les généalogies des Essais―Delfini Workshop annexe

エセーの系譜をおもに検討。

Cioranを読む(122) Hokusai(7)

2013年04月26日 | Cioran

■旧暦3月17日、金曜日、、強風、満月

(写真)氷川神社

今週から引っ越しの準備に入った。月曜日に業者に見積もりに来てもらい、火曜から具体的な準備に入ったが、タイミング悪く、春の風邪を引いてしまい、体調がよくない。一部搬出だが、業者の見積もりでは、段ボール箱で50箱以上になるというので、いささか、げんなりしている。



La présence constante du sentiment de l'identité détermine une étrange vision de l'individualité, qui devient une expression anonyme du cours universel de la vie. Le détachement et la suspension n'on pas pour but l'interruption de ce cours de la vie, mais un doux bercement donnant l'illusion d'une indépendance absolue des formes particuliéres, alors qu'il exprime en réalité la légèreté et l'envol de la grâce. Cioran Solitude et destin p. 129

自己同一性という感覚が、常に存在するから、個性という奇妙な幻想が生じるのである。個性は、普遍的な生の流れの中では、非個性として現れる。無関心と中断は、この生の流れを断ち切るのではなく、穏やかにゆさぶり、具体的な形式から完全に自律しているという幻想を作りだすのだ。実際、このゆれが風雅の軽みと遊びから来ているとしても。

■この部分は、シオラン自身どこまで気がついているかわからないが、非常に重要なことを述べている。自己同一の感覚が常に存在するから個性という幻想が生じると言っている。これは言いかえれば、「個人」についても当てはまる。個性(individualité)と個人(individu)は相互補完的である。では、自己同一の感覚の起源はどこに求められるのだろうか。私見では、これは「社会関係の先行性」に求められる。つまり、他者、家族、市民社会、企業、国家との関係性が、常に先行するから、自己同一の感覚が存在することができるのだ。近代以降、この自己同一性、アイデンティティという問題がテーマ化されるが、それは、それ以前の時代とは異なった社会関係が生じたためと思う。社会関係は、どの時代でも、常に先行するが、社会関係の質に変化が起きたのだ。それは一言で言えば、「疎外」と言えると思う。社会関係と人間の間に、距離が開き、社会関係が、物象化・客体化してきたために、逆に、個人主義が生じたのだと思える。社会関係は、常に全体性と関わっているからだ。個性という幻想も、起源はここに根ざしている。シオランが、「普遍的な生の流れ」(le cours universel de la vie)と言っているのは、実は、社会関係の全体性と同義である。これも、生の哲学が、存在論と非常に近いところにあったことを示している。シオランが、かなり早い段階で(1932年)「生の哲学者、ヘーゲル」という解釈を打ち出しことは卓見だったと思われる。逆に言うと、ニーチェに依拠して、さかんに、ヘーゲル批判を展開したポストモダニストたちは、今から見ると、トンチンカンだったとも言える。



Cioranを読む(121) Hokusai(6)

2012年12月14日 | Cioran

■旧暦11月2日、金曜日、、赤穂浪士討ち入りの日

(写真)無題

水曜日に、市の農政課に出向いて、実家の畑で採れたみかんの放射線測定に行ってきた。今年は、柑橘系に多く出ているらしく、柚子は100Bq/kgを越えた畑が見つかり、全市で出荷停止になっている。100Bq/kgは、3.11以前は放射性廃棄物扱いだった。

最近好きなマルクーゼの言葉。

対象化それ自体は、人間の自然性と同じように、人間の本質に属するものであり、「止揚」されることはありえない。革命の理論に応じて止揚され、また、止揚される必要があるのは、対象化の特定の形式、つまり、「物象化」や「疎外」だけである。

マルクーゼ「経済学哲学草稿解釈」



Et c'est nier le substrat profond de l'art(en l'occurence, nous pensons surtout à la peinture)que d'affirmer que la nature très particuliè de la peinture japonaise s'explique pour peu qu'on la fasse dériver de la calligraphie. A la vérité, toute structure aristique specifique a pour origine un sentiment de la vie et une vision primordiale. Si Hokusai manifeste pour le monde animal une compréhension tellment vive qu'il lui attribue un contenu humain, n'est-ce pas en raison d'un sentiment de l'identié origanique, en raison d'une participation intime au rythme universel? Parce qu'elle est étroitement liée à l'existence, parce qu'elle dégage un charme naif, parce qu'elle suscite un ravissement esthétique, chaque oeuvre de Hokusai est une nouvelle révélation de l'unité, initiale, le Tao. Cioran Solitude et destin p.129

日本絵画の起源を少しでも書道に求めようとすると、日本絵画は非常に特殊なものだからと言われる。こういう断定は、日本芸術(この場合、絵画)には、深遠な本質はないと言っているのに等しい。実際、芸術に固有な全体構造の起源は、生活感情と原初的世界観である。北斎が動物の世界を生き生きと理解し、それに人間的な内実を与えられたとすると、それは、人と動物は生きものとして同じだという感情があったからではないのか、普遍的なリズムと心底一体になっていたからではないのか。北斎の作品は存在と固く結びつき、無垢な魅力がある。さらに、その作品は美的な恍惚感を呼び起こす。北斎の作品は、原初的な統一体、つまりタオの新しい表現なのである。

■日本語にしにくい個所だったが、内容的には面白いと思う。北斎の世界は、言語によって対象が具体化される以前の原初的統一体の表現だという考え方は、ニーチェの影響が強く見られる。生の哲学が、一茶などに見られるアニミズムと近いところにあったことも見えてくる。古代の存在論との類縁性。

Cioranを読む(120) Hokusai(5)

2012年11月04日 | Cioran

■旧暦9月21日、日曜日、

(写真)大涌谷

先日亡くなった若松孝二監督が、手帳に書き留めておいたという言葉に、感銘した。群れない。頼らない。ブレない。褒められようとしない。これができれば、人生、大成功だろう。社会的な評価や富は、だれもが、死ぬ事実の前に、空しく思われてくるのではなかろうか。やがて、富と地位を利用して、iPS細胞で、再生を続けて生きようとする人も出てくるかもしれないが、永遠という観念ほど、退屈なものはない。




Ce qui frappe, chez Hokusai, c'est la négation de la gravation: les homme et les objets sont émancipés de la pesanteur, ils semblent flotter, être suspendus.

En effet, la grâce émancipe de la pesanteur. Nous ne parlon évidemment pas de la grâce en tant que note immanente et conconstitutive du monde objectif, ce qui friserait l'absurde; nous voulons dire que la vision de l'artiste confere un ceractére gracieux au monde objectif. Si le portrait est peu représenté dans lart japonais, c'est entre autres parce que celui-ci hummanise la nature. Cette caractéristique explique pourquoi les Japonais ressentent la grâce de la nature.

Le fait que, chez Holusai, les formes individuelles soient suspendues et non pas intégrées dans l'existence, n'est pas dû à des rasoins d'ordre technique ou forme, mais au sentiment de la vie propre aux Japonais.


Cioran Soltitude et dentin pp. 128-129

驚くのは、北斎の場合、重力を否定していることである。人間も物も重力から解放されている。浮遊し宙吊りになっているかのようだ。

だが、これは当然と言えば当然である。優雅は重力から解放されているのだから。優雅は客観的な世界を構成する内在的な要素で、ほとんど不合理に近いものだったと言うことは、もちろんできない。むしろ、芸術家の物の見方が、客観的な世界に優雅な性格を与えているのだと言いたい。日本の芸術に肖像画がほとんどないのは、日本の芸術が自然を人間化しているからにほかならない。このため、日本人は、自然に優雅さを感じ取るのである。

北斎の場合、1つ1つの形式は宙吊りになっていて、存在の中に統合されていないが、そうなるのは、技術や形式の問題ではなく、日本人に固有の生活感情のせいなのである。


■面白い個所。自然を人間化しているから、自然に優雅さを感じるという説。人間活動は自然を歴史化するという意味なら、賛成だが、感性のありかたとしては、ぼくは、反対だと思う。人間を自然化しているから、自然に美を感じるのだと思う。ミメーシス(模倣)とポイエーシス(制作)の関係を考えてみると、それはよくわかるし、こういう感性は日本人に固有ではないこともわかってくる。西欧も近代以前の世界はこうだったはずである。近代を永続的に感じ、それ以前の世界を忘れているだけである。






Cioranを読む(119) Hokusai(4)

2012年08月27日 | Cioran

■旧暦7月10日、月曜日、

(写真)無題

渋谷のスペイン坂にあるBiocafeの黒豆ベーグルを、食してみた。5種類の豆を使用した天然素材のベーグルで、軽く焼いただけで非常に美味い。パン生地の香からして違う。300円は割高かもしれないが、ベーグルベーグルなどと比べて格段に美味く素材もいいので、損をした気分にならない。普通のベーグルの1.5倍の大きさ。お勧め。ここから>>>

パブコメの9割弱が、原発0シナリオを支持した。ここから>>> 逆に、これだけ、0シナリオが多いと、15シナリオや20-25シナリオを支持した人の意見とその根拠を、じっくり読んでみたくなる。国家戦略室がパブコメを公開している。ここから>>>



Le bond spontané, gratuit et désintéressé est dans la nature de la grâce. Elle place l'homme et les objets dans un cruieux état de détachment, elle les suspend et les individualise dans les airs. Cet état n'est pas le fruit d'un processus d'isolement provoqué par un tourment personel ou par un long désespoir; il est destiné à maintenir une harmonie dynamique sur le plan esthétique. Tout ce qu'a créé Hokusai donne l'impression que le monde s'élève au-dessus de son plan normalet qu'il flotte, sans que le dynamisme implicite suggère un trouble torturant ou une rupture intérieure car, dans la gràce, la conscience n'a pas brisé les liens qui l'attachent au monde organique et l'esprit n'est pas arrivé è l'expansion centrifuge qui le sépareait de l'âme. La continuité qualitative et la fusion organique ne conduisent pas, dans l'art japonais, à la rigidité et à la fixité, elles conduisent à la souplesse et à l'ondoiement. Cioran Solitude et destin p128

自発的で無私無欲な跳躍が優雅の特徴である。優雅は人と物を無関心という奇妙な状態に囲い込み、その雰囲気の中に置き去りにするばかりか、その無関心さの中で、人や物の個性を形成するのである。優雅は個人的な悩みや長い絶望の果ての孤立化が生んだものではない。優雅は、美的次元で、ダイナミックな調和をもたらすものなのである。北斎が創造した作品はどれも、暗示的な動きが、悩みや内的決裂を示すことなく、その世界が普通の次元を超えて、浮遊しているような印象を与える。というのも、優雅の中では、意識は自らを有機的世界につなぎとめる絆を断ち切ることがなく、精神は自らを魂から分離していた遠心力まで到達することがないからである。日本の芸術の場合、質的な連続性と有機的な融合は、厳格さや硬直化にはつながらず、柔軟性とゆらめきにつながったのである。

■面白い意見。優雅の概念の展開は、面白いが、どこか、後のロラン・バルトの記号論的な日本文化批評を思い出させる。また、亀井勝一郎の百済観音像と聖母マリア像を比較した議論にも通じる気がする。ぼくなら、芸術が、悩みや内的決裂を示すのは、むしろ、意識の有機的世界との繋がりや精神と魂の一体化が、もともとあったのに、その実現が阻まれているからだと考えるだろう。



Cioranを読む(118) Hokusai(3)

2012年07月13日 | Cioran

■旧暦5月24日、金曜日、

(写真)底紅

いつも5時前に眼が覚めるのだが、今日は9時まで眠れた。心身が軽い。

チェリビダッケの音源が、安価で出始めた。ここから>>> クラシックファンには、嬉しいニュースである。ブルックナーを聴き直してみようと思っている。戦後、フルトヴェングラーの跡を継いで、ベルリンフィルの再建に奔走したが、ベルリンフィルと衝突、その後、ミュンヘンフィルで活躍。レコーディングを嫌い、音源はほとんどライブのみ。しかし、このチェリビダッケという人、調べると、非常に面白い。ユダヤ文化に近いところで育ち、イディッシュ語に堪能だった。なかなか、毒舌家で癖のある複雑な個性だが、禅宗の仏教徒でもあり、フッサールの現象学講義も行っている。実に興味深いお人である。ここから>>>

電車の中などで、『よろず数学問答』(石川剛郎 日本評論社)を読んでいる。数学の講義の中で、著者が出会った学生の質問とその答えを記録したもの。専門的な話になると理解を超えるが、たとえば、次のような質問は、非常に面白いと思う。

問:掛け算で(マイナス)×(マイナス)=(プラス)になる、という必然性がわかりません。

答:数直線を「ひっくり返す」という操作を-1を掛けるということと見なします。それを2回続けると何もしないことと同じ、つまり、1を掛けることになるので、ほら、(-1)×(-1)=1は自然ですね。

(『同書』p.65)




Si i'on cultive tellment la musique en Allemangne, n'est-ce pas en raison d'une expérience initiale pessimiste de l'infini? Et l'étrange perspective de l'individuation dans l'art japonais ne découle-t-elle pas du fait qu'il s'est développé dans une culture de la grâce?
L'oeuvre de Hokusai ne peut pas être comprise si l'on oublie que la grâce est une caractéristique essentielle et dominante au Japon.
Cioran Solitude et destin p.127

ドイツ音楽に造詣が深いかどうかは、その底知れぬ悲劇性をはじめにどれだけ体験したかによる。日本の芸術の個性が分からないという意見があるが、それは、日本の芸術が「優雅の文化」の中で発展してきたせいではないだろうか。
北斎の作品は、優雅さが日本の文化の重要で本質的な特徴であることを忘れると理解できなくなる。


■北斎の絵を「優雅」だと感じる日本人は、あまりいないのではないか。斬新、大胆、独創的と言った方が、たぶん、似つかわしい。la grâceは「優雅、優美、上品」といった意味以外にも、霊感や天賦の才など、神から与えられた能力を意味する。日本の文化を、そういう天才の文化だと解すると、なかなか、ある一面を突いている気もするが、それは、ほかの偉大な文化にも同じように言えることだろう。

Cioranを読む(117) Hokusai(2)

2012年07月05日 | Cioran

■旧暦5月16日、木曜日、

(写真)花

疲労して、遅く起きた。洗濯、取り込み、ゴミ捨て、生協箱入れなど。

今日は、二つ大きなニュースがあった。一つは、国会の事故調査委員会が、原発は人災だと認定したこと。ここから>>> これで、あれだけの汚染規模と、これからも続く放射能災害の責任をだれも取らない、という異常な事態から一歩抜け出た。東電と国の責任を明確にし、社会的な共通認識を形成してゆくことが重要になるだろう。マスメディアは、自然災害というイデオロギーに加担したり、事故原因をあいまいにしたりしてはならないと思う。これは、ある意味で、メディアの戦争協力と同じ次元の話だと思う。

もう一つは、質量を生むヒッグス粒子の存在がほぼ確認できたというニュース。ここから>>> 以前にも触れたが、存在確率99.9999%以上、という物理学の基準は、面白い。1万回のうち1回は、非在であっても、それは誤差で、存在するとする根拠が、今一つよくわからない。以前の記事はここから>>> これを読むと、ヒッグス粒子の探索グループの数が関連するようだが、存在基準、99.9999%は、なにも、ヒッグス粒子専門の基準ではないだろう。でなければ、一般化した議論はできなくなる。



Cela explique pouqoir la culture égyptienne, qui est une culture de la mort, a donné tant de profondeur au sens de l'éternité et de la transcendance; pourqoi la culture grecque, où le culte de la forme exalte l'accomplissement dans l'immanence, a manifesté avec non moins de profondeur une tendance à la cristallisation et à l'individualisation. Cioran Solitude et destin p.127

こうしたことは、死の文化であるエジプト文化が、あれほど深い永遠性と超越性を獲得したわけや、形式という宗教が内在的な行いを賞賛するギリシャ文化で、あれほど深い個性化や具体化の傾向が生じたわけを説明してくれる。

■死の文化が死後の永遠や超越した世界を求め、内在的な文化が個性化や具体化を育むのは、力によるというよりも、論理的な必然だと思う。



Cioranを読む(116) Hokusai(1)

2012年07月04日 | Cioran

■5月15日、水曜日、、満月

(写真)夏の空

見沢知廉をテーマにしたドキュメンタリー「天皇ごっこ」を観た。ぼくの偏見かもしれないが、右翼運動に走る人は、最後には、自分に切れる。三島由紀夫しかり、野村秋介しかり、見沢知廉しかり。最初と最後に、見沢の講演かなにかの肉声が入るのだが、最後は、声がやはり切れている。感情が爆発するのである。だが、不思議なことに、一水会代表の鈴木邦夫氏には、切れるという感じはしない。伝統的な右翼とはどこか違うのかもしれない。見沢知廉は、「日常」には生きられなかった人なんだろう。今は、左翼として語られる雨宮処凛が、見沢の弟子だったことにも驚いた。歴史の事件は、大きな紛争や対立に現れるが、歴史の理念は、日常の細部に現れるように思うが、いかがだろうか。



Il y a dans la structure de chaque grande culture une note dominante qui lui confère un caractère spécifique.
La sensibilité et l'attitude de l'homme sont façonnées sous l'impulsion d'un fond culturel originel et les contenus sont critallisés en fonction de cette note dominante. Bien que chaque culture ait de multiples virtualités, elle actualise et exprime avec force unoiquement celles aui sont proches de ses valeurs spécifiques.
Cioran Solitude et destin p.127

それぞれの大文化の構造には、それに独自の性格を与えるような支配的な雰囲気がある。
人間の感受性や態度というものは、もともと、文化の奥に潜む衝動によって形成され、そのありようは、この支配的な雰囲気によって決められている。それぞれの文化は多くの潜在性をもつが、それが固有の価値をどうにか実現できるのは、もっぱら力によってである。


■ニーチェの影響を感じる。北斎にどうつながるのか、楽しみである。


Cioranを読む(115) Hegel et nous(24)

2012年06月21日 | Cioran

■旧暦5月2日、木曜日、、夏至、蒸し暑い!

(写真)無題

先日、特養の叔母を見舞ったとき、天気が良かったので、近くの公園へ紫陽花を見に連れ出した。車イスなので、押してゆくわけだが、下り坂になると、非常に怖がる。緩やかな坂でもダメなのだと言う。上り坂は、怖がらない。足腰が弱ると、上り階段よりも下り階段が辛くなると言うが、歩けなくなると、少しの加速も怖くなるものらしい。日常生活の中で、あまり歩かなくなってから、人間の感情は、その密度が薄くなったように思うのだが、どうだろうか。



Hegel dit quelque part : Die Geschichte ist nicht der Boden für das Glück. Die Zeiten des Glücks sind in ihr leere Blätter. Ailleurs, il affirme que la source du tragique réside dans les limites de l'individualité, qui ne peut pas les franchir sans se détruire. Dans son esthétique, il reproche à l'art et la culture grec de ne pas s'être élevés jusqu'à la comprehension de la souffrance et de s'être maintenus dans un esthétisme raffiné. Ces propos permettent de cerner l'image intérieure d'un philosophe. Ciolan Solitude et destin p.171

ヘーゲルは、どこかで、こんなことを述べている。「歴史というのは、幸福のための場所ではない。幸福な時というのは、歴史の白紙ページにある」他のところで、ヘーゲルは、悲劇の原因は、自殺以外には超えられない個人の限界にあると述べている。美学の中で、ヘーゲルはギリシャの芸術と文化を非難して、ギリシャ芸術は、洗練された美意識の中に留まったままで、苦悩を知って初めて高みに至ると述べている。この発言が、哲学者の精神的なイメージを決定したのである。

■面白い。ヘーゲルの美学は、面白そう。苦悩を知って初めて高みに至る、という言葉は、ヘーゲルやヘルダーリンなどが共有したロマン主義の時代精神を感じさせる。その高みとは、歴史的な現実の中では、フランス革命だったのだろう。

これで、シオランのヘーゲル論は終わり。面白かった。次回からは、シオランの「北斎」に関する短いエッセイを読む予定。出版社の方が見ていたら、この本は面白いので、翻訳企画の提案をしたいところです。版権はもうどこかに、取られているかもしれないけれど。


Cioranを読む(114) Hegel et nous(23)

2012年06月18日 | Cioran

■旧暦4月29日、月曜日、

(写真)立葵

どうも、元気が出ない日々である。朝からラジオ体操しているのだがw

スラヴォイ・ジジェクが去年、大部のヘーゲル論、less than nothingを出したが、タイトルを眺めていて、ひどくヘーゲルを憎んでいるような気がしてきた。副題は、「ヘーゲルと弁証法的唯物論の影」というものだが、スターリンに始まるプロイセン御用哲学者という解釈や新カント派に始まる平板な認識論的解釈を洗い流して、アクチュアルな哲学者として、問い直す必要があるように思う。ジジェクの解釈は、どういうものか、興味あるところ。



La refus de la dualité de la valeur et de la réalité est une caractéristique de l'immanenentisme de Hegel. La valeur se réalise dans le processus concret de la réatité. La valeur du réel en soi est inconcevale sans l'histoire de celui-ci. Il ne faudrait toutefoir pas en déduire que Hegel péchait par excèd'optimisme. Il se situe plutôt dans une vision tragique de l'eistence, sans qu'on puisse pour autant parler de pessimisme, comme l'a fait Eduard von Hartmann, qui essayait de trouver des pessimistes partout, y compris là où il n'y en a pas. Cioran Solitude et destin pp. 170-171

価値と現実の二元論を拒否することが、ヘーゲルの内在主義の特徴である。価値は、現実の具体的なプロセスの中で実現される。現実の価値それ自体は、現実の歴史抜きには考えられない。だからと言って、ヘーゲルが極端な楽観主義ということにはならない。むしろ、ヘーゲルは、一般にペシミズムについて語れないようなときにも、存在を悲劇的に見ていた。ありえない場所も含めて、いたるところにペシミストを見出そうとしていたエデュアルト・ハルトマンさながらに。

■この理解もストンと腑に落ちる。シオランの解釈は、ニーチェ的な生の哲学を踏まえたことで、存在論的な理解へ至る道を確保しているように感じられる。




Cioranを読む(113) Hegel et nous(22)

2012年06月06日 | Cioran

■4月14日、水曜日、

(写真)立ち葵

疲れて、遅く起きた。体操して軽く運動。今日は、薔薇の雨。



S'il a évité le délice amer du relativisme, Hegel le doit également à sa conception de la totalisation des valeurs dans l'histoire. Il ne s'agit évidemment pas d'une totalisation linéaire, puisque le processus dialectique ne représente pas une progression linéaire. Toujours est-il que, d'après Hegel, les valeurs ne meurent pas, elles se totalisent, à un rythme propre à l'histoire. Elles n'ont pas de vie historique, mais elles se réalisent historiquement. La suprahistoricité ne signifie pas chez Hegel une strafication transcendante des valeurs, mais une intégration dans l'immanence vivante de l'histoire. La différence est grande entre le dynamisme de Hegel et, par exemple, celui de Leibniz. Alors que ce dernier considère la dynamique de la substance du point de vue de la philosophie de la nature, Hegel, en rapportant de dynamisme au monde historiaue, admet une croissance de la valeur absente du dynamisme de la nature.Cioran Solitude et destin p.170

ヘーゲルは相対主義の苦い歓びに浸ることはなかったが、それができたのも、ヘーゲルには歴史的価値を統合するという考え方があったからである。もちろん、統合と言っても、単純に価値を加えてゆくわけではない。というのは、弁証法的プロセスは、単調な発展ではないからである。とはいうものの、ヘーゲルによれば、価値はなくなってしまうのではなく、歴史固有のリズムにしたがって、統合されていくのである。価値は歴史的生に由来するのではなく、歴史的に実現されてゆくものである。超歴史性は、ヘーゲルの場合、超越的な価値の階層を意味するのではなく、歴史の生き生きとした内在性を前提にした統合を意味するのである。ヘーゲルのダイナミズムと、たとえば、ライプニッツのダイナミズムでは、大きく異なる。ライプニッツは、自然哲学の視点から、実体のダイナミズムを考えたが、ヘーゲルは、ダイナミズムを歴史的世界と関連づけつつ、自然のダイナミズムのない価値の発展を考えていたのである。

■une progression linéaire(線型的な発展)というときのlinéaire(線型的)という言葉は、比喩だと思うが、これをどう訳すか、決められていない。「線型的」とすると、数量が前提になった比喩になるので、価値という質的なものの発展を喩えると混乱する。そこで、文脈で、訳し分けてみた。

Cioranを読む(112): Hegel et nous(21)

2012年05月05日 | Cioran

■旧暦閏3月15日、土曜日、、子どもの日

(写真)夏の花

今日はよく眠った。6時半には目が覚めた。風が強いが、やっと連休らしい晴れ。午前中、仕事、午後、いつもの喫茶店で読書。帰りに頼まれた買物を済ませる。夕方には、風が止んだ。



La conclusion tirée, d'ailleurs assez séduisante, est la suivante: l'iiationalité organique de la vie. Pour nous, qui ne croyons plus à l'absolu, le relativisme s'impose. Hegel, lui, s'en éloigne en rasion de sa conception de l'absolu englobant toutes les formes finies de l'histoire et les remplissant de sens en les faisant participer à son infinité dynamique. Cette idée romantique de la présence de l'infini dans formes finies mêne au-delà de la relativité. Cioran Solitude et destin pp. 169-170 

ここから導かれる魅力的な結論は次のとおりである。生は非合理的な有機体である。絶対的なものをもう信じていないわれわれには、相対主義は不可避である。だが、ヘーゲルの場合は、絶対という概念があるために、相対主義に陥らずに済んでいる。絶対という概念は、歴史の有限な諸形式すべてを含み、すべての有限な諸形式は、そこで、有限な諸形式すべてを歴史の無限のダイナミズムに関与させるのである。有限な諸形式の中に無限の存在があるというロマン主義的なこの理念は、相対性を乗り越えるところまで行く。

※ les remplissant de sens en les faisantの部分がよくわからない。

■この個所を読むと、ブレイクの詩が思い出されて来る。

To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower,
Hold Infinity in the palm of your hand
And Eternity in an hour.

一粒の砂の中に世界を見て、
一輪の野の花の中にも天上を感じる。
きみの掌で無限をつかみ
一時の中に永遠をつかむ。

ブレイク(1757-1827)とヘーゲル(1770-1831)は同時代人。これに、ゲーテ(1749-1832)とヘルダーリン(1770-1843)を加えると、時代の共通の空気が見えてくる。この中では、ゲーテだけ、ロマン派とは毛色が違い、全体的に整った古典的な人間像を想起させる。社会哲学者の石塚省二先生によれば、ヘーゲル=ゲーテのラインと、ルカーチ=トーマス・マンのラインが、それぞれの「全体性」の理念の具現化として、対応するという。ヘーゲルのゲーテは、まだ、幸福な全体性を維持しているのに対して、ルカーチのマンは、すでに、ゲーテへの郷愁を含み、いささか、苦しげに見える。




Cioranを読む(111) Hegel et nous (20) 1932

2012年04月26日 | Cioran

■旧暦閏3月6日、木曜日、

(写真)無題

11年前の日記を読み返していたら、掲示板で、すいぶん、論争を繰り返している。当時は、意見を戦わせるのが、普通だった。現状を省みるに、議論ができない。F/bでもtwitterでも議論を避けて、良かれ悪しかれ、仲良しこよし状態になっている。古き良き掲示板文化は、今もかすかに残っているが、10年前の熱気は失われている。F/bもtwitterも、そのアーキテクチャーが、議論を前提にしていないのだと思う。誹謗中傷は論外だが、建設的な意見の交換は、リアルも含めて、もっとあっていいような気がする。

お菓子が好きである。高額でないやつ。最近、Market Oのチョコクラッカーに感動した。無添加、100%ピュアチョコレート使用、クラッカーには、天然酵母使用。257円くらい。クラッカーに感動したのは、初めてである。

ちなみに、同じ、Market Oのリアルブラウニーも抜群に美味い。ついでに、面白い飲み物。

オランジーナ

フランスから上陸。オレンジに、グレープフルーツ、マンダミンオレンジなどの果汁をブレンド、微炭酸。1937年誕生。サントリーがオランジーナを買収したらしい。少し苦みがあって、真夏には良さそうだ。もちろん、変な、香料や甘味料は入っていない。




Cell-ci prime l'histoire parce qu'elle agit dans le processu historique. L'esprit est historique mais, comme il est un esprit pensant, il prend conscience de sa suprahistoricité et dépasse le devnir en soi pour s'élever dans l'éternité. La conception de l'historicité organique de l'esprit n'a pas conduit Hegel au relativisme historique, que la conscience contemporaine vit sans pourvoir le dépasser, ce qui ne signifie nullment qu'il n'ait pas de racines dans l'hégélianisme. Le relativisme historique a pour thèse fondatrice l'inconsistance des formzs de la vie historique et leur relativité, qui implique celle des valeurs connexes. Il s'agit d'une instabilité qui empêche de croire à l'efficacité et à la validité des critères de connaissance ou de vie. Cioran Solitude et deitin p.169

理性は歴史を凌駕する。というのは、理性は歴史のプロセスを主導するからだ。精神は歴史的なものであるが、考えるという性格を持っているため、超歴史的実在という意識を抱き、自ら、歴史の流転を超えて、永遠に自らを高めてゆく。精神の有機的歴史という概念のおかげで、現代の意識が克服できずどっぷり漬かっている歴史的相対主義にヘーゲルは陥ることはなかった。だが、そのことは、ヘーゲル主義の中に、歴史的相対主義の影がまったくないということではない。歴史的相対主義は、そのテーゼから言って、歴史的生の形式とその相対主義(たとえば、関連する諸価値の相対性)の間に一貫性がない。相対主義が問題なのは、知識あるいは生の基準が信じられなくなる不安定さを持っているからである。

■生の哲学者、ヘーゲル。生はLebenであるから、生活の哲学者でもあるとは社会哲学者、石塚省二先生の言だが、生の哲学者と考えることで、存在の弁証法的なあり方にも通じ、しかも、現代の知識を集積してゆくという知識の発想とはまったく異なった批判的な知識のありようが、浮かび上がって来る。もともと、実証科学的な知のありようの方が、ごく最近のことであるから、ヘーゲルを検討することは、存在論的な知が弁証法をともなって現れてくる本来の局面に立ち会うことになるのだろう。

Cioranを読む (110) Hegel et nous (19) 1932

2012年04月19日 | Cioran

■旧暦3月29日、木曜日、

(写真)散る桜

火曜日は、夕方から、ウェブ知り合ったパリ在住の哲学者にして生命科学者、paul-allersさん主宰の会「科学の決定論と人間の自由」に参加。この一見矛盾する科学的決定論と人間の自由の関係について、二つの論点を提示した。一つは、科学と自由の起源をめぐる議論が、この問題を考える場合の、一つのヒントになるということ。もう一つは、人間の自由を考える場合、社会的な媒介性を考慮する必要があるということ。

科学も自由も、その起源は、人間と自然の相互作用・物質代謝、つまり、労働に起源がある。労働は、目的定立を特徴としている。活動の前提に目的・理念・設計などが予め存在する。労働は、自然に働きかけるが、たとえば、家を建てる場合に、どういう素材を用いるか、選択する必要がある。どのように、建てるか、その工法を選択する必要がある。このように、目的定立を中心にした活動の中には、人間の「選択」という要素が入り込む。ここに、人間の自由の起源がある。

一方、自然と物質代謝を行う場合、自然のことを人間は知らなければならない。素材の属性や、どの時期に素材が多く採れるのか、どうしたら、安全に採集できるか、などの知識が必要になる。そうした知識は、当初は、観察を通じた、経験的で、技術的・実践的なものだったが、次第に、「なぜ」という疑問に答える形に、整えられてゆく。そこから因果律という概念が生じ、法則定立へと向かうことになる。ここに、科学の発生起源がある。科学には、もともと、人間の目的に応じた、自然存在の操作を行うことがめざされていた

人間の自由は、目的論という形で、労働の主体的・主観的側面に関連し、科学は、因果論という形で、労働の対象的・客観的側面に関連すると言っていい。自由も決定論も労働に起源をもち、労働の二つの契機が独立していくプロセスに対応している。

目的定立を行う人間存在に、もともと、目的定立を行わない自然存在を対象にした科学を適用すると、現在、社会と科学の間で、問題になっているようなさまざまな疎外が発生する。たとえば、個性的で質的な世界を、一般的で、数量的な世界に科学は変換してしまう。科学は、目的定立を行わない自然と同様に、人間を「もの」として、操作対象にしてしまう。

もう一つの論点は、「人間の自由」の社会性に関わる。人間は、集団を構成して存在する。「人間の自由」という概念は、一個人の孤立した人間を想定してしまうが、人間は、社会に媒介されてしか、存在しえない。こう考えると、人間の自由は、選択の自由であるが、その選択は、社会的に方向づけられていると考えることができる。たとえば、特定の集団に所属すれば、その集団の価値観や判断基準の影響を受ける。原発がなければ、電力の安価な安定供給ができない、と考える経団連のような集団は、放射性廃棄物の管理コストやシビアアクシデントのコスト、原発労働の差別構造など、社会全体が抱えるリスクと不合理さには、眼を瞑ったまま、「合理的な選択をする」。このときの選択は、一定の集団イデオロギーで方向づけられている。「人間の自由」の問題は、「人間の不自由」の問題であり、ここには、イデオロギー問題と情報操作の問題が関連してくる。「人間の自由」はそもそも、最初から、一定の方向付けを受けているのである。集団(空間)が人間の思考を規定するからだ。

先日のpaul-aillersさんの講演では、印象に残ったのが、フランスの科学者ラプラス(1749-1827)の極端な決定論的世界観である。ラプラスは、次のように述べている。


「われわれは現在を過去の結果、および未来の原因として見ることができる。もし
もある瞬間における自然を動かす力と自然を構成するすべての物質の位置を知
ることができ、かつそれらのデータを解析できるだけの知性が存在するとすれば、
宇宙の最も大きな物体や最も小さい原子の運動を一つの定式に当て嵌めること
ができるだろう。この知性にとっては不確実なことは何もなくなり、その目には過
去と同様に未来もすべて見えているであろう」

Essai philosophique sur les probabilités

Pierre-Simon de Laplace
(1749-1827)

この出典は、日本語では『確率の哲学的試論』として翻訳されている。

ラプラスの確率論の考え方にある前提と、この究極の決定論には、内的関連がある。確率論一般にも、この事が言えるのか、量子論の考え方と比較検討しながら、考えてみるのは、有意義だろうと思っている。

原発のシビアアクシデントは、確率事象として捉えられているが、その世界観の背後に、決定論的なものが隠されているとしたら、本来目的論的な領域に存在する「人間の自由」を、因果論の領域へ変換してしまうことを意味する。これは、深刻な人間疎外であろう。



Hegel s'est occupé de la vie histroque en philosophe et non en historien; il a élaboré une systématuque historique et non une histoire proprement dite. Son idée du concept est différente de celle de l'école historique. Selon Rothacker(Einleitung in die Geisteswissenschaften, Tübingen, 1920, p.89), il oppose à l'inconscient le conscient; à l'intuition intellectuelle le concept; à l'organisme vivant de la divinité l'organisme de la réalité renfermée dans le concept; à l'esprit du puple l'Etat; aux moers la loi; à l'élément historique pur la raison. Cioan Solitude et destin p. 169

ヘーゲルは、哲学者として歴史的生に興味を持ったのであり。歴史家としてではない。ヘーゲルが構築したのは、歴史的体系であり、狭い意味での、歴史ではなかった。ヘーゲルの概念の理念は、歴史学派の理念とは異なっている。たとえば、セロン・レタカーは、無意識に意識を対立させ、知的直観に概念を対立させ、神の生きた身体に概念で表現された現実の身体を対立させ、民族の精神に国家を対立させ、慣習に法を対立させ、純歴史的な要素に理性を対立させた(『精神科学入門』p.89チュービンゲン、1920)。

■レタカーの対比は、歴史学派の考え方の例。この後、ヘーゲル独自の考え方が述べられる。このエッセイは、1932年発表なので、シオランが、21歳のとき。なんだか、やになってくる。


Cioranを読む(109) Hegel et nous(18) 1932

2012年04月05日 | Cioran

■旧暦3月15日、木曜日、

(写真)初花

朝、小林秀雄の川端康成論を読む。小林秀雄は、人間が、歴史や社会に規定されるという側面を一貫して、認めたがらない。人間が、無媒介に存在するかのような、幻想をふりまく。天稟や生理という動かしがたいものがあるのは、よくわかるが、その現れ方は、社会や時代ごとに、変わっている。

朝からひどい耳鳴りである。自律神経が活発に動いている季節の変わり目は、とくにひどくなる。



Sa tendance à l'individualisation-et non pas à l'individualisme-se manifeste aussi dans constructions de logique et de métaphysique, où il parle du passage de l'abstrait vide à la plénitude de l'universel concret. Lorsque Ernst Troeltsch(Der Historismus und seine Probleme) mentionne la totalité concrète et individuelle comme une catégorie fondamentale de l'histoire, il manifeste de profondes affinités avec la pensée de Hegel. Cioran Solitude et destin p. 169

ヘーゲルの個性重視は、個人主義とは違い、論理と形而上学の構築を通じても表現される。そこで、ヘーゲルが語る言葉は、豊かな具体的普遍を伴なった空虚な抽象である。ロルスク・エルンスト・トレルチは、歴史の根本的なカテゴリーとして、具体的で個別的な全体について言及している(『歴史主義とその諸問題』)が、これはヘーゲルの思想と深いところで通じている。

■歴史を概念で捉える試みが発生したことの歴史的意味というのは、なかなか興味深い。ヘーゲルの場合、弁証法という発想があるために、概念が、歴史的になりえたのだろう。具体的普遍(l'universel concret)や具体的で個別的な全体(la totalité concrète et individuelle)といった、普通の言葉の使用法とは異なった言葉の使用法は、創造的であると同時に、言葉に騙されてしまいそうにもなる。こうした創造的な概念は、どう使えるか、でその価値が決まって来るのではないだろうか。






Cioranを読む(108) Hegel et nous(17) 1932

2012年04月02日 | Cioran

■3月12日、月曜日、

(写真)無題

ぼくに続いて家人が風邪で倒れた。意外に長引いている。春の風邪は油断できない。

締め切りを過ぎた原稿を、朝、どうにか一つ送信。あとは、翻訳原稿。しかし、しばらく詩を書いていないと、どうやって書いていいのか、途方に暮れる。詩を書く習慣の有無。



Les problémes de philosophie de l'histoire qui préoccupent notre époque ont grandement contributé au dévelopement du néohégélianisme. Aucum philosophe n'a mieux senti, mieux compris le foisonnement de la vie historique que Hegel. Il en individualisait les contenus au moyen de la méthode constructive fondée sur la perception différenciée. Il se situe de ce fait aux antipodes des constructions abstractives des sciences naturelles. On comprend ainsi qu'il soit le père des sciences spirituelles. Cioran Solitude et destin p.168

現代の歴史哲学の諸問題は、新ヘーゲル主義の展開に大きく貢献した。ヘーゲルほど、百花繚乱の歴史的な生に対する感受性と理解が深かった哲学者はいない。ヘーゲルは、卓越した認識をベースにした創造的な方法で、生の内容を個性化していったのである。それによって、ヘーゲルは、抽象的な構成を行う自然科学とは対極的な地点に立つことになった。精神科学の父。そうヘーゲルを呼んでもいい。

■ここは、このエッセイの一つの山場だと思う。ヘーゲルを精神科学の父と規定したのは、実に、鋭い。シオランの解釈は、非合理主義者ヘーゲル、生の哲学者ヘーゲル、というものを基本にしているが、ここから、存在論哲学者ヘーゲルまでは、非常に近い。重要なのは、新カント派のように、自然科学的な主客二元論で、ヘーゲルを捉えず、ヘーゲルが、全体性とダイナミズム(弁証法)を重視したのを救い出している点だろう。