅のスカーフでくるんで、濃い緑色のサリーを少し引きずっている。これでホウキを持っていれば完璧に魔法使いのおばあさんであるが、あいにくホウキは持っていない。
魔女というと悪役のイメージがあるが、魔法使いのおばあさんと云えばそれほどでもない。このおばあさんも悪役ではないし、醜悪でもない。威厳を感じさせる穏やかな雰囲気を持っていた。
神、天使、魔女、悪魔、これらの言葉から浮かぶイメージは、私の場合、過去に見た映画やテレビマンガによって作られてしまっているところが大部分である。実物を見たことがない(と思い込んでいる?)のだから、致し方ない。しかし、そう云ったイメージが逆に自分の思考を制限してしまっていると思うこともある。たとえば、『悪魔』と云う言葉から連想するイメージは、洋画に出てくる恐ろしい姿をした人間に近い形の生き物である。
しかし、本来、悪魔という存在は、自分の外部にあるものではなく、自分自身の心の中に存在しているのである。それは、自分の弱い心を強調し、利己的な欲望を正当化し、そそのかす心である。そして、悪魔が自分の中に住んでいるように、神も自分の中に住んでいるらしい。では、悪魔と神が対立関係で存在しているかと考えてみるとそうでもない。なぜなら、悪魔でさえ神の創造物であるはずだから。
現代人は、『神は死んだ』と宣言したものの、悪魔の方は放置したがために、悪魔に振り回されているのかもしれない。人間の中の悪は、人間が普通に考えるよりもはるかに巧妙に、悪魔としての目的を達しようと画策する。ところが現代人は、自分のうちに住む悪魔の存在を正しく認識していないために、それをコントロールすることができないらしい。
まあ、こういった擬人化した表現をあまり使いすぎると、事実から遠ざかってゆくような感じはするが。

このプッタパルティーの町は同じ地上にありながら、ほかと違った独特の雰囲気を持っていると感じられることがある。少し誇張して表現すれば、時空にできた特異な空間とでも云いたい感じだ。もちろんこう云った感じは、微妙・精妙・わずかな雰囲気の違いである。
だから、そんなことはない、単に外国人が多く集まる新興宗教の教祖のいるインドのちっぽけな田舎町、と一言で片づけることもできるだろう。
しかし、見ようによっては、ここに集まってきている人達は、サイババという神の化身に引き寄せられて集う諸天、菩薩、天使、預言者、そして様々な神々、それについて歩く眷属達、のようでもある。
そう云った諸々の魅力的な、あるいは妖しげな人々が集まって、なにやら意味ありげに過ごしている。不思議な感じの町である。

秋の旅(5)

2007-09-23 19:51:30 | インド旅行記
プッタパルティ
列車の予約をしなかったため、マドラスからバンガロールまでの6時間は立ち通しだった。それだけに、バンガロールの駅のホームのベンチに腰掛けたときには、とうとうまた帰ってきたという安堵感のようなものが湧いてきた。
そして翌日の10月24日にバスでプッタパルティに入った。
とりあえず前回と同じ宿に入る。ガーネーシャゲートの正面にあるホテルだ。この宿、春に来たときよりもホテルらしくなっていたが、値段の方も高くなっていて、その値段でさえ風通しの悪い部屋にしか入れなかった。

私が来ることをサイババは快く思ってくれているのだろうか。旅の途中、そんな不安が何回か頭をもたげた。合理的に考えれば、そんなことを考えること自体が無意味なはずである。前回サイババに会いに来た時、一度手紙を渡そうとしてサイババに拒否されているが、サイババと意識の交流があったのはたぶんその時一度だけである。サイババにとって私は、イナゴの大群のように周りに集まってくるただの信者のひとりに過ぎないのだ。
しかし一方で、サイババは全てを見通しているという感じがしている。サイババも肉体を持った人間として生きているのだから、表面的な部分は我々と大差ないのだろうが、意識状態については、全く違うのかもしれない。

早々にアシュラムに入ってみると、ちょうどスワミ(サイババのこと)が講演をしていた。今日は何かの記念日だったろうか。スワミの隣には、英語に翻訳する人がいて、ふたりの声だけ聞いていると掛け合い漫才のように聞こえる。声の高い方がサイババらしいのだが、2人ともテンションが高いから、どちらが話して、どちらが訳しているのか、ちょっと聞いただけでは分からないようだ。もちろん英語で話している方が訳している声なのだが。
クルタ・ピジャマを着てみる。アシュラムではこれを着ている方が目立たない。2着で250ルピーとずいぶん安いが、案外丈夫だし、涼しい。これに馴染んでしまうと、日本から着てきたものは暑苦しく感じてしまう。もっとも、クルタ・ピジャマは、A真理教の服装のイメージが強く残っているので、はじめは少しばかり抵抗を感じたが。
さて、8ヶ月ぶりに再びここに来てみると、やはりなんとなく、違和感がある。それは、春に来た時にも感じたものだ。
アシュラムは信者の集まりである。それに対して、まだ私の立場は曖昧である。私の旅の目的地はサイババなのだが、じゃあ、信者だと胸を張って言えるかと云えば、あやしいものだ。私は、まだ観察者、傍観者、客観的に見たいとそんな思いを残していた。
いったい、自分は何のために、再び来たのだろうかと、思う。
 
30歳を過ぎる頃まで、私は奇跡のようなものはほとんど信じてはいなかった。ほとんど、というのは、多少は霊的なものを感じていたのではあるが。しかし、それは、身近な人が亡くなった時に、その人から何かしらパワーをもらったような、そんな感じがすると云った程度の事であった。
30歳を過ぎた頃、予知夢を幾つも見て、考え方を根本的に変えざるを得なくなった。
自分の体験を理解するために、何冊か本を読んでみた。ニューサイエンスと分類された本が多かったと思う。そして、予知夢はそれほど珍しい出来事ではなさそうだと分かった。

予知夢と預言ではだいぶんスケールが違うが、原理はそう違うわけではあるまい。とすれば、ノストラダムスもスウェーデンボルグもエドガーケーシーも、ある程度真実を語っているかもしれない。さらに、福音書に書かれたイエスの事も、ヨハネの黙示録もそのままに読んでみるべきなのかもしれない。しかし残念ながら、かれらは全て過去の人物である。もちろん精神の世界での時空は、その前後関係も距離感も曖昧な部分があるから、その人達を全く過去の人とは言い切れないのではあるが、現在肉体を持って存在しているわけではない。

では、現在の世の中にそう云った人物が全くいないかというと、もちろん、そんなことはない。日本にも、自動書記をするような人は結構いるらしいし、霊能者としてテレビを賑わせている人たちもいる。さらに教祖として活動している人もいる。しかし、いろいろなレベルの人がいるようだし、営業として誇張してやっている人もかなり多くいるだろう。また、レベルについては、その人本人でさえわからない場合がほとんどなのではないかと思う。ここでレベルといっているのは、たとえば霊能者の場合であれば、憑いている霊が低級か高級か、あるいは霊に踊らされているのか、霊をコントロールしているのか、そういった意味もある。

なんでサイババに興味があるかと云えば、サイババが何者であるのか、もっと知りたいという思いが強いからである。
サイババに強い力があることはわかっている。しかしわかっているのはそれだけである。さらに知るにはこの目でよく見、肌で感じなければならない。

秋の旅(4)

2007-09-23 12:46:54 | インド旅行記
マドラス
10月16日にカトマンドゥからインドのバラナシに戻った。再びインドの雑踏に戻ったわけである。
雨季の後のためだろう。ガンジス川の水量は、春に比べて多い。アッシーガートではガンジス川が溢れたという。春には川原にあったマリーゴールドの畑はもちろんなくなっている。
それにしても、バラナシの街頭の排気ガスはものすごい。すぐにのどを痛めた。
それで、すぐにバラナシを離れて南に行くことにした。
とりあえず、マドラスに行ってみることにする。海が見たくなったのと、気が向けば、さらにもう少し南に行ってもよいと思った。

バラナシからマドラスへは寝台列車を使った。
しかし、この列車の旅は、予想に反してハードな旅になった。まず、ファーストクラスを予約していたにもかかわらず、ファーストクラス用の車両のやりくりがつかなかったらしく、スリーパークラスの寝台を使うことになった。しかも、台風の影響が残っていて、線路が冠水しており、通常の路線とは違う線路に迂回して、だいぶん海岸から離れたルートを走ることになったらしい。そのためか、列車のスピードは、とても遅く、結局マドラスまで50時間以上かかった。
同じ車両には、スペインの男性と、イギリスの女性、オーストラリアの女性がいた。一応外国人は一カ所にまとめてあるのかもしれない。彼らは20代後半の感じだ。女性ふたりはがっしりしたりっぱな体格をしている。4人の共通点はタバコを吸う事くらいである。ただ、4人には、列車は今どのあたりを走っているか、と云う共通の話題があるので、たまに情報交換をする。しかし、あまり会話が弾むわけもないから、思い思いにガイドブックを読んだりして時間を潰している。
バラナシで乗り込んだ大勢の軍人さん達は途中で降りて、それ以降、この列車に乗り降りする人はまばらである。たぶん、通常のルートから外れているので、乗り降りする人が少ないのだと思う。
この列車には当たり前だが食堂車は付いていないし、車内販売もインドのそれだから、たまにホームに売店でもあればスナック菓子と飲料水を補給して、二日三晩冷房のない2等寝台に缶詰になった。

マドラスに近づくにつれて、線路の周りの植物も南国らしくなり、椰子の林が目立つようになってくる。少し蒸し暑くは感じるが、驚くほど暑いわけではない。
やっとのことでマドラスに着いたときには、そうとうに体力を消耗していた。しかも口の中が苦くて、何を食べてもおいしくない。この味覚の異常は、その後しばらくのあいだ続いた。
病気というほどではないと思うのだが、弱っていることは確かで、無理はできないと思い、マドラスで少し体力の回復を待つことにする。

宿は、サン・トメ聖堂に近い、路地の奥にある貸部屋を借りた。サン・トメ聖堂あたりは、繁華街から少し離れた場所で、海岸に近く静かである。借りた部屋の窓の外には大型のカワセミの留まる木があって、1日に何度かカワセミがやって来る。その木の根元は塀に囲まれていて、こちらからはそこに何があるのかわからないのだが、たぶん池でもあるのだろうと思う。
サン・トメ聖堂は12使徒のひとり聖トーマスの墓の上に建てられた教会だという。そして実際、聖堂の中に入ってみると、祭壇の地下にそれらしい墓所のようなものを見ることができた。その墓が本当に聖トーマスの墓であるかどうかは私の知るところではないが、聖なる雰囲気のただよう場所であった。

ローマ帝国の時代、ローマと南インドの間に交易があったことは事実らしいから、聖トーマスの話も本当なのかもしれない。
それに、イエス・キリストがガラリヤで伝道を始める以前にカシミール、チベットなどで修行生活をしていたという話さえある。
イエスの活動した時代は、釈尊が滅してすでに数百年が経った頃である。イエスの説いた教えが、旧約聖書から大きく飛躍していることを考えれば、そこに東洋の思想の影響を考えることもできるといわれる。

マドラスで、帰国の飛行機の予約をした。便は12月11日、一月半も先である。これからサイババのアシュラムに行くわけだが、それにしても少し長すぎるような気がした。
体力も少し戻ってきたので、マドラスからさらに南に旅することを再び考えたが、それよりもサイババに会うことの方に心が向いていた。博物館にも飽きたし、寺院巡りも充分したと思った。寺院に飾られた神様よりも、本物の神様に早く会いたいと云う思いが強くなっていた。

秋の旅(3)

2007-09-23 00:16:48 | インド旅行記
ナガルコット
さて、ネパールと云えばポカラである。ポカラへ行くかどうか、だいぶん迷った。しかし、バスで片道8時間かかると云うし、天候によってはお目当てのヒマラヤも見えないかもしれない。のんびりするには、カトマンドゥ近郊だけにした方がよいように思われたので、ポカラはやめにした。
そういえば、日本で計画を作っているときはチトワン国立公園も考えていたのだが、カルカッタでカトマンドゥからバラナシへの航空券を買った瞬間にそれも消えた。結局行き当たりばったりの旅なのである。まあ、旅というのはそれでよいのではあるが。
それで、明日から、ナガルコットに行くことにした。ヒマラヤが見える丘と云ううたい文句で標高は2000mくらいあると云う。運が良ければエヴェレストも見えるらしい。ポカラが標高800mくらいらしいから、ナガルコットの方が涼しいし、山らしい雰囲気も味わえるかもしれない。

カトマンドゥからナガルコットへは、まずトロリーバスでバクタプルと云う古い都まで行き、そこからバスを使う。
乗ったトロリーバスは中国製の新車であった。いすはプラスチック製の固いモノである。社内はすいている。1時間乗って4NRsだから、旅行者には便利である。もっとも、バスの方がさらに安くて速いのか、トロリーバスと平行して走っているバスは混んでいた。
さて、トロリーバスの終点からバクタプルの町に入る道の途中にある橋の手前に、通行税?を取る所があって、なんと300NRsも取るのである。
一度払えば何回も通れるのであるが、それにしてもずいぶん高いと思った。それにどうも料金を取っているのはこの道だけのように思うのである。裏道を通って町に入れば300NRs浮かせるわけだ。しかし、まあ、愛想の良いお嬢さんがいて、ナガルコットに行くバス停を地図で教えてくれた。

ナガルコットに行くバスは小型のミニバスである。このバスには人だけでなく大きな荷物やヤギまで積まれる。土地の人にとっては、このミニバスが唯一の公共交通機関なのだろう。
したがって、みんなで助け合って大きい荷物もヤギも、とにかく運ぶ。また、車掌さんはバス停で土地の人と両替をしている。車掌が集めた小銭を高額紙幣と両替しているのだ。ネパールでは、コインをほとんど見かけない。すべて紙幣である。しかも、小額紙幣は不足しているようだった。
バスの走る道は舗装された良い道で、まずまず快適な旅である。標高差は約700m、日本の山間部を秋に旅行しているような、穏やかな田んぼの風景である。もっとも現在の日本では、もうこういった風景を見つける事はできないのかもしれない。
段々畑の見える曲がりくねった坂道をしばらく登りつめた先にナガルコットのバス停があった。このバスはもう少し先まで行くらしいが、車掌がここだというので降りた。
降りた場所は、店が数軒並んでいる尾根の三辻である。降りてガイドブックの地図と見比べていると、若い男が例によって客引きに来た。適当に相手をしながらついて行ってみる事にする。どのみち同じ方向に歩くのだが、少し一緒に歩いただけでも情が移るので、気を使う。
歩いて行くと、なるほど地図に載っている宿もある。地図には起伏が書かれていないので分からなかったが、このあたりの宿はバス停から眺めの良い尾根伝いに点々と並んでいるのである。
その客引きの宿でも良いかなと思いはじめたが、しばらく行くといかにも眺めの良さそうな宿が目にとまった。それで、「すまないが、あの宿がよさそうに見えるから。」と客引きの男に謝って別れた。

確かにその宿からの眺めはすばらしかった。部屋から朝日と共にヒマラヤが見えるのである。贅沢である。しかし、その日の夕方はヒマラヤの方角に雲がかかっていて、残念ながら見ることは出来なかった。本当にヒマラヤを見ることができるのか少し不安になる。見えなければここまで来た意味がない。
夕暮れになると、このあたりは本当に静かになる。宿の食堂もほとんど電気照明を使わずにろうそくで雰囲気を出している。一度はこういう高原の宿で夜を過ごしたいと、以前から思っていたが、それがはからずも実現したわけだ。
外に出れば夜空は満天の星。今日明日あたりが新月だと思う。
東の方角からスバルが上り始め、天頂近くには白鳥座がある。白鳥座の尾羽のあたりで銀河が切れているのがはっきり分かる。まるでそこに黒いホウキ星があるようだ。アンドロメダ星雲ももちろんよく見えている。こんな星空を見るのは久しぶりだ。この星空を見れただけでも来た甲斐があったと思う。
しかし、夜になるとだいぶん寒くなる。内陸だし、標高2100mあるわけだから、寒くて当たり前なのだろう。

翌朝、ヒマラヤは日の出から10時くらいまで見る事ができた。アンナプルナ、マナスル、ランタン、私の聞いたことのある名前の山はそれくらい。宿の人はエヴェレストが見えていると言い、確かに日の出の頃には東の果てまで、ヒマラヤの山並みが連なって見えていたのだが、結局どれがエヴェレストだか分からず仕舞いだった。
カトマンドゥの方角を見ると、朝の内、盆地は朝霧に覆われている。カトマンドゥのホテルに泊まっていたとき、朝、曇ったように見えたのはこの霧のためらしい。

バクタプル
バクタプルはパタンと似た雰囲気の古い都である。泊まった宿はダンバール広場とタウマディ広場の間にある古い民家を改造したような所。
この宿はダンバール広場からでも見えるのであるが、それでも外に出ると方向がわからなくなり、宿の位置がわからなくなってしまう。あるいは、方向感覚がつかめなくなるのが古い都の特徴なのかもしれないと思ったりする。

パタンよりもバクタプルの方がいっそう落ち着いているし、見るところも多い。
木彫博物館は、元は僧院だったというこじんまりした建物で、昔の雰囲気を良く伝えている。全体に部屋は小さくて天井も低い。あまり照明を使っていない自然な光の中で、手のこんだ木彫を至る所で見ることができる。
こういった彫刻の感覚は日本人と似ているように感じる。というか、木彫を多用する文化が、日本と似ているということなのだろう。

バクタプルの旧王宮はすばらしい。彫刻もよくできているし、色彩も良く残っている。ただし、一番奥の寺院部分はヒンドゥ教徒以外立入禁止で、兵隊さんが立っていて入れてもらえない。それでも、一応聴いては見たのだが、「私はヒンドゥ教徒だ」と言い張ることもできない? まあ、出来るかもしれないのだが、なぜか正直になってしまって、うそを付く気にはなれなかった。

土産物屋を見て回る。タンカを売っている。しかし、あまり良いものはない。どこかで大量に作っていると云った感じだ。それに、日本人の感覚とはどことなく違っている。値段も高い。
そこで、ネパールの青年から声をかけられる。これから京都に行って、タンカを描くのだという。ホントの話かどうかはわからない。あるいは、そう言ってから、自分の店の品物を売ろうとしているのかもしれない。事実、店に来ないかと誘っている。あまり警戒してもつまらない旅になるのだが、ついつい警戒してしまう。まだお土産を買うわけにはいかないのだ。

部屋に洗濯をする場所がないので、宿の屋上で洗濯させてもらう。よく晴れていて気分が良い。
バクタプルは古い町で、建物が隙間なく詰めて建ててあるためか、みんな屋上を有効に利用している。屋上に鳥が食べるように穀物を供える習慣があるらしく、この屋上にもそんな場所があるし、他の屋上にもそれらしいものが見られた。よく澄んだ青空に菱形の小型の凧がいくつも揚がっている。

翌朝、まだ暗い4時頃から、宿の外で祈りの歌のようなものが聞こえて騒がしい。元々静かな町だから人の声が響くのである。その声に誘われて、私も宿を抜け出し通りに出て、まだ暗いダンバール広場まで行ってみた。
眺めていると、みんながみんな同じ動きをしているわけでもなく、数人のグループ毎に思い思いに、小さな祠や寺院を巡ってお参りしているようである。しかし先ほどまで聞こえていた歌声はもう聞こえなくなっていた。後で聞いたところでは、この日はダイサンという祭りの初日とのこと。ダイサンは日本の正月のような雰囲気の秋祭りらしい。
春の旅ではいくつかの祭りに偶然遭遇したが、今回も再び祭りに出会ってしまったわけだ。しかし、残念ながら、春と同じく今回も事前の調べができていないから、私には心の準備が出来ていない。そして、こういうことは私の人生全般においても同じように思える。なんに付け、心の準備ができていない。つまり出来事の意味や趣旨というものの理解が足りない。 

タメル地区
カトマンドゥの戻った。
多めにネパールルピーに両替してしまっていたので、少し良い部屋に泊まることにした。良い部屋と云っても、為替レートがとんでもないので日本円に換算すると驚くほど安い。得したと云う感じを通り越して、申し訳なく思ってしまう。
カトマンドゥのタメル地区は、外国人向けの安宿の並ぶ場所で、何でも揃っているスーパーマーケットもあれば、手ごろな価格で日本の家庭料理を食べさせてくれる食堂もあって、住み心地はすこぶる良い。
その夜、ダイサンの初日のカトマンドゥのダルバール広場はどうだろうかと町に出てみた。ところが道に迷ってしまい、1時間もぐるぐる歩いたあげくに、気が付くと宿の近くまで戻ってきてしまっていた。私は何人かに道を尋ねたのだが、質問の仕方が悪かったために、私の行きたい場所が相手に正しく伝わらなかったようだ。それで結局行ったり来たりして元の場所に戻ってしまったらしい。まあ、知らない土地で、夜に道に迷って街をさまようというのも、貴重な経験ではある。
夜の街角の寺院の前には山のように供物が積まれていて、たくさんのろうそくの明かりの中で参拝する人々が列を作っていた。

秋の旅(2)

2007-09-19 21:25:24 | インド旅行記
カトマンドゥ
カトマンドゥに入ったのは10月8日。
カトマンドゥの空港はさわやかに晴れていて、カルカッタの蒸し暑さに比べれば別天地、真夏から秋に移った感じである。気分も晴れ晴れとしてくる。来て良かったという感じがしてウキウキしてしまう。空港はきれいで新しい感じで、第一印象はよい。ビザを取る前に両替し、それからビザを取る。ビザは簡単に取れる。15日で15US$。
それからおもむろに空港の出口にむかう。客引きが寄ってくるがインドほどのむっとした熱気はない。みんなどこかにこやかである。プリペイドタクシーを使い、予定のゲストハウスに向かう。なぜかタクシーに同乗している客引きはしきりに別の宿を勧めるが、しかしそれほど強引ではない。
予定のHOTELは、看板も出ていないような、住宅地の中の目立たない宿である。しかし、建物や設備は立派で、静かな落ち着いた宿というなら理想的かもしれない。もちろん食事もできる。ちなみに、この宿の経営者はサイババの信者で、年に一回くらいは会いに出かけるのだと、後で従業員に聞いた。
屋上からは、川向こうの市街地の寺院をはじめ、スワヤンブナートなども良く見渡せる。ネパールに来た、そう感じさせる風景である。ただ、閑静な場所だけに、買い物には不便な感じだし、市街の観光名所からは少し遠いと思ったが、洗濯もあるのでとりあえず2日泊まることにした。
屋上から眺めるとカトマンドゥは山に囲まれた盆地で、周囲の丘の上にも町らしい建物が見えていた。夕方、日が西の山に隠れる間際には、スワヤンブナートのストーパだけに陽があたって、ネパール独特の目のある仏塔が輝いているのが印象的だった。
次の朝、歩いて街に出かける。道は舗装されていないだけでなく、ひどいでこぼこで、車などやっと走るような状態である。しかもこの道が裏道というほどでもなくガイドブック『地球の歩き方』にも載っているような道なのである。したがって人通りは多い。数少ない舗装されたメインストリートは排気ガスとほこりであるから、人が歩くにはこちらの方がよいのだろう。
宿のあるタハチャル地区と有名なクマリハウス辺りとを結ぶ道の途中には川幅50mくらいの川があって、オンボロの橋がかかっている。橋が古いのは別に良いのだが、問題はその川が悪臭を放つどぶ川になってしまっていることである。異常に汚い。水量はある程度あるのだが、ゴミは捨てられているわ、下水は垂れ流しになっているわで、駆けて橋を渡りたくなるほど臭う。実際に、夜、風がなく空気が盆地にたまる時には、その悪臭がホテルまで届いていたようだから、暑い夏などはさらにすごいかもしれない。この国は最近やっと近代化がスタートしたばかりらしいから、こう云ったことにはなかなか手が回らないのだろう。
歩いてみると、ダンバール広場は案外近かった。宿から15分もかからないかもしれない。バンコク・カルカッタ・カトマンドゥと市街地地図を見てきたが、地図によって縮尺がまちまちだから距離感がなかなかつかめないのだ。
ダンバール広場の寺院群は、どちらかと云えば中国文化の影響を感じさせる懐かしい感じの建物で、インドとは全く違う。ネパールに来たという感じがする。
しかし、どうも広場のゴミの散らかり方が半端でない。まだ朝早くで掃除の途中という事はあるが、シヴァテンプルの脇に積み上げられたゴミの山は、先ほどのどぶ川と共にカトマンドゥの印象をかなり悪くした。


パタン
インディアン・エアラインにリカンフォームに行く。その途中、インドラチョークの通りは古めかしい良い雰囲気の店が並ぶ通りである。この通りは車が入れないらしく、ぶらぶら歩くには都合がよい。道の辻には寺院があったり、市が立っていたりで、昔のままの風情が残っている。たぶん昔は日本もこうだったのだろうと思う。自動車社会になるまでは、道路はそのまま社交の場であり、市場であり、散歩の場であったのである。インドラチョークを過ぎると、車の行き交う通りに出て、排気ガスに閉口する。バスや乗り合い三輪車の排気ガスはインドと同様にすさまじい。

それから、タクシーでパタンに行く。パタンは古い都である。しかし、タクシーで行けばパタンまでほんの10分の距離。
カトマンドウはそれほど大きな町ではないのだ。
ネパールのタクシーはスズキマルチの800ccのワンボックスが多い。かなりパワーもあるし、小型で狭い道も楽に通れるし、人も荷物もたくさん積める。ほかには、日本製の1500cc前後の乗用車。これは、驚くほど古いタイプのカローラから、日本でも見かける本田の4ドアセダンまでいろいろである。韓国製の乗用車もある。しかしインドでよく見かけるアンバサダーはあまり走っていない。
パタンゲートからぶらぶら歩く。パタンの町並みは古く、土産物屋が並んでいる。しかしそれほど商売っけがあるとも思えない。静かに店を開いている感じである。
土産物で多く目に付くのはチベット風の仏像。チベット風の仏像は、顔の部分が艶消しになっている黄銅製のものである。どれも同じような優しいふくよかな顔をしている。
私の知識の中ではネパールは仏教国のはずであったが、実際にはほとんどヒンドゥ教の人々であるらしい。したがって仏教寺院というのは数少ない。その中の一つがパタンにあるゴールデンテンプル。しかし、私は、ゴールデンテンプルとは気づかずに、一度この寺院の前を通り過ぎている。寺院と云っても民家の間に入り口を持っているし、特別伽藍を構えているわけでもないので、目立たないのだ。
そのゴールデンテンプルの門を入ると例によって恰幅の良い男が出てきて、ガイドをすると言う。それで、いつものようにお断りする。それでもなかなか離れないので、ほっておく。無視することによって、お金を請求されないようにするのが、旅行で身に付いてしまったようだ。ただネパールの人がお金を要求するかどうかは分からないので、失礼なことをしているのかもしれない。何と無礼な旅行者だと、おじさんは憤慨していたかもしれない。
この仏教寺院は、ネパールのヒンドゥ教の寺院とほとんど変わらない。仏教寺院と言われなければ区別が付かないほどだ。ただよく見れば確かに仏像が祭られている。
その寺院から右手に行ったところに、パタンのダンバールスクエアがあった。強い日差しの中に広がる広場とそこに立ち並ぶ寺院は、これこそネパールと云った景色である。
そして、広場は土産物の露天でいっぱいである。しかし、並んでいるものはどれもガラクタにしか見えない。興味を引く物も中にはあったが、まだ荷物を増やすわけにはいかないと思う。

その日の帰りに、スワヤンブナートに行った。この寺院は高さ100メートル以上はある丘の上に立っているためとても目立つし、立派である。
さて、トイレに行きたくなった私は人に尋ねたりしたが要領を得ない。ネパールの人たちはどんなところで用を足しているのかと思った。こういう場所に公共のトイレがないというのは全く理解できない。
あとで、丘の上の寺院の裏手にトイレを見つけたが、そこはもう糞の山になっていてトイレではなかった。誰も管理をしていないらしい。
こういった所にお金をかける余裕などないのかもしれないが、それなら地元の観光業者が掃除をするとかすればいいのにと思う。まあ、今後観光客がたくさん来て、たくさんお金を落とすようになればよくなるのかもしれない。
それでもここからの眺めはすばらしい。寺院は何回も写真で見たチベット式のストーパ。その周囲の仏像なども雰囲気があっておもしろい。

スワヤンプナートから歩いて宿に帰ることにしたのが、歩き始めてみるとホントの田舎道である。広そうな道を歩いていても民家の庭に出てしまい、しかし、どうもそこが道なのである。結局この国ではまだ、車が道を走り初めてあまり時が経っていないのだろう。山あり谷ありで平らなところが少ない国土だから荷物の運搬は人間の背中か馬や牛の背中に頼らざるを得ない。したがって、道路は馬や牛が歩ければ十分だったのだろう。日本でも田舎に行くと今でもこんな道があって、道端にお地蔵さんがいたりしたことを思い出した。
とにかく道はまっすぐではなく、右にそれ左にそれ、人家の庭先をかすめ、何人もの人に道を尋ねて、やっとの事で宿に帰り着いた。

秋の旅(1)

2007-09-18 23:26:17 | インド旅行記
これから、秋の旅を載せてゆく事にする。
旅行した期間は、10年位前の9月の終わりから12月はじめまで。
期間は長いが、その半分くらいはプッタパルティに滞在していた。
この旅行のあとしばらくは、長期の旅行はできそうもなかったので、少し欲張った計画を立てた。
計画といっても、あってないようなものだが、航空券をカルカッタイン・デリーアウト・バンコクストップオーバーにしたので、それで一応大筋は決まってしまった。

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バンコク
彼岸を過ぎて朝晩だいぶん涼しくなってきた9月の終わりに出かけた。
南アジアはまだ暑いかもしれないし、雨季が明けていないかもしれないが、あまり出発を遅らせることもできなかった。
例によって少し風邪気味である。
春の旅を反省して、今回の旅はとにかくのんびりゆっくり動くこうと思った。しかし、それも成田にいる内だけの話で、いざ海外に出れば、たぶんそううまくはいかないのだろうが。

バンコク到着は意外に早く、明るい内に空港に着いた。時差が2時間あるから6時間くらいかかったのだが、ずいぶん早く感じた。
バンコクには1週間滞在する。1週間後のおなじ便に乗ってカルカッタに行くのである。
空港から安宿のあるというカオサン通りに行く事にして、エアポートバスを探しに外に出たが、大雨である。夕立という感じの降り方だ。
ガイドブックによると、カオサンに行くにはエアポートバスA2に乗ればよいらしいが、そのバスは見あたらない。何人かに聞くと皆59のバスに乗れという。それで、高速道路の下のバス停まで行って、59のバスに乗った。大きな荷物を抱えて雨の日にバスに乗るのは楽しいものではない。
バスの乗客の服装も顔立ちも日本と大差ない。小銭入れをカシャカシャ鳴らして乗車券を売る車掌がいなければ日本と錯覚してしまう。
成田を昼に発ったのに、まだバスの外は明るいのである。
しばらく走ると、乗っていたバスは終点になった。しかし、降ろされた場所は、まだだいぶん郊外らしい。
雨は上がったが、6時を過ぎて町は暗くなってきた。
それで、しかたなくタクシーを使いカオサン通りに到着。

しかし、私の入った宿はカオサン通りではなく、そのはす向かいの路地を入った先である。少しはずれである分静かな感じである。
カオサン通りは、旅行者にとっては便利な場所である。博物館や観光スポットの王宮に近く、水上バスの行き来するチャオプラヤー川の船着き場にも歩いて行ける。それに旅行者が多いから、独特の開放的な雰囲気がある。話をしてもしなくても、やはり旅行者は旅行者の中にいると落ち着くようである。カオサン通りの欠点は、駅まで少し遠い事くらいである。
バンコクでの1週間の内、後半の3日間はジム・トンプソンハウスの隣の路地の小さな宿に移った。こちらはエアコン付き。その分宿代は高いが、交通の便もよい。


タイの仏教
日本の仏教が大乗仏教であるのに対して、タイの仏教は上座部仏教であるという。簡単に云えば、使われている教典がより古い、釈尊の説いたものに近いということだ。
日本の仏教経典は漢文でとっつきづらいものである。その口語訳も分かりやすいとは言えない代物である場合が多い。
それに比べれば、パーリ語から直接口語に訳した上座部の教典は、ずいぶん読み易くはるかに親しみが持てる。したがって、私にとっての仏教とは、中村元先生の訳により岩波文庫に入っている上座部の教典の世界である。
私が『私は仏教徒である。』と云うときに、私がイメージしているのは上座部の経典の中にある釈尊の人格である。
それはたとえば、キリスト教徒の場合で言えば、福音書の中のイエスの人格に共感するという事である。
文化としての仏教やキリスト教は、地域や時代によって変わってしまうが、釈尊やイエスの人格は、文章にされてからは、それほど大きく変わってはいないはずである。
宗教の本質は、たぶんそのような人格に対する共感にあるはずである。釈尊のように生きる、あるいはイエスのように生きる事が、仏教徒やキリスト教徒の目的であってもよいはずだ。釈尊やイエスを現実離れした別世界の存在にしてしまったら、その宗教の意味の多くは失われてしまうのではないかと思う。

それにしても、タイの仏教寺院はハデで豪華である。そして、安置されているのは、ゴールドの仏像であったりエメラルドの仏像であったり。たぶんこう云ったものは権力の象徴であって、宗教の本質とは別物のようである。ただ、タイランドが豊かな国であり、仏教やその僧侶が大切にされているあかしではある。

上座部仏教であるから、日本のような不動明王や観音様はほとんどないようである。そのかわりに、どの寺院にも同じような形の仏陀の像がいくつも置いてあるようだった。
ワットスタットの近くを歩いていたら、仏具屋さんと花火やさんの並んだ通りがあって、等身大かそれ以上大きい黄銅色に輝く同じような仏像がたくさん置いてあった。売っていると云うことは需要があると云うことだ。つまり、タイでは、現在も新しい仏像がどんどん供給されていると云うことなのだろう。


カルカッタ
カルカッタに着いてからの計画など考えながらバンコクの空港で待っていると、同じ飛行機に乗る二人の日本人と会った。一人はカルカッタを知っているという28歳くらいの小柄な男性。もうひとりは30歳くらいでアメリカに1年くらいいたことがあるという女性。ふたりとも南インド方面へ行く予定らしい。期間もずいぶん長そうだ。半年くらいは考えている。
他に、関西の40歳くらいの女性は、これからボンベイ経由でアフリカ、ケニアのナイロビに行くのだという。この人は半年は日本、半年は外国生活だという。
さて、飛行機には、大きな同じような荷物を持ったインド人の大人数のグループが乗っていて、なかなか楽しかった。ランディングカードをリーダー格の人がまとめて書いたりしているが、観光の帰りと云った雰囲気でもない。いかにもインド人的に行動して、スチュワーデスを困らせたりしていた。しかも、私の隣に座った人はたばこが嫌いときている。自分が座っている席が喫煙席だという事が分かっていないらしい。
フライトの時間は2時間半くらいで、しかも時差が1時間半あるから、カルカッタは非常に近く感じた。しかし空港で手間取ったから、空港の外に出たときは、もう夜になっていた。

フライト時間はたかだか2時間半でもバンコクとカルカッタでは雰囲気が全く違う。東京からバンコクに入ってもほとんどカルチャーショックはないのだが、やはりインドは別の世界と云う印象が強い。
空港の外の薄暗いオレンジ色の照明に浮かぶオンボロのタクシーの群。 「また、来てしまった。」と口に出してみたが、別に来た事を後悔しているわけではない。

泊まる場所はサダルストリート。安宿街と云われる所である。飛行機で一緒だった三人もサダルストリートに行くということで、カルカッタを知っているという男性が手続きしたプリペイドタクシーでサダルストリートに向かう事になった。空港はまだそれほどでもないが、タクシーが走り出すといかにもインドらしい風景になってくる。カルカッタはすごいと聞いていたが確かにそのようだ。オンボロのバスや車、薄暗くほこりっぽい道、クラクションの音、何のために歩いているのか大勢の人たち。タクシーのヘッドライトは薄暗くて、危ないようである。

さて、タクシーは無事にサダルストリートまで来たが、ここで、お金を払った、いやお金を受け取っていないで、もめることになった。
プリペイドタクシーのシステムはいまだによく分からないのだが、少なくとも運転手は一枚運転手用の紙を持っていなければ、お金はもらえない。ところが運転手はそれを持っていないし、だいいちこの運転手達がプリペイドタクシーのシステムを知っているのかさえ疑わしくなる。さいわい同行の二人は英語ができるので、言い合っていると、通行人も話しに加わってきて、少しいやな雰囲気になる。
それでは空港のプリペイドタクシー窓口に電話してみようという事で、電話を捜して歩き始める。するとポリスマンらしき人がいるので、ちょうど良いとひとりが説明してみるが、警官も面倒には巻き込まれたくはないらしい。それで仕方なく電話をしても、電話はつながらない。
それで、私はもう充分だと思ったから、100Rsを運転手に渡して話を終わらせた。結局、中年のおじさんはそういう役回りになるのだと思う。
インドというのはこういう場所なんだと、インドが初めての人にわかってもらえれば、100Rsは安いものだ。

タクシーの一件が落着したところで、私は彼ら3人と別れた。どうも若い人と一緒ではついていけないような気がするのだ。
それで、私はひとりでホテルを探し始めたが、バンコクの時ほど簡単ではなかった。まず、ガイドブックを見て予定していた宿は見つからず、その後あたった二つのホテルは満室だと断られ、探すのが面倒になって客引きに案内してもらった宿は、サダルストリートから離れた裏町の古びた宿屋。窓はないし暑いしうるさい。しかし、一晩だけとあきらめて泊まることにする。
翌朝、その宿の周囲を歩いてみた。
昨夜は暗かったので、すごく場末の感じがしたが、実際にはそれほどでもない。場所はニューマーケットの裏手で、近くには映画館があったりする。宿の辺りは、いかにも市場と言った感じで、荷物を積んだトラックが出入りしている。
だからといって、このホテルにもう一晩泊まる気は全くないので、サダルストリートから博物館あたりに適当な宿を探して歩いた。
それで見つけたのがホテル・クリスタル。外から見るとしゃれた感じの白い外壁に緑のツタが少し掛かっていて、いい感じである。フロントも現代的なゲストハウス。しかし、よく見れば、階段の絨毯ははがされて、部屋の手入れもあまり良くない。が、なんといっても静かで、3階の部屋は風通しが良く、窓からの景色も悪くない。250Rsでここに泊まることにした。博物館まで10分以下、地下鉄の入り口までも10分以下。

さてカルカッタの博物館は、ずいぶん大きな建物である。中庭を取り巻いて2階建ての石造りの立派な建物。考古学の展示品はデリーに比べても引けを取らない。東インドらしくJAVAの遺跡から持ってきた物なども多数あった。イギリスが植民地支配していた時代にあちこちから運んできた物だろう。
博物館の中庭の噴水は盛大に水を吹き上げていて、風もあって涼しい。10月はじめのカルカッタは結構暑いから、こういった場所はのんびりするにはよい。


地下鉄
地下鉄でカーリーガート駅まで行き、カーリー寺院を見学する。地下鉄は、全線が開通しているようで,DUMDUMまで行けるらしい。しかしDUMDUMと云っても、空港からはずいぶん遠いようだ。駅には切符の自動販売機もあるが、だいたい故障しているから、窓口で切符を買う事になる。
地下鉄は、バスや路上電車に比べるとずっと空いているし、路線が一本しかないので、初心者向きで便利。

カーリー寺院は、カーリーガート駅から西に1kmほどの所にあるこじんまりした寺院だ。ヒンドゥー教の寺院というのはバラナシの有名な寺院もそうだったが、わりに小さい。権威を誇示するために巨大な寺院を建てる必要がないのだろう。土着の信仰であり、国家宗教と云った感じではない。
寺の周囲には花を売る店や、土産物の店などあってにぎわっている。寺の入り口に近づくとバラモンらしい人物がうるさい。うるさいというのは、アーしろコーしろと云って私を案内しようとするのである。その人は身なりも恰幅もよく、あるいは本当にバラモンなのかもしれないが、あとでガイド料を要求されても困るので、一切無視して、自分のペースで参拝する事にする。
まず靴を預ける場所を探すが、履物の預かり場所はあまり良い雰囲気の場所ではないので、花を売る店で5Rsの花を買って靴を預かってもらう。花屋は、外国人相手に金儲けをするバラモン氏?があまり好きではないらしく、私に好意的だったように思う。私が10Rs出したら5Rs返してくれたくらいだし、私の手を水で洗ってくれた。
それから寺院に入って他の人がするように花を投げ入れて、神様を拝んだ。バラモン氏が手首にひもを巻こうとするがそれは断った。インド人でもそんなひもをしている人は少ない。
皆が押し合うようにして拝んでいる神様の像は以外にかわいい顔をしていた。威厳とか厳めしさとか、そういったモノとはずいぶん違った雰囲気である。しかし、愛される感じはある。昔、だっこちゃん人形があったが、そんなかわいらしさである。とにかく、本来のカーリーの恐ろしい女性のイメージとは遠く離れている像であった。

それから、インディアンエアラインにいってカトマンドウのチケットを購入する。案外簡単に翌日のチケットが手に入った。
カルカッタにはあまり興味がなかった。

次にジャイナ教の寺院に行くことにした。しかし、地下鉄の駅はどこで降りたらよいのかよく分からない。適当な駅に降りて歩き始めたが、道を聞いても明確な答えは得られないし、どうもずいぶん遠回りしていたようである。それでも30分以上歩いたあげくにあきらめて、オートリクシャを頼んだら、ほんの少し走った所が目的の寺院だった。
ジャイナ教の寺院もカーリー寺院と同様、こじんまりした感じだが、なかなかお金のかかったきれいな寺院である。これはつまり信者が裕福な階層の人々だという事だろう。
寺院の入り口まで近づくと、例によってガイドらしき若者が寄ってくる。ガイドはお金を要求すると分かっているので、断りながら、適当にあしらって見学させてもらう。
よい大理石をふんだんに使った立派な寺院で、前に見たタイの寺院のような装飾感覚である。しかし、タイよりも仕事はずっと丁寧だ。銀などもふんだんに使われ、宝石も使われているという。
それにしても、像の表情の漫画的にかわいいこと。このようなかわいらしい優しい感じというのはどこから来るモノなのだろうかと思った。
ガイドの若者は断っても付いてくる。あまり悪い奴でもないらしいし、私も勝手が分からないので、適当につき合ってもらう。観光客は少なくて、はっきり観光客と分かるのは私一人くらいだから、写真を買ってくれとかいう男もつきまとうが、それほどしつこくはない。どちらかというと余裕のある穏やかな感じである。私と彼らのやりとりを聞いていて、笑っているおじさんもいて、なごやかである。カーリー寺院の周辺とはすこし土地柄が違うように感じた。
ここにはジャイナ教の寺院が四つあって、当然ながらそれぞれ少しずつ様子が違う。ガイドの青年のおかげで一人では入れそうもない所まで入ることもできたのはラッキーだった。
結局そのガイドは私を地下鉄の駅まで送ってくれて、私はいくらかの金を彼に渡すことになったが、良いガイドだったように思う。

春の旅(14・おわり)

2007-09-02 20:51:17 | インド旅行記
帰国
デリーに向かう列車で居眠りをしていたら風邪がひどくなった。終点のニザーム・ウッディーン駅に着いた頃には頭がボーとしてきたし、鼻水が止まらない。乾季の北インドのほこりっぽい風と排気ガスで喉と鼻をやられていたが、今度は、どうも本格的な風邪かもしれないと感じた。
風邪を拗らせて3日後の帰国の飛行機に乗れなくなってはたいへんだと考えて、落ち着けそうなアショック・ヤトリ・ニバスに泊まる事にした。一泊325RSだから、それ相応ではある。窓ガラスが薄いためか、外の騒音が入ってくるのが気になる。しかし、あまり値段の高くないチケット制のレストランもあるし、売店もあるので便利だ。
翌日、少し熱っぽいのだが、国立博物館に行った。インドに来て最初に見たのがここだったが、全部見たわけでもないので、もう一度時間をかけてゆっくり見てまわった。インドに来てから博物館にはずいぶん立ち寄った。主な博物館だけでもボードガヤ、サルナート、バラナスィのヒンドゥー大学の博物館、カジュラホ、マトラー。別にそこに目新しいものがあることを期待しているわけでもないのだが、それでも博物館に入るのは、たぶん博物館に入ると落ち着くからだと思う。

風邪で関節が痛くなってきたが、風邪薬は使い終わっていた。それで、解熱効果のある頭痛薬を飲んで寝たら、翌日はだいぶん回復していた。あまり食欲がないので果物などを買って来て食べた。ちなみに、その日の買い物の値段は、バナナ5本-8RS、オレンジ6個-10RS、フルーティー(紙パック入りのマンゴジュース)2パック-14RS、スナックス(塩味のクラッカー)1箱-17RS、ミネラルウォーター1リットル-12RS、計61RS。これだけ買っても200円である。

お土産でも買おうと街に出た。
ホテル前にたむろしているオートリクシャの客引きには、閉口する。
だから、オートリクシャに乗る時は、とりあえずホテルや駅から少し歩いて、それからオートリクシャを探すという習慣ができた。それの方が運転手を選びやすいのだ。ただ、オートリクシャの運転手にそう悪い人はいないようだ。中には地方から出てきたばかりで私より町を知らない運転手もいたが、それでも運転手は車を停めて道を聞きながら目的地までなんとかたどりついてくれる。
オートリクシャに比べて、はるかに胡散臭いのはやはり空港のタクシーである。プリペイドタクシーでさえも、指示と違うホテルに連れて行かれたし、昼間のうちなら土産物屋に連れて行こうとする。弱ったものであるが、強く主張すればなんとか目的地には着く。
インドの人はよく「ノープロブレム」と言うが、あの言葉の意味は、「ノープロブレム」と言っている当人にとっては「ノープロブレム」なのだと解釈した方がよいかもしれない。
「あんたにとっては問題なくても、俺にとっては問題なんだ。」と思っていれば、まず間違いはない。

帰国の日。デリーはホリーの祝日である。体調はだいぶん回復したので、タクシーを奮発して見残した名所を見て歩く。クタブ・ミーナールは、イスラムの遺跡で石造りの背の高い塔が立っている。その遺跡の中央にイスラム文化が入る以前の5世紀からあるという巨大な鉄柱が立っている。高さは7m、太さはちょうどひとかかえほどで、1500年以上屋外に立っているのにほとんど錆びていない。
露天に立っているので表面は酸化して黒くなっているのだが、赤錆はほとんど出ていないのだ。学者が5世紀というのだからたぶん本当なのだろうが、今から1500年以上も前にこんなものを作ってしまう技術を持っていたというのは不思議な事であるらしい。もっとも、考えてみれば、それよりさらに3000年前、すでに、デリーから1000Km西のモヘンジョダロには整然とした都市があったわけで、錆びない鉄の柱の一本くらいでそれほど驚く事ではないのかもしれない。
朝の遺跡には、私以外ひとりの観光客もいない。この遺跡はデリーの郊外にあるから、観光バスが来るまではひっそりとしているらしい。少し拍子抜けするくらいである。ここではサンバードやカワセミも見かけた。

それから、もう一度ヒンドゥ教の寺院を見ておこうと思い、今世紀になってから財閥が建てたという新しい寺院に行ってみた。このラクシュミー・ナーラーヤン寺院では、外国人は一度控の部屋に通され、ガイドが案内してくれた。しかし、ここのガイドも歩くのが速い。それで、ガイドについて一回りしてからもう一度ゆっくり見てまわる事にした。この寺院の内装や神像はバラナスィのヒンドゥー大学構内のヴィシュワナート寺院とよく似ていて、白い大理石をふんだんに使った素晴らしいものであった。
寺院の一番奥の美しく飾られた部屋に、すばらしいクリシュナの像があった。横笛を構えたまま、伏し目がちに小首をかしげたクリシュナは、生きているように微笑んでいた。インド人にとって、クリシュナは愛の対象なのだろうと思う。そうでなければ、なぜこのような美しい像を作り、美しい衣装を着せて花で飾るのか理解できない。

この寺院のすぐ隣には、仏陀を祭る寺院があって、参拝するインド人もかなりいた。こちらの寺院には女性の参拝が多いように感じるが、何か理由があるのかもしれない。
街はホリーである。空港に向かうタクシーからも、粉だらけになって満足そうに歩いている人達を見かけたし、空港で飛行機を待つ外国人の中にさえピンク色に染まったままの人達がいた。
北インドを回りながらも、もう一度サイババの所に行きたいという気持ちが何度か沸いた。たぶん、バンガロールがもっと近ければ戻っていただろうと思う。しかし、北インドを回る旅も決して悪くなかった。旅が思いのほか順調であったのは、やはりサイババのおかげなのだろうと思った。

帰りの飛行機は、バンコクを経由するため、乗客にはタイの僧侶の姿も多い。若い人から、年老いた人まで20人くらいいただろうか。待合室で私の前に腰掛けたのは、大柄な白人の僧と小柄な僧である。白人の僧は、60歳くらいだろうか、咳が止まらないらしい。小柄な僧は70歳くらいで、こちらも時々コホッコホッと咳をする。ふたりとも排気ガスにやられたのだろうと思う。しかし、ふたりとも、表情は穏やかで、満足げであった。それが修行によって得られた悟りなのか、仏陀の足跡をたどる事のできた満足感なのかは、わからなかった。ただ、こういった人々が乗る飛行機なら落ちる事はないだろうし、落ちたところで、成仏できそうな気がした。

サイババとはどんな人か、何も結論らしいものはない。しかし、サイババの周囲に溢れている特別な雰囲気が、人々を強く引きつけるものである事は間違いない。その雰囲気はサイババ本人が作り出しているものなのか、アシュラムに集まる人々によって作り出されているものなのか。たぶん両方の相乗効果なのだろう。強力なサイババのバイブレーションによって、そこに集まった人々も音叉が共鳴するように反応しているようだ。このバイブレーションによって人々の心は少しずつ変容してゆくだろう。
また、サイババの登場は、多くの国の人達にインドに対する興味を持たせ、さらに神的な存在について考えを巡らせる機会を与えただけでも充分に意味がある。神的な存在を理解する事はできないし、たぶん理解を超えた存在なのだろう。しかし、神的な何かが存在する事によって、我々の存在にも、単に生まれて死ぬ以上の意味が与えられるのではないかと思う。
そして、神の化身がこの時期にインドに登場する事も決して偶然ではないのだろう。神の化身が現われるのは、人々の無意識がそれをどれだけ望んでいるかによるのだと思う。たとえば、日本にもぽつりぽつりといろいろな新しい教祖が出てくるが、これも日本人の無意識の結晶だと思って、そう間違いではないだろう。そして、現われる教祖の質は、人々の無意識の質によってある程度決まってくるといえるかもしれない。

** 以上で、春の旅の記録を終わります。

春の旅(13)

2007-09-02 19:26:54 | インド旅行記
ブリンダバン
アグラからデリーに帰る途中、マトラーという駅に降りる。
マトゥラーはクリシュナの生まれた場所とされているところだ。クリシュナという名が耳に懐かしいのは、「ハレー クリシュナ ハレー クリシュナ・・・」の歌のせいだろう。
インドでよく見かける、神様のポスター売りの店先に並んでいるクリシュナの絵には、少し青黒い肌をしたふくよかな子供の姿と、牧女に囲まれ横笛を吹く美青年の姿とがある。どちらもインドの物語「バガヴァッド・ギータ」に登場するクリシュナである。天真爛漫で誰もが愛さずにはいられない存在がクリシュナのイメージである。
マトラーは外国人向けの観光地ではないから、駅に英語の表示はほとんどない。待合室の壁に書かれている時刻表にも英語は併記されていない。町に入ってみてもやはり、デリーやアグラに比べれば外国人ずれしていない感じだ。こういった町に入るのは、興味はあるが不安もある。

そもそもマトラーに来る事を薦めてくれたのは、アスィーガートのホテルの屋上で会ったドイツ人だった。「自分はなぜかよく日本人に間違えられるが、日本人と話すのは初めてだ。」と言うそのドイツ人は、シタールを買って予算オーバーしてしまい、部屋代を節約するために屋上のベッドを借りていた。その彼が「アグラは1日で十分だから、ぜひブリンダバンに行った方がよい。」と薦めてくれた。ブリンダバンはマトラーの郊外の地名で、そこにはクリシュナが牧女と踊りを踊った森があったという。
もともと、クリシュナの物語はフィクションのはずなのだから、生誕地にしても、ブリンダバンの森にしてもあまり意味があるとも思えない。しかしクリシュナの話は仏陀よりもさらに以前の話だから、真実はもう誰にもわからない。この目で直接見たり感じたりした事以外は、結局憶測にすぎないのである。もちろん、憶測すること自体は悪い事ではないのだが。

観光案内所に行き、地図があるかとたずねてみるが、あいにく地図は置いていないと言う。
とにかく、そこで教えてもらったホテルの名前をたよりに、ブリンダバンに行ってみた。ブリンダバンまではマトラーの市街から10Kmくらいである。
行ってみると、紹介されたゲストハウスは満室だと断られ、そのゲストハウスで紹介された安宿に落ち着いた。部屋はあまりきれいではないが、家庭的な雰囲気の宿である。まあ宿といっても民家の敷地に貸し部屋が並んでいるといった方がよい。
その宿の造りは、周囲が塀で囲まれており、その塀で囲まれた敷地の、門から見て右奥に母屋があり、左側の塀に沿って貸し部屋が並んでいる。貸し部屋には自炊設備もあった。
庭では主人が縁台の上で昼寝しており、側に飼い猫が2匹いる。日本猫と同じような猫で、毛が短かく、しっぽは長い。インドで猫を見るのは初めてである。
インドの町には、当然の事ながら牛があふれているし、犬やヤギも多くみかける。それから野生の動物では、シマリスや猿が町なかにもいた。
猿には2種類あって、バラナスィやアグラの町で建物の屋根を渡り歩いていたのは茶色い毛をした日本猿のようなタイプだったが、公園など樹木のある所には尾も手も長い黒っぽいタイプがいた。
しかしそれまで猫は見かけなかった。

スチューデントガイドだという10才くらいの少年に案内されて、有名らしい寺院を見て歩いた。この少年は、ブリンダバンの町にオートリクシャで入った時に、「僕はスチューデントガイドです。」と言うので、お願いしたのだが、なかなかよく案内してくれた。この辺りの寺院の周辺には、巡礼宿らしい建物が並んでいて、そこからはクリシュナをたたえる歌が聞こえてきたりした。この町は、観光の町ではなくクリシュナを信仰する人々の巡礼の町なのだろう。

宿の前の通りは夕方近くからホリーの粉かけ祭りになった。ホリーの祝日はカレンダーでは3月5日なのだが、ブリンダバンでは期間が長いのか、それとも違う暦でやっているのか、私にはわからなかった。通りに出るとピンクの粉が飛び散るので、宿の周辺を見学して歩く事もできそうにない。それでも恐いもの見たさで、何回かは通りに出てみた。通りを歩いていると2階の窓から粉や粉を水で溶いたものが降ってくる。粉の色は主にピンクだが、黄色や緑などもある。
さらに夕暮れ近くになると、山車が出て来て、通り一面に粉が撒き散らされた。粉にはいくらか香料が入っているらしく、華やいだ感じになった。粉が付くのは縁起の良い事らしいので、また通りに出て少しばかり粉をかぶった。
その日の夜、宿の周りは夜遅くまでとてもにぎやかで、歌声やざわめきが部屋の中まで押し寄せてきた。

翌日、クリシュナの生誕地にある巨大な寺院に行った。タジ・マハルの時と同じように入り口で厳しい検査があって、手荷物は一切持ち込ませない。ここは寺院の境内の要所要所にも警官が立っていて、ずいぶん監視が厳しかった。
寺院の中のクリシュナの像は、色黒の小柄な男ではなくて、宝塚の舞台から抜け出てきたような、女性的な感じさえする背の高いすらっとした美男だった。現在のインドで信仰されている寺院の神様の像には、ここのクリシュナの像のように色白面長できらびやかな衣装を身につけたものが多く見られた。また、ビシュヌ神やここのクリシュナのように夫婦一対でにこやかに並んでいるものも多い。はじめてこういった像を見た時には、いわゆる宗教とは異質のものを感じたものだが、考えてみれば、磔にされた男の像よりも精神的に良い事だけは間違いない。

**** 写真は、バラナシのヴィシュワナート寺院の神像 ****

春の旅(12)

2007-09-02 18:41:47 | インド旅行記
バーラトプル
サイババのいるプッタパルティを出てから、北インドの観光地を巡って、アグラまで来た。もうすぐデリーである。しかしまだ帰国までには数日ある。観光ルートとしては、アグラからジャイプルに行くのが筋なのだが、観光地にも飽きてきたので、少し目先を変える事にする。
それで行く事にしたのが、バーラトプル鳥獣保護区。
日本から小型の双眼鏡を持参しているし、野鳥の図鑑『COLLINS BIRDS OF INDIA』をカジュラホで買っていたから、バードウオッチングくらいはできそうだ。この鳥獣保護区はアグラからそれほど遠くない。
とりあえずバーラトプルの地図を手に入れようと、政府観光局の事務所を訪ねてみた。すると対応してくれたりっぱなお役人が、しきりにタクシーのチャーターを勧める。タクシー代は1日チャーターして700RSだが、インドルピーの感覚では高額である。その金額で今の宿には6日泊まれる。しかし、タクシーだと帰りに他も見られるとか言われて、結局タクシーを使う事にした。
ITDC御用達のタクシーの運転手は精悍でまじめな感じの男であった。バーラトプルへ向かう道路は真っ直ぐな良い道で、しかも空いていたので、運転手は80キロくらいのスピードで飛ばした。
車から見える風景は、乾いた感じの穀倉地帯で、このような土地にどんな鳥獣保護区があるのだろうかと考えたりした。しかし、一時間も走ったところで、ちょっと森らしい所に入ったら、もうそこがバーラトプル鳥獣保護区の入口だった。

入口の事務所で、ガイドを付けた方が良いと説明を受けた。ガイドがいないとどれほど危険かを係りの人は説明しているらしいのだが、あいにくよくわからない。チャーターのタクシーで行ったものだから、それなりに、余分にお金がかかる事になる。しかし、これも経験と思って、ガイドに案内してもらう事にした。ちなみにこのガイド氏は、1時間当たり75RSだった。学者さんのような?雰囲気の本格的なガイドである。
バーラトプル鳥獣保護区は、森で囲まれた広い湿地帯である。観察のための道が整備されていて、自転車が借りられるので、ひとりでものんびり見てまわる事ができる。ただし、自転車のサドルの高さは、日本のそれに比べてだいぶん高いものだった。またボートを使えば、さらにたくさんの鳥を見る事ができる。
優秀なガイド氏のおかげで、野鳥の図鑑には、すぐに20を超えるマークが付いた。私一人では、とてもそれほどたくさんの種類を見つける事はできなかったはずである。したがって、もし本当に鳥を見るのであればガイドに付いてもらうべきなのだろうと思った。
ガイド氏に2時間ほど案内してもらって、公園のだいたいの雰囲気も分かったので、その後はひとりで自転車を使って公園の中を見て歩いた。森の中の道を行くと孔雀がいた。また、池の水面を見下ろす木の上には、大きなカワセミがいた。日本でたまに見かけるカワセミはすずめくらいの大きさだが、インドのカワセミはヒヨドリくらいの大きさである。ブルーの羽に透き通るような大きな赤いクチバシが魅力的だ。私はカワセミが好きなので、カワセミを見かけるたびに興奮してしまったが、インドでは割にポピュラーな鳥らしい。
インドに住む鳥の色彩は日本に比べるとずいぶんあざやかで、ここが南の国である事を実感させてくれた。
このバーラトプル鳥獣保護区はインドの自然というには、あまりにも手軽だが、それでも、かなり満足のゆくバードウォッチングができる場所だった。

バーラトプルの帰りにファテープル・スィークリーに寄った。この遺跡はタジ・マハルを作った皇帝よりさらに2代前のアクバル大帝が作った都だ。せっかく作ったのに、水不足のため14年使っただけで、別の場所に遷都したらしい。今から400年前の話である。日本であったら400年もたてば「その石垣に当時の面影を残すのみ」になってしまうのだが、全て石造りだから400年くらいでは、つい10年ほど前に作ったかのように残っているのである。だから、これから100年たち200年たちして周囲が変わっていっても、14年しか使われなかったこの都はこのまま変わらずにここにあり続けるのだろう。
このファテープル・スィークリーの礼拝堂にはモスリムの聖人の墓があった。信仰されているらしく、たくさんの人が堂の中に入って墓の周りを回ったり花をあげたりしている。案内してくれたガイドさんに聞くと私が入っても大丈夫らしい。それで、その堂に入って薄暗い墓の周りを回ってみた。
小さいお堂なのだが、タジ・マハルとは全く違ったゾクッとするような雰囲気があった。その違いは、観光地と今現在信仰を集めているものとの差だろうと思った。信仰を集めている場所にただよう霊気のようなものは、そこに祭られている神のものというよりは、そこに集まってくる人々の想念が作り出すもののような気もする。

タクシーは午後3時頃にはホテルに到着してしまったので再びタジ・マハルに行く。南門の外のホテルの屋上でお茶を飲みながら見ていると、何十羽もの鷹が白いドームの金色に輝く尖塔の上をゆっくり旋回しながら上がっていった。それから、前日とは歩くコースを変えてタジ・マハルを楽しんだ。夕方、西日がタジ・マハルの中に差し込むと、内壁の象眼細工や棺を囲む大理石の格子の象眼細工が、その時だけ生き生きと色彩を放って素晴らしかった。

春の旅(11)

2007-09-01 23:10:30 | インド旅行記
タジ・マハル
カジュラホからアグラに行く飛行機もフライトキャンセルになった。おかげでまた高級ホテルに泊まる事ができた。今度は、タジグループのチャンデラというリゾートホテルである。とても花壇の美しい広い庭を持ったホテルで、カジュラホではナンバーワンのホテルだという。それにしても、インディアン・エアラインの成績?は5回飛んで、フライトキャンセル2回、預かり手荷物忘れ1回という、すごい結果だった。
これでは計画のきっちりした旅行をしている人の場合、たいへんな事になってしまうだろう。事実、イスラエルから来ているという人は、他のグループとのデリーでの待ち合わせができなくなって弱っていた。
私のように、高級ホテルに泊まれて美味しいものが食べられるなどと思っているのは例外である。しかし、例外の私にとっては、こういったホテルで、ときどきノンベジタブルなバイキング式の食事を食べさせていただく事は、天の恵みであった。インドに来てからのにわか菜食主義と不規則な食事で、少しダイエットできたと喜んでいたが、実のところ体力も落ちはじめていた。

翌日も空港で一日待たされた。乗客の多くはドイツ人観光客で、結構陽気である。待たされたあげくにやっと飛行機が滑走路に入って来た時には歓声と拍手が起こった。そして夕日の沈む頃に目的地のアグラに着いた。空港から乗ったタクシーの運転手の名前はアリ。タジ・マハルのある土地だけあって、運転手もモスリムである。
宿泊を予定していた目当てのホテルはタジ・マハルの南門前であったが、満室で断られ、結局東門のそばのホテルに落ち着いた。タジマ・ハルの東門まで歩いて3分、庭がきれいで静かな良い宿だ。タジ・マハルといえば世界有数の観光名所のはずだが、その門前の一等地の宿が1泊120RSで泊まれるのだから、日本人の感覚から言えば嘘のようである。しかも隣の部屋の学生はそれを80RSにまけてもらったそうだから、日本の感覚とは全く違うのである。ただし、この宿の場合、お湯が出ない。2月も末だが、朝晩は思いのほか寒く、冷水のシャワーは少々こたえた。

タジ・マハルは夜明けとともに開門する。ただし朝早い時間帯は特別に100RSの入場料を取られるので、外国人の観光客が多い。入場の際のチェックは厳重である。カバンの中を調べ、金属探知器でチェックする。
正門を入ると、タジ・マハルがあった。
日の出を待ちながら、少しずつ建物の方に歩いてゆくのだが、建物との距離がなかなか縮まらない。それでタジ・マハルがイメージよりはるかに大きいことにはじめて気づく。建物の基壇の上に上がった人間がいかにも小さく見える。
大きいのに大きさを感じさせないのはたぶん玉ねぎ型のドームのせいだろう。そんなに巨大なドームがのっているはずがないという思いがある。
やがて、朝日が昇ると建物の全面を覆う白い大理石が薄っすらとピンク色に染まった。朝日にあたって大理石の壁面がところどころキラッと輝いたりする。インド人のガイドが「ジュエルが光っている」と説明しているのが聞こえた。
建物の基壇に上がってみて初めてわかった事だが、この建物は、右から見ても、後ろから見ても、左から見ても、全て正面と同じように作られているのだ。側面は少し手を抜くとか、裏面は模様を省略するとかしてもよさそうなものだが、そういった仕事の仕方ではなく、徹底的に完璧に作ってある。しかも、内壁外壁にある模様は全て大理石に色とりどりの貴石を埋め込んで作られている。だから300年以上たってもほとんど美しさが変わらない。その象眼細工は非常にすばらしいもので、たとえば花びらの一枚一枚まで、微妙な色の変化を考慮して石を選んで埋め込んである。
タジ・マハルは遠くから見て美しいだけでなく、10センチまで近寄ってしみじみ見ればなお美しいのである。巨大な宝石箱とでもいったらいちばん当たっているかもしれない。ムガール皇帝シャー・ジャハンは最愛の妃の亡骸を納めるために、巨大な宝石箱を作ったのだ。
象眼細工をほどこした大理石の美しさに取り付かれてしまうと、ぜひお土産に欲しくなってしまう。実際、土産物屋をのぞくと、大理石に象眼細工を施した小箱や皿がたくさん並んでいる。しかし、本物のタジ・マハルを見た後ではどうしても高価な物に目がいってしまい困った。

春の旅(10)

2007-09-01 23:03:56 | インド旅行記
カジュラホ
カジュラホへの飛行機は結局フライトキャンセルになった。どうなる事かと思ったが、航空会社がホテルを用意してくれて、いわゆる高級ホテルに泊まる事ができた。ホテルが用意されたのは、この便が国際線扱いだったためだと思う。
キャンセルの飛行機に乗る予定だったのは日本人の団体客が多かった。大人数のグループから、日本人ふたりにインド人の現地ガイドというごく小さいグループまでいくつかの団体旅行が同じ飛行機を使っていた。その中にインドに詳しい人がいてインドの物価の事などを教えてくれた。その人が言うには、せめてヒンディー語で数くらい数えられないとインディアンプライスでは買い物はできない、そうである。もっともな話である。
翌日の昼過ぎにやっと飛行機はバラナシを飛びたち、あっという間にカジュラホに着いた。カジュラホで降りた客の中で日本人は私一人だけだった。団体旅行のコースではカジュラホにはあまり寄らないのか、あるいは飛行機が一日遅れたためにカジュラホはパスになったのかもしれない。短期間の旅行での一日の遅れは、かなりのダメージのはずである。
カジュラホの村は、滞在中ずっとにぎやかだった。村の南にある広場にバザールのテント村ができていて、一日中客寄せをしているのだ。その客寄せのスピーカーの音量はものすごくて、狭い村全体に届くのではないかと思うほどである。私ははじめ、てっきり選挙の街頭宣伝かと思った。宿の屋上から見ると、小型の遊覧車のようなアトラクションも用意されていた。後で見学に行ってみたのだが、会場は埃っぽい広場で、そこに日用品、衣類、装身具、工具、刃物、牛の首に付ける鈴、荷車の車輪、トタン製の水タンクなどが並べられていて、近郷近在から集まって来た人達でごった返していた。日本でも田舎の春祭りの神社の境内などでは今でも農具や竹篭などが売られているが、ちょうどそれと同じ雰囲気である。今年一年の仕事を始めるのに先立って、たとえば鎌を新調し、あるいは牛車の車輪の修理をする、そういったバザールなのである。
カジュラホで宿泊した宿のオーナーは日本語を上手に話す人だった。オーナーの兄弟も日本語が話せた。そんな事もあって日本人の客が多い。博物館のすぐ隣と場所もよい。
このホテルで、ボードガヤからの列車で一緒だった夫婦に再び会った。彼らは列車とバスで移動してきたのだ。バラナスィからサトナーまで列車で約7時間、サトナーからカジュラホまでバスで4時間である。
ホテルの屋上で朝食を食べていると、ホテルのオーナーが話し掛けてきた。一人旅の良いところは、ひとりでぼんやりしていると、現地の人が話し掛けてくる事である。もちろん悪い話も多いので、うかつに対応できないのではあるが。
オーナーは、若いが穏やかな感じの知的な人物である。私が、サイババの所に行った事を話すと、オーナーは「自分はまだ行ったことがないが、一度行ってみたいと思っている。」と言っていた。「しかし、飛行機は高くて使えないから鉄道で行く事になるが、遠いのでたいへんだ。」とも言っていた。確かに、カジュラホからプッタパルティは遠い。たぶん二日では着かないだろう。インド人も日本と同じように合理的、科学的、唯物的な教育を受けているから、一般のインドの人にとってもサイババは異質な存在のようである。しかし、政府の高官までがサイババの所に行っている事も事実で、それでオーナーも興味を持ったようであった。
カジュラホには、ちょうど千年前に栄えた王朝の巨大な石造りの寺院群がある。宗教はヒンドゥーなのだが、バラナスィの寺院の簡素な感じとは全く違って、外壁、内壁とも偶像だらけである。しかもどの像も写実的で肉感的で精巧なものである。インドの博物館にはどこも驚くほどの数の石像があるが、このように外壁一面石像で覆われた寺院が、偶像嫌いのイスラムによって破壊されたのであれば、畑や原っぱの土の中から石像はいくらでも発掘されるわけである。
カジュラホのの寺院には「SURYA」と言う神様が祭られている。優美なすらっとした立ち姿で両手に何やら円盤状のものをひとつずつ掲げている。初めスーリヤという名前から「阿修羅」を連想したが、全くの見当違いで、スーリヤは太陽の神であるらしい。しかし、中性的な感じの立ち姿の像には興福寺の阿修羅像と共通する感じが少しある。ただし、スーリヤの表情の方が明るい感じである。
太陽の神という事からすれば密教の大日如来と同根なのかもしれないが、これも見当違いかもしれない。
有名な男女交合のミトナ像は寺院の外壁に見られる。近代・現代の社会では、性的な表現に関してはタブー視する傾向が強いのだが、少なくとも、かつてこの地にはそれと違った文化が花開いていたらしい。ミトナ像を見ていて、理趣経との関連を思ったりした。
こういった像があるせいかどうか、カジュラホでは新婚らしいふたりずれを多く見かけた。私は寺院のある公園のベンチで休憩していて、新婚さんのカメラのシャッターを切るのを何度か頼まれた。
この公園には猿もいれば野鳥もいる。フープーという名の羽冠をもった鳥は芝生に撒いた水を飲みに来るし、ブーゲンビリアには長いクチバシと黒光りした美しい羽を持ったサンバードが寄ってくる。高い木の枝にはグレーのサイチョウも見かけた。インドは野鳥の宝庫である。
宿から離れた東群の寺院を見に行くために自転車を借りた。メインの寺院群は西群と呼ばれ観光客が多いが、東群の寺院には観光客はあまり行かないらしい。東群にはジャイナ教の寺院もあって、生まれたまんまの姿の石像が涼しげに立っていた。自転車で村の外れの寺院に行くと、川で牛を洗う子供たちや、共同井戸で洗濯したり水浴びしたりする光景も見られた。

春の旅(9)

2007-09-01 19:09:12 | インド旅行記
アスィーガート
ホテルを替える事にする。ダサシュワメードはどうにもにぎやかすぎるのだ。それだけでなく、街を歩けばすぐに「マリファナ、はっぱ、女」と声がかかる。もう少し静かなところでのんびりしたかった。それで、ガンジス川の上流の方にホテルを探した。そしてアッスィーガートにあるきれいなホテルが気にいったので、そこに移る事にした。
このホテルのあるアッスィーガートは、今までいたダサシュワメードガートに比べるとはるかに閑散としている。しかし環境は悪くない。そのためか、このホテルには外人の長期滞在者が多くて、テラスや屋上でのんびりしている姿を見かけた。屋上からはバラナシの町もガンジス川もはるかかなたまで続くガートも一望にできるし、食堂の食事もまずまずである。
この辺りにはヒンドゥー教の寺院が多い。ヒンドゥー教の寺院は、どれも石や煉瓦造りの建物で、その中に石造りの像が祭られている。像には黒い石でできたものと、白大理石でできたものがあって、どれも花で飾られていた。有名な寺院には僧侶と思われる人がいて、小銭を出すと額に粉を付けてくれる。ちなみにドルガー寺院では赤い粉だった。信仰の集まっている寺院の前には花を売る店があるので、そこで花を買って具えたりもしてみた。節操がないような気もするが、私は汎神論者だから別にかまわない。
それに、ヒンドゥー教の寺院の雰囲気はどことなく日本の寺院に似ていて、祭られている神々の姿も日本の密教の寺院のそれとなにか通じるものがあるようである。
寺院を探して歩いているうちに、ラームナガル城と呼ばれる、かつてマハラジャの住んでいた城に向かう道に出てしまったので、そのままガンジス川の浮橋を歩いて渡ってみた。浮橋は、大きな鉄製のタンクを並べてその上に鉄板を敷いたもので、川幅は2Kmくらいある。ガンジス川を歩いて渡る事が嬉しくて行きは歩いたが、帰りは疲れて乗合のオートリクシャを使った。
バラナスィにはサイクルリクシャが多い。リクシャマンには英語が通じない人もいるが、行き先だけわかれば問題はない。料金は10RSから20RSくらいの間である。サイクルリクシャに乗ってみると座席が高いのでオートリクシャよりはずっと気持ちいい。それに、歩くのに比べればはるかに速い。ただし欠点は上り坂にさしかかった時乗っているのが申し訳なくなることだ。三輪車だから変速機でも付いていれば楽なのだろうけれど、もちろんそんな便利なものは付いているはずもない。

ホテルは満室である。ホテルの玄関まで来たものの、断られて帰ってゆく日本人の姿もある。日本人の女の子が来た時にはホテルのオーナーに、何とかならないかと聞いてみた。「おまえの部屋に泊めるならそれでもいい。」と言われが、それもできないので、彼女達の意向を聞いてダサシュワメードガートまで送っていった。彼女たちは、次の日にはもう他の町に移動するのだそうで、ガートの近くに泊まりたいと言っていたのだ。まだ昼間だったからどこかに宿を見つけたと思う。

ヒンドゥー大学にある博物館では、学生のストライキのために閉館という事もあった。最初にこの博物館に行った時、風邪のひきはじめで頭が痛かったので、また来ればいいと思って簡単に見て帰ったのだが、翌日は祭日で休館だった。大学が休みの時は博物館も休みらしいのである。それでそのまた翌日、その日はバラナスィを発つ日だったのだが、朝再び行ってみると、今度はストライキで閉館だったのである。博物館の入り口にはサービスマンが集まって来ているのだが門が開かず、そのうち責任者らしい人が来て、今日は閉館という事になったようだった。この博物館には、ニューデリーの国立博物館とはまた違った展示があり、よく見たかったのに残念だった。展示の中には、ニコラス・レーリッヒの絵もあった。この人はロシア生まれで、元々は東洋学者なのだが、絵には独特の引き込まれるような魅力があった。

アガスティア
エンジンの止まりそうなオートリクシャに乗ってしまい、やっとの事で空港に着いたが、カジュラホ行きの飛行機はなかなか来ない。空港のレストランにコーヒーを飲みに行くと、プッタパルティーのサイババのアシュラムで見かけた人がいたので話し込む。彼はこれからボンベイに行き、サイババの元に戻るのだという。彼の話の中にアガスティアの葉が出てきた。なんでも、アシュラムの人に紹介してもらったアガスティアの館に出かけて、自分の『葉』を探してもらったのだそうだ。自分しか知らない身内の名前など当てられて、信じたと言っていた。アガスティアの館の人のほかに、現地語を英語に訳す通訳と英語を日本語に訳す通訳と、2人の通訳が付いたというから本格的である。
アガスティアの葉については、信じている人の書いた本と、信じていない人の書いた本を読んだ事がある。こういった現象は自分で確認しなければ、真偽のほどはわからない。
真偽のほどはわからないが、あまり関らない方が良いような気がする。なぜなら、自分の個人的な未来を知るという事は、それが良い未来であれ悪い未来であれ、また、真実であれ詐欺であれ、あまり本人のためにならないような気がするのだ。あたるも八卦あたらぬも八卦、では雑誌の星占いと変わらないわけで、アガスティアの葉の意味が薄れてしまうし、100%真実だと信じ込んだ瞬間にその予言にがんじがらめに縛られる事になってしまう。
たとえば、雑誌の星占いなど当てにならないと思いつつも、それが結果として何ヶ月か当たり続けると逆にそれに縛られてしまい、あまり良くない星占いが出ていると憂うつになったりするものである。まして、アガスティアの葉などで、悲惨な未来を告げられた日には、目の前が真っ暗になって、実際に悲惨になる前から精神的にぼろぼろになってしまうかもしれない。
確かに、未来予知の能力は、誰でもが多かれ少なかれ持っている能力である。それは、誰でも、一度や二度は夢に未来を見てしまった経験を持っている事でも明らかである。しかし、遠い過去の聖人であるアガスティアという人が、この時代に館に来る人をあらかじめ知っていて、その人の人生を書き残している、というのは話ができ過ぎているように思う。もし仮にアガスティアの葉が実在するにしても、100人が見てもらって、当人の葉が見つかるのはその内のひとりくらいなのではないかと思う。しかしそれでは営利目的の営業活動にはならないわけで、結局、他の99人には詐欺を働く事になる。

もし、自分の未来を知りたいのなら、自分の夢を注意深く観察して記録するのが一番だろう。
夢に未来を見る事を予知夢という。予知夢が実現する時の感覚は、そのシーンの情報を過去に送っているような感じ、である。これでは、当たり前すぎて笑われてしまいそうなのだが、強いて表現すればそんな感じなのである。あるいは「デジャブ」と呼ばれている「かつてどこかで見たような、懐かしい感じ」が、予知夢の実現した時の感じに近いのではないかとも思う。デジャブも予知夢も同じ現象を別の立場で表現しているのかもしれない。予知夢では夢を覚えているが、デジャブでは夢を覚えていないのだ。
予知夢は未来の自分と眠っている自分との間のテレパシーという仮説もある。
テレパシーは距離や時間の前後に関りなく伝達するようで、しかも、いわゆる送信機と受信機の波長が合えば誰とでも交信できるのである。前世の記憶などもこれで説明できるし、透視も説明できる。しかし、それは単に説明できるというだけの事であって、事実はそんな説明のはるかかなたにあると考えた方がよい。ましてや、サイババの起こす「名刺代わり」の物質化現象などは仮説さえ立てられない。

超能力といわれる現象は、この時空が現代の科学レベルでは説明のしようもないものだという事を気付かせてくれ、また、自分たちの存在の意味を考え直さざるを得ない状況を与えてくれるからこそ意義があるのだろう。

**** 写真は、アッスィーガートから見たガンジス川 ****

春の旅(8)

2007-09-01 16:39:43 | インド旅行記
シバラトリ
ムガールサライ駅からオートリクシャでバラナスィの町に帰ってくると、もう祭りが始まっていた。今日は2月16日。シバラトリの前の晩である。オートリクシャはホテルのあるダサシュワメードの近くまでも入る事ができず、だいぶん遠くで降ろされた。そこまで一緒だった日本人夫婦は荷物があるのでサイクルリクシャを拾った。サイクルリクシャはダサシュワメードまで入れるのである。私は適当に歩いてホテルに向かった。途中、ブラスバンドを先頭にした山車の幾組かに出会った。その中にはゾウのいるグループもあった。
ホテルの部屋は3階で、壁ひとつ隔てた隣はレストランのキッチンである。キッチンは夜の12時過ぎまで人の声や食器の音がする。電話予約をした時158RSの部屋と185RSの部屋があるがどちらにするかと聞かれ、158RSにした結果である。少しうるさいのだが、レストランの人と顔見知りになったので、退屈はしなかった。キッチンは階段で直接2階のレストランとつながっているらしい。

朝、日の出前にガンジス川のガートに行った。ガートとは沐浴場の事である。ガンジス川は、乾季で水量が少ないのだろうが、その水面まで石積みの階段が続いている。水面の近くまで降りてみると、ガートの石段は、上流にも下流にもはるか彼方まで続いていて、その石段の上の城壁のような赤茶けた壁に窓が並んでいた。
ここでは、あらゆる人達が皆沐浴をしている。そのためにここにやって来たのだろう。それを船の上から見物している外国人観光客にはおかまいなしに、男の人はパンツ一枚になって川に入り、女の人はサリーを着たままで川に入って、頭まで全部川の中に沈めている。
しかし、自分も川に入ろうという気にはどうしてもならなかった。
私もボートに乗って川の上に出ると、ガートは朝日を受けて赤く染まっていた。弓形に見渡す限り10Kmも続く石造りのガートは、インド人にとってこの場所がどれほど特別な場所なのかを雄弁に語っているようだった。この町は、仏陀が生きた頃にはすでに大きな都市であり、すでに三千年の歴史のある都なのだそうだ。

ガートから上がって、川に沿った路地に入ってみる。薄暗い狭い石畳の路地である。その狭い路地を、人間のほかに牛がゆっくりと歩いている。狭い場所で牛とすれ違うのはちょっと勇気が必要だった。そんな路地を歩くのは、ちょうど悪夢に出てくる迷宮をさまよっているような感じで、だんだん重苦しい気分になってきて広い通りに逃げ出した。

ホテルから少し行った所ににぎやかそうな路地があったので入ってみた。ヴィシュワナート寺院への参道らしい。女性用の装身具を売る店がたくさんあり、神様の絵を売る店やサリーを売る店、花を売る店などが並んでいた。それらを見ながら路地を奥に入ってゆくと人ごみになり前に進めなくなった。それでも並んでいればそのうちに通り抜けられるのかと思っていたが、実はそうではなく、この列は寺院に参拝する人の列だったのだ。見れば、ほとんどの人が手に手に花や水の入った器を持っていた。この寺院にはヒンドゥー教徒以外入れないとガイドブックに書いてあったが、せっかく並んだのでそのまま行ってみる事にする。
そのうち、丸太でできた木の柵によって列の流れは誘導され、柵の外には警官らしい制服の人が並んでいた。列の人に言われてサンダルを脱ぎ、その辺りに置いておく。本来は列に並ぶ前に花屋にでも預けるのが正しかったらしい。当然の事ながらこのサンダルは回収できなかった。寺院の境内に入るとさらにたくさんの警官がずらっと並んでいた。その中には、青い迷彩服の婦人の一隊もいた。あまりに物々しい警戒に驚いてしまう。テレビカメラも並んでいる。人と人の間隔を空けると警官から声が飛ぶので、どの人も前の人との間隔を10センチも空けずに詰めて歩く。
そんな状況だから、寺院をゆっくり見学するゆとりなど全くない。
人の流れに押されながら本堂らしいところに入り、見よう見まねでお金をあげて額に白い粉を付けてもらっって出てくるのがやっとだった。
後でよくよく考えれば、シバ神を祭るシバラトリーの日に、インドでも指折りのシバ神を祭る寺院に、心の準備もせずにのこのこ行ったのだから、こうなるのが当然だったわけだ。しかし、よい経験をしたとは思う。

夜、ダサシュワメード通りを幾つもの山車が通ってゆくのをホテルのベランダから見た。それぞれの山車は発電機を積んだ荷車を従えていて、その電気で隊列の人が担いだネオンサインを点灯させたり、ラウドスピーカーを大音量で鳴らしたりしていた。それぞれのグループは音楽も違い音量も違ったが、それらがベランダからの距離や風向きによって微妙に混ざり合って変化した。かなりうるさくてけばけばしいのだが、なぜか懐かしい気もするのが不思議であった。

サルナート
シバラトリーの翌日、サルナートに行った。中国式にいえば「鹿野苑」。仏陀が初めて、自らの悟りの内容を他の修行者たちに説いた場所である。当時のサルナートは、修行者の集まる場所であったらしい。仏陀はここに来るために、ボードガヤから200Km以上の道のりを着の身着のままの姿で托鉢をしながら歩いたのだろう。それはまるで、新発見をした学者がそれを理解してくれる仲間を求めて歩くようなものにも思える。私の少ない知識の範囲での仏陀という人物像には、あまり神秘的な匂いがなく、すぐれた哲学者のようなイメージが強い。
サルナートには、6世紀に立てられたという巨大なストーパがある。このストーパはボードガヤのストーパに比べるとずっとシンプルな形である。そのストーパの周囲は広い遺跡公園になっていて、公園の奥の柵の中には鹿が飼われていた。
その鹿に与える餌らしいものを売る子供達がいて、寄ってくる。ひとりで公園をブラブラしている外国人は、彼らにとって近づきやすいターゲットなのだろう。
サルナートのストーパにもチベット人の巡礼がいた。私も彼らと一緒にストーパの周りを何回か巡り、ローソクを供えた。

春の旅(7)

2007-09-01 13:08:12 | インド旅行記
バラナスィ
飛行機は3時間遅れてデリーに着いた。深夜になってしまったので、仕方なく、インドに来て最初に泊まったホテルに入った。
翌日、これからの旅に具えて買い物をする。ひとつは南京錠。安宿にはぜひ必要な物である。日本からも持ってきたのだが、それはインドで一般に使われている物に比べると、随分小さいものである。聞いた話では、ドロボーさんはカギを開けて入るのではなく、カギをバールのようなもので壊して入るのだそうで、したがってカギは丈夫な事が第一らしい。それで大きいものを買った。
それから、ホッチキス。「地球の歩き方」は便利なのだが、街を歩きながら見るには大きい。それに日本人をカモにしている人にとっては良い目印でもあるだろう。さいわい、この本は必要なページだけを簡単に外す事ができるので、それをホッチキスで留めて使う事にした。これを二つ折りにするとポケットに入り便利だ。
午後の飛行機でバラナスィに行くので、あらかじめ宿に電話予約をしておいた。バラナスィは日本でいえば、京都みたいな大きな観光地らしいから、現地に行ってホテルを探すのはたいへんそうな気がしたのだ。
インド旅行では、宿の予約はほとんど必要ない。安宿の場合には自分の目で確かめてから、宿を決めるのが基本だと思う。しかし、夜に見知らぬ町で宿を捜すのはあまり楽しい事ではない。まあ、一泊と割り切れば、たいがいの宿なら一晩過ごすことくらいは出来るわけだが。

飛行機は少し遅れてバラナスィに着いた。このフライトだけは、エコノミーが取れなくて、ビジネスクラスだったので、少しばかりリッチな気分を楽しんでしまった。さて、リムジンバスの切符を買って、預かり手荷物の出てくるはずのコンベアの前で待っていたが、私の荷物が出て来ない。一大事である。私以外にもやはり荷物が出て来ない人達がいて騒ぎはじめた。どうやら、デリーの空港に預かり手荷物を一山残して来たらしい。結局、次の便で運ばれるまで、さらに3時間空港で待たされた。こういったトラブルになると私の英語では間に合わないのだが、何とか気持ちは通じるらしい。
荷物の到着を待って空港に残ったのは10人足らずである。残っているのは個人旅行の人だけらしい。
空港の薄暗い到着ロビーでブラブラしていると、団体旅行で来ている日本の老人に話し掛けられた。この人は、これから出発するところだという。彼は若い頃、世界一周をしたのだそうだ。1ドル360円の時代で、外貨の持ち出しが厳しく制限されていた時代の旅行は相当にたいへんだったらしい。それにひきかえ、今は日本人にとって最も海外旅行のしやすい時代である。

結局、ホテルに着いたのは午後9時過ぎ。宿の予約をしておいた効果があったというものだ。しかし、泊まるのはどちらにしろ安宿である。薄暗い路地を入ってゆく時には、この先に本当にホテルがあるのだろうかと思ったものだった。
バラナスィには8泊する予定である。滞在期間が長いのは飛行機の都合による。しかし、バラナスィにそれほど見るべきところがあるとは思えない。
ガイドブックによれば、この周辺には仏教遺跡がたくさんあるらしい。この辺りは仏陀が生きて暮らした場所なのである。たとえば仏陀の生まれたルンピニーはネパール領だが距離にすれば300Km足らず、悟りを開いたボードガヤは250Km、祇園精舎のあったサヘート・マヘートも300Km、沙羅双樹の下で入滅したクシーナガルは200Km。仏陀はずいぶん広い範囲を歩いたものだと思う。しかし現在、交通の便のあまり良くない所が多い。インドではブッダイズムは衰退しているというから訪れる人も少ないのだろう。その中で、乗り換えなしで行けて列車の本数も多いボードガヤに行く事にする。

ボードガヤ
翌朝、荷物をホテルに預け、1泊か2泊のつもりでボードガヤに出かけた。
乗車駅のムガールサライは、バラナスィからガンジス川を渡って30分くらい行った所にある。バラナスィにも駅はあるのだが、デリーとカルカッタを結ぶ幹線はガンジス川の対岸を通っているためバラナスィを通る列車の数は少ないようだ。ムガールサライへ行く途中の国道は、これも幹線の国道らしく大型のトラックが多く、かなりの渋滞である。オートリクシャはその渋滞の車の脇をすり抜けて器用に走って行く。したがってタクシーよりはずっと速い。ただしオートリクシャの欠点はクッションがないに等しい事で、路面の凹凸が直に伝わってくる。そのため、振り落とされないように片手で荷物を抱え、もう一方の手でフレームの鉄パイプを握り締める事になる。

インドの鉄道のシステムはよくわからない。ガイドブックを読むと基本的には2等と1等とエアコンクラスがあって、長距離列車が多いから、各等級に寝台が絡んでくる。急行列車と鈍行では運賃自体が違うので、日本のようにとりあえず乗車券を買って後で必要に応じて急行券を買うというような事はできない。さらにその外に特急料金が必要な列車もある。
今回、私の場合は昼間に2等の自由席に乗るだけなので予約の必要はないらしい。切符の窓口に乗りたい列車名と目的の駅名をメモ書きにして出すと2等の切符と特急券をくれた。ガヤまで204Km52RS、特急券5RSである。それから駅の掲示板で列車の到着ホームを調べて、ホームに出る。ホームには時刻表などは掲示されていないからなんとなく不安なのだが、駅員らしい人の姿はホームに見当たらない。
インドの列車は、日本のように正確に時刻通りには運行されていないようである。それはわかっているつもりである。それでも、到着時刻を5分過ぎ10分過ぎ、あげくに別の列車がホームに入って来たりすると、不安が怒りに変わってきたりする。
列車に書いてある行き先表示はインドの文字のため読めないが、車両に列車ナンバーが必ず書いてあるので、乗ろうとする列車のナンバーを調べておけば間違う事はないのだが。
乗ろうとする列車が入って来たが、2等車の車両は数が少なくとても混んでいるので、2等寝台の車両に乗り込む。昼の間はこの車両にも乗れるらしい。
乗降口付近に立って景色を眺めた。ドアは手動のタイプで開けておく事ができる。ただし、落ちれば大怪我をする事になるから気を付けた方がよいとは思う。線路の両側は一面の畑である。所々畑が黄色く染まっているのは、からし菜の花らしい。途中少し雨が降ったが、雨に遭ったのは今回の旅行ではこの一回だけだった。

ボードガヤはガヤ駅から12Kmの所にある村である。小さな村だが、この村のマハーボーディ寺院には壮大で美しい仏塔が建っていた。靴を脱いで境内に入ると、境内は周囲よりも数メートル低くなっていて、大きな仏塔のまわりには小さな仏塔が幾つも並んでおり、チベット人と思われる僧侶や巡礼が多かった。インドの仏教徒らしい白いサリーを着た婦人のグループもいた。小さな塔と塔の間に板を敷いてチベット式のお祈り五体投地をしているチベット人も数人いたが、その中には白人の女性も一人混じっていた。
仏陀が悟りを開いた菩提樹(の何代目か?)は仏塔の西側にあって、大きく枝を広げていた。その下に金剛座があり、この辺りに線香やロウソクがたくさん供えられている。私も門前で買った線香をあげ、それから余った線香を仏塔の周りにはめ込まれた仏像に一本ずつあげていった。全部の線香を供え終わると、なんとなく満足した気分になった。それから仏塔の周囲をチベット人の巡礼と共に何回も廻ってみた。巡礼は小さな声でお経を唱えていた。以前奈良の長谷寺に行った時、同じような光景を見た事があったのを思い出した。
翌朝は日の出前に出かけ、チベット人の巡礼と大塔の周りを再び廻った。寺院の南に沐浴池があって、その側の木にビーイーターが群れていた。日本語では蜂食い鳥とでも呼ぶのだろうか。緑色の尾羽の2本だけが長く伸びていて、それをなびかせながら飛ぶ小型の美しい鳥である。仏塔の上の方にはインコが巣を作っているらしく、周囲の樹木と仏塔との間を行き来していた。

境内に、ビニール袋に入れた小魚を売る少年がいた。ちょうど金魚掬いの金魚を入れるくらいの袋に金魚くらいの大きさの小魚が入っている。言葉は分からないが、たぶん、これを沐浴池にはなしてやれば功徳がつめるとでも言っているのだろうか。いろいろ商売を考えるものである。物乞いもいる。寺院の周囲は、石造りの柵で囲まれているのだが、その柵の間から手を出して物乞いする老婆がいて、一周してそこを通るたびに「ババ、ババ。」とあわれげな声をあげる。私は耳が聞こえないような、目が見えないような態度でその前を通り過ぎねばならなかった。インドを旅するうちにそういった態度がだんだん身に付く。インドにいると、物乞いさえひとつの仕事なのではないかと思えてくる。物乞いは物乞いを演じ、旅人は旅人を演じるということか。

帰りにガヤ駅に行くと切符売場にはたくさんの人が並んでいた。ライフルを持った警官が物々しく立っている。私は、インドの警官と軍人の区別が付かないので警官と呼んでいるがあるいは軍人かもしれない。そんな中で、いくつか窓口をたらい回しされたが、結局切符が手に入らないので、あきらめて、駅の構内にあるインフォメーションの事務所に聞いてみる。インフォメーッションは、とても親切である。「ストライキだけれどもたぶんそのうちに動き始める。」と言って、すぐに切符を買ってきてくれた。こういった事務所は主に外国人向けらしく、相談に対応した事を記録するために名前を書く事になっている。列車が動き出すまでそこに荷物を置かせてもらって食事を食べに行ったりした。様子を見るために構内の渡線橋に上がってみると、駅員らしい人の一団が駅の外れの線路の上でシュプレヒコールを上げていた。
ガヤ駅のホームであった日本人の夫婦は、もう何ヶ月も旅を続けていると言っていた。私を見て「チベッタンの巡礼かと思った。」と言う。確かに私はそんな身なりであった。
「旅をしていると、リュックひとつの荷物があれば、それで充分生活できるのに、日本だとどうしてあんなにたくさんの物が必要なんだろう。」とも言っていて、なるほどと思った。
列車が動き出したのは3時過ぎだった。走る列車の乗降口に立って沈む夕日を見た。からし菜の花で薄っすらと黄色く色づいた見渡す限りの畑に霞がかかり、その向こうの林にオレンジ色の夕日が沈んでいった。
車両の乗降口の側の荷物置き場に腰掛けてぼんやりしていたら、頭をコンと叩かれた。検札らしい。荷物置き場に座っているのは、別に悪い事ではないのだろうが、こういった場所に座っているのは、頭を叩かれても仕方のない種類の人達が多いらしい。だから、車掌は日本人とわかると怪訝そうな顔をした。
一緒に乗った日本人の夫婦はさきほどからずっと、少し酔った風のインド人の男性に大声で話し掛けられて閉口していた。何を言っているのか私には全くわからなかったが、後で聞くと、その男は民族主義者らしいとの事であった。

春の旅(6)

2007-09-01 10:38:25 | インド旅行記
プッタパルティー
4時間あまり走って、バスはプッタパルティーの村に入った。にぎやかな町である。商店街の狭い道を通り、ピンク色のはでなゴプラムの脇を通ってゆっくりと進んで行く。ゴプラムとは、ヒンドゥー教の神様の彫刻のたくさん載っている塔のような門の事である。
そのゴプラムの辺りから、信者と思われる人々が延々と列を作って並んでいる。バスはその人の列の横を抜けて、もう少し先の、倉庫のような建物に取り囲まれた公園に到着した。聞いてみると、ゴプラムからここまで全部がアシュラムなのだと言う。そして並んでいた人達は、アシュラムに宿泊するための登録の順番を待っているのだと言う。ものすごい人数である。
それで、私はまた考えを変えて、アシュラムの外に宿を捜す事にした。
年配の信者の人にアシュラムの外のホテルをふたつ教えてもらってから、荷物を担いでバスが来た道を引き返した。アシュラム内の通りに面して並ぶ大きなアパートのような建物はどれも信者のための宿泊施設だし、先ほどバスが着いたあたりの倉庫のような建物も宿泊施設だと言う。壮大なアシュラムである。
通用門の手前には、昨日、先にプッタパルティに入っていた霊能力者の人達もいて、陣内さんが声をかけてくれた。
通用門を出ると、ホテルの客引きが寄って来た。しかし、客引きに付いては行かず、教えてもらったホテルへも向かわず、通用門の前にある新しそうなホテルに入ってみる。ホテルの看板を出しているわけでもなく、フロントにも人はいない。それで改装中かと思ったが、いちおう営業しているらしい。出てきた人に部屋を見たいと言うとエレベータに乗せられたが、少し動いたところで止まってしまった。まだ調整中みたいな感じである。しかし、階段は石造りの立派なものだし、トイレもシャワーも本格的な作りである。300RSのこの部屋に泊まる事にする。もっといい部屋があると案内されたのは、アシュラムを見渡す事のできるベランダのある部屋で1泊600RSだという。アシュラムを上から見下ろして悦に入る気にはなれない。
荷物をホテルに置いて、早々にアシュラムに行ってみる。アシュラムに入る通用門はガネーシャゲートと呼ばれている。入ってすぐのところにガネーシャの像が祭ってあるのだ。
シバの息子でありゾウの頭を持った神様のガネーシャは、とても人気のある神様らしい。そのガネーシャの前では、インドの人達が、ちょうど日本人が御地蔵さんにするのと同じように花をあげたりろうそくを点したりして祈っていた。
ダルシャンの行われるマンディールはガネーシャの像のすぐ隣である。マンディールの建物はホワイトフィールドに比べて格段に豪華である。大きさは、正確ではないが野球のグランドくらいはあると思う。マンディールの奥にはサイババの住居があり、住居の建物の前にはシンボルの塔が立っている。事務所や食堂はマンディールの前の道路の両側にある。
アシュラム全体の雰囲気は大学の構内のような感じである。
アシュラムの外には、ホテルと土産物屋や食堂が並び、いわゆる門前町である。道路脇では物売りが野菜や果物の店を広げている。
通用門から出てきた若い日本人と少し話す。彼はアシュラム内のシェッドに泊まっているという。シェッドというのは倉庫のような広い場所で、そこに大人数で寝泊まりしているのだ。他に数人で使用する鍵のかかる部屋もあるが、「かえって、シェッドの方が気楽で良い。」と彼は言っていた。

手紙
プッタパルティーでのダルシャンもホワイトフィールドでのそれと同じである。しかし、会場は2倍くらい広く、舞台も立派。
サイババの動きもこちらの方が生き生きしているように見える。時々、茶目っ気を見せて、会場を笑わせたりさえする。
こちらでは、インタビューと呼ばれるサイババとの個別面談も毎回3組くらい受けている。これは、サイババがダルシャンの会場で自ら指名するのであるが、ほとんどはグループ単位で呼ばれていた。日本人も結構呼ばれているらしく、中には何回も呼ばれている人もいるという。
サイババが信者の中を歩くと、手紙がたくさん差し出される。サイババがその手紙を全て受け取るかというと、そうではない。受け取るべきものだけを受け取る。無理をして渡そうとして、ポイっと投げ返される人もいる。あらかじめ手紙の内容を知っているといわれる所以である。したがって、手紙を受け取らないという事もまた充分にメッセージを含んでいるわけで、なぜ受け取らなかったのかを自分で考えればよいのである。自分でもう一度考える方がずっと効果的な場合が多いはずである。そういう私も、実は手紙を渡せなかった一人である。
とにかく、彼は魅力的である。毎日朝夕の計2回、1回あたり30分くらいはサイババを見ているわけだが、ダルシャンの時刻が近づくと、必ず出かけてしまう。

アシュラムの南側の小高い丘の上に「冥想の木」と呼ばれる良い木陰を作る木があって、その名の通り、そこにはいつも冥想をしたり本を読んだりしている人がいる。2月の半ば、その木はピンポン玉くらいのオレンジ色の実をたくさん付けていた。実の感じは無花果に似ていて、それを目当てに鳥が集まって来ていた。

アシュラムの中は、塀の外の世界に比べれば別世界である。華やいだ感じさえする。神の化身が今この場所にいるとすれば、それは当然の事なのだろう。そういえば、ショールをなびかせて歩く女性たちは、天女に見えない事もない。

ある晩、アシュラムの食堂で食事をしていると、停電で照明が消えた。停電はそれほど珍しい事ではないが、さてどうなる事かと思っていると、暗闇の中で『オーム』の唱和が始まった。沸き上がるように食堂いっぱいに響く『オーム』の声は、灯りが戻ると、スっと静まり、それから、何事もなかったように食事が続いた。

もし、その後の旅の航空券を買っていなかったら、ここにこのまま、もうしばらくとどまっていただろうと思うが、プッタパルティに来て4日目の朝、バスでバンガロールに向かった。座席指定のバスは、5時間かかるバンガロールまで42RS。150円足らずである。
バンガロールで時間があったので、帰国のフライトのリコンファームを済ませておく。

**** 写真は、アシュラムの外の通りの風景 ****