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如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
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春の旅(9)

2007-09-01 19:09:12 | インド旅行記
アスィーガート
ホテルを替える事にする。ダサシュワメードはどうにもにぎやかすぎるのだ。それだけでなく、街を歩けばすぐに「マリファナ、はっぱ、女」と声がかかる。もう少し静かなところでのんびりしたかった。それで、ガンジス川の上流の方にホテルを探した。そしてアッスィーガートにあるきれいなホテルが気にいったので、そこに移る事にした。
このホテルのあるアッスィーガートは、今までいたダサシュワメードガートに比べるとはるかに閑散としている。しかし環境は悪くない。そのためか、このホテルには外人の長期滞在者が多くて、テラスや屋上でのんびりしている姿を見かけた。屋上からはバラナシの町もガンジス川もはるかかなたまで続くガートも一望にできるし、食堂の食事もまずまずである。
この辺りにはヒンドゥー教の寺院が多い。ヒンドゥー教の寺院は、どれも石や煉瓦造りの建物で、その中に石造りの像が祭られている。像には黒い石でできたものと、白大理石でできたものがあって、どれも花で飾られていた。有名な寺院には僧侶と思われる人がいて、小銭を出すと額に粉を付けてくれる。ちなみにドルガー寺院では赤い粉だった。信仰の集まっている寺院の前には花を売る店があるので、そこで花を買って具えたりもしてみた。節操がないような気もするが、私は汎神論者だから別にかまわない。
それに、ヒンドゥー教の寺院の雰囲気はどことなく日本の寺院に似ていて、祭られている神々の姿も日本の密教の寺院のそれとなにか通じるものがあるようである。
寺院を探して歩いているうちに、ラームナガル城と呼ばれる、かつてマハラジャの住んでいた城に向かう道に出てしまったので、そのままガンジス川の浮橋を歩いて渡ってみた。浮橋は、大きな鉄製のタンクを並べてその上に鉄板を敷いたもので、川幅は2Kmくらいある。ガンジス川を歩いて渡る事が嬉しくて行きは歩いたが、帰りは疲れて乗合のオートリクシャを使った。
バラナスィにはサイクルリクシャが多い。リクシャマンには英語が通じない人もいるが、行き先だけわかれば問題はない。料金は10RSから20RSくらいの間である。サイクルリクシャに乗ってみると座席が高いのでオートリクシャよりはずっと気持ちいい。それに、歩くのに比べればはるかに速い。ただし欠点は上り坂にさしかかった時乗っているのが申し訳なくなることだ。三輪車だから変速機でも付いていれば楽なのだろうけれど、もちろんそんな便利なものは付いているはずもない。

ホテルは満室である。ホテルの玄関まで来たものの、断られて帰ってゆく日本人の姿もある。日本人の女の子が来た時にはホテルのオーナーに、何とかならないかと聞いてみた。「おまえの部屋に泊めるならそれでもいい。」と言われが、それもできないので、彼女達の意向を聞いてダサシュワメードガートまで送っていった。彼女たちは、次の日にはもう他の町に移動するのだそうで、ガートの近くに泊まりたいと言っていたのだ。まだ昼間だったからどこかに宿を見つけたと思う。

ヒンドゥー大学にある博物館では、学生のストライキのために閉館という事もあった。最初にこの博物館に行った時、風邪のひきはじめで頭が痛かったので、また来ればいいと思って簡単に見て帰ったのだが、翌日は祭日で休館だった。大学が休みの時は博物館も休みらしいのである。それでそのまた翌日、その日はバラナスィを発つ日だったのだが、朝再び行ってみると、今度はストライキで閉館だったのである。博物館の入り口にはサービスマンが集まって来ているのだが門が開かず、そのうち責任者らしい人が来て、今日は閉館という事になったようだった。この博物館には、ニューデリーの国立博物館とはまた違った展示があり、よく見たかったのに残念だった。展示の中には、ニコラス・レーリッヒの絵もあった。この人はロシア生まれで、元々は東洋学者なのだが、絵には独特の引き込まれるような魅力があった。

アガスティア
エンジンの止まりそうなオートリクシャに乗ってしまい、やっとの事で空港に着いたが、カジュラホ行きの飛行機はなかなか来ない。空港のレストランにコーヒーを飲みに行くと、プッタパルティーのサイババのアシュラムで見かけた人がいたので話し込む。彼はこれからボンベイに行き、サイババの元に戻るのだという。彼の話の中にアガスティアの葉が出てきた。なんでも、アシュラムの人に紹介してもらったアガスティアの館に出かけて、自分の『葉』を探してもらったのだそうだ。自分しか知らない身内の名前など当てられて、信じたと言っていた。アガスティアの館の人のほかに、現地語を英語に訳す通訳と英語を日本語に訳す通訳と、2人の通訳が付いたというから本格的である。
アガスティアの葉については、信じている人の書いた本と、信じていない人の書いた本を読んだ事がある。こういった現象は自分で確認しなければ、真偽のほどはわからない。
真偽のほどはわからないが、あまり関らない方が良いような気がする。なぜなら、自分の個人的な未来を知るという事は、それが良い未来であれ悪い未来であれ、また、真実であれ詐欺であれ、あまり本人のためにならないような気がするのだ。あたるも八卦あたらぬも八卦、では雑誌の星占いと変わらないわけで、アガスティアの葉の意味が薄れてしまうし、100%真実だと信じ込んだ瞬間にその予言にがんじがらめに縛られる事になってしまう。
たとえば、雑誌の星占いなど当てにならないと思いつつも、それが結果として何ヶ月か当たり続けると逆にそれに縛られてしまい、あまり良くない星占いが出ていると憂うつになったりするものである。まして、アガスティアの葉などで、悲惨な未来を告げられた日には、目の前が真っ暗になって、実際に悲惨になる前から精神的にぼろぼろになってしまうかもしれない。
確かに、未来予知の能力は、誰でもが多かれ少なかれ持っている能力である。それは、誰でも、一度や二度は夢に未来を見てしまった経験を持っている事でも明らかである。しかし、遠い過去の聖人であるアガスティアという人が、この時代に館に来る人をあらかじめ知っていて、その人の人生を書き残している、というのは話ができ過ぎているように思う。もし仮にアガスティアの葉が実在するにしても、100人が見てもらって、当人の葉が見つかるのはその内のひとりくらいなのではないかと思う。しかしそれでは営利目的の営業活動にはならないわけで、結局、他の99人には詐欺を働く事になる。

もし、自分の未来を知りたいのなら、自分の夢を注意深く観察して記録するのが一番だろう。
夢に未来を見る事を予知夢という。予知夢が実現する時の感覚は、そのシーンの情報を過去に送っているような感じ、である。これでは、当たり前すぎて笑われてしまいそうなのだが、強いて表現すればそんな感じなのである。あるいは「デジャブ」と呼ばれている「かつてどこかで見たような、懐かしい感じ」が、予知夢の実現した時の感じに近いのではないかとも思う。デジャブも予知夢も同じ現象を別の立場で表現しているのかもしれない。予知夢では夢を覚えているが、デジャブでは夢を覚えていないのだ。
予知夢は未来の自分と眠っている自分との間のテレパシーという仮説もある。
テレパシーは距離や時間の前後に関りなく伝達するようで、しかも、いわゆる送信機と受信機の波長が合えば誰とでも交信できるのである。前世の記憶などもこれで説明できるし、透視も説明できる。しかし、それは単に説明できるというだけの事であって、事実はそんな説明のはるかかなたにあると考えた方がよい。ましてや、サイババの起こす「名刺代わり」の物質化現象などは仮説さえ立てられない。

超能力といわれる現象は、この時空が現代の科学レベルでは説明のしようもないものだという事を気付かせてくれ、また、自分たちの存在の意味を考え直さざるを得ない状況を与えてくれるからこそ意義があるのだろう。

**** 写真は、アッスィーガートから見たガンジス川 ****

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