les généalogies des Essais―Delfini Workshop annexe

エセーの系譜をおもに検討。

L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(32)

2012年05月08日 | Wittgenstein

■旧暦閏3月18日、火曜日、

(写真)無題

今日は、風が冷たい。日の光は強いので、布団を干した。5時半に起きて、いくつか俳句をF/bに投句。午前中から仕事、午後から外の仕事。カムイ外伝を読み終わったので、カムイ伝へ。外伝も伝も断片的には読んでいるが、はじめからまとまって読むのは初めて。



41. Die Idee, der beweis schffte einen neuen begriff, könnte man ungefähr so ausdrücken: Der Beweis ist nicht seine Grundlagen plus den Schlußregeln, sondern ein neues Haus - obgleich ein Beispiel diese und diese Stils. Der Beweis ist ein neues Paradigma.

Begriff, den der Beweis schafft, kann zum Beispiel ein neuer Schlußbegriff sein, ein neuer Begriff des richtigen Schließens. Warum ich aber das als richitiges Schließen anerkenne, hat seine Gründe außerhalb des Beweises.

Der Beweis schafft einen neuen Begriff - indem er ein neues Ueichen schafft oder ist. Oder - indem Satz, der sein Ergebnis ist, einen neuen Platz gibt.(Denn der Beweis ist nicht ein Bewegung, sondern ein Weg.)
     Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik pp. 172-173 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

41.証明が新しい概念を作りだすという考え方は、おおよそ、次のようにも言いかえられるだろう。証明は、証明の基礎になるものの上に推論の規則を立てたものではなく、一つの新しい家であると。つまり、その家は、これこれの具体的な様式の一例である。

証明が作りだす概念とは、たとえば、新しい推論の概念であってもよく、言いかえれば、正しい推論に関する一つの新しい概念であってもいい。ただし、わたしがそれを正しい推論だと認めるの根拠は、その証明の外部にある。

証明は一つの新しい概念を作りだす。それは、証明が新しい図を作りだすことで、あるいは、新しい図となることで実現される。あるいは、証明の結果が導き出した命題に、新しい場所が提供されることよって実現されるのである(というのは、証明は運動ではなく、道なのだから)。


■証明の本質が明快に述べられている。一つは、基礎的前提の上に推論の規則を展開させたものではなく、全体が新しいものであること。その正しさの根拠は、証明内在的にあるのではなく、証明の外部にあること。そして、証明は、すでに存在する体系の中に、新しい場所を作りだすものであること。こうした考え方は、パスカルの科学観と非常に近い。「...最後の原理といえども、それ自体では立証できず、ほかの原理によって支えられており、その原理もそれを支えるほかの原理があって、けっして、最後のものとは認められない...」(B72)と述べている。証明が、論理に基づく発明であることをうかがわせる断章。


Cioranを読む(112): Hegel et nous(21)

2012年05月05日 | Cioran

■旧暦閏3月15日、土曜日、、子どもの日

(写真)夏の花

今日はよく眠った。6時半には目が覚めた。風が強いが、やっと連休らしい晴れ。午前中、仕事、午後、いつもの喫茶店で読書。帰りに頼まれた買物を済ませる。夕方には、風が止んだ。



La conclusion tirée, d'ailleurs assez séduisante, est la suivante: l'iiationalité organique de la vie. Pour nous, qui ne croyons plus à l'absolu, le relativisme s'impose. Hegel, lui, s'en éloigne en rasion de sa conception de l'absolu englobant toutes les formes finies de l'histoire et les remplissant de sens en les faisant participer à son infinité dynamique. Cette idée romantique de la présence de l'infini dans formes finies mêne au-delà de la relativité. Cioran Solitude et destin pp. 169-170 

ここから導かれる魅力的な結論は次のとおりである。生は非合理的な有機体である。絶対的なものをもう信じていないわれわれには、相対主義は不可避である。だが、ヘーゲルの場合は、絶対という概念があるために、相対主義に陥らずに済んでいる。絶対という概念は、歴史の有限な諸形式すべてを含み、すべての有限な諸形式は、そこで、有限な諸形式すべてを歴史の無限のダイナミズムに関与させるのである。有限な諸形式の中に無限の存在があるというロマン主義的なこの理念は、相対性を乗り越えるところまで行く。

※ les remplissant de sens en les faisantの部分がよくわからない。

■この個所を読むと、ブレイクの詩が思い出されて来る。

To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower,
Hold Infinity in the palm of your hand
And Eternity in an hour.

一粒の砂の中に世界を見て、
一輪の野の花の中にも天上を感じる。
きみの掌で無限をつかみ
一時の中に永遠をつかむ。

ブレイク(1757-1827)とヘーゲル(1770-1831)は同時代人。これに、ゲーテ(1749-1832)とヘルダーリン(1770-1843)を加えると、時代の共通の空気が見えてくる。この中では、ゲーテだけ、ロマン派とは毛色が違い、全体的に整った古典的な人間像を想起させる。社会哲学者の石塚省二先生によれば、ヘーゲル=ゲーテのラインと、ルカーチ=トーマス・マンのラインが、それぞれの「全体性」の理念の具現化として、対応するという。ヘーゲルのゲーテは、まだ、幸福な全体性を維持しているのに対して、ルカーチのマンは、すでに、ゲーテへの郷愁を含み、いささか、苦しげに見える。