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如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

春の旅(5)

2007-09-01 04:25:41 | インド旅行記
時刻表
翌日は、鉄道でバンガロールに行くことにする。
ホワイトフィールドの駅に行ってみると、列車は遅れているようで、予定よりひとつ前の列車に乗る事ができた。2時間くらい遅れているらしい。
乗車した各駅停車の車両は座席がベンチのような木製で窓には鉄の格子がはまっている。しかし広くてゆったりしている。
同じホームから乗った学生と、わかったようなわからないような話をする。会話がよくわからないのは私の英語力に問題があるからである。インド人は一般に英語が上手である。だいたい、私の英語力で一人旅をしている事の方に無理があるのに違いない。
しかし幸いなことに、インドでの日本の評判はそれほど悪くはないらしい。学生さんはとても親切で「あなたの降りる駅はこの次ですよ。」と教えてくれて、ひとつ手前の駅で降りていった。列車は、なぜかゆっくりと走っている。それで、1時間近くかかってバンガロールシティー駅に着いた。大きな駅である。
まず、駅の売店で時刻表を買った。その時刻表は、インドの全国版で飛行機の時刻表まで付いているという優れものである。駅名の索引が付いているので調べやすい。この時刻表のおかげで、この後北インドを旅する時には切符の購入が楽になった。
それから、オートリクシャで、インディアンエアラインに行く。
オートリクシャは交差点で停止すると必ずエンジンを止める。これが排気ガスを減らすためなのか、ガソリンを節約するためなのかは知らない。しかし、ガソリンはその他の品物の物価の安さに比べるとかなり割高らしい。
ブッキングオフィスでバラナスィからカジュラポ、カジュラホからアグラの予約をする。バラナスィからカジュラホはキャンセル待ちだがウエイティングナンバーが21番だから多分大丈夫だろうとの事。
とにかくこれで今回の旅行の主要なルートは決まってしまったわけである。結局飛行機を多用した大名旅行になってしまったわけだが、とりあえずこれでひと安心?という気持ちになった。
駅に戻ってバスターミナルを歩いてみる。サイババは近いうちにプッタパルティに戻るという。もともとサイババの本拠地はプッタパルティなのである。そして、今いるホワイトフィールドは別邸のようなものらしい。
プッタパルティへはバンガロールからバスで5時間くらいかかる。飛行場はあるが鉄道はないらしい。結局プッタパルティに行くにはバスかタクシーを使うしかないのだが、相当の人数が一斉に移動する、それこそ大移動になるので、タクシーを確保する事も難しいし、バスにも乗れるかどうかわからないという。それでバスターミナルの下見に来たのだ。移動の段になって、重いザックを背負って右往左往するのはなるべく避けたい。広いバスターミナルをあちこち見て歩いて、バススタンドのナンバーや発車時刻をメモしてから、また列車でホワイトフィールドに帰った。結局、一日がかりであった。

借りている部屋のオーナーがちょくちょく部屋に来る。どうやらこの建物の全部の部屋を貸してしまっているので、自分の落ち着く場所がないらしい。それで、夏に具えて窓に虫除けの網を張る準備をしたり、余った布団を置かせてくれと持ってきたり、「インドはどうですか、サイババはどうですか。」と話し掛けてくる。たいへんによい人なのだが、少しうるさく感じる事もある。

バス移動
高山さんはゴアに出発し、彼の連れてきた陣内さんは本格的な霊能者と共に先にプッタパルティに出発した。
2月9日になると、アシュラムの周辺にタクシーが目立ちはじめた。信者が移動を始めたのだ。様子を見に、夕暮れ頃アシュラムに行ってみる。涼しい風の吹くアシュラムの庭には夕涼みをする人もいれば、バジャンを歌うグループもある。食堂の前で野菜を刻んでいる日本の若者もいる。
庭の一角でバジャンを歌っていた日本人のグループが解散しはじめたので、そちらに行って話を聞く。
どうやらサイババは明日出発するらしい。
そのグループがバスをチャーターしてプッタパルティーへ移動する事は以前に聞いていたので、席が空いていないか尋ねてみると、ラッキーな事にキャンセルがあってひとつだけ空きがあると言う。これこそ、まさにサイババの導くところと思い、ありがたく便乗させていただく事にする。

その翌日ダルシャンが終わると、アシュラムの内も外もあわただしく人が動きはじめ騒然としてきた。私が、部屋に戻り荷物を担いでアシュラム内の集合場所に行くと、ずいぶん日本人が集まっており、荷物の量も相当である。荷物には、スーツケースやリュックのほかに布団や炊事道具、食器などの日用品が多い。たぶんこれらの中には個人の所有物のほかに日本人グループで管理しているものもあるのではないかと思う。日本に帰る時バケツや布団を持って帰るわけにはいかない。
人と車でいっぱいになったアシュラム前の道路にバスを止めさせて、荷物を運び込むと、プッタパルティに向けて出発した。屋根の上の荷台はもちろん、座席の間の通路まで荷物で埋まっている。
バスは日本の観光バスと大差ない、新しいバスである。50人ほどの乗客はほとんど日本人で、その半数くらいは女性である。
彼らが精神的な高みをめざしている事は、雰囲気から充分に伝わってくる。私のように中途半端な人間とはあきらかに違う。
バスの中で次から次ぎに歌われる歌は、バジャンの日本語版なのだろうか、初めて聞く歌ばかりであったが、どれも耳になじむ良い歌であった。私は、とてもおだやかで幸せな気持ちになっていた。そして、プッタパルティに着いたら、私もアシュラムでこの人達と暮らしてみようかとも思った。
バスは、空いた道を、牛に引かせた荷車を追い越し、トラックを追い越し、かなりのスピードで走った。道はプッタパルティに向かって少しずつ下っていた。道路のまわりには、樹木の少ない岩山のような土地が続いていた。

春の旅(4)

2007-08-30 22:21:41 | インド旅行記
ビブーティー
インドに入ってから5日目、バンガロールに着いてから4日目である。
ゲート前の店で背もたれと座布団を買う。これで今日は足や腰の痛みを気にする事なく、サイババに集中する事ができるはずである。
アシュラムの敷地内はいつもきれいに掃除されていてゴミひとつ落ちていない。これはボランティアの人達が掃除しているらしく、会場に集まってくる人々を整理する仕事をしているのもボランティアの人達らしい。
サイババの周囲にも取り巻きの人はいるのだろうが、出家をした僧侶のような人はいないのではないかと思う。そういう職業的な宗教の匂いは感じられない。
サイババを待つ間、前庭の列に並んで座わり本を読んでいると、とてもよい気持ちになってくる。ダルシャンの行われる会場に入ってからもやはり本を読んだり、瞑想?をしたり、待つ時間を楽しむようになってくる。それによって、サイババに会うための準備ができてくるようである。
ダルシャンの会場に最後に入ってくるのは、いつも学生達である。高校生か大学生かわからないが、服装は白で統一されている。その学生達が200人くらい小走りに入ってきて舞台の正面に用意された場所に座る。学生が入り終わるのを待ちかねたように、会場にインド音楽が流れ、ダルシャンが始まる。サイババはふたりをしたがえてゆっくりと歩いて来た。
ホワイトフィールドの会場は、三方が壁のない吹き抜けで、屋根は光が透けるプラスチックの材質のものである。屋根の高さも充分にあって、木陰にいるような開放感がある。その会場の外から、サイババはいつものように会場の外にいる人に手を振って答えたり言葉をかけたりしながらゆっくりと入ってくる。
集まった数千人の視線が全てサイババに向けられる。拍手も歓声もない。会場は静かである。熱狂した感じは全くない。ただみんなの目と心がサイババに注がれている。サイババの移動に合わせてみんなが自然と向きを変える。少しでも長い間、少しでも近くでサイババを感じていたいと、誰もが思っているのだ。
ゆっくり歩いているはずのサイババは、しかしあっというまに会場をくまなく歩き、手紙を受け取ったりビブーティーを出したりする。
ある人は「サイババのいる周囲の空間だけ異次元のような感じがする。」と言い、ある人は「サイババのオーラで会場が満たされている。」と言う。確かにそうかもしれない。二日前に初めてここに来た時は感じなかった何かに、いつのまにか包まれてしまったような気がした。
人によっては「そこに集まっている数千人の人々の欲望で背筋がゾッとするようだ。」と言うが、そんな風な感じはなかった。サイババの信者は「誰でもサイババに呼ばれた者でなけサイババの元に来る事はできない。」と言うが、まあ、広い意味ではそうなのかもしれない。イスカリオテのユダはイエスに呼ばれたのである。

バジャンという神をたたえる歌を歌い終わりサイババが会場を出ていくと、それをもってダルシャンは即終了する。このようなダルシャンが毎日毎日だぶん365日朝夕に行われているはずである。これはすごい事だと思う。もし仮に、彼が神の化身を演じているとすれば、この毎日毎日の興行はとてもやりきれないものなのではないかと思う。

サイババは1926年11月に生まれたというから70才になるわけだが、その年齢に比べればずいぶん若く見える。肌のつやもいいし、精悍な感じさえ受ける。老人には見えないし、魅力的である。

インドには有名な神様がたくさんいる。男神ではシバ、ヴィシュヌ、クリシュナなどが有名だ。女性の神様もたくさんいる。しかしサイババがそういった神の生まれ変わりかというとそうでもない。「そうでもない。」というのは、「一面においてはそうでもある。」ということである。神をどう説明しても一面的な説明にしかならないのである。「すべての宗教の神はひとつである。」とサイババは言う。
ただ、彼はインド人であり、ヒンドゥー教の世界の人である。それでアシュラムにはクリシュナやガネーシャやサラスヴァティーの像が置かれている。その中でもクリシュナは別格らしく、マンディールの祭壇に置かれていたのはクリシュナであった。

アシュラムの近所に、サイババや仏陀の写真の表面にビブーティーなどの粉が吹き出す民家があるというので、高山さんに連れていってもらった。行って見るとごく普通の家なのだが、確かにサイババの写真に白い粉が厚く付着してる。サイババの写真の隣のシルディーのサイババの肖像画には赤い粉がやはり厚く付着している。また、部屋の奥の方には仏陀の絵があって、それには白い粉が付いていた。この場所以外でも同じような現象が起きているという話を聞いている。付着した粉を削り落としても、また数日で元の通りになってしまうという。真偽のほどはわからないが、不思議なものを見せてもらったという感じはした。
私がブッディストだと言うと、その家の主人は仏陀の絵に付いた粉をかき落として紙袋に入れてくれた。粉の下から現われたのは、まるで女性のように美しい色白のヒンドゥーの神様である。「これが仏陀ですか。」と私は主人に聞き返してしまった。しかし、それからついまた手を合わせてしまった。

春の旅(3)

2007-08-30 20:49:33 | インド旅行記
旅の予定
ホテルに戻ると、再び旅の予定の事が気になりだす。今後の予定をある程度決めて、帰国便の予約くらいは取っておかないといけない。「地球の歩き方」とにらめっこして、おおまかな予定を立ててみる。今回の旅行の目的はサイババなのだから、日本に帰るまでアシュラムにいてもいいはずなのだが、せっかく来たのだからとつい思ってしまう。
どうも私はせっかちである。後で思えば、もう一日二日様子を見てから考えたほうがよかったのだろうが、それができない。
翌日には、前日のタクシーの運転手に頼んで航空会社をめぐり、国内線の予約と帰国の便の手配をした。
インド国内は列車を使うべきなのだろうが、鉄道の切符の手配は面倒だとガイドブックに書いてあったので、長距離の移動は飛行機を使う事にした。
まず国内線のインディアン・エアラインに行った。前日作った計画では、十日間くらいサイババの所にいて、それからボンベイに行って、エローラ、アジャンターの仏教遺跡を見て、それからヒンドゥー教の聖地であるガンジス川沿いのバラナスィに行くという予定だったが、調べてもらうとその頃のボンベイ行きの飛行機は全て満席だという。それでその場であっさり計画を変更して、デリー経由で直接バラナスィに行く事にする。なんともいい加減な計画だが、それでもいいような気がしてしまう。
それから次に、帰りのフライトを決めにエア・インディアのオフィスに向かう。オフィスは月曜日のためか混んでいて、11時前に行ったのに昼食休憩を挟んで午後3時近くまで待たされてしまった。
しかし、エア・インディアのオフィスで待たされたおかげで、高山さんという日本人に会う。彼はホワイトフィールドのアシュラムの外に部屋を借りている。これでまた私の予定は少し変わる事になった。実のところ、私はアシュラム内に宿泊する事に若干の抵抗を感じていたので、彼に相談にのってもらってアシュラムの外に部屋を探す事にした。若干の抵抗というのは、主に私がタバコ好きだという事である。
高山さんは、サイババに会いたいという知り合いを連れてバンガロールに来ているが、ゴアの方が好きなようで、近いうちにゴアに戻るという。
さて、彼の話によると、彼が案内してきたその知り合いの女性には若干の霊能力があるのだという。そして、その女性は今やはり日本から来ているもっと本格的な?霊能者と行動を共にしたいと言っているのだそうだ。さすが、サイババの所にはいろんな人が来ているものだと思う。それから、そう思っている私もそのいろんな人のうちの一人にちがいないとも思う。
ホワイトフィールドのサイババのアシュラムの正門前の通りには土産物屋や食堂などが並んでいる。高山さんに連れられて、その店の間を通り抜けて裏手にまわると、小学生くらいの子供たちが何人か集まって来た。高山さんが、空いている部屋があるかどうか子供たちに尋ねると、子供たちはそういった事を知っていて案内してくれる。
案内されたのは家の集まった所からはちょっと離れたアパートのような作りの2階建ての建物である。建物はきれいなピンク色に塗られていて新しい。
部屋を見ると風通しがよさそうなのも気に入ったので借りる事にした。ここは管理人が住んでいるわけでもなく、宿というよりは貸し部屋である。一日250RS。サイババのアシュラムの周辺は外国人が集まるために、インドでも特別に物価が高くなっているらしい。ちなみに、その後の旅の途中、北インドの観光地では同じような部屋が100RSで借りられた。
借りる事になった二階の部屋は眺めもいいし、結構きれいで、静かである。ベットはないが、そのかわりにゴザと敷き布団と枕が2人分置いてあった。これでやっとインドらしい所に来たような気がした。部屋は四畳半くらいで、トイレと水のシャワーのある部屋が付いている。窓には鉄格子がはまっていて、もちろんガラス戸ではなく板戸である。

ωケンタウリ
食べる事についてはインドにいる間あまり困ることはなかった。外国人が立ち寄るような場所ではイタリア料理風のメニューもあるし、インドの食事では、チャパティーという小麦とフスマでできた薄いパンと野菜カレーのセットが食べやすかった。インドではお米も取れるので野菜入りのフライドライスなども食べられる。また、外で食べるのが面倒な時は、クラッカーとバナナとオレンジなどの果物で済ませる事もできる。
飲み水は1リットル容器のミネラルウォーターがどこでも安く手に入るのでそれを持ち歩いていれば全く問題ない。
夕方の7時頃、高山さんに案内してもらって、アシュラム内の食堂に食事に行った。食事はもちろん完全なベジタリアンだが、好きなものを選ぶ事もできるし、味付けも日本人好みの薄味で美味しかった。しかも料金がたいそう安いので、申し訳ないようだった。
夜になってもアシュラムの前の土産物屋はにぎやかだ。日本の夏祭の縁日のような感じである。しかし、にぎやかなのはアシュラムの門前の200メートルほどの場所だけで、ほんの少しそこから離れるともう懐中電灯の必要な田舎の暗い道である。
借りた部屋には裸電球がひとつだけで、本を読むのも疲れるので自然と早寝になった。
翌朝、肌寒いような明け方の3時頃、目が醒めたので南の空を見ると南十字星とωケンタウリが見えていた。ωケンタウリは、子供の頃から見たかった星のひとつだ。星ではなく球状星団なのだが星のように明るく見えるのである。星を見る事を楽しみにしている者にとって、日本では見る事のできない南の空は憧れである。
「ケンタウルス、露をふらせ。」は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の中の『ケンタウルス祭』での子供の囃子言葉だが、これはωケンタウリのイメージだろう。

春の旅(2)

2007-08-29 21:06:02 | インド旅行記
バンガロール
次の日、バンガロールに向かう飛行機はデカン高原の荒涼とした大地の上を南に向かって一直線に飛んだ。窓から下を見下ろせば、高原の土色の大地の上を道路が線のように走っていて、幾つかの道路が集まったところに町のようなものがあった。
バンガロールはデリーから南に1700Km、インド亜大陸でもかなり南にある高原の町である。
ガイドブックによれば、インドでも近代的な都会であるらしい。
空港に着いて、飛行機を降りるとデリーに比べ日差しが強く、南に来たという感じがする。乾いた暖かい風が吹いている。しかし暑いというわけでもない。
空港の出口にはやはりたくさんの人がいて恐いようである。とりあえずタクシーに乗って運転手に尋ねると「今、サイババはホワイトフィールドに来ている。」との事。しかし、このまますぐサイババのいるホワイトフィールドに乗り込む気にはならない。「乗り込む」という表現は変なのだが、私としては少し遠くから様子を覗いて、それからおもむろに接近したい方がよさそうな気がしたのだ。
そこで、SSOJ発行の「聖地へ」という本に載っているラーマ・ホテルに行ってみることにした。
ところが行ってみると、空いている部屋は40US$の部屋だけだという話。40US$は予定外の大金、日本の4000円とは少しばかり意味が違う。後のことを考えて少し迷ったが、だからといって他のホテルを探すのも面倒で、とりあえずそこに泊まる事にしてしまった。立派なソファーや大きなテーブルのある部屋である。
しかしこんな高い部屋に長居はできない。大名旅行をする気は全くない。
このホテルはサイババの信者がよく利用するのだそうで、それらしい服装の白人の姿が多く見られ、サイババに少し近づいた感じはした。
翌朝にサイババのいるホワイトフィールドへ行く事にしてタクシーをフロントに依頼した。
なにはともあれ、なんとなく順調である。日本で考えていた時には、こんなにすぐにサイババを見る事になるとは思っていなかった。
しかし順調であるのはよいのだが、あまり喜びが沸いてこない。日本からわぜわざこんな遠くまで来て、明日はとうとうサイババに会える!という感激が沸き上がってこない。なぜだろうと思う。
たぶんその理由は、期待を裏切られるのではないかという不安にあるのだと思う。
サイババは、ホテルのフロントで貰ったバンガロールの地図に、写真とメッセージが大きく載っているくらいこの町では有名人である。しかし、あまりに有名人でサイババのアシュラムが観光名所のようになっていて、観光客にサイババが手を振ってニヤニヤしていたらどうしようなどと、つまらない事を考えてしまう。「キリストのような聖者」と「商業主義のパンフレットで手を振る男」をうまくひとつに重ねる事ができないのだ。
それと、自分の中にある、宗教に対する拒否反応のようなものが頭をもたげてくるのである。宗教関係の本をひとりで読んだりするのは良いけれど、宗教の事は友人との話題にはしないし、まして宗教組織との係わりは一切ない。信仰はあくまで個人的なものであって、組織的な宗教活動は信仰ではないという思いが強いのである。

ホワイトフィールド
早朝、明るくなり始めた6時頃、老人の運転するタクシーでホワイトフィールドへ向かった。サイババのアシュラムは、バンガロールからマドラスに向かう鉄道の途中にあるホワイトフィールドという駅のすぐそばにある。距離にすればバンガロールから20kmくらいである。
日曜日ということもあって、アシュラムに近づくにつれて、道はバスやタクシーで混雑してくる。みんなアシュラムに向かっているらしい。
運転手の老人は、アシュラムの壁際に車を停めると、車のナンバーを覚えてから行くようにと言う。確かに似たようなインド製の車がたくさん並んでいる。だからナンバーを覚えておかないと帰る時に苦労するのだ。
アシュラムの前の通りには、花や座布団を売る物売りが出ている。
まだ門が開かないのか数人のインド人が並んでいるので、その後ろに並んでいると、すぐに門が開いた。
アシュラムのゲートの所では職員が人の出入りを見ているが、物売りや子供以外はほとんど自由に入れるようだ。

さてアシュラムの中に入ってみる。アシュラムに入っての第一印象は、ずいぶん場違いな所に来てしまったという思いである。実際、アシュラムの内側は、外とは違った特殊な空間であるような感じがした。何がどう特殊なのかはわからないが、とにかく何かが違うようである。
私の嗅覚には、印象的な匂いがいろいろ登録されていて、イメージが匂いを伴って湧いてくるのであるが、このアシュラムにもある特定の匂いが感じられた。しかし、他の匂いと同じようにしばらくすると慣れて区別が付かなくなった。
あるいは、それは昨日も感じた、宗教に対する拒否反応かもしれない。無意識に、自分の心にちょっとバリアーを張っている。自分の立場は、観光客でもないけれど信者でもない。観察者、傍観者である。そう自分の立場を明確にする事で少し落ち着く。

入り口近くの塀の側に立って周囲を見回すと、私のように遠巻きに事の進み具合を見ている人も多い。さいわい、このアシュラムの様子は前に一度テレビで見た事があるので、誰に聞かなくても何とかなりそうな感じである。庭の周囲の適当な場所に靴を脱いで、インドの人達に混じって列に並んで座った。
ダルシャンと呼ばれる朝夕の集会には、サイババに会うため数千人が毎回集まる。集会はアシュラム内にあるマンディール(寺院)で行われるが、マンディールの建物に入るために、まずマンディールの前庭に列を作ってすわり、入る順番を待つようになっている。
私は、コンクリートの上に1時間ほど座っているだけで疲れてしまった。インドの人達はあぐらに慣れているように見える。西洋人には背もたれ付きの座布団を使っている人がかなりいる。
それからしばらくしてくじ引きが行われ、どの列から入るかの順番が決められた。したがって早く並んでいたからといってよい場所にすわれるわけでもないのだが、それでも皆ずいぶん早くから並んで待っている。
そして、マンディールに入る時には金属探知器で危険物のチェックがされる。カメラ、バックはもちろんタバコも持ち込み禁止である。係りの人に注意されて荷物を事務所に預けに行く人もいた。
日本人も含めて外国人の多くは白のクルタ・パジャマを着ている。この服は、オウム真理教の修行服に使われていた関係で、あまり良いイメージがないが、別に服装が悪い事をしたわけではない。
ただし、クルタ・パジャマはインド人にとってもあまり一般的な服装ではないらしく、アシュラムの外からダルシャンに集まってくるインド人の中にクルタ・パジャマを着ている人はあまりいない。
マンディールに入ってからさらに30分ほど待って、足や腰が充分に疲れたところで、場内に音楽が流れはじめた。会場が一瞬ザワッとして、みんなの視線が一点に集まって、その先にオレンジ色の服を着た男が小さく見えた。サイババである。すでに私の周囲の人達は手を合わせたり、手をかざしたり、中腰になったりしている。

さて私はどうしたらよいものかとちょっとまごつく。観察者という態度がこの場にふさわしくないことはすぐにわかったのだが、だからといって、本当に手を合わせて拝むべき対象なのか判断がつきかねるのである。
実は、心の内のどこかで、サイババに会ったらドラマチックな心の変化が起きるのではないかという期待があった事も事実で、もちろんそんな変化は起きないから、それで少しがっかりしたような感じなのだ。失望したというわけではないのだが、期待が大き過ぎた分の反動がきたのである。後で考えてみれば、劇的な効果のある薬にはたいがい強い副作用があるわけで、ゆっくりジワッと効いてくる漢方薬の方が長い目で見れば良いのである。(ただし、薬にはプラシーボ(偽薬)というのもある。ポラシーボでもある程度の効果が得られるのが人間である。)
サイババの態度は実に自然なもので、しかも威厳があった。眼差しは強いのだが、鋭さはなくて、暖かい感じである。彼の特徴的なしぐさは、手のひらを上に向けて空中をなでるような動作だが、そのしぐさもごく自然なもので、好ましく感じられた。

ダルシャンが終わってからアシュラムの事務所に寄り、アシュラムに泊めてもらえるかどうか尋ねてみると、「明日から泊まるなら、明日来てくれ。」とのことで、その日はそれだけにしてホテルに帰った。
午後、明日からのアシュラムでの生活のためにクルタ・パジャマを買おうと思ってバンガロールの町を歩いた。日曜日と言う事もあって閉まっている店が多く、ようやく見つけた店でも、外国人向の1000RSもするものしかなかった。それでクルタ・パジャマはあきらめて、白いインド式のワイシャツを買った。白っぽいコットンパンツを持っているから、一応これで間に合うはずであった。それとサンダルを買った。日常品を買うとだんだんインドの物価がわかってくる。物によって違うが日本円に換算すれば、日本の物価の2割から3割程度である。
買い物の途中でバクシーシ(喜捨)をねだる10歳くらいの女の子に付きまとわれた。私が店に入っても外で待っている徹底さに根負けして、お金を差し出したら、とても喜んでくれたのでこちらもうれしくなってしまった。あまりあげるべきではないのかもしれないが、インド人でもあげている人がいるし、一人にあげたからといって他の子供が我も我もと寄ってくるわけでもないので、心に感じるものがあったらあげてもよいのかもしれない。

春の旅(1)

2007-08-29 06:46:19 | インド旅行記


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< インド旅行記 >
これから、インド旅行の記録をこのプログに載せてゆく事にした。
10年前ほど前に書いたものだから現在の考えとはズレもあるのだが、基本的には当時のままで載せてゆきたい。
このプログでのカテゴリーは「インド旅行記」とした。
春と秋に旅行しているので、各タイトルは「春の旅(№)」、「秋の旅(№)」とする。       
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インドへ
インドへ行こうと思った。神の化身といわれるサイババを一度見ておきたかった。
インドだけでなく他の国の人からも高く評価されているという。イエスのような人物だとも言われているらしい。
そういう人の生きる時代に生まれあわせたのは、非常に幸運な事だとも聞く。
もし本当なら、行ってみる価値は十分にある。本物かどうか、行って見てみればわかるかもしれない。とにかく行ってみようと思って準備を始めた。
インドについての知識は皆無に近い。ガイドブックを拾い読みしたが、あまりよくわからない。日本とはだいぶん事情が違うらしい。
英語が話せれば何とかなるらしいが、あいにく英語とは縁がない。しかし、ガイドブックが田舎の本屋さんに売っているくらいだから、行けば何とかなるに違いない。万事にいい加減になってしまっている私は、それ以上考えるのはやめて、とにかく行ってみる事にした。

出発
2月1日。正午に離陸予定のエア・インディアは遅れた。
成田のロビーで待つ間、ガイドブックを開いては閉じ、開いては閉じ、落着かない。今晩デリーで泊まるホテルさえ決めてないのだが、デリーに到着するのが真夜中ではどうなる事やら見当も付かない。先が思いやられ、心細くなってきた。
夕陽が寒空に沈んで暗くなった頃、飛行機はやっと成田を飛び立った。本当にインド行くのだと、実感する瞬間である。
飛行機は日本列島を南下し、しばらくしてから機首を西に向けた。
気が張っているせいで眠る事はできそうもない。窓の外を見ると、南の空に明るい星が見えている。たぶんカノープスだと思う。
飛行機はずっと左手にカノープスを見ながら東アジアの陸の上を飛んで、いつの間にかベンガル湾に出て、すぐにインドの上空に入った。インドは案外近いと思った。
インデラ・ガンジー空港はオレンジ色のもやに煙っていた。
空港の入国ロビーは、通風ダクトがむき出しになっていたり、ダクトに巻いてある断熱材がはげかけていたり、私の気持ちを引き締めるのには充分な雰囲気であった。
入国して、まず両替をすると、50RS札を100枚ステップルで留めたものを渡された。200ドルを一度に両替したためだろう。財布に入りきる厚さではない。
しかし札束を持つと少しリッチな気分になった。
あとで使ってみると50RS札は、千円札以上に使いでがあった。日本円に換算すると200円以下だから、日本人にとってインドは旅行しやすい国なのである。
機内で知り合った人達と最初の晩だけは行動を共にさせてもらうことにして、タクシーでホテルに向かう。
道には信号機もほとんどなく、明るい照明もあまりなくて、ほこりっぽい風が暗い商店街の横断幕をぱたぱたはためかせて吹いていた。とにかく、ここはインド、頭の中を切り替えなければ、とまた思った。

デリー
翌朝のデリーは、濃い霧に覆われていた。翌日の新聞の一面に霧の写真が大きく載っていたから、濃い霧は割と珍しいのかもしれない。朝の気温は、思いのほか涼しい。薄手の上着をはおってちょうど良いくらいである。
朝起きて、さて、何をしなければならないかと考える。もちろん、今までに考えていなかったわけではないのだが、はっきり決まっている事は何もないのである。「このまま何もしないで、デリーでゴロゴロしてそのまま日本に帰ってしまう事だってできる。」そう思う事で気を楽にさせていたのだが、実際にはそうもいかない。
選択肢はふたつある。ひとつは北インドの観光名所を回りながらだんだん南下して、サイババのいるバンガロールにたどり着くルート。もうひとつはデリーから直接バンガロールに直行するルート。
もちろんインド行きの航空券を手配する時は前者のルートを考えていた。しかし、デリーに着いてみるとやはり不安が大きく膨らんでくる。
そして結局、とりあえずサイババの所に行って、それから先の事はまた後で考えようという事にした。
バンガロールへ行くための航空券を買いにインディアン・エアラインに行く事にする。
タクシーの運転手に旅行代理店に連れて行かれ、少しもめたが、別に悪い代理店ではなかったらしく翌日の航空券が手に入った。ただし、手書きである。
インドの初日とあって、必要以上に力が入っているのが自分でも分かる。
日焼けしていない東洋人は目立ってしまうのだろうか。慣れない英語に四苦八苦し、ボールペンを欲しがる町の若者を振り切っていると、なんでこんな所にわざわざ来てしまったのだろうという思いが沸き上がって来た。
それで、オートリクシャをつかまえて、逃げ込むように国立博物館に入った。首都の国立博物館だけあって立派である。展示品は、ヒンドゥー教や仏教の像が主体だが、宝石の展示室などもある。その宝石の展示室はまさに金庫そのものの作りであった。
展示品の中に仏舎利があった。とてもきれいに展示してあったのは、仏教徒の気持ちに配慮しての事だろうか。
近頃信心深くなっている私は、仏舎利を前にして手を合わせないわけにはいかなかった。イワシの頭も信心から、まして仏陀の骨である。