時刻表
翌日は、鉄道でバンガロールに行くことにする。
ホワイトフィールドの駅に行ってみると、列車は遅れているようで、予定よりひとつ前の列車に乗る事ができた。2時間くらい遅れているらしい。
乗車した各駅停車の車両は座席がベンチのような木製で窓には鉄の格子がはまっている。しかし広くてゆったりしている。
同じホームから乗った学生と、わかったようなわからないような話をする。会話がよくわからないのは私の英語力に問題があるからである。インド人は一般に英語が上手である。だいたい、私の英語力で一人旅をしている事の方に無理があるのに違いない。
しかし幸いなことに、インドでの日本の評判はそれほど悪くはないらしい。学生さんはとても親切で「あなたの降りる駅はこの次ですよ。」と教えてくれて、ひとつ手前の駅で降りていった。列車は、なぜかゆっくりと走っている。それで、1時間近くかかってバンガロールシティー駅に着いた。大きな駅である。
まず、駅の売店で時刻表を買った。その時刻表は、インドの全国版で飛行機の時刻表まで付いているという優れものである。駅名の索引が付いているので調べやすい。この時刻表のおかげで、この後北インドを旅する時には切符の購入が楽になった。
それから、オートリクシャで、インディアンエアラインに行く。
オートリクシャは交差点で停止すると必ずエンジンを止める。これが排気ガスを減らすためなのか、ガソリンを節約するためなのかは知らない。しかし、ガソリンはその他の品物の物価の安さに比べるとかなり割高らしい。
ブッキングオフィスでバラナスィからカジュラポ、カジュラホからアグラの予約をする。バラナスィからカジュラホはキャンセル待ちだがウエイティングナンバーが21番だから多分大丈夫だろうとの事。
とにかくこれで今回の旅行の主要なルートは決まってしまったわけである。結局飛行機を多用した大名旅行になってしまったわけだが、とりあえずこれでひと安心?という気持ちになった。
駅に戻ってバスターミナルを歩いてみる。サイババは近いうちにプッタパルティに戻るという。もともとサイババの本拠地はプッタパルティなのである。そして、今いるホワイトフィールドは別邸のようなものらしい。
プッタパルティへはバンガロールからバスで5時間くらいかかる。飛行場はあるが鉄道はないらしい。結局プッタパルティに行くにはバスかタクシーを使うしかないのだが、相当の人数が一斉に移動する、それこそ大移動になるので、タクシーを確保する事も難しいし、バスにも乗れるかどうかわからないという。それでバスターミナルの下見に来たのだ。移動の段になって、重いザックを背負って右往左往するのはなるべく避けたい。広いバスターミナルをあちこち見て歩いて、バススタンドのナンバーや発車時刻をメモしてから、また列車でホワイトフィールドに帰った。結局、一日がかりであった。
借りている部屋のオーナーがちょくちょく部屋に来る。どうやらこの建物の全部の部屋を貸してしまっているので、自分の落ち着く場所がないらしい。それで、夏に具えて窓に虫除けの網を張る準備をしたり、余った布団を置かせてくれと持ってきたり、「インドはどうですか、サイババはどうですか。」と話し掛けてくる。たいへんによい人なのだが、少しうるさく感じる事もある。
バス移動
高山さんはゴアに出発し、彼の連れてきた陣内さんは本格的な霊能者と共に先にプッタパルティに出発した。
2月9日になると、アシュラムの周辺にタクシーが目立ちはじめた。信者が移動を始めたのだ。様子を見に、夕暮れ頃アシュラムに行ってみる。涼しい風の吹くアシュラムの庭には夕涼みをする人もいれば、バジャンを歌うグループもある。食堂の前で野菜を刻んでいる日本の若者もいる。
庭の一角でバジャンを歌っていた日本人のグループが解散しはじめたので、そちらに行って話を聞く。
どうやらサイババは明日出発するらしい。
そのグループがバスをチャーターしてプッタパルティーへ移動する事は以前に聞いていたので、席が空いていないか尋ねてみると、ラッキーな事にキャンセルがあってひとつだけ空きがあると言う。これこそ、まさにサイババの導くところと思い、ありがたく便乗させていただく事にする。
その翌日ダルシャンが終わると、アシュラムの内も外もあわただしく人が動きはじめ騒然としてきた。私が、部屋に戻り荷物を担いでアシュラム内の集合場所に行くと、ずいぶん日本人が集まっており、荷物の量も相当である。荷物には、スーツケースやリュックのほかに布団や炊事道具、食器などの日用品が多い。たぶんこれらの中には個人の所有物のほかに日本人グループで管理しているものもあるのではないかと思う。日本に帰る時バケツや布団を持って帰るわけにはいかない。
人と車でいっぱいになったアシュラム前の道路にバスを止めさせて、荷物を運び込むと、プッタパルティに向けて出発した。屋根の上の荷台はもちろん、座席の間の通路まで荷物で埋まっている。
バスは日本の観光バスと大差ない、新しいバスである。50人ほどの乗客はほとんど日本人で、その半数くらいは女性である。
彼らが精神的な高みをめざしている事は、雰囲気から充分に伝わってくる。私のように中途半端な人間とはあきらかに違う。
バスの中で次から次ぎに歌われる歌は、バジャンの日本語版なのだろうか、初めて聞く歌ばかりであったが、どれも耳になじむ良い歌であった。私は、とてもおだやかで幸せな気持ちになっていた。そして、プッタパルティに着いたら、私もアシュラムでこの人達と暮らしてみようかとも思った。
バスは、空いた道を、牛に引かせた荷車を追い越し、トラックを追い越し、かなりのスピードで走った。道はプッタパルティに向かって少しずつ下っていた。道路のまわりには、樹木の少ない岩山のような土地が続いていた。
翌日は、鉄道でバンガロールに行くことにする。
ホワイトフィールドの駅に行ってみると、列車は遅れているようで、予定よりひとつ前の列車に乗る事ができた。2時間くらい遅れているらしい。
乗車した各駅停車の車両は座席がベンチのような木製で窓には鉄の格子がはまっている。しかし広くてゆったりしている。
同じホームから乗った学生と、わかったようなわからないような話をする。会話がよくわからないのは私の英語力に問題があるからである。インド人は一般に英語が上手である。だいたい、私の英語力で一人旅をしている事の方に無理があるのに違いない。
しかし幸いなことに、インドでの日本の評判はそれほど悪くはないらしい。学生さんはとても親切で「あなたの降りる駅はこの次ですよ。」と教えてくれて、ひとつ手前の駅で降りていった。列車は、なぜかゆっくりと走っている。それで、1時間近くかかってバンガロールシティー駅に着いた。大きな駅である。
まず、駅の売店で時刻表を買った。その時刻表は、インドの全国版で飛行機の時刻表まで付いているという優れものである。駅名の索引が付いているので調べやすい。この時刻表のおかげで、この後北インドを旅する時には切符の購入が楽になった。
それから、オートリクシャで、インディアンエアラインに行く。
オートリクシャは交差点で停止すると必ずエンジンを止める。これが排気ガスを減らすためなのか、ガソリンを節約するためなのかは知らない。しかし、ガソリンはその他の品物の物価の安さに比べるとかなり割高らしい。
ブッキングオフィスでバラナスィからカジュラポ、カジュラホからアグラの予約をする。バラナスィからカジュラホはキャンセル待ちだがウエイティングナンバーが21番だから多分大丈夫だろうとの事。
とにかくこれで今回の旅行の主要なルートは決まってしまったわけである。結局飛行機を多用した大名旅行になってしまったわけだが、とりあえずこれでひと安心?という気持ちになった。
駅に戻ってバスターミナルを歩いてみる。サイババは近いうちにプッタパルティに戻るという。もともとサイババの本拠地はプッタパルティなのである。そして、今いるホワイトフィールドは別邸のようなものらしい。
プッタパルティへはバンガロールからバスで5時間くらいかかる。飛行場はあるが鉄道はないらしい。結局プッタパルティに行くにはバスかタクシーを使うしかないのだが、相当の人数が一斉に移動する、それこそ大移動になるので、タクシーを確保する事も難しいし、バスにも乗れるかどうかわからないという。それでバスターミナルの下見に来たのだ。移動の段になって、重いザックを背負って右往左往するのはなるべく避けたい。広いバスターミナルをあちこち見て歩いて、バススタンドのナンバーや発車時刻をメモしてから、また列車でホワイトフィールドに帰った。結局、一日がかりであった。
借りている部屋のオーナーがちょくちょく部屋に来る。どうやらこの建物の全部の部屋を貸してしまっているので、自分の落ち着く場所がないらしい。それで、夏に具えて窓に虫除けの網を張る準備をしたり、余った布団を置かせてくれと持ってきたり、「インドはどうですか、サイババはどうですか。」と話し掛けてくる。たいへんによい人なのだが、少しうるさく感じる事もある。
バス移動
高山さんはゴアに出発し、彼の連れてきた陣内さんは本格的な霊能者と共に先にプッタパルティに出発した。
2月9日になると、アシュラムの周辺にタクシーが目立ちはじめた。信者が移動を始めたのだ。様子を見に、夕暮れ頃アシュラムに行ってみる。涼しい風の吹くアシュラムの庭には夕涼みをする人もいれば、バジャンを歌うグループもある。食堂の前で野菜を刻んでいる日本の若者もいる。
庭の一角でバジャンを歌っていた日本人のグループが解散しはじめたので、そちらに行って話を聞く。
どうやらサイババは明日出発するらしい。
そのグループがバスをチャーターしてプッタパルティーへ移動する事は以前に聞いていたので、席が空いていないか尋ねてみると、ラッキーな事にキャンセルがあってひとつだけ空きがあると言う。これこそ、まさにサイババの導くところと思い、ありがたく便乗させていただく事にする。
その翌日ダルシャンが終わると、アシュラムの内も外もあわただしく人が動きはじめ騒然としてきた。私が、部屋に戻り荷物を担いでアシュラム内の集合場所に行くと、ずいぶん日本人が集まっており、荷物の量も相当である。荷物には、スーツケースやリュックのほかに布団や炊事道具、食器などの日用品が多い。たぶんこれらの中には個人の所有物のほかに日本人グループで管理しているものもあるのではないかと思う。日本に帰る時バケツや布団を持って帰るわけにはいかない。
人と車でいっぱいになったアシュラム前の道路にバスを止めさせて、荷物を運び込むと、プッタパルティに向けて出発した。屋根の上の荷台はもちろん、座席の間の通路まで荷物で埋まっている。
バスは日本の観光バスと大差ない、新しいバスである。50人ほどの乗客はほとんど日本人で、その半数くらいは女性である。
彼らが精神的な高みをめざしている事は、雰囲気から充分に伝わってくる。私のように中途半端な人間とはあきらかに違う。
バスの中で次から次ぎに歌われる歌は、バジャンの日本語版なのだろうか、初めて聞く歌ばかりであったが、どれも耳になじむ良い歌であった。私は、とてもおだやかで幸せな気持ちになっていた。そして、プッタパルティに着いたら、私もアシュラムでこの人達と暮らしてみようかとも思った。
バスは、空いた道を、牛に引かせた荷車を追い越し、トラックを追い越し、かなりのスピードで走った。道はプッタパルティに向かって少しずつ下っていた。道路のまわりには、樹木の少ない岩山のような土地が続いていた。

