■旧暦3月29日、木曜日、
(写真)散る桜
火曜日は、夕方から、ウェブ知り合ったパリ在住の哲学者にして生命科学者、paul-allersさん主宰の会「科学の決定論と人間の自由」に参加。この一見矛盾する科学的決定論と人間の自由の関係について、二つの論点を提示した。一つは、科学と自由の起源をめぐる議論が、この問題を考える場合の、一つのヒントになるということ。もう一つは、人間の自由を考える場合、社会的な媒介性を考慮する必要があるということ。
科学も自由も、その起源は、人間と自然の相互作用・物質代謝、つまり、労働に起源がある。労働は、目的定立を特徴としている。活動の前提に目的・理念・設計などが予め存在する。労働は、自然に働きかけるが、たとえば、家を建てる場合に、どういう素材を用いるか、選択する必要がある。どのように、建てるか、その工法を選択する必要がある。このように、目的定立を中心にした活動の中には、人間の「選択」という要素が入り込む。ここに、人間の自由の起源がある。
一方、自然と物質代謝を行う場合、自然のことを人間は知らなければならない。素材の属性や、どの時期に素材が多く採れるのか、どうしたら、安全に採集できるか、などの知識が必要になる。そうした知識は、当初は、観察を通じた、経験的で、技術的・実践的なものだったが、次第に、「なぜ」という疑問に答える形に、整えられてゆく。そこから因果律という概念が生じ、法則定立へと向かうことになる。ここに、科学の発生起源がある。科学には、もともと、人間の目的に応じた、自然存在の操作を行うことがめざされていた
人間の自由は、目的論という形で、労働の主体的・主観的側面に関連し、科学は、因果論という形で、労働の対象的・客観的側面に関連すると言っていい。自由も決定論も労働に起源をもち、労働の二つの契機が独立していくプロセスに対応している。
目的定立を行う人間存在に、もともと、目的定立を行わない自然存在を対象にした科学を適用すると、現在、社会と科学の間で、問題になっているようなさまざまな疎外が発生する。たとえば、個性的で質的な世界を、一般的で、数量的な世界に科学は変換してしまう。科学は、目的定立を行わない自然と同様に、人間を「もの」として、操作対象にしてしまう。
もう一つの論点は、「人間の自由」の社会性に関わる。人間は、集団を構成して存在する。「人間の自由」という概念は、一個人の孤立した人間を想定してしまうが、人間は、社会に媒介されてしか、存在しえない。こう考えると、人間の自由は、選択の自由であるが、その選択は、社会的に方向づけられていると考えることができる。たとえば、特定の集団に所属すれば、その集団の価値観や判断基準の影響を受ける。原発がなければ、電力の安価な安定供給ができない、と考える経団連のような集団は、放射性廃棄物の管理コストやシビアアクシデントのコスト、原発労働の差別構造など、社会全体が抱えるリスクと不合理さには、眼を瞑ったまま、「合理的な選択をする」。このときの選択は、一定の集団イデオロギーで方向づけられている。「人間の自由」の問題は、「人間の不自由」の問題であり、ここには、イデオロギー問題と情報操作の問題が関連してくる。「人間の自由」はそもそも、最初から、一定の方向付けを受けているのである。集団(空間)が人間の思考を規定するからだ。
先日のpaul-aillersさんの講演では、印象に残ったのが、フランスの科学者ラプラス(1749-1827)の極端な決定論的世界観である。ラプラスは、次のように述べている。
「われわれは現在を過去の結果、および未来の原因として見ることができる。もし
もある瞬間における自然を動かす力と自然を構成するすべての物質の位置を知
ることができ、かつそれらのデータを解析できるだけの知性が存在するとすれば、
宇宙の最も大きな物体や最も小さい原子の運動を一つの定式に当て嵌めること
ができるだろう。この知性にとっては不確実なことは何もなくなり、その目には過
去と同様に未来もすべて見えているであろう」
Essai philosophique sur les probabilités
Pierre-Simon de Laplace
(1749-1827)
この出典は、日本語では『確率の哲学的試論』として翻訳されている。
ラプラスの確率論の考え方にある前提と、この究極の決定論には、内的関連がある。確率論一般にも、この事が言えるのか、量子論の考え方と比較検討しながら、考えてみるのは、有意義だろうと思っている。
原発のシビアアクシデントは、確率事象として捉えられているが、その世界観の背後に、決定論的なものが隠されているとしたら、本来目的論的な領域に存在する「人間の自由」を、因果論の領域へ変換してしまうことを意味する。これは、深刻な人間疎外であろう。
☆
Hegel s'est occupé de la vie histroque en philosophe et non en historien; il a élaboré une systématuque historique et non une histoire proprement dite. Son idée du concept est différente de celle de l'école historique. Selon Rothacker(Einleitung in die Geisteswissenschaften, Tübingen, 1920, p.89), il oppose à l'inconscient le conscient; à l'intuition intellectuelle le concept; à l'organisme vivant de la divinité l'organisme de la réalité renfermée dans le concept; à l'esprit du puple l'Etat; aux moers la loi; à l'élément historique pur la raison. Cioan Solitude et destin p. 169
ヘーゲルは、哲学者として歴史的生に興味を持ったのであり。歴史家としてではない。ヘーゲルが構築したのは、歴史的体系であり、狭い意味での、歴史ではなかった。ヘーゲルの概念の理念は、歴史学派の理念とは異なっている。たとえば、セロン・レタカーは、無意識に意識を対立させ、知的直観に概念を対立させ、神の生きた身体に概念で表現された現実の身体を対立させ、民族の精神に国家を対立させ、慣習に法を対立させ、純歴史的な要素に理性を対立させた(『精神科学入門』p.89チュービンゲン、1920)。
■レタカーの対比は、歴史学派の考え方の例。この後、ヘーゲル独自の考え方が述べられる。このエッセイは、1932年発表なので、シオランが、21歳のとき。なんだか、やになってくる。
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