les généalogies des Essais―Delfini Workshop annexe

エセーの系譜をおもに検討。

Cioranを読む(107) Hegel et nous(16) 1932

2012年03月31日 | Cioran

■3月10日、土曜日、

(写真)無題

昨日は、一晩中、ひどい風だった。早朝に目が覚めたので、しばらく、オーデンの「もう一つの時代」を読む。メルヴィルを歌った詩が面白い。ジャクソン・ポロックもそうだったが、戦前の感受性の鋭い英語圏の人たち、とくにアメリカ人は、たいてい、『白鯨』の影響を受けているのではないだろうか。読書が人生の楽しみの中心にあった時代は、どこか、慎み深く懐かしい面影がある。夜、真冬並みの寒さ。石油ストーブを点けた。

晩年、この男はまれに見る静穏の港に入り
故郷に投錨、妻のもとに帰って
彼女の掌の入り江に停泊し、
毎朝、勤めに通った―
仕事がもう一つの島でもあるかのように。

<善>は存在した―それはこの男にとって新しい認識。
彼がこの認識に達するには恐怖が爆発して
吹っ飛ばねばならなかった。だが、その爆風は彼を
あのケープ・ホーンの向うまで吹っ飛ばした―
「この岩礁はエデン、難破の地」と叫ぶ
あの分別ある成功の岬の向うまで。

オーデン「ハーマン・メルヴィル」部分  岩崎宗治訳



Cette formule est trop tranchée pour être la plus juste. L'irrationalisme de Hegel réclame une approche historique. Le processus cosmique représente un effort de rationalisation et de purification de l'esprit au moyen d'une intériorisation progressive; il prouve la présence immanente de l'rrationnel dans le monde et il rend problématique la rationalisation totale. En postulant des contradictions et des synthèses continuelles, la dialectique rend illusoire la possibilité d'une forme close de la vie ou d'une conception précisément circonserte et fixée, comme le fait le rationalisme. L'élément progressif exclut la forme. Hegel a le mérite d'avoir montré que, dans le proscessus dialectique, les éléments opposés ne sont pas de nature statique, qu'ils ne s'excluent pas totalement; qu'ils présentent une concordia discors et non une coincidentia oppositorum. En convertissant l'opposition polaire en schéma dialectique, il a dépassé la logique aristotélicienne. La pensée dialectique n'est pas due seulement à des préoccupations logiques; elle est une expression intellectuelle du sentiment de l'historie, une objectivation transfigurée de l'intériorisation du devenir historique, de la compréhension vivante de l'élement créatif de la progression. Cioran Solitude et destin p. 168

この定式化は、あまりにも的を射ていて、にわかには信じがたいとさえ思える。ヘーゲルの非合理主義は歴史的な考え方を必要とする。宇宙のプロセスは、段階的な内省によって、精神の合理化と純化をめざす試みである。つまり、世界には、非合理的なものが内在的に存在し、世界全体を合理化できるとする考え方に疑問を投げかけているのである。弁証法は、矛盾と継続的な統合を前提とすることで、生が閉ざされた形式に陥ること、つまり、概念が完全に限定的で、固定的になるのを防いでいる。段階的な要素が形式を排除する。合理主義は非合理主義から生まれるのである。ヘーゲルは弁証法のプロセスの中で、対立する諸要素は、静的な自然観に由来するものではなく、互いに排斥し合うものでもないこと、そして、対立する諸要素とは、不一致という一致であり、対立の和解ではないことを示した。ヘーゲルは、対立の極点で、それを弁証法的な図式に転換することで、アリストテレスの論理学を越えた。弁証法という思想は、たんなる論理の問題ではない。それは歴史感覚を伴なった知的な表現であり、歴史的生成を内省し、発展の創造的契機をいきいきと理解することで、客体化を変容させるものなのである。

■このエッセイは、1932年に発表されている。まだ、新カント派的な、ヘーゲル・マルクス解釈が全盛の頃である。また、保守反動の御用思想家ヘーゲルという今でも、見受けられる解釈を踏まえると、シオランの非合理主義者ヘーゲルという理解は、いかに斬新なものかわかる。

Cioranを読む(106) Hegel et nous(15)

2012年03月29日 | Cioran

■旧暦3月8日、木曜日、

(写真)河津桜

朝から、仕事。今日はいい天気である。気分も明るくなる。「春の日やあの世この世と馬車を駆り」(中村苑子)という句が浮かんでくる。この俳句は、映画「イノセンス」の中で、車を運転するシーンの会話に、さりげなく引用されていた。

F/bの友だちがアメリカの詩人・作家のCharles Bukowskiのコメントを引用していて、それは、My theory is if you can't spell a word don't use it.というものなのだが、面白いのは、theoryという名詞の使い方で、ここでは、「理論」ではない。「持論」である。nonnativeが同じことを言おうとすると、my opinionかmy viewとするのではないだろうか。それに対して、my thoeryの響きは、かなり強固な信念という感じがして、面白かった。この酔いどれ詩人、どこか、清水さんを思い出せる...。

仮に、もう一度人生がやり直せるとしたら、ということを、歳を取ったせいか、考えることがある。ぼくは、モンテーニュほど、偉くないので、今と違った人生を考える。大学の数学科を出て、高校か中学の数学教師。数学の問題を解くこと以外、ほかに、なんにも考えない。そんな人間になりたい。これには、数学が得意という仮想現実が含まれるがw。もっとも、実際、教員になっていたら、日の丸・君が代で、問題教師になっていたのは、間違いない。



Comme le dit Richard Kröner, plus qu'aucum autre penseur avant lui Hegel a su rendre le concept irrationnel, ou mettre l'irrationnel sous l'éclairage du concept . La pensée dialectique elle-même ne serait qu'un irrationlisme rendu rationnel: une pensée rationnelle-irrationnelle. Hegel ist ohne Zweifel der gross Irrationalist den die Geschichte der Philosophie kennt(Kröner).

リヒャルト・クレーナーが指摘するように、それまでの、他のどんな思想家よりも、ヘーゲルは非合理的な概念を創造できたし、逆に、非合理的なものを概念の光の下に照らしだすことができた。弁証法の思想自体、合理的に表現された非合理主義でしかない。つまり、合理的な非合理の思想なのである。ヘーゲルは、間違いなく、哲学史上、最大の非合理主義者である(クレーナー)。

■これだから、シオランは止められない。こんな面白いヘーゲル解釈は、初めて読んだ。合理的な非合理主義者。かなり、印象的にも近いし、本質も突いているんじゃないだろうか。


小林秀雄を読む(1):パスカルの「パンセ」について

2012年03月26日 | 小林秀雄

■旧暦3月5日、月曜日、

(写真)無題

このところ、春眠暁を覚えず状態。よく眠っている。家人らが呆れるほど。

昨夜、ETV特集で、「吉本隆明」を観た。一つ感じたのは、自分を原点にして理論を構築していることで、その理論は、自分はこういう人間ですと語っているような響きがある。「原個人」というありえない幻想をベースにするのも、自分の資質と願望から出たものであるように感じられる。社会的媒介のない個人など存在しえない。その言語論も、ナイーブで、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論を越えていない。吉本さんは、詩人的資質を核にした評論家であり、対象を評することを仕事にしてきた人だから、結局のところ、深い批判や思想は展開できなかったのではあるまいか。たとえば、ルカーチの「社会的存在の存在論」のような人間社会の起源にまで迫るような根源的な思索と比べると見劣りがする。観念が常に先行するので、オーム真理教や原発の肯定も、現場に行かないまま、頭の中の操作で出てきた印象が強い。

ただ、観念の操作と観念の分析には、ひいでているので、創作を行う上で、示唆に富んでいる人であることは、確かだと思う。この講演では、横光利一を知った。俳句と小説を書いていたことを始めて知る。純文学と大衆文学の関係について、示唆的な議論をしている人であることも初めて知った。ちょっと、読んでみようかと思う。

小林秀雄と吉本隆明は、日本の近代化を考える上で、問題が集約的に現れている人だという印象をもっているので、二人をテーマ化することは意味があるように思える。



小林秀雄は、一つの「権威」になってしまっている。だから、小林秀雄のチンドン屋は多い。他方で、教条的な思想から、裁断・批判するような、ナイーブな議論も多い気がする。とくに、左派の人々から。小林秀雄は、「日本文明」や「日本の近代」を考える上で、とても、重要な人物だとぼくは思っている。小林秀雄を読むことで、「日本的なるもの」の本質が、浮かび上がっているのではないか。そんな考えから、ぼちぼち、読んでみたいと思っている。これは、日本特殊論や日本優越論に、すぐに回収されてしまう危険をはらんでいるが、ぼくの興味はそうした尊王攘夷的なところにはない。むしろ、日本の「特殊性の普遍性」を議論するところにある。

「パスカルの『パンセ』について」は、1941年7月-8月の『文学界』に書かれている。71年前に書かれたエッセイにしては、飛び抜けたパンセ理解だと思う。このエッセイは、パスカルはironisteではない、という今では、あまり問題にならないテーゼから始まる。

世人は、ironisteといふものを誤解している。ironisteはidéalisteやromantisteから遠いと思ってゐるが、実は、健全で聡明な人からが一番遠いのだ。   新訂小林秀雄全集第7巻p.334

「健全で聡明な人」とパスカルを見ているところは、ニーチェのパスカル観と比較してみると、興味深いものがあるが、ここに、小林秀雄の思想が現れているように思う。パスカルを読むと、理性と信仰を明確に区分し、理性は信仰の領域の問題は扱わないよう自己規制している。これは、デカルトと対照的で、反デカルト、あるいは反近代の一つの特徴を構成しているように思える。小林秀雄が、こういうパスカルを「健全で聡明な人」と規定していることは、とても示唆的に思える。

小林秀雄は、最後のところで、このように述べている。

神が現れた。ここで、ぼくは「パンセ」の中で一番奥の方にある思想に出会う。「人は、神がある人々は盲にし、ある人々の眼は開けたという事を、原則として認めない限り、神の業について何事も解らぬ」そのとおりである、僕らはそういう神しか信じることができないからだ。盲であろうが、目明きであろうが、努力しようが、努力しまいが、厳然として、僕らに君臨するような真理を、ぼくらは理解することはできるが、信じることはできないからだ、なぜなら、それは半真理に過ぎないとパスカルは考えたからである。   同書p.341

ここで小林の言っている「真理」は、transcendant(超越的)である。この「真理」は、「超越神」と紙一重で、ほぼ、同じと言っていいように思う。小林のように、真理と神の問題を分ける理解は、日本的であると同時に、パスカルの反近代性に内在する問題でもあったのだろう。

「人は、真理がある人々は盲にし、ある人々の眼は開けたということを、原則として認めない限り、真理については、何事も解らない」

こう書き変えてみると、近代の裏側を覗くことになる。










Cioranを読む(105) Hegel et nous(14)

2012年03月19日 | Cioran

■旧暦2月27日、月曜日、、北風

(写真)無題

徹夜したら、一発で風邪を引いてしまった。春の風邪である。久しぶりに寝込んだ。寝ながら、川端康成の『掌の小説』を読んだ。短いので、身体に負担がなく、楽に読める。この本は、若いころから愛読しているが、年齢とともに、見えてくるものが異なって、違う本のような感じがする。

思うところがあって、数学の勉強をしようと思っている。はじめに、確率論から検討してみようと計画している。



Nous l'avons vu, Hegel n'était pas un rationaliste dans l'acception actuelle du mot: pour lui, le concept n'était pas une forme rigide, il était un dynamisme; la rationalité du réel n'était pas suprahistorique, elle se réalisait gradullement, en passant par la multiplicité des contradictions immanentes à la rasion universelle. Cioran Solitude et destin

繰り返しになるが、ヘーゲルはいわゆる合理主義者ではない。ヘーゲルにとって、概念というのは、硬直した固定的なものではなく、生きて動いているものだった。現実の合理性というのは、歴史超越的なものではなく、普遍的な理性に内在する多様な諸矛盾をエンジンにして、変化しながら実現されていくのである。

■ストンと腑に落ちる文章である。


Cioranを読む(104) Hegel et nous(13)

2012年03月18日 | Cioran

■旧暦2月26日、日曜日、

(写真)無題

今日は、早く起きたので、空腹を覚えて、コンビニへ買い物に行った。添加物と内部被曝を避けようと思うと、どの食品も惨憺たる状態で、吃驚した。とくに、山崎のパンは添加物がひどい。今日は昼、食事会の後、叔母を特養に見舞い、遅れている確定申告を仕上げる予定。今度から、e-taxにしようかと思っている。

16日に、吉本隆明氏が亡くなったが、以前、本館の方で、原発問題に触れて、氏に対する感想を書いたので、ごらんください。ここから>>> 基本的にこの感想は今も変わらない。

昨日は、哲学塾だった。例によって、非常に刺激的で、学ぶ点が多かった。i先生のレクチャーが終わった後、飲みながら、話していて、非常に面白い話を伺った。最近、ぼくは、フランス語が好きで、エセーの系譜をぼちぼち検討しているけれど、Montaigne、Pascal、Cioranといったmoralistesの系譜は、現代ではどう位置づけられるのか、聞いてみたのである。すると、フランス語のmoralは、日本語の教訓や道徳とは異なり、元気がないときに、moralがない、という使い方をするという。これはドイツ語のGeist(精神・心)にあたり、molaistesの哲学は、ドイツ語ではGeistesphilosophie(精神哲学)になるらしい。精神哲学と言えば、当然、ヘーゲルが代表になる。エセーの系譜は、期せずして、ヘーゲルまで一気に広がりを得たことになる。



La connaisance n'est pas réalisée au cours d'un processus graduel qui justifierait l'existence par l'intuition et qui s'appliquerait ensuite aux principes de la logique formelle. Parce qu'il ne sépare pas la logique formelle de la logique concréte, Hegel unifie implicitement l'intuition et la dialectique. Sinon, celles-ci présenteraient un dualisme que seuls des compromis pourraient surmonter. Cioran Solitude et destin p. 167

知識は、直観によって存在を証明してから、形式論理の諸原則を適用するといった段階を踏んで実現されるわけではない。というのは、ヘーゲルは形式論理と具体的な論理を区別しておらず、暗黙のうちに、直観と弁証法を統一しているからだ。でなければ、直観と弁証法は、妥協するしか克服できない二元論に陥ってしまう。

■一貫して、シオランは、直観と弁証法の統一を、ヘーゲル解釈の要にしている。非常に面白いと思う、

Cioranを読む(103) Hegel et nous (12)

2012年03月17日 | Cioran

■旧暦2月25日、土曜日、、彼岸入り

(写真)無題

暑さ寒さも彼岸まで、の彼岸入りである。今日は雨で比較的暖かい。さて。



Mais ce serait une erreur que de croire que Hegel érait un rationaliste, dans l'acception actuelle du mot. Certes, il s'est prononcé à maites reprises contre le sentimentalisme et l'intuitionisme, dérivés tradis du piétisme. Cependant, chez lui, l'intuition et la dialectique se rassemblent. Cioran Solitude et destin p.167

だが、ヘーゲルが、単純な合理主義者だったと考えるのは間違いだろう。たしかに、ヘーゲルは繰り返し、敬虔主義のセンチメンタリズムや直観主義に厳しい意見を述べているし、敬虔主義を引き継いだ思想に批判的だった。だが、ヘーゲルにとって、直観と弁証法は表裏一体のものなのである。

■ヘーゲルがキリスト教に対して両義的な態度を取ったことを、シオランは、直観と弁証法の一体化として捉えているところが注目される。



Cioranを読む(102) Hegel et nous(11)

2012年03月16日 | Cioran

■2月24日、金曜日、

(写真)無題

核燃料の15%が再利用できる、と原子力委員会事務局が、コスト等検証委員会に説明した問題で、その15%の根拠が明示できなかったことが明らかになったが、昨日の東京新聞では、驚くような事務局の強弁が掲載されていた。使用済の核燃料1000キロのうち、再処理で取り出すのは、10キロのプルトニウムだから、使用済核燃料の再生率は1%になる。ところが、事務局に言わせると、外部から劣化ウランを140キロ投入してMOX燃料を150キロ製造するから、核燃料の再生率は15%のまま、問題はないのだと言うのだ。

率あるいは分数は、だれでも知っているように、全体と部分の関係を数値化したものである。そのとき、部分は、全体に含まれている。これが数値化の前提である。事務局の説明は、「全体の外部」から、数値をもってきて、もとの分母で割るという政治的な操作にすぎない。これを核燃料の再生率と詭弁している。これは、核燃料の再生率が高いという印象操作を行うためのプロパガンダだろう。小学生にもわかるような欺瞞を、いい歳のおじさんが平然と行うのは、「核燃料の再生率は15%」という数値を、以前との整合性を保ったまま、一人歩きさせたいという政治的な思惑があるからなのだろう。「核燃料の再生率は1%」という文言との印象の違いを観れば、一目瞭然である。ひどいものだ。原子力行政に関わる数値操作は、これに留まらないと観るのが自然だろう。



昔の岩波新書は、名著が多かった。今は名著がないとは言わないけれど、タイムリーな話題性を先行させた結果、劣化しているような印象がある。それだけ、昔は、出版に余裕があったのだろう。そんなわけで、古本屋を覗くときの楽しみの一つは、昔の岩波新書を見ることになっている。そうして入手したものに、『ルネサンスの思想家たち』がある。これのモンテーニュの項を読んでいて、非常に驚いた。エセーは、自己省察のテキストだとばかり思っていたが、自己省察に懐疑を加えた方法を用いることで、現代的な問題にまで、突き抜けていることがわかってきた。当時の時代状況を考えると、よくエセーを公にして、殺されなかったと思う。ある面で、ニーチェを先取りし、ヴィトゲンシュタインやレヴィ・ストロースの問題圏にまで届いている。パスカルが天才だとすると、モンテーニュは偉大と言えるかもしれない。これにシオランを加えた、3人を深く読み込むと、とんでもない鉱脈に達するような気がしている。



En faisant cette affirmation, Hegel se distingue nettement du dogmatisme prékantien auquel certain voudraient le rattache et selon lequel l'existence ne serait pas donnée à l'origine, sans que soit nécessaire l'intervention du concept. Cioran Solitude et destin p.167

ヘーゲルは、こう断言はするが、カント以前の独断論とはまったく違う。概念を介在させる必要がないなら、ヘーゲルとカント以前の独断論を結びつける人々も出てくるだろう。そして、カント以前の哲学者たちも言うように、存在は端緒にはならないことになる。

■ヘーゲルとカント以前のドグマティズムははっきり切れているという主張だろう。



Cioranを読む(101) Hegel et nous(10) 1932

2012年03月10日 | Cioran

■旧暦2月18日、土曜日、、東京大空襲67回忌

(写真)3.3

今日も冷たい雨だった。午前中、じっくり新聞を読み、午後、図書館へ出かけるつもりだったが、あまりに寒いので、ベッドで『パスカル伝』(田辺保著 1999年)を読んですごす。そのうち、眠ってしまった。

夕方、去年の3.11以降の日記やブログの記録を読み返した。余震が非常に多く、朝まで眠れない日が続いている。原発事故の動向を気にしながら、仕事や介護に取り組んでいる。異常な状態だった。異常な中にも、日常はあり、家族と外食したり、卒業記念写真を撮ったりしている。

作家の駒沢敏器さんが亡くなった。音楽紀行エッセイ『ミシシッピは月まで狂っている』は好きだった。組織というものと縁を切った直後くらいに読んだせいか、鮮烈な印象が今も残っている。ウェブで調べてみると、ぼくと同世代。いい仕事をしている人だった。ウェブに、沖縄問題を扱った紀行エッセイ「58号線の裏へ」ブログが残されている。どちらも読ませる。



La dialectique est-elle un schéma généralement applicable ou seulement l'expression d'un monde spirituel particulier, de sorte que la dialectique hégélienne ne serait valable que pour l'idéalisme hégélien? La question a été posée par Othmar Spann, pour qui il s'agirait d'une pure contradiction, d'une parodie, comme lorsque les marxistes écartent l'indéalisme mais gardent la dialectique. Spann oublie que la dialectique est mois une structure qu'une méthode; usons d'un paradoxe: une méthode immanente. Pour l'idéalisme hégelien, la méthode n'est pas un procédé transcendant le réel, comme pour l'apriorisme ou pour le subjectivisme transcendantal. La dialectique veut le donné réel dans le concept. Cioran Solitude et dentin 1991 pp. 166-167

弁証法は、一般的に適用できる図式なのか、それとも、特別な精神世界を表現しただけのものなのか。つまり、ヘーゲルの弁証法は、ヘーゲルの理想主義を前提としない限り、有効性はないのか。この問題はオトマール・スパンが提起した。スパンにとって、これは一つの完全な矛盾であり、パロディーだった。というのは、マルクシストは理想主義を退けるが、弁証法は保持しておくからだ。スパンが忘れているのは、弁証法は構造ではなく方法だという点である。パラドックスを活用しよう。それが内在的な方法なのだから。ヘーゲルの理想主義にとって、方法とは、先験主義や超越論的主観主義のように、現実を超越した手法ではないのである。弁証法は、概念の中に所与の現実を観ようとする。

■ヘーゲルがアリストテレスの系譜を引きついでいることを正しく観ていると思う。

Cioranを読む(100) Hegel et nous(9) 1932

2012年03月07日 | Cioran

■旧暦2月15日、水曜日、、西行忌、涅槃会

(写真)無題

今日は、暖かいが、風向きがまた危険な季節に入った。福島の風が廻り込んで、千葉に吹き付ける形だ。天気図は、ここから>>>

この頃、フランス系の思想家の本をよく読む。『モンテーニュ―エセーの魅力―』読了。続いて、『パスカル 痛みともに生きる』をほぼ読み終わった。

前者で、モンテーニュ(1533-1592)への偏見が、なくなった。モンテーニュの保守主義も、一つの問題提起として捉えられる。モンテーニュは、新教旧教両派による長期の内戦が、国家秩序の混乱を招き、結果的に、民衆の疲弊と苦しみにつながったことを目の当たりにしている。ただ、憶病だったり、既得権があるから、といった理由で、保守的になっているのとは、趣が異なる。他方で、モンテーニュは、今では、考えられないが、魔女狩りの時代の真っただ中に生きており、自白の強要や残酷な刑罰を、裁判官として、施行する側にいた。モンテーニュが合理主義、経験主義、実証主義を重視するようになったのは、こうした人間の「暗い狂気」を敵としていたからで、思想というものが、それが敵対した相手とペアで観ないと、全体が見えてこないことをよく教えてくれる。『エセー』は、第三巻がとくに面白そう。モンテーニュのような生き方を貫くことは、人間の一つの理想のように思えるが、そうした生き方を可能にする条件が、だれにでも開かれた社会が良い社会なのだろう。

後者は、パンセの背景が具体的によくわかった。ますます、パスカル(1623-1662)に惹かれる。パスカルを読んでいると、transcendant(超越)ということを考えざるを得ない。これを理解することが、パンセ理解の大きな鍵の一つだろうと思う。

日本のように、四季がはっきりあり、自然災害が、頻繁に起きる風土では、神は、世界を超越して存在するよりも、目のまえの自然の中に存在する、と感じる方が自然なのだろう。自然と人間は、無意識と意識が裁然と区分できないように、本来連続しているのかもしれない。パスカルは、こんなことを述べている。「人間は自分が引きだされてきた無をも、自分が呑み込まれてゆく無限をも、等しく見ることができない」(L199)



Ce que Hegel a reproché à Kant, c'est d'avoir cantonné la dialectique dans la sphère de la raison spéculative, sans l'appliquer aux objets de la spéculation. Il ne comprenait pas que cuex-ci n'avaient pas l'exclusivité de la dialectique des idées cosmologique, car elle concerne égalment tous les objets et tous les concepts. Hegel objective le processu dialectique dans le concret. Ainsi, la contradiction se trouve à la fois dans l'abstrait et dans le donné empirique. Cioran Solitude et destin 1991 p. 166

ヘーゲルはカントの何を非難したのか。それは、弁証法を思弁の対象に適用することなく、思弁的理性の領域に閉じ込めてしまった点である。カントは、思弁の対象が宇宙論的理念の弁証法を独占しているわけではないことを理解していなかった。というのは、弁証法はすべての対象とすべての概念にひとしく関わっているからである。ヘーゲルは、弁証法のプロセスを具体的なものの中に客体化した。そのため、矛盾は、抽象の中にあると同時に経験的な所与の中にもあることになった。

■la dialectique des idées cosmologique(宇宙論的理念の弁証法)とは何か、よくわからないが、カント批判の要点は、抽象と経験を分けた点にあるように思える。