les généalogies des Essais―Delfini Workshop annexe

エセーの系譜をおもに検討。

Cioranを読む(115) Hegel et nous(24)

2012年06月21日 | Cioran

■旧暦5月2日、木曜日、、夏至、蒸し暑い!

(写真)無題

先日、特養の叔母を見舞ったとき、天気が良かったので、近くの公園へ紫陽花を見に連れ出した。車イスなので、押してゆくわけだが、下り坂になると、非常に怖がる。緩やかな坂でもダメなのだと言う。上り坂は、怖がらない。足腰が弱ると、上り階段よりも下り階段が辛くなると言うが、歩けなくなると、少しの加速も怖くなるものらしい。日常生活の中で、あまり歩かなくなってから、人間の感情は、その密度が薄くなったように思うのだが、どうだろうか。



Hegel dit quelque part : Die Geschichte ist nicht der Boden für das Glück. Die Zeiten des Glücks sind in ihr leere Blätter. Ailleurs, il affirme que la source du tragique réside dans les limites de l'individualité, qui ne peut pas les franchir sans se détruire. Dans son esthétique, il reproche à l'art et la culture grec de ne pas s'être élevés jusqu'à la comprehension de la souffrance et de s'être maintenus dans un esthétisme raffiné. Ces propos permettent de cerner l'image intérieure d'un philosophe. Ciolan Solitude et destin p.171

ヘーゲルは、どこかで、こんなことを述べている。「歴史というのは、幸福のための場所ではない。幸福な時というのは、歴史の白紙ページにある」他のところで、ヘーゲルは、悲劇の原因は、自殺以外には超えられない個人の限界にあると述べている。美学の中で、ヘーゲルはギリシャの芸術と文化を非難して、ギリシャ芸術は、洗練された美意識の中に留まったままで、苦悩を知って初めて高みに至ると述べている。この発言が、哲学者の精神的なイメージを決定したのである。

■面白い。ヘーゲルの美学は、面白そう。苦悩を知って初めて高みに至る、という言葉は、ヘーゲルやヘルダーリンなどが共有したロマン主義の時代精神を感じさせる。その高みとは、歴史的な現実の中では、フランス革命だったのだろう。

これで、シオランのヘーゲル論は終わり。面白かった。次回からは、シオランの「北斎」に関する短いエッセイを読む予定。出版社の方が見ていたら、この本は面白いので、翻訳企画の提案をしたいところです。版権はもうどこかに、取られているかもしれないけれど。


Cioranを読む(114) Hegel et nous(23)

2012年06月18日 | Cioran

■旧暦4月29日、月曜日、

(写真)立葵

どうも、元気が出ない日々である。朝からラジオ体操しているのだがw

スラヴォイ・ジジェクが去年、大部のヘーゲル論、less than nothingを出したが、タイトルを眺めていて、ひどくヘーゲルを憎んでいるような気がしてきた。副題は、「ヘーゲルと弁証法的唯物論の影」というものだが、スターリンに始まるプロイセン御用哲学者という解釈や新カント派に始まる平板な認識論的解釈を洗い流して、アクチュアルな哲学者として、問い直す必要があるように思う。ジジェクの解釈は、どういうものか、興味あるところ。



La refus de la dualité de la valeur et de la réalité est une caractéristique de l'immanenentisme de Hegel. La valeur se réalise dans le processus concret de la réatité. La valeur du réel en soi est inconcevale sans l'histoire de celui-ci. Il ne faudrait toutefoir pas en déduire que Hegel péchait par excèd'optimisme. Il se situe plutôt dans une vision tragique de l'eistence, sans qu'on puisse pour autant parler de pessimisme, comme l'a fait Eduard von Hartmann, qui essayait de trouver des pessimistes partout, y compris là où il n'y en a pas. Cioran Solitude et destin pp. 170-171

価値と現実の二元論を拒否することが、ヘーゲルの内在主義の特徴である。価値は、現実の具体的なプロセスの中で実現される。現実の価値それ自体は、現実の歴史抜きには考えられない。だからと言って、ヘーゲルが極端な楽観主義ということにはならない。むしろ、ヘーゲルは、一般にペシミズムについて語れないようなときにも、存在を悲劇的に見ていた。ありえない場所も含めて、いたるところにペシミストを見出そうとしていたエデュアルト・ハルトマンさながらに。

■この理解もストンと腑に落ちる。シオランの解釈は、ニーチェ的な生の哲学を踏まえたことで、存在論的な理解へ至る道を確保しているように感じられる。




Cioranを読む(113) Hegel et nous(22)

2012年06月06日 | Cioran

■4月14日、水曜日、

(写真)立ち葵

疲れて、遅く起きた。体操して軽く運動。今日は、薔薇の雨。



S'il a évité le délice amer du relativisme, Hegel le doit également à sa conception de la totalisation des valeurs dans l'histoire. Il ne s'agit évidemment pas d'une totalisation linéaire, puisque le processus dialectique ne représente pas une progression linéaire. Toujours est-il que, d'après Hegel, les valeurs ne meurent pas, elles se totalisent, à un rythme propre à l'histoire. Elles n'ont pas de vie historique, mais elles se réalisent historiquement. La suprahistoricité ne signifie pas chez Hegel une strafication transcendante des valeurs, mais une intégration dans l'immanence vivante de l'histoire. La différence est grande entre le dynamisme de Hegel et, par exemple, celui de Leibniz. Alors que ce dernier considère la dynamique de la substance du point de vue de la philosophie de la nature, Hegel, en rapportant de dynamisme au monde historiaue, admet une croissance de la valeur absente du dynamisme de la nature.Cioran Solitude et destin p.170

ヘーゲルは相対主義の苦い歓びに浸ることはなかったが、それができたのも、ヘーゲルには歴史的価値を統合するという考え方があったからである。もちろん、統合と言っても、単純に価値を加えてゆくわけではない。というのは、弁証法的プロセスは、単調な発展ではないからである。とはいうものの、ヘーゲルによれば、価値はなくなってしまうのではなく、歴史固有のリズムにしたがって、統合されていくのである。価値は歴史的生に由来するのではなく、歴史的に実現されてゆくものである。超歴史性は、ヘーゲルの場合、超越的な価値の階層を意味するのではなく、歴史の生き生きとした内在性を前提にした統合を意味するのである。ヘーゲルのダイナミズムと、たとえば、ライプニッツのダイナミズムでは、大きく異なる。ライプニッツは、自然哲学の視点から、実体のダイナミズムを考えたが、ヘーゲルは、ダイナミズムを歴史的世界と関連づけつつ、自然のダイナミズムのない価値の発展を考えていたのである。

■une progression linéaire(線型的な発展)というときのlinéaire(線型的)という言葉は、比喩だと思うが、これをどう訳すか、決められていない。「線型的」とすると、数量が前提になった比喩になるので、価値という質的なものの発展を喩えると混乱する。そこで、文脈で、訳し分けてみた。