祈りを、うたにこめて

祈りうた(道を求めて 初めての教会に微笑みがあった)

道を求めて 
初めての教会に微笑みがあった

 

 その教会は平屋だった。小さかった。ステンドグラスが小窓にちょっと映っていたが、それがなければ、町の集会所と見まちがえたかもしれない。質素な建物だった。
 友人の牧師が、「そこへ行きなさい」と背中を押してくれた教会である。
 わたしは臆病で人見知りなので、実は玄関扉の向こうがちょっとこわかった。日曜なのに、扉が閉まっていたからである。お寺や神社のような境内(けいだい)があり、気軽に足を踏み入れられる雰囲気というものが、そこから感じられなかった。扉に半透明のガラスがはめられていたが、のぞきこめば中が見えるというものではなかった。
 それでもわたしは、もう後に引けない気持ちだった。「この扉を開けなければ、明日はないのだ」というような思いだった。


 「おはようございます」
 扉を開けた瞬間、女性の優しい、静かな声が耳に届いた。微笑みが浮かんでいる。
 おずおずと開けた扉の向こうに、なんと笑顔が待っていたのである。わたしの臆病さはその瞬間にゆるめられたのだった。
 靴を脱ぎ、スリッパに履(は)き替える。今は、バリアフリーで、土足のまま入る教会が多いが、当時のその教会は、スリッパ式であった。
 女性がわたしを礼拝堂(れいはいどう)へと案内する。後で分かったことだが、信徒に「受付」当番というものがあって、その日はその女性が担当していたのである。
 分厚い『聖書』、初めて手にした『讃美歌』の歌集、そして、礼拝のプログラムや教会の行事予定、教会員の消息などが印刷された「週報」を手に、わたしは案内された席に座った。
 顔を上げると、前方に壇が見えた。二十センチくらいの高さだろうか。そこに講演会場で見るような講壇が設置されている。その講壇には十字架が浮き彫りになっている。礼拝堂の周りの壁を見ると、装飾というものはほとんどない。外国のテレビに出てくるような磔(はりつけ)にされたイエス・キリストの像もない。マリア像もない。
 カトリックとプロテスタントの違いは、当時何も知らなかったが(今でも、正直なところよくわからないが)、イエス・キリストの磔の像やマリア像をプロテスタント教会で見たことはない。


 礼拝が始まり、「メッセージ」とも「説教」とも呼ぶ牧師のお話を聴く。讃美歌を始め・中・終わりに皆で歌うが、一時間半ほどの礼拝のなかで三十分余りが、このメッセージ(説教)に費やされる。仏教のことは詳しくないが、お寺でいう「法話」と似ているかもしれない。
 友人と似た体型の大柄な青年。それが、この教会の牧師であった。
 ネクタイ姿であるが、カトリックの神父のような黒い服ではない。サラリーマンが着るスーツと同じような服装だ。ローマ教皇のように頭にかぶり物ものせていない。
 「罪」とか「赦(ゆる)し」とか「救い」とか、強烈だと思う言葉が、その牧師の口から出てくる。自分はツミビトであるという認識は人一倍強いわたし、けれど、赦しや救いからはほど遠いと思い込んで生きてきたわたし。そんなわたしに、魂への直球と思える重い球が投げ込まれてくるようだった。
 「メッセージ」は、「神の言葉のとりつぎ」という意味があるという。牧師が、聖書を読んで自分がどう感じたかを話す、というのでなく、神が聖書を通じて何をどう語っておられるか、それを説き明かすのがメッセージであるというのだ。だから、牧師自身を語るのでなく、神さまご自身が語られるのである。
 その日わたしは、神から何をどう語られたのか。細かなことは覚えていない。が、メッセージというものの高さ・深さは、わたしにも響いた。さきほど「魂への直球」と書いたが、わたしのなかに空いている虚無的な穴へずどんと投げられた神の言葉であった。

 

  礼拝プログラムが終わり、席を立とうとした。すると、前の席に座っていた婦人が振りむいた。そして、「ようこそいらっしゃいました」と言った。その顔にも、受付の女性と似た微笑みがある。
 何を話したかは覚えていないが、そのときの優しいまなざしは、まだ覚えている。わたしのような者を歓迎してくれるのかと思ったのだ。青年らしい輝きをうしない、陰気でさえあるようなこのわたしに、「ようこそいらっしゃいました」と、そう言ってくれたのである。
 わたしがその後信仰を与えられ、初めて教会をおとずれてきた方々の何人にもあいさつをした。そんなとき、いつも、この日の「おはようございます」「ようこそいらっしゃいました」という言葉と微笑みを思い出した。


 牧師もすぐに来てくれた。
 わたしは、友人から教えられて、というようなことを言った。すると、その牧師は、「聞いています。彼から連絡がありました」との返事。満面の笑顔で、「お待ちしていました!」

 

 わたしのその後の「求道(きゅうどう)」は、必ずしもまっすぐではなかった。毎週迷い、葛藤しながら、日曜日、教会の扉を開けた。
 けれど、この朝の一歩がなかったら、そして、教会の人たちの温かな笑顔がなかったら、本とうにわたしの心の扉は暗く・かたく閉まったままだったのだ。

 

●ご訪問ありがとうございます。

2月に一度、この文章を投稿しました。その後、もし初めて教会を訪問してみようかと思う方がおられたら、もう少し詳しく書いた方がよいのでは、と考えました。そこで今回、加筆しました。
教会は大きな悩みがないと訪問できない、というものではありません。讃美歌を大声で歌いますから、決して静かな所ではありませんが、自分の心と向き合い、ふり返ってみたいなと思う気持ちがわいたら、一度訪問されてみてはと思います。

 

 

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