あなたの腕は
あなたの腕は私を掬(すく)うには短い
私はわたしの重たさで沈んでいくばかり
あなたの腕は私を刺すのに長すぎる
私の心臓が背中まで貫かれてしまう
ーあなたは私のその誤解をやさしい微笑みで解かれた
三月十三日金曜日 その朝のこと
あなたの腕は私の心臓の手前で止まった
あなたの腕は私の全身を掬い上げた
あなたの腕は 神さま
私にピッタリの長さだったのだ
十三日の金曜日は「祝福の日」
だいぶ前のことだが、ホラー映画で「13日の金曜日」という題名のものがあった。それの影響もあるのかどうか。十三日の金曜日は、イエス・キリストが磔(はりつけ)にされた日、というデマと重なり、忌(い)む日のようにいわれている。
クリスチャンと呼ばれるひとたちは、このようなことに心を惑わされないのだが、キリスト教に関心のない人で何か縁起を気にかける人だと、もしかしたら何となく気味の悪い日と感じる人がいるかもしれない。
しかし、私には、この日は特別な日なのである。それも、忌む日としてでなく、「祝福の日」としてなのである。
私は、―別に自慢するようなことではないのだが―長いこと人生の意味というものを探ってきた。「こんな自分にも生きる値打ちはある」という、お墨付きというか根拠というか、何かしら確かなものを探してきたのである。けれど、そのような都合のいいものはどこにもない、と勝手に諦めかけるほどに、せっぱ詰まっていた。毎日が夜で、闇しかないような心のありようだったのだ。
そんな私の闇に、聖書の言葉がとつぜん、光の矢として刺さったのである。それが何と十三日の金曜日だったのだ。
くわしいことは後日お証しする機会があるかもしれないが、ここでは、このような私にさえ神さまのあわれみがかけられた、ということだけを書き留めておきたい。
捨てる神あれば拾う神あり、という八百万(やおよろず)の神信心の言葉を使えば、キリストなる神さまは決して「捨てない神」であった。
それどころか拾うことしか考えておられない神であるのだ。
しかも、人間の分際で傲慢にも自分自身をダメな者と決めつけ、生きる価値が無いと思い込んで暗さに沈み込んでいたような者にこそ、泥沼から掬(すく)いあげる手を伸ばしておられる神であるのだ。「自分はダメだ」と思い込んでいるような者こそ可愛いと、そう言ってくださる神なのである。―それが腑(ふ)に落ちたのである。
その日が十三日の金曜日だった。
真実の生き方に手で触れることができた日だったのである。
回心の朝―三十数年前のわたしの回心
わたしは、今年の三月十三日の朝、信仰を与えられました。
この日はちょうど十三日の金曜日で、縁起にとらわれやすい臆病なわたしには、不吉な日であるはずのものでしたが、それが逆に、わたしには最も幸いな日となりました。
その朝、わたしは、会社に向かって電車に乗っていました。当時、休職しているために頭が鈍ってしまわないように、との会社のご配慮で、週に二日か三日出社していたのですが、その日がちょうど出社日に当たっていたのです。
このころ習慣として、朝の電車のなかでは聖書を読む事にしていました。四十分か四十五分、御(み)言葉に触れ、学び、救われたいと思っていたのです。「どうかわたしに、あなたの御言葉を分からせてください。どうか、へりくだった者に変え、わたしを救ってください。どうかわたしに、決定的な御言葉をお与えください」と、おかしな話ですが、まだ信じていない神さまにお祈りしながら読みました。
その朝、なぜか急に新約聖書『ローマ人への手紙』が読みたくなりました。その日までは別の箇所を読んできていましたので、続けてそれを読むはずでした。ところがとつぜん、そこが読みたくなったのです。
わたしは一瞬ためらい、しかし何かしら強い力に促されて、その『ローマ人への手紙』を読む事にしました。第一章から読み始めました。
一節一節読んでいくのですが、その朝に限って、速度がひどく遅く感じられました。一行一行、いえ、一語一語、言葉がわたしに迫ってきて、先に進む事ができない、という感じでした。不思議な事ですが、わたしが聖書を読んでいるというのではなく、たれかがわたしの前に立って、一つひとつの言葉を指でさし示しながら読ませてくれているような気がしました。
時間がゆっくりと、濃密に移ってゆくのが感じられました。
そして、第四章に来ました。四章の五節です。
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
「何の働きもない者」―それはまさにわたしでした。会社を休み、月々社会保険事務所から支給されるお金で生活しているわたし。自分の病の事だけでいち日が明け、暮れていくわたし。何の生産性もないわたし。
そんなわたしでも、ただ神を信じ、わたしを助けてください、とお願いすれば、そうしさえすれば、神さまはそのわたしを受け入れてくださる、というのです。
わたしはどきりとし、その御言葉の前に立ちすくみました。絶望と希望の間で揺らぎつつ、けれど待ちに待ったわたしにとっての決定的な一語が、ついに示されたのです。
その御言葉は、そして、休職中の無力なわたしを救ってくださっただけではありませんでした。というより、そんなわたしも含めて、「わたし」という存在そのものを丸ごと認め、「生きていてよいのだ」と言ってくださったのです。
二十歳のときから十年間、わたしが求めてきたものは、自分の生きる理由でした。生きていてよいという許しと、生き続けてゆく根拠でした。
いち日生きる事は、ひとつ罪を増し加える事だと思っていました。自分は生きるに価しないばかりか、かえって害になる存在だとさえ思っていました。
そんなわたしを、この御言葉が救ってくださったのです。この十年、ほとんど毎日死を思い、また実際に死に損なった事が一度ならずありましたが、今は、この御言葉に出会うためにこの十年が必要だったのだと思っています。死なずに、生きてきてよかったと思います。
昨年の五月、わたしは初めてこの教会を訪れました。そのときのわたしは、人生をほとんど諦めていました。わたしが変わる事、わたしの人生が変わる事、暗闇のなかでなく、光のなかを歩むようになる事、そんな事は不可能だ、と思っていました。そのわたしに、牧師が、「あなたには確かに不可能ですが、神さまには可能です。いえ、神さまだけが可能なのです」とおっしゃったのです。思えば、神さまに見いだされるまでのこの十ヵ月は、このときに言われた言葉を納得するためにあった気がします。
わたしには不可能でした。しかし、神さまには可能なのでした。
回心
指さされた先で
言葉がひかっていた
まぶしくなかった
あやしくもなかった
つっぱっていた肩が
すうっとゆるんだ
よどんでいたエゴが
腹からふうっと出ていった
わたしにも
夜が明けた
★たんぽぽの 何とかなるさ 飛んでれば
★いつも読んでくださり、ほんとうに有難うございます。
キリスト教の証しは何かしら気恥ずかしいところがあります。当人はまじめなのですが、はたから見ると滑稽かもしれません。