les généalogies des Essais―Delfini Workshop annexe

エセーの系譜をおもに検討。

シモーヌ・ヴェイユの『時間について』(1)

2019年06月23日 | Simone Weil






以下は、ガリマールから1999年に出た『シモーヌ・ヴェイユ作品集』の編者、フロランス・ド・リュシによるヴェイユのエッセイ『時間について』の解説である。このエッセイは、ヴェイユが19歳のときに執筆されている。16歳でアンリ四世校に入学し、アランに師事して3年経った段階で、19歳で高等師範学校に入学した年にあたる。高等師範学校に入学しても、ヴェイユはアンリ四世校のアランの授業に出席し続けていた。このリュシの解説を読むと、アランの指導がもっとも良い形でヴェイユに出ていることが伺われる。ヴェイユの時間論は、労働論が基礎にある。時間を見つけて訳出を試みたい。


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1928年に書かれたこの記事は、アランの雑誌にシモーヌ・ヴェイユが発表した二番目のエッセイである。一番目のエッセイは空間の概念に捧げられていた(『知覚について、あるいはプロテウスの冒険』)。二番目のエッセイで、シモーヌ・ヴェイユは労働の定義を与えようとしている。労働は、シモーヌ・ヴェイユによれば、我々の知識の形成にとって本質的な役割を果たしている。「時間と広がりをいつも一緒に[強調は筆者]私に与えてくれるのは、ただ労働の苦難を通じてだけなのである。条件としての時間、私の行動の対象としての広がり」。したがって、世界とは何か、を自問するのことはさほど問題ではない。むしろ、これも一つの世界であるにしても、「いかにして私になったのか、どんな条件の下で私は存在しているのか」、私に課されているのはどんな無力なのか、そして、私が持っているのはいかなる行動力なのか、ということを知ろうとすることこそが重要なのである。









"Figures de Lukács" de Yvon Bourdet (1)

2014年07月05日 | Lukács



Figures de Lukács (1972) de Yvon Bourdet p.25

Encore faut-il ajouter que Lukács ne se contente pas de 《reprendre》la thèse du mtérialisme historique telle qu'ell était professée au début du siècle; elle avait été, en effet, considérablement appauvrie aplatie et, si on peut dire, 《dédialectisée》 dans les images simplistes du 《reflet》. Venu de Hegel, Lukács reintroduit la catégorie de la totalité, a l'intérieur de laquelle le sujet et l'objet ne sont plus séparés.


これにつけくわえなければならなのは、ルカーチは、今世紀初頭にしきりに言明された史的唯物論のテーゼを「取り上げる」ことに満足していない、ということである。実際、そのテーゼは、非常に貧しく平板で、言わば、「反映」という一面的なイメージの中で、「非弁証法化されたもの」なのであった。ルカーチは、ヘーゲルに立ち帰って、その内部では、主観と客観が分離していない全体性というカテゴリーを再び取り出してきたのである。

参考:石塚省二訳

※ ヘーゲル、ルカーチの全体性というカテゴリーの意味が非常によくわかる文章。






La Rochefoucauld (1)

2013年12月01日 | La Rochefoucauld

Il n'y a guère d'homme assez abile pour connaître tout le mal qu'il fait.
La Rochefoucauld Maxes 269

自分のなす悪がすべて手に取るようにわかっている、そんな老獪な人間はめったにいるもんじゃない。
ラ・ロシュフコー 箴言269

Kein Mensch ist klug genug, das ganz Unheil zu ermessen, das er anderen zufügt.
übersetzt von Jürgen von Stackelberg



※ abileという形容詞の翻訳に迷った。二宮フサ訳、岩波文庫では、「知恵のある」と肯定的に訳出している。たしかに、こういう訳も可能と思う。ドイツ語訳では、klugという形容詞を使っている。この言葉は、wise, bright, cuteなどの肯定的な意味の系譜もあが、clever, canny(抜け目のない)、astute(ずるい)といった悪い頭の使い方も意味する。ここでは、habileの海千山千、百戦錬磨といった悪知恵も含む、清濁併せのむイメージを基本とした。
※ 翻訳すると長くなる。これは、日本語に訳出した場合だけでなく、ドイツ語にした場合も言えるのが、興味深い。ここでは、anderen(ほかの人々に)が説明的に加えられている。
※ kein Menschにすると、一人もいない、という意味になるが、フランス語原文は、ほとんどいない、と含みを残している。ただ、日本語にすると、そうなのであって、Il n'y a guèreとkeinは、ほとんどイコールなのだろう。es gibt keinen Menschとしていないのは、構文的には、同じになるが、長くなるので、意味的に同じKein Menschを主語にしたのだろうと思う。
※ connaître(know)をermessenと翻訳しているところが注目される。wissenと単純に相当語に置き換えずにconnaîtreの意味の中で、ermessenの評価する・理解する・把握するという意味の系譜を前面に出した、訳者の解釈が反映している。






Cioranを読む(122) Hokusai(7)

2013年04月26日 | Cioran

■旧暦3月17日、金曜日、、強風、満月

(写真)氷川神社

今週から引っ越しの準備に入った。月曜日に業者に見積もりに来てもらい、火曜から具体的な準備に入ったが、タイミング悪く、春の風邪を引いてしまい、体調がよくない。一部搬出だが、業者の見積もりでは、段ボール箱で50箱以上になるというので、いささか、げんなりしている。



La présence constante du sentiment de l'identité détermine une étrange vision de l'individualité, qui devient une expression anonyme du cours universel de la vie. Le détachement et la suspension n'on pas pour but l'interruption de ce cours de la vie, mais un doux bercement donnant l'illusion d'une indépendance absolue des formes particuliéres, alors qu'il exprime en réalité la légèreté et l'envol de la grâce. Cioran Solitude et destin p. 129

自己同一性という感覚が、常に存在するから、個性という奇妙な幻想が生じるのである。個性は、普遍的な生の流れの中では、非個性として現れる。無関心と中断は、この生の流れを断ち切るのではなく、穏やかにゆさぶり、具体的な形式から完全に自律しているという幻想を作りだすのだ。実際、このゆれが風雅の軽みと遊びから来ているとしても。

■この部分は、シオラン自身どこまで気がついているかわからないが、非常に重要なことを述べている。自己同一の感覚が常に存在するから個性という幻想が生じると言っている。これは言いかえれば、「個人」についても当てはまる。個性(individualité)と個人(individu)は相互補完的である。では、自己同一の感覚の起源はどこに求められるのだろうか。私見では、これは「社会関係の先行性」に求められる。つまり、他者、家族、市民社会、企業、国家との関係性が、常に先行するから、自己同一の感覚が存在することができるのだ。近代以降、この自己同一性、アイデンティティという問題がテーマ化されるが、それは、それ以前の時代とは異なった社会関係が生じたためと思う。社会関係は、どの時代でも、常に先行するが、社会関係の質に変化が起きたのだ。それは一言で言えば、「疎外」と言えると思う。社会関係と人間の間に、距離が開き、社会関係が、物象化・客体化してきたために、逆に、個人主義が生じたのだと思える。社会関係は、常に全体性と関わっているからだ。個性という幻想も、起源はここに根ざしている。シオランが、「普遍的な生の流れ」(le cours universel de la vie)と言っているのは、実は、社会関係の全体性と同義である。これも、生の哲学が、存在論と非常に近いところにあったことを示している。シオランが、かなり早い段階で(1932年)「生の哲学者、ヘーゲル」という解釈を打ち出しことは卓見だったと思われる。逆に言うと、ニーチェに依拠して、さかんに、ヘーゲル批判を展開したポストモダニストたちは、今から見ると、トンチンカンだったとも言える。



Cioranを読む(121) Hokusai(6)

2012年12月14日 | Cioran

■旧暦11月2日、金曜日、、赤穂浪士討ち入りの日

(写真)無題

水曜日に、市の農政課に出向いて、実家の畑で採れたみかんの放射線測定に行ってきた。今年は、柑橘系に多く出ているらしく、柚子は100Bq/kgを越えた畑が見つかり、全市で出荷停止になっている。100Bq/kgは、3.11以前は放射性廃棄物扱いだった。

最近好きなマルクーゼの言葉。

対象化それ自体は、人間の自然性と同じように、人間の本質に属するものであり、「止揚」されることはありえない。革命の理論に応じて止揚され、また、止揚される必要があるのは、対象化の特定の形式、つまり、「物象化」や「疎外」だけである。

マルクーゼ「経済学哲学草稿解釈」



Et c'est nier le substrat profond de l'art(en l'occurence, nous pensons surtout à la peinture)que d'affirmer que la nature très particuliè de la peinture japonaise s'explique pour peu qu'on la fasse dériver de la calligraphie. A la vérité, toute structure aristique specifique a pour origine un sentiment de la vie et une vision primordiale. Si Hokusai manifeste pour le monde animal une compréhension tellment vive qu'il lui attribue un contenu humain, n'est-ce pas en raison d'un sentiment de l'identié origanique, en raison d'une participation intime au rythme universel? Parce qu'elle est étroitement liée à l'existence, parce qu'elle dégage un charme naif, parce qu'elle suscite un ravissement esthétique, chaque oeuvre de Hokusai est une nouvelle révélation de l'unité, initiale, le Tao. Cioran Solitude et destin p.129

日本絵画の起源を少しでも書道に求めようとすると、日本絵画は非常に特殊なものだからと言われる。こういう断定は、日本芸術(この場合、絵画)には、深遠な本質はないと言っているのに等しい。実際、芸術に固有な全体構造の起源は、生活感情と原初的世界観である。北斎が動物の世界を生き生きと理解し、それに人間的な内実を与えられたとすると、それは、人と動物は生きものとして同じだという感情があったからではないのか、普遍的なリズムと心底一体になっていたからではないのか。北斎の作品は存在と固く結びつき、無垢な魅力がある。さらに、その作品は美的な恍惚感を呼び起こす。北斎の作品は、原初的な統一体、つまりタオの新しい表現なのである。

■日本語にしにくい個所だったが、内容的には面白いと思う。北斎の世界は、言語によって対象が具体化される以前の原初的統一体の表現だという考え方は、ニーチェの影響が強く見られる。生の哲学が、一茶などに見られるアニミズムと近いところにあったことも見えてくる。古代の存在論との類縁性。

Cioranを読む(120) Hokusai(5)

2012年11月04日 | Cioran

■旧暦9月21日、日曜日、

(写真)大涌谷

先日亡くなった若松孝二監督が、手帳に書き留めておいたという言葉に、感銘した。群れない。頼らない。ブレない。褒められようとしない。これができれば、人生、大成功だろう。社会的な評価や富は、だれもが、死ぬ事実の前に、空しく思われてくるのではなかろうか。やがて、富と地位を利用して、iPS細胞で、再生を続けて生きようとする人も出てくるかもしれないが、永遠という観念ほど、退屈なものはない。




Ce qui frappe, chez Hokusai, c'est la négation de la gravation: les homme et les objets sont émancipés de la pesanteur, ils semblent flotter, être suspendus.

En effet, la grâce émancipe de la pesanteur. Nous ne parlon évidemment pas de la grâce en tant que note immanente et conconstitutive du monde objectif, ce qui friserait l'absurde; nous voulons dire que la vision de l'artiste confere un ceractére gracieux au monde objectif. Si le portrait est peu représenté dans lart japonais, c'est entre autres parce que celui-ci hummanise la nature. Cette caractéristique explique pourquoi les Japonais ressentent la grâce de la nature.

Le fait que, chez Holusai, les formes individuelles soient suspendues et non pas intégrées dans l'existence, n'est pas dû à des rasoins d'ordre technique ou forme, mais au sentiment de la vie propre aux Japonais.


Cioran Soltitude et dentin pp. 128-129

驚くのは、北斎の場合、重力を否定していることである。人間も物も重力から解放されている。浮遊し宙吊りになっているかのようだ。

だが、これは当然と言えば当然である。優雅は重力から解放されているのだから。優雅は客観的な世界を構成する内在的な要素で、ほとんど不合理に近いものだったと言うことは、もちろんできない。むしろ、芸術家の物の見方が、客観的な世界に優雅な性格を与えているのだと言いたい。日本の芸術に肖像画がほとんどないのは、日本の芸術が自然を人間化しているからにほかならない。このため、日本人は、自然に優雅さを感じ取るのである。

北斎の場合、1つ1つの形式は宙吊りになっていて、存在の中に統合されていないが、そうなるのは、技術や形式の問題ではなく、日本人に固有の生活感情のせいなのである。


■面白い個所。自然を人間化しているから、自然に優雅さを感じるという説。人間活動は自然を歴史化するという意味なら、賛成だが、感性のありかたとしては、ぼくは、反対だと思う。人間を自然化しているから、自然に美を感じるのだと思う。ミメーシス(模倣)とポイエーシス(制作)の関係を考えてみると、それはよくわかるし、こういう感性は日本人に固有ではないこともわかってくる。西欧も近代以前の世界はこうだったはずである。近代を永続的に感じ、それ以前の世界を忘れているだけである。






L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(34)

2012年10月13日 | Wittgenstein

■旧暦8月28日、土曜日、

(写真)無題

旧暦だと、8月の下旬なのか。驚き。今日は秋日和だった。金木犀の香が、道々に充満している。



43. Die logische Gewißheit der Beweise - will ich sagen - reicht nicht weiter, als ihre geometrische Gewißheit. Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 175 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

わたしは、こう言いたい。証明の論理的確実性は、その幾何学的確実性を超えない。

■論理的確実性は、人間の外部にあって、強制する力と関連している。端的に言って、環境に存在する暴力である。これを、読み取り(言語的に変換し)共同体内に事後的あるいは予防的に取り込んで、社会的に無化するために、論理が発明されたのだと思う。幾何学は、そもそも、測量に起源を持っている。土地に関連する技術であるから、農耕の始まりが前提されている。農耕は、狩猟・採集に比べると、余剰生産物が生まれやすく、貯蔵もしやすいから、その分配をめぐって、階級や国家が発生していたと考えられる。そうした農耕の生産・分配に測量技術は関連していると考えられる。

論理学や幾何学は、一見、永遠の真理のように現象するが、論理的に確実あるいは幾何学的に確実であるとは、論理ゲームの規則、幾何学ゲームの規則の運用の仕方が正しい、ということにすぎない、とヴィトゲンシュタインは述べている。これは、運用の正しさを判断できる集団が存在するということでもある。

先に述べたように、論理や幾何学の起源を考えてみると、それらが、何らかの「社会的な力」と関連していることが見えてくる。真理は社会的な力と無関係ではないのだ、と思う。





Cioranを読む(119) Hokusai(4)

2012年08月27日 | Cioran

■旧暦7月10日、月曜日、

(写真)無題

渋谷のスペイン坂にあるBiocafeの黒豆ベーグルを、食してみた。5種類の豆を使用した天然素材のベーグルで、軽く焼いただけで非常に美味い。パン生地の香からして違う。300円は割高かもしれないが、ベーグルベーグルなどと比べて格段に美味く素材もいいので、損をした気分にならない。普通のベーグルの1.5倍の大きさ。お勧め。ここから>>>

パブコメの9割弱が、原発0シナリオを支持した。ここから>>> 逆に、これだけ、0シナリオが多いと、15シナリオや20-25シナリオを支持した人の意見とその根拠を、じっくり読んでみたくなる。国家戦略室がパブコメを公開している。ここから>>>



Le bond spontané, gratuit et désintéressé est dans la nature de la grâce. Elle place l'homme et les objets dans un cruieux état de détachment, elle les suspend et les individualise dans les airs. Cet état n'est pas le fruit d'un processus d'isolement provoqué par un tourment personel ou par un long désespoir; il est destiné à maintenir une harmonie dynamique sur le plan esthétique. Tout ce qu'a créé Hokusai donne l'impression que le monde s'élève au-dessus de son plan normalet qu'il flotte, sans que le dynamisme implicite suggère un trouble torturant ou une rupture intérieure car, dans la gràce, la conscience n'a pas brisé les liens qui l'attachent au monde organique et l'esprit n'est pas arrivé è l'expansion centrifuge qui le sépareait de l'âme. La continuité qualitative et la fusion organique ne conduisent pas, dans l'art japonais, à la rigidité et à la fixité, elles conduisent à la souplesse et à l'ondoiement. Cioran Solitude et destin p128

自発的で無私無欲な跳躍が優雅の特徴である。優雅は人と物を無関心という奇妙な状態に囲い込み、その雰囲気の中に置き去りにするばかりか、その無関心さの中で、人や物の個性を形成するのである。優雅は個人的な悩みや長い絶望の果ての孤立化が生んだものではない。優雅は、美的次元で、ダイナミックな調和をもたらすものなのである。北斎が創造した作品はどれも、暗示的な動きが、悩みや内的決裂を示すことなく、その世界が普通の次元を超えて、浮遊しているような印象を与える。というのも、優雅の中では、意識は自らを有機的世界につなぎとめる絆を断ち切ることがなく、精神は自らを魂から分離していた遠心力まで到達することがないからである。日本の芸術の場合、質的な連続性と有機的な融合は、厳格さや硬直化にはつながらず、柔軟性とゆらめきにつながったのである。

■面白い意見。優雅の概念の展開は、面白いが、どこか、後のロラン・バルトの記号論的な日本文化批評を思い出させる。また、亀井勝一郎の百済観音像と聖母マリア像を比較した議論にも通じる気がする。ぼくなら、芸術が、悩みや内的決裂を示すのは、むしろ、意識の有機的世界との繋がりや精神と魂の一体化が、もともとあったのに、その実現が阻まれているからだと考えるだろう。



L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(33)

2012年07月18日 | Wittgenstein

■旧暦5月29日、水曜日、

(写真)7.16さよなら原発10万人集会

夏は、暑くて叶わないが、洗濯ものが早くよく乾く、という利点もあって、そう嫌いではない。西日の風情など、なかなかいいのではないかとさえ思っている。夏は、風呂上りが一番気持ちがいい。

アンソロジー詩集『脱原発・自然エネルギー218人詩集』(日本語・英語 合体版)が、刊行! 片桐ユズル、高 炯烈、若松丈太郎、ゲーリー・スナイダー、ベアト・ブレヒビュールほか、世界の多数の詩人たち。一読されたい! ここから>>>

神保町の時代小説専門の古本屋「海坂書房」が閉店していた。ずいぶん、前に閉店していたのだが、知らなかった。神戸から東京に戻りたての頃、友人の紹介で、後に、「海坂書房」を経営することになる、Yさんと知り合った。25年くらい前である。Yさんは友人たちと、詩や小説やイラストの同人誌を出していた。東京でも、詩を発表する媒体を探していたぼくが、共通の友人に紹介を頼んだのだった。新宿の喫茶店ではじめて会ったとき、ぼくを見るなり、「銀行員でしょう」と言ったのには、参った。自分では、タイプは真逆だと思っていたからである。ぼくもまだ20代後半で若かった。Yさんの周りには、不思議な人種が集まっていた。イラストを描くベーシストや短編小説の巧い豆腐屋、詩を書かない全身詩人など。その同人誌の合評会兼忘年会のとき、Yさんが突然、隣にいたぼくに、ある人妻を口説きたいのだけれど、智恵を貸してくれ、というようなことを言ったのである。ぼくも若かった。年上のYさんにそう見られたのが、くすぐったくて、そんな経験などありもしないのに、いかにも、場数を多く踏んだ、いっぱしの粋人のような口吻で、しかじか、と智恵を伝授したのである。その戦略が奏功したかどうかは、とうとう聞かなかったが、バツイチだったYさんが、その後、再婚したという噂は耳にしていない。



43. Wir neigen zu dem Glaube, dass der logische Beweis eine eigene, absolute Beweiskraft hat, welche von der unbedingten Sicherheit der logischen Grundß und Schlußgesetze herrührt. Während doch die so bewiesenen Sätze nicht sicherer sein können, als es die Richtigkeit der Anwebdubg jener Schlußgesetzue ist. Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 174 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

論理的証明は、論理学の基本法則と推論規則の無条件的確実さに起因する独自の絶対的な証明力を有していると、われわれは考えがちである。だが、そのようにして証明された命題には、推論規則の用い方が正しいという以上の確実さはないのである。

■論理学の基本規則や推論規則は、無条件に正しく、真理であるとだれしも考えるからこそ、証明が成立するのだが、ヴィトゲンシュタインは、そうした規則に内在的に真理が存在するのではない、と言っている。証明の成立は、論理学的規則や推論規則が正しく用いられた、ということ以上ではない。証明されたから真理というわけではない、ということだろう。

この断章は、なかなか、衝撃的で、たとえば、デカルトの有名なテーゼ「Je pense, donc je suis/ego cogito, ergo sum(われ思うゆえにわれあり)」は、疑い得ないもの、絶対的な確実性を表現した命題だと、一般には受け取られているが、これは、なにか絶対的真理ではなく、推論規則の正しい運用以上のものではない、ということになる。


Cioranを読む(118) Hokusai(3)

2012年07月13日 | Cioran

■旧暦5月24日、金曜日、

(写真)底紅

いつも5時前に眼が覚めるのだが、今日は9時まで眠れた。心身が軽い。

チェリビダッケの音源が、安価で出始めた。ここから>>> クラシックファンには、嬉しいニュースである。ブルックナーを聴き直してみようと思っている。戦後、フルトヴェングラーの跡を継いで、ベルリンフィルの再建に奔走したが、ベルリンフィルと衝突、その後、ミュンヘンフィルで活躍。レコーディングを嫌い、音源はほとんどライブのみ。しかし、このチェリビダッケという人、調べると、非常に面白い。ユダヤ文化に近いところで育ち、イディッシュ語に堪能だった。なかなか、毒舌家で癖のある複雑な個性だが、禅宗の仏教徒でもあり、フッサールの現象学講義も行っている。実に興味深いお人である。ここから>>>

電車の中などで、『よろず数学問答』(石川剛郎 日本評論社)を読んでいる。数学の講義の中で、著者が出会った学生の質問とその答えを記録したもの。専門的な話になると理解を超えるが、たとえば、次のような質問は、非常に面白いと思う。

問:掛け算で(マイナス)×(マイナス)=(プラス)になる、という必然性がわかりません。

答:数直線を「ひっくり返す」という操作を-1を掛けるということと見なします。それを2回続けると何もしないことと同じ、つまり、1を掛けることになるので、ほら、(-1)×(-1)=1は自然ですね。

(『同書』p.65)




Si i'on cultive tellment la musique en Allemangne, n'est-ce pas en raison d'une expérience initiale pessimiste de l'infini? Et l'étrange perspective de l'individuation dans l'art japonais ne découle-t-elle pas du fait qu'il s'est développé dans une culture de la grâce?
L'oeuvre de Hokusai ne peut pas être comprise si l'on oublie que la grâce est une caractéristique essentielle et dominante au Japon.
Cioran Solitude et destin p.127

ドイツ音楽に造詣が深いかどうかは、その底知れぬ悲劇性をはじめにどれだけ体験したかによる。日本の芸術の個性が分からないという意見があるが、それは、日本の芸術が「優雅の文化」の中で発展してきたせいではないだろうか。
北斎の作品は、優雅さが日本の文化の重要で本質的な特徴であることを忘れると理解できなくなる。


■北斎の絵を「優雅」だと感じる日本人は、あまりいないのではないか。斬新、大胆、独創的と言った方が、たぶん、似つかわしい。la grâceは「優雅、優美、上品」といった意味以外にも、霊感や天賦の才など、神から与えられた能力を意味する。日本の文化を、そういう天才の文化だと解すると、なかなか、ある一面を突いている気もするが、それは、ほかの偉大な文化にも同じように言えることだろう。

Cioranを読む(117) Hokusai(2)

2012年07月05日 | Cioran

■旧暦5月16日、木曜日、

(写真)花

疲労して、遅く起きた。洗濯、取り込み、ゴミ捨て、生協箱入れなど。

今日は、二つ大きなニュースがあった。一つは、国会の事故調査委員会が、原発は人災だと認定したこと。ここから>>> これで、あれだけの汚染規模と、これからも続く放射能災害の責任をだれも取らない、という異常な事態から一歩抜け出た。東電と国の責任を明確にし、社会的な共通認識を形成してゆくことが重要になるだろう。マスメディアは、自然災害というイデオロギーに加担したり、事故原因をあいまいにしたりしてはならないと思う。これは、ある意味で、メディアの戦争協力と同じ次元の話だと思う。

もう一つは、質量を生むヒッグス粒子の存在がほぼ確認できたというニュース。ここから>>> 以前にも触れたが、存在確率99.9999%以上、という物理学の基準は、面白い。1万回のうち1回は、非在であっても、それは誤差で、存在するとする根拠が、今一つよくわからない。以前の記事はここから>>> これを読むと、ヒッグス粒子の探索グループの数が関連するようだが、存在基準、99.9999%は、なにも、ヒッグス粒子専門の基準ではないだろう。でなければ、一般化した議論はできなくなる。



Cela explique pouqoir la culture égyptienne, qui est une culture de la mort, a donné tant de profondeur au sens de l'éternité et de la transcendance; pourqoi la culture grecque, où le culte de la forme exalte l'accomplissement dans l'immanence, a manifesté avec non moins de profondeur une tendance à la cristallisation et à l'individualisation. Cioran Solitude et destin p.127

こうしたことは、死の文化であるエジプト文化が、あれほど深い永遠性と超越性を獲得したわけや、形式という宗教が内在的な行いを賞賛するギリシャ文化で、あれほど深い個性化や具体化の傾向が生じたわけを説明してくれる。

■死の文化が死後の永遠や超越した世界を求め、内在的な文化が個性化や具体化を育むのは、力によるというよりも、論理的な必然だと思う。



Cioranを読む(116) Hokusai(1)

2012年07月04日 | Cioran

■5月15日、水曜日、、満月

(写真)夏の空

見沢知廉をテーマにしたドキュメンタリー「天皇ごっこ」を観た。ぼくの偏見かもしれないが、右翼運動に走る人は、最後には、自分に切れる。三島由紀夫しかり、野村秋介しかり、見沢知廉しかり。最初と最後に、見沢の講演かなにかの肉声が入るのだが、最後は、声がやはり切れている。感情が爆発するのである。だが、不思議なことに、一水会代表の鈴木邦夫氏には、切れるという感じはしない。伝統的な右翼とはどこか違うのかもしれない。見沢知廉は、「日常」には生きられなかった人なんだろう。今は、左翼として語られる雨宮処凛が、見沢の弟子だったことにも驚いた。歴史の事件は、大きな紛争や対立に現れるが、歴史の理念は、日常の細部に現れるように思うが、いかがだろうか。



Il y a dans la structure de chaque grande culture une note dominante qui lui confère un caractère spécifique.
La sensibilité et l'attitude de l'homme sont façonnées sous l'impulsion d'un fond culturel originel et les contenus sont critallisés en fonction de cette note dominante. Bien que chaque culture ait de multiples virtualités, elle actualise et exprime avec force unoiquement celles aui sont proches de ses valeurs spécifiques.
Cioran Solitude et destin p.127

それぞれの大文化の構造には、それに独自の性格を与えるような支配的な雰囲気がある。
人間の感受性や態度というものは、もともと、文化の奥に潜む衝動によって形成され、そのありようは、この支配的な雰囲気によって決められている。それぞれの文化は多くの潜在性をもつが、それが固有の価値をどうにか実現できるのは、もっぱら力によってである。


■ニーチェの影響を感じる。北斎にどうつながるのか、楽しみである。


Cioranを読む(115) Hegel et nous(24)

2012年06月21日 | Cioran

■旧暦5月2日、木曜日、、夏至、蒸し暑い!

(写真)無題

先日、特養の叔母を見舞ったとき、天気が良かったので、近くの公園へ紫陽花を見に連れ出した。車イスなので、押してゆくわけだが、下り坂になると、非常に怖がる。緩やかな坂でもダメなのだと言う。上り坂は、怖がらない。足腰が弱ると、上り階段よりも下り階段が辛くなると言うが、歩けなくなると、少しの加速も怖くなるものらしい。日常生活の中で、あまり歩かなくなってから、人間の感情は、その密度が薄くなったように思うのだが、どうだろうか。



Hegel dit quelque part : Die Geschichte ist nicht der Boden für das Glück. Die Zeiten des Glücks sind in ihr leere Blätter. Ailleurs, il affirme que la source du tragique réside dans les limites de l'individualité, qui ne peut pas les franchir sans se détruire. Dans son esthétique, il reproche à l'art et la culture grec de ne pas s'être élevés jusqu'à la comprehension de la souffrance et de s'être maintenus dans un esthétisme raffiné. Ces propos permettent de cerner l'image intérieure d'un philosophe. Ciolan Solitude et destin p.171

ヘーゲルは、どこかで、こんなことを述べている。「歴史というのは、幸福のための場所ではない。幸福な時というのは、歴史の白紙ページにある」他のところで、ヘーゲルは、悲劇の原因は、自殺以外には超えられない個人の限界にあると述べている。美学の中で、ヘーゲルはギリシャの芸術と文化を非難して、ギリシャ芸術は、洗練された美意識の中に留まったままで、苦悩を知って初めて高みに至ると述べている。この発言が、哲学者の精神的なイメージを決定したのである。

■面白い。ヘーゲルの美学は、面白そう。苦悩を知って初めて高みに至る、という言葉は、ヘーゲルやヘルダーリンなどが共有したロマン主義の時代精神を感じさせる。その高みとは、歴史的な現実の中では、フランス革命だったのだろう。

これで、シオランのヘーゲル論は終わり。面白かった。次回からは、シオランの「北斎」に関する短いエッセイを読む予定。出版社の方が見ていたら、この本は面白いので、翻訳企画の提案をしたいところです。版権はもうどこかに、取られているかもしれないけれど。


Cioranを読む(114) Hegel et nous(23)

2012年06月18日 | Cioran

■旧暦4月29日、月曜日、

(写真)立葵

どうも、元気が出ない日々である。朝からラジオ体操しているのだがw

スラヴォイ・ジジェクが去年、大部のヘーゲル論、less than nothingを出したが、タイトルを眺めていて、ひどくヘーゲルを憎んでいるような気がしてきた。副題は、「ヘーゲルと弁証法的唯物論の影」というものだが、スターリンに始まるプロイセン御用哲学者という解釈や新カント派に始まる平板な認識論的解釈を洗い流して、アクチュアルな哲学者として、問い直す必要があるように思う。ジジェクの解釈は、どういうものか、興味あるところ。



La refus de la dualité de la valeur et de la réalité est une caractéristique de l'immanenentisme de Hegel. La valeur se réalise dans le processus concret de la réatité. La valeur du réel en soi est inconcevale sans l'histoire de celui-ci. Il ne faudrait toutefoir pas en déduire que Hegel péchait par excèd'optimisme. Il se situe plutôt dans une vision tragique de l'eistence, sans qu'on puisse pour autant parler de pessimisme, comme l'a fait Eduard von Hartmann, qui essayait de trouver des pessimistes partout, y compris là où il n'y en a pas. Cioran Solitude et destin pp. 170-171

価値と現実の二元論を拒否することが、ヘーゲルの内在主義の特徴である。価値は、現実の具体的なプロセスの中で実現される。現実の価値それ自体は、現実の歴史抜きには考えられない。だからと言って、ヘーゲルが極端な楽観主義ということにはならない。むしろ、ヘーゲルは、一般にペシミズムについて語れないようなときにも、存在を悲劇的に見ていた。ありえない場所も含めて、いたるところにペシミストを見出そうとしていたエデュアルト・ハルトマンさながらに。

■この理解もストンと腑に落ちる。シオランの解釈は、ニーチェ的な生の哲学を踏まえたことで、存在論的な理解へ至る道を確保しているように感じられる。




Cioranを読む(113) Hegel et nous(22)

2012年06月06日 | Cioran

■4月14日、水曜日、

(写真)立ち葵

疲れて、遅く起きた。体操して軽く運動。今日は、薔薇の雨。



S'il a évité le délice amer du relativisme, Hegel le doit également à sa conception de la totalisation des valeurs dans l'histoire. Il ne s'agit évidemment pas d'une totalisation linéaire, puisque le processus dialectique ne représente pas une progression linéaire. Toujours est-il que, d'après Hegel, les valeurs ne meurent pas, elles se totalisent, à un rythme propre à l'histoire. Elles n'ont pas de vie historique, mais elles se réalisent historiquement. La suprahistoricité ne signifie pas chez Hegel une strafication transcendante des valeurs, mais une intégration dans l'immanence vivante de l'histoire. La différence est grande entre le dynamisme de Hegel et, par exemple, celui de Leibniz. Alors que ce dernier considère la dynamique de la substance du point de vue de la philosophie de la nature, Hegel, en rapportant de dynamisme au monde historiaue, admet une croissance de la valeur absente du dynamisme de la nature.Cioran Solitude et destin p.170

ヘーゲルは相対主義の苦い歓びに浸ることはなかったが、それができたのも、ヘーゲルには歴史的価値を統合するという考え方があったからである。もちろん、統合と言っても、単純に価値を加えてゆくわけではない。というのは、弁証法的プロセスは、単調な発展ではないからである。とはいうものの、ヘーゲルによれば、価値はなくなってしまうのではなく、歴史固有のリズムにしたがって、統合されていくのである。価値は歴史的生に由来するのではなく、歴史的に実現されてゆくものである。超歴史性は、ヘーゲルの場合、超越的な価値の階層を意味するのではなく、歴史の生き生きとした内在性を前提にした統合を意味するのである。ヘーゲルのダイナミズムと、たとえば、ライプニッツのダイナミズムでは、大きく異なる。ライプニッツは、自然哲学の視点から、実体のダイナミズムを考えたが、ヘーゲルは、ダイナミズムを歴史的世界と関連づけつつ、自然のダイナミズムのない価値の発展を考えていたのである。

■une progression linéaire(線型的な発展)というときのlinéaire(線型的)という言葉は、比喩だと思うが、これをどう訳すか、決められていない。「線型的」とすると、数量が前提になった比喩になるので、価値という質的なものの発展を喩えると混乱する。そこで、文脈で、訳し分けてみた。