祈りを、うたにこめて

祈りうた(信仰メイソウ  御言葉を握りしめる)

信仰メイソウ 御言葉を握りしめる
 ―若いクリスチャンの友へ



 「御言葉を握りしめる」ということ、それは、クリスチャンであるあなたが、神を信じたときに与えられた御言葉、あるいは、その後の信仰生活の中で聖書から示された御言葉、それを頼りにして生きること。
 聖書にはたくさんの御言葉が書かれている。だが、自分に与えられた御言葉は特別なもの。自分だけのもの。替えの無いもの。それを灯りとして、杖として、毎日を生きていく。
 日々はほんとうに慌ただしく過ぎるけれど、忙しさに紛れて、いつのまにかどこかへ置き忘れてしまわない。また、苦しみや悩みや不安や憤りや妬みなどの波をかぶることもあるけれど、解決されるまで我慢しきれず、「こんな言葉は助けにならないじゃないか!」と、心の箱から放りだしてしまわない―ことではないだろうか。



  そして、―これが大事だと思うのだけれど―たいせつな御言葉だからといって鍵をかけてしまいこまない。表に出して「ふだん使い」をする、それが大事だと思う。
 聖書を読み返して、記憶の中から呼び戻して、携帯電話のように常に持ち歩き、神さまといつも連絡を取り合う。頭が真っ白になったり、胸がドキドキしたり、心がどよーんとしたりしても、子どもが母親の手を握って離さないようにしたい。
 相談でも、愚痴でも、SOSでも何でもいい。喜びの報告も、感謝すべきことのお礼も、ちょっとした自慢話もオーケー。溜め息つきながらでも、くやしがりながらでも、後悔しながらでも、怒りながらでもいい。もちろんほがらかに笑いながらでも。
 神さまは最高の聞き役だから、そして最良のアドバイザーだから。


 こんなふうに考えてみると、「御言葉を握りしめる」暮らしって、なんだか息がしやすくなりそう。「生き苦しさは息苦しさ」になり、「行き詰まりは息詰まり」になってシンドクなることがあるかもしれない。でも、握りしめた御言葉によって神さまとつながっていけば、いつか「生きやすい・息易い」ときが来るのではないかと期待できそう。
 握りしめた御言葉を、くり返しくり返し思い出し、くり返しくり返し唱える。叫びになってもいいから、呟きになってもいいから、うめきになってさえもいいから。
 神さまは、あなただけの御言葉を通じて、一対一の親密な連絡を、三六五日二十四時間態勢で待っておられる。





★祈り求めるものはすべて得たと信じなさい。その通りになる。(聖書)
★いつも読んでくださり、ほんとうにありがとうございます。

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