les généalogies des Essais―Delfini Workshop annexe

エセーの系譜をおもに検討。

Cioranを読む(122) Hokusai(7)

2013年04月26日 | Cioran

■旧暦3月17日、金曜日、、強風、満月

(写真)氷川神社

今週から引っ越しの準備に入った。月曜日に業者に見積もりに来てもらい、火曜から具体的な準備に入ったが、タイミング悪く、春の風邪を引いてしまい、体調がよくない。一部搬出だが、業者の見積もりでは、段ボール箱で50箱以上になるというので、いささか、げんなりしている。



La présence constante du sentiment de l'identité détermine une étrange vision de l'individualité, qui devient une expression anonyme du cours universel de la vie. Le détachement et la suspension n'on pas pour but l'interruption de ce cours de la vie, mais un doux bercement donnant l'illusion d'une indépendance absolue des formes particuliéres, alors qu'il exprime en réalité la légèreté et l'envol de la grâce. Cioran Solitude et destin p. 129

自己同一性という感覚が、常に存在するから、個性という奇妙な幻想が生じるのである。個性は、普遍的な生の流れの中では、非個性として現れる。無関心と中断は、この生の流れを断ち切るのではなく、穏やかにゆさぶり、具体的な形式から完全に自律しているという幻想を作りだすのだ。実際、このゆれが風雅の軽みと遊びから来ているとしても。

■この部分は、シオラン自身どこまで気がついているかわからないが、非常に重要なことを述べている。自己同一の感覚が常に存在するから個性という幻想が生じると言っている。これは言いかえれば、「個人」についても当てはまる。個性(individualité)と個人(individu)は相互補完的である。では、自己同一の感覚の起源はどこに求められるのだろうか。私見では、これは「社会関係の先行性」に求められる。つまり、他者、家族、市民社会、企業、国家との関係性が、常に先行するから、自己同一の感覚が存在することができるのだ。近代以降、この自己同一性、アイデンティティという問題がテーマ化されるが、それは、それ以前の時代とは異なった社会関係が生じたためと思う。社会関係は、どの時代でも、常に先行するが、社会関係の質に変化が起きたのだ。それは一言で言えば、「疎外」と言えると思う。社会関係と人間の間に、距離が開き、社会関係が、物象化・客体化してきたために、逆に、個人主義が生じたのだと思える。社会関係は、常に全体性と関わっているからだ。個性という幻想も、起源はここに根ざしている。シオランが、「普遍的な生の流れ」(le cours universel de la vie)と言っているのは、実は、社会関係の全体性と同義である。これも、生の哲学が、存在論と非常に近いところにあったことを示している。シオランが、かなり早い段階で(1932年)「生の哲学者、ヘーゲル」という解釈を打ち出しことは卓見だったと思われる。逆に言うと、ニーチェに依拠して、さかんに、ヘーゲル批判を展開したポストモダニストたちは、今から見ると、トンチンカンだったとも言える。