■旧暦9月21日、日曜日、
(写真)大涌谷
先日亡くなった若松孝二監督が、手帳に書き留めておいたという言葉に、感銘した。群れない。頼らない。ブレない。褒められようとしない。これができれば、人生、大成功だろう。社会的な評価や富は、だれもが、死ぬ事実の前に、空しく思われてくるのではなかろうか。やがて、富と地位を利用して、iPS細胞で、再生を続けて生きようとする人も出てくるかもしれないが、永遠という観念ほど、退屈なものはない。
☆
Ce qui frappe, chez Hokusai, c'est la négation de la gravation: les homme et les objets sont émancipés de la pesanteur, ils semblent flotter, être suspendus.
En effet, la grâce émancipe de la pesanteur. Nous ne parlon évidemment pas de la grâce en tant que note immanente et conconstitutive du monde objectif, ce qui friserait l'absurde; nous voulons dire que la vision de l'artiste confere un ceractére gracieux au monde objectif. Si le portrait est peu représenté dans lart japonais, c'est entre autres parce que celui-ci hummanise la nature. Cette caractéristique explique pourquoi les Japonais ressentent la grâce de la nature.
Le fait que, chez Holusai, les formes individuelles soient suspendues et non pas intégrées dans l'existence, n'est pas dû à des rasoins d'ordre technique ou forme, mais au sentiment de la vie propre aux Japonais.
Cioran Soltitude et dentin pp. 128-129
驚くのは、北斎の場合、重力を否定していることである。人間も物も重力から解放されている。浮遊し宙吊りになっているかのようだ。
だが、これは当然と言えば当然である。優雅は重力から解放されているのだから。優雅は客観的な世界を構成する内在的な要素で、ほとんど不合理に近いものだったと言うことは、もちろんできない。むしろ、芸術家の物の見方が、客観的な世界に優雅な性格を与えているのだと言いたい。日本の芸術に肖像画がほとんどないのは、日本の芸術が自然を人間化しているからにほかならない。このため、日本人は、自然に優雅さを感じ取るのである。
北斎の場合、1つ1つの形式は宙吊りになっていて、存在の中に統合されていないが、そうなるのは、技術や形式の問題ではなく、日本人に固有の生活感情のせいなのである。
■面白い個所。自然を人間化しているから、自然に優雅さを感じるという説。人間活動は自然を歴史化するという意味なら、賛成だが、感性のありかたとしては、ぼくは、反対だと思う。人間を自然化しているから、自然に美を感じるのだと思う。ミメーシス(模倣)とポイエーシス(制作)の関係を考えてみると、それはよくわかるし、こういう感性は日本人に固有ではないこともわかってくる。西欧も近代以前の世界はこうだったはずである。近代を永続的に感じ、それ以前の世界を忘れているだけである。