les généalogies des Essais―Delfini Workshop annexe

エセーの系譜をおもに検討。

Cioranを読む(111) Hegel et nous (20) 1932

2012年04月26日 | Cioran

■旧暦閏3月6日、木曜日、

(写真)無題

11年前の日記を読み返していたら、掲示板で、すいぶん、論争を繰り返している。当時は、意見を戦わせるのが、普通だった。現状を省みるに、議論ができない。F/bでもtwitterでも議論を避けて、良かれ悪しかれ、仲良しこよし状態になっている。古き良き掲示板文化は、今もかすかに残っているが、10年前の熱気は失われている。F/bもtwitterも、そのアーキテクチャーが、議論を前提にしていないのだと思う。誹謗中傷は論外だが、建設的な意見の交換は、リアルも含めて、もっとあっていいような気がする。

お菓子が好きである。高額でないやつ。最近、Market Oのチョコクラッカーに感動した。無添加、100%ピュアチョコレート使用、クラッカーには、天然酵母使用。257円くらい。クラッカーに感動したのは、初めてである。

ちなみに、同じ、Market Oのリアルブラウニーも抜群に美味い。ついでに、面白い飲み物。

オランジーナ

フランスから上陸。オレンジに、グレープフルーツ、マンダミンオレンジなどの果汁をブレンド、微炭酸。1937年誕生。サントリーがオランジーナを買収したらしい。少し苦みがあって、真夏には良さそうだ。もちろん、変な、香料や甘味料は入っていない。




Cell-ci prime l'histoire parce qu'elle agit dans le processu historique. L'esprit est historique mais, comme il est un esprit pensant, il prend conscience de sa suprahistoricité et dépasse le devnir en soi pour s'élever dans l'éternité. La conception de l'historicité organique de l'esprit n'a pas conduit Hegel au relativisme historique, que la conscience contemporaine vit sans pourvoir le dépasser, ce qui ne signifie nullment qu'il n'ait pas de racines dans l'hégélianisme. Le relativisme historique a pour thèse fondatrice l'inconsistance des formzs de la vie historique et leur relativité, qui implique celle des valeurs connexes. Il s'agit d'une instabilité qui empêche de croire à l'efficacité et à la validité des critères de connaissance ou de vie. Cioran Solitude et deitin p.169

理性は歴史を凌駕する。というのは、理性は歴史のプロセスを主導するからだ。精神は歴史的なものであるが、考えるという性格を持っているため、超歴史的実在という意識を抱き、自ら、歴史の流転を超えて、永遠に自らを高めてゆく。精神の有機的歴史という概念のおかげで、現代の意識が克服できずどっぷり漬かっている歴史的相対主義にヘーゲルは陥ることはなかった。だが、そのことは、ヘーゲル主義の中に、歴史的相対主義の影がまったくないということではない。歴史的相対主義は、そのテーゼから言って、歴史的生の形式とその相対主義(たとえば、関連する諸価値の相対性)の間に一貫性がない。相対主義が問題なのは、知識あるいは生の基準が信じられなくなる不安定さを持っているからである。

■生の哲学者、ヘーゲル。生はLebenであるから、生活の哲学者でもあるとは社会哲学者、石塚省二先生の言だが、生の哲学者と考えることで、存在の弁証法的なあり方にも通じ、しかも、現代の知識を集積してゆくという知識の発想とはまったく異なった批判的な知識のありようが、浮かび上がって来る。もともと、実証科学的な知のありようの方が、ごく最近のことであるから、ヘーゲルを検討することは、存在論的な知が弁証法をともなって現れてくる本来の局面に立ち会うことになるのだろう。

Cioranを読む (110) Hegel et nous (19) 1932

2012年04月19日 | Cioran

■旧暦3月29日、木曜日、

(写真)散る桜

火曜日は、夕方から、ウェブ知り合ったパリ在住の哲学者にして生命科学者、paul-allersさん主宰の会「科学の決定論と人間の自由」に参加。この一見矛盾する科学的決定論と人間の自由の関係について、二つの論点を提示した。一つは、科学と自由の起源をめぐる議論が、この問題を考える場合の、一つのヒントになるということ。もう一つは、人間の自由を考える場合、社会的な媒介性を考慮する必要があるということ。

科学も自由も、その起源は、人間と自然の相互作用・物質代謝、つまり、労働に起源がある。労働は、目的定立を特徴としている。活動の前提に目的・理念・設計などが予め存在する。労働は、自然に働きかけるが、たとえば、家を建てる場合に、どういう素材を用いるか、選択する必要がある。どのように、建てるか、その工法を選択する必要がある。このように、目的定立を中心にした活動の中には、人間の「選択」という要素が入り込む。ここに、人間の自由の起源がある。

一方、自然と物質代謝を行う場合、自然のことを人間は知らなければならない。素材の属性や、どの時期に素材が多く採れるのか、どうしたら、安全に採集できるか、などの知識が必要になる。そうした知識は、当初は、観察を通じた、経験的で、技術的・実践的なものだったが、次第に、「なぜ」という疑問に答える形に、整えられてゆく。そこから因果律という概念が生じ、法則定立へと向かうことになる。ここに、科学の発生起源がある。科学には、もともと、人間の目的に応じた、自然存在の操作を行うことがめざされていた

人間の自由は、目的論という形で、労働の主体的・主観的側面に関連し、科学は、因果論という形で、労働の対象的・客観的側面に関連すると言っていい。自由も決定論も労働に起源をもち、労働の二つの契機が独立していくプロセスに対応している。

目的定立を行う人間存在に、もともと、目的定立を行わない自然存在を対象にした科学を適用すると、現在、社会と科学の間で、問題になっているようなさまざまな疎外が発生する。たとえば、個性的で質的な世界を、一般的で、数量的な世界に科学は変換してしまう。科学は、目的定立を行わない自然と同様に、人間を「もの」として、操作対象にしてしまう。

もう一つの論点は、「人間の自由」の社会性に関わる。人間は、集団を構成して存在する。「人間の自由」という概念は、一個人の孤立した人間を想定してしまうが、人間は、社会に媒介されてしか、存在しえない。こう考えると、人間の自由は、選択の自由であるが、その選択は、社会的に方向づけられていると考えることができる。たとえば、特定の集団に所属すれば、その集団の価値観や判断基準の影響を受ける。原発がなければ、電力の安価な安定供給ができない、と考える経団連のような集団は、放射性廃棄物の管理コストやシビアアクシデントのコスト、原発労働の差別構造など、社会全体が抱えるリスクと不合理さには、眼を瞑ったまま、「合理的な選択をする」。このときの選択は、一定の集団イデオロギーで方向づけられている。「人間の自由」の問題は、「人間の不自由」の問題であり、ここには、イデオロギー問題と情報操作の問題が関連してくる。「人間の自由」はそもそも、最初から、一定の方向付けを受けているのである。集団(空間)が人間の思考を規定するからだ。

先日のpaul-aillersさんの講演では、印象に残ったのが、フランスの科学者ラプラス(1749-1827)の極端な決定論的世界観である。ラプラスは、次のように述べている。


「われわれは現在を過去の結果、および未来の原因として見ることができる。もし
もある瞬間における自然を動かす力と自然を構成するすべての物質の位置を知
ることができ、かつそれらのデータを解析できるだけの知性が存在するとすれば、
宇宙の最も大きな物体や最も小さい原子の運動を一つの定式に当て嵌めること
ができるだろう。この知性にとっては不確実なことは何もなくなり、その目には過
去と同様に未来もすべて見えているであろう」

Essai philosophique sur les probabilités

Pierre-Simon de Laplace
(1749-1827)

この出典は、日本語では『確率の哲学的試論』として翻訳されている。

ラプラスの確率論の考え方にある前提と、この究極の決定論には、内的関連がある。確率論一般にも、この事が言えるのか、量子論の考え方と比較検討しながら、考えてみるのは、有意義だろうと思っている。

原発のシビアアクシデントは、確率事象として捉えられているが、その世界観の背後に、決定論的なものが隠されているとしたら、本来目的論的な領域に存在する「人間の自由」を、因果論の領域へ変換してしまうことを意味する。これは、深刻な人間疎外であろう。



Hegel s'est occupé de la vie histroque en philosophe et non en historien; il a élaboré une systématuque historique et non une histoire proprement dite. Son idée du concept est différente de celle de l'école historique. Selon Rothacker(Einleitung in die Geisteswissenschaften, Tübingen, 1920, p.89), il oppose à l'inconscient le conscient; à l'intuition intellectuelle le concept; à l'organisme vivant de la divinité l'organisme de la réalité renfermée dans le concept; à l'esprit du puple l'Etat; aux moers la loi; à l'élément historique pur la raison. Cioan Solitude et destin p. 169

ヘーゲルは、哲学者として歴史的生に興味を持ったのであり。歴史家としてではない。ヘーゲルが構築したのは、歴史的体系であり、狭い意味での、歴史ではなかった。ヘーゲルの概念の理念は、歴史学派の理念とは異なっている。たとえば、セロン・レタカーは、無意識に意識を対立させ、知的直観に概念を対立させ、神の生きた身体に概念で表現された現実の身体を対立させ、民族の精神に国家を対立させ、慣習に法を対立させ、純歴史的な要素に理性を対立させた(『精神科学入門』p.89チュービンゲン、1920)。

■レタカーの対比は、歴史学派の考え方の例。この後、ヘーゲル独自の考え方が述べられる。このエッセイは、1932年発表なので、シオランが、21歳のとき。なんだか、やになってくる。


Cioranを読む(109) Hegel et nous(18) 1932

2012年04月05日 | Cioran

■旧暦3月15日、木曜日、

(写真)初花

朝、小林秀雄の川端康成論を読む。小林秀雄は、人間が、歴史や社会に規定されるという側面を一貫して、認めたがらない。人間が、無媒介に存在するかのような、幻想をふりまく。天稟や生理という動かしがたいものがあるのは、よくわかるが、その現れ方は、社会や時代ごとに、変わっている。

朝からひどい耳鳴りである。自律神経が活発に動いている季節の変わり目は、とくにひどくなる。



Sa tendance à l'individualisation-et non pas à l'individualisme-se manifeste aussi dans constructions de logique et de métaphysique, où il parle du passage de l'abstrait vide à la plénitude de l'universel concret. Lorsque Ernst Troeltsch(Der Historismus und seine Probleme) mentionne la totalité concrète et individuelle comme une catégorie fondamentale de l'histoire, il manifeste de profondes affinités avec la pensée de Hegel. Cioran Solitude et destin p. 169

ヘーゲルの個性重視は、個人主義とは違い、論理と形而上学の構築を通じても表現される。そこで、ヘーゲルが語る言葉は、豊かな具体的普遍を伴なった空虚な抽象である。ロルスク・エルンスト・トレルチは、歴史の根本的なカテゴリーとして、具体的で個別的な全体について言及している(『歴史主義とその諸問題』)が、これはヘーゲルの思想と深いところで通じている。

■歴史を概念で捉える試みが発生したことの歴史的意味というのは、なかなか興味深い。ヘーゲルの場合、弁証法という発想があるために、概念が、歴史的になりえたのだろう。具体的普遍(l'universel concret)や具体的で個別的な全体(la totalité concrète et individuelle)といった、普通の言葉の使用法とは異なった言葉の使用法は、創造的であると同時に、言葉に騙されてしまいそうにもなる。こうした創造的な概念は、どう使えるか、でその価値が決まって来るのではないだろうか。






Cioranを読む(108) Hegel et nous(17) 1932

2012年04月02日 | Cioran

■3月12日、月曜日、

(写真)無題

ぼくに続いて家人が風邪で倒れた。意外に長引いている。春の風邪は油断できない。

締め切りを過ぎた原稿を、朝、どうにか一つ送信。あとは、翻訳原稿。しかし、しばらく詩を書いていないと、どうやって書いていいのか、途方に暮れる。詩を書く習慣の有無。



Les problémes de philosophie de l'histoire qui préoccupent notre époque ont grandement contributé au dévelopement du néohégélianisme. Aucum philosophe n'a mieux senti, mieux compris le foisonnement de la vie historique que Hegel. Il en individualisait les contenus au moyen de la méthode constructive fondée sur la perception différenciée. Il se situe de ce fait aux antipodes des constructions abstractives des sciences naturelles. On comprend ainsi qu'il soit le père des sciences spirituelles. Cioran Solitude et destin p.168

現代の歴史哲学の諸問題は、新ヘーゲル主義の展開に大きく貢献した。ヘーゲルほど、百花繚乱の歴史的な生に対する感受性と理解が深かった哲学者はいない。ヘーゲルは、卓越した認識をベースにした創造的な方法で、生の内容を個性化していったのである。それによって、ヘーゲルは、抽象的な構成を行う自然科学とは対極的な地点に立つことになった。精神科学の父。そうヘーゲルを呼んでもいい。

■ここは、このエッセイの一つの山場だと思う。ヘーゲルを精神科学の父と規定したのは、実に、鋭い。シオランの解釈は、非合理主義者ヘーゲル、生の哲学者ヘーゲル、というものを基本にしているが、ここから、存在論哲学者ヘーゲルまでは、非常に近い。重要なのは、新カント派のように、自然科学的な主客二元論で、ヘーゲルを捉えず、ヘーゲルが、全体性とダイナミズム(弁証法)を重視したのを救い出している点だろう。